犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『考える日々』 第Ⅰ章より

2008-07-18 00:01:28 | 読書感想文
第Ⅰ章「考える日々」・「無いものを教えようとしても」より (p.109~)


先日、NHKの教育で、各地の小中学校で、「死の教育」の試みが始まったという番組をやっていた。「命の大切さ」がわからなくなっている現代の子供たちに、命の大切さを教えるためにこそ、かつてはタブーだった「死」を教えようという動きが出てきたという。

しかし、逆に、私は、先生方にこそ、お訊ねしたい。それでは、死とは、何ですか。あなたが、そうして子供に教えようとしているところのその死とは、一体何なのですか。答えは、だいたい予想できる。「なくなること」「いなくなること」「それきりになること」。だから、それはいったいどういうことなのか、そのことこそが、ここで問われているそのことなのだから、これは答えになっていない。子供たちが納得できないのも道理である。教師側に欠落しているのは、じつは自分にもまったくわかっていないということへの自覚である。自分にもわかっていないことについて教えようとしているのだから、教えて教えられないのも道理である。

自分でもわかっていないことを、人に教えることは決してできない。しかし、わかっていないということはわかっている、このことなら、教えることができる。いや、このことを教える以外、死について教える仕方はあり得ない。むろん、「命を大切にしよう」というお題目を復唱させることならできる。しかし、そんなことが、望まれているそのことなのではないはずだ。命の「大切さ」を教えるより、命の「不思議さ」を感じさせるほうが先だ。命の不思議さとは、言うまでもなく生と死、すなわち「存在と無」の不思議である。生きて死ぬこと、存在することしないこと、この当たり前の不思議に驚くところにしか、それを「大切にする」という感覚は出てこない。


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「1人称の死」は絶対不可解の恐怖が中心であり、「2人称の死」は死別の悲しみが中心である。しかし、すべては1人称の生からの派生である以上、2人称の死にも絶対不可解の問いはつきまとう。愛する人はどこへ行ったのか。なぜ帰ってこないのか。なぜ会えないのか。このような絶対不可解の問いが抑えがたく発生するならば、それは紛れもない現実である。人間存在は、どういうわけだか、このようにできている。人類が宇宙に行くこの時代、物質的な意味での「天国」や「あの世」の存在は幻想にすぎない。しかしながら、ある人間が「天国」「あの世」と言語化するや否や、なぜかそれは言語によって存在するものとなる。死別の苦しさと絶対不可解が人間存在における自然の摂理であるならば、その問いへの解答を探るよりも、自らがその問いをそのまま生きていることに気づくほうが先である。

人は誰でも必ず死ぬものだと言われれば、これは疑いようもなく正しい。不条理が不条理として腑に落ちる。しかしながら、不条理が不条理としても腑に落ちないならば、やはりそれも道理である。人間存在は、どういうわけだか、このようにできている。2人称の死の絶対不可解さは、遺された者の遺され方において非常に大きな差がある。まず、一般的な死よりも、自殺や天災のほうが不可解さは大きい。また、不可解さが最も大きいのが、犯罪による死である。加害者のほうがなぜか生きているからである。年齢については、若ければ若いほど、その不可解さは大きくなる。特に、逆縁はこの世で最大の存在論的不可解である。なぜ最大なのかと理由を求められても、人間はすでにそのような存在の形式を生きてしまっているとしか言いようがない。

2人称の死の絶対不可解さは、悲しみではなく、問いである。周囲の人々は、その純粋な良心から、遺された者の悲しみを癒そうとする。しかしながら、問いは癒せない。問いは問うものであって、癒すものではないからである。もし、遺された者の問いが癒せるというならば、まずは「人生とは何か」「人はなぜ生きるのか」「人はなぜ死ぬのか」といった問いに答えを出すのが論理的に先である。これに答え出せないのであれば、癒しといった方向で問題を解消するのは無理だと認めたほうが正直である。生死が不思議であり、命が重いからこそ、人間は死を悲しむ。死が悲しまれなければ、その命は軽くなる。

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5 コメント

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Unknown (madmax)
2008-07-22 16:33:50
なんで先生が死を教えられないか。明瞭である。社会が生徒に「死」を考えてほしくないからである。死んでしまえば全部おしまいなら、なんで生きるのか、なんで働くのか、なんで「上司」なるものに頭下げなければならないのか、これらをエスタブリッシュメントは労働者、労働予備軍に考えてほしくないのである。だから公僕である「先生」が、本気で「死」を教えようとしないのである。世の中が「会社主義」であることから脱皮できれば、きっと生きるということの多様な意味とあり方が発見できると思う。相対的に家族の重要度が増すと、もちろん奥さんや子供の価値が上がる。彼らが、「価値」どころか実はそれ以上の存在であり、彼らの不在が本人の「生きる」意味を失わせるほどの存在だと知れば、きっと「死を教える」などと大仰で不遜なことなど不要だと分かると思う。「生、性、死」という問題、方程式は「子孫繁栄」という人間なら当然もっている本能を前提にすれば容易に解けると思う。しかし、日本社会というか中小企業の社長さんたちや上司、経団連を主とした日本のお偉いさん方の上記のような歪んだ本音によって、多くの人が窒息死しそうになっている・・・と思う。もちろんこの「子孫繁栄」とは何か問題ではありますが。ヨーロッパの場合のそれを考えるとかなり疑問が出てくる。しかし概ね彼ら自身の側から見れば、WW2などの最悪時を何とか通り抜け、植民地時代の悪行を「歴史」として中性化し、多くの同胞を世界に広めたアングロサクソンの強かな「繁栄」の方法は成功しました。では日本ではどうか・・・客観的に、帝王学的に考えると・・・この先厳しいのは現実だと思う(なのになぜアメリカの真似しょうとしちゃうのか?)。やはり「縮小」方向へ軌道修正すべきでしょう。・・・話がまた飛びましたね。すみません。また投稿します。では。
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Unknown (ゆうとまま)
2008-07-22 17:52:03
>明瞭である。社会が生徒に「死」を考えてほしくないからである。死んでしまえば全部おしまいなら、なんで生きるのか、なんで働くのか

madmaxさんのコメントに。なるほどと思いました。
「死ぬ」ってある域グレーゾーンですよね
さわりたくない部分かも。学校では。

だから、子供は今の状態がつらいと学校から逃げないで死をえらんだりするのかな?本人にはものすごい恐怖とつらさだと思うんだけど、逃げるひとつの方法として死を選ぶ人もいますよね

ふと、それなのかなと思えました。
ちがうかもしれませんが・・・・

死を「無」ではなく、ゲームのリセットみたいな
感覚があるように見えたりします。簡単に死を選んでいるようにみえると(外からだからわからないけど)
死を選んであたらしいキャラクターをもう一度いきなおす・・そんな感じなのかな

わからないのだけど。
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ありがとうございます。 (某Y.ike)
2008-07-22 22:43:54
madmax様 ゆうとまま様

ポイントを突いたご指摘をありがとうございました。
ちなみにこの本は、ちょうど10年前の平成10年の出版です。その頃の中学生はすでに成人し、親になっている人も多いことでしょう。9歳以下の子供は、この本が出された当時、まだこの世に生まれていません。
そう考えると、やっぱり先生が生徒に死を教えるのは無理ですね。
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Unknown (文月)
2008-07-22 23:11:29
「死」は教えられません。そもそも教わるものではないですね。実際に2人称の死を体験しないと分からないと思います。体験した私でも、人に教えられるかというと、やはり無理です。
 息子の担任だった先生が「今まで命が大切なんて言っていた。恥ずかしいけれど今初めて分かった。」とおっしゃっていましたが。
「息子の人生とは何だったのか」「なぜ私は生きるのか」毎日考えています。そういった心の奥底に触れる話ができる人としか本当の会話ができなくなりました。
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ありがとうございます。 (某Y.ike)
2008-07-22 23:51:25
文月様

そうですね。
人生は一度きり。人は一度しか生まれられず、一度しか死ねない。この当たり前の事実に気がつけば、死を教えることが不可能である理由がよくわかります。

心の奥底に触れる話というのは、主義主張とは対極にあるものだと思います。昔から、「以心伝心」といういい言葉がありますが。
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