犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

土井隆義著 『友だち地獄』

2008-07-30 21:50:21 | 読書感想文
現代の子供達は、人間関係のサバイバルで疲れ果てているようである。携帯メールにはすぐに返事を出さなければならず、グループ内で浮くことを何よりも恐れているらしい。筆者は、この状態を「友だち地獄」と呼ぶ。友達付き合いから脱落すれば、その先には孤立というさらなる地獄が待っている。これでは、友達という本来の役割を逸脱しており、一種の依存症である。自分らしさや個性尊重という理念は、抽象的なレベルでは何の問題もなかったが、具体的な場面では子供達の自我の肥大をもたらした。そして、この自我同士の衝突を避けるとなると、相互に自己防衛するしかなくなり、肥大した自我が逆に透明になることを強制されてしまった。これは、逆向きの人間不在である。人間は誰でもないからこそ誰でもあるという“Nobody”ではなく、個性的な“Somebody”であるが故に、それが衝突し、“Nobody”を仮構して自分を守るという状態をもたらしてしまった。

「友だち地獄」の元凶はいったい何か。それは友達であるが故に、自分である。すなわち、友達であるところの自分である。例えば、単純なモデルとしてA・B・C・Dという4人のグループを考えると、AにとってはB・C・Dが友達である。同じように、BにとってはA・C・Dが、CにとってはA・B・Dが、DにとってはA・B・Cが友達である。こうして見ると、4人のグループにおいては、誰にとっても自分である割合が1/4であり、友達である割合が3/4である。すなわち、友達である割合のほうが大きい。かくして、地獄を作っている友達は自分であり、自分自身が他者の地獄となる。誰もが孤独を恐れ、自尊心を確認するためには他者に頼らなければならない。しかしながら、そこでは同時に自分が全能でなければならず、そのために他者を利用することになる。これを相互にやっていれば、当然システムは破綻する。

「KY」という略語は、その頭文字を見る限り、「空気が読める(可能)」でもあり得るし、「空気を読まない(否定)」でもあり得た。この略語が「空気が読めない(可能の否定)」の意として定着したことは象徴的である。相互の自我の際限ない肥大を抑制し、すべての自我がすべての他者に依存し合うシステムを保つには、空気が読めない者が最も忌むべき存在である。自分以外は敵でありつつ承認するという微妙な状況を維持するためには、空気が読めない者は排除されなければならない。誰もがそれを知るからこそ、小学生も大学生も自らの生存を賭けて場の空気を読もうとする。この酸素でも窒素でもない比喩としての「空気」という表現は、自我の肥大による反転的な保身が作り出した人間の要請を実感的に表現している。空気が読めない奴だとしてクラス全員からいじめの対象となれば、その空気の流れには誰も逆らえなくなる。そして、いじめられた者は自ら死を選ぶ。

先ほどの例で見ると、AにとってはB・C・Dが空気であり、BにとってはA・C・Dが空気である。同じように、CにとってはA・B・Dが、DにとってはA・B・Cが空気である。すなわち、4人とも知らず知らずのうちに空気の役割を演じており、しかもそれは共犯関係である。自分とは、他者の他者であり、友達の友達である。このような自らを客観視するまなざしは、主観を突き詰めた結果として反転し、自らが誰でもない“Nobody”であることを知ることによって初めて可能になる。現代社会では、大人のほうが市場経済に適合したコミュニケーション能力の習得を求められ、腹を割って話すよりも場の空気を読んでビジネスの交渉を有利に進める能力の習得に躍起になっているため、大人が子供を指導するのはますます難しくなっている。大人が子供の手本となるべきだという古典的なモデルが破綻したのは、現代の高度資本主義社会と情報化社会が大人の自我の肥大をももたらしたからである。