犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

埼玉県川口市 父親殺害事件

2008-07-20 00:17:48 | 実存・心理・宗教
昨日の未明、埼玉県川口市で、中学3年生の娘が46歳の父親を刺殺する事件があった。近年では子供が親を殺す事件が珍しくない。東京都板橋区で15歳の息子が父母を鉄アレイで殴って殺害した事件、奈良県田原本町で16歳の息子が自宅に放火して母親らを殺害した事件、京都府京田辺市で16歳の娘が父親を斧で殺害した事件などが社会を震撼させた。しかし、これらの事件も、もはや記憶に新しいとは言えない。今回の事件の報道も、これまでの事件と非常によく似ており、すぐに人々の記憶から忘れ去られるはずである。加害者は礼儀正しい子であり、学校の成績も上位だった。仲の良い父と娘であり、ケンカもなく、前の日にはカレーライスを作った。関係者の間にも「信じられない」「なぜ」との当惑が広がっている。しかし肝心の本人は、2回刺した後のことは「気が動転して覚えていない」。そして、例によって精神鑑定が行われて、ありきたりの解釈で終わる。麻原彰晃や宮崎勤の裁判と同じく、長々と手続きを尽くした割には何も明らかにならず、脱力感だけが残るといういつものパターンである。

子供が親を殺した事件の罪名は、殺人罪(刑法199条)である。以前は、尊属殺人罪(旧刑法200条)という特別な罪があった。現在も刑法200条は欠番扱いである。この条文については、法の下の平等(憲法14条)に反するとして、昭和48年に最高裁で違憲判決が出された。尊属殺人罪の刑は無期懲役と死刑しかなく、明らかに親が暴力的であった場合などの個々の事情に対応できなかったからである。その後、刑を下げるか、それとも条文そのものを削除するかで論争があったが、結局平成7年に条文が削除された。人権論の下では親であろうと子であろうと一人の人間として平等であり、敬愛や報恩という社会道徳を法律で押し付けるべきではなく、戦前の家父長制度の悪弊は民主主義に反するというのがその理由である。戦後民主主義に基づく刑法改正は、これによって一件落着した。立法論としてはこれで十分であり、今さら尊属殺人罪の復活を唱える意見は少ない。しかしながら、現実に父親殺し、母親殺しの犯罪がこの世から消えたわけではない。少年審判や刑事裁判で問われるのは、まさに戦後民主主義の理論のその先である。

通り魔的な無差別の殺人事件が「悲劇」であれば、肉親同士の殺人事件は「地獄」である。父親を殺した娘にとっては、時間が経てば経つほど、世界に一人しかいない自分の父親の死という現実が迫ってくる。父親がこの世に存在しなければ、自分もこの世にこのような形で生まれてこなかった。ところが、その父親はもはやこの世にはおらず、しかもその原因を作ったのは自分自身である。生き返って欲しい、もう一度会いたいとほんの少しでも思ってしまえば、その矛先はすべて自分自身に向かってくる。この自己言及の存在形式をそのまま生きることの言語道断は、他人には想像が不可能である。これに対して、殺された父親のほうは、最期の瞬間に何を考えていたのか。もし自分が娘をこの世に誕生させなかったならば、自分はこのようなような形で命を落とすことはなかった。自分は何のために娘を育ててきたのか。自分の人生とは何だったのか。さらには、その他の肉親にとっては、一瞬にして身内の1人が殺人罪の加害者となり、もう1人が殺人罪の被害者となる。時間は戻らない。特に残された母親にとっては、まさにこの世の地獄というより表現する方法がない。結婚から出産、すべての過去の記憶が崩れる。行き場を失った言葉はカレーライスに逃げる。

尊属殺人罪の規定が削除されてから十数年が経ったが、このような事件が起きるたびに、問題はそんなに簡単ではなかったことがわかる。この論争が行われていた当時、廃止派は存置派に対して、単純なレッテルを貼っていた。頭が固い、時代に合わない、憲法の趣旨に合わないといったものである。ちょうど、夫婦別姓の議論が盛り上がり、子どもの権利条約の批准に向けて動き出していた時期とも一致する。戦前の家制度の名残りを解体し、すべての人間を1人の人間として尊重すれば、家庭内の問題も解決するはずであった。しかし、その後十数年が経ってみて、現実は理屈どおりに行かなかったことがわかる。人間の存在形式における人称性、とりわけ2人称の生死の観点を全く欠落させていたからである。法の下の平等(憲法14条)の理念を社会の隅々まで演繹すれば、親と子、子と親という独特の関係まで、すべてが平板化してしまう。確かに、刑法は敬愛や報恩という社会道徳を押し付けるべきではなく、刑法200条は過去の遺物である。しかし、子供が親を殺す事件がなくならない限り、それは問題の終わりではない。

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4 コメント

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Unknown (ラーフラ)
2008-07-21 23:06:28
子どもが親を殺すケースばかりが先行して報道されてしまい、親が子どもを殺すというケースが特段注目を浴びていないのは問題だと思います。どちらともに尊属殺だというのに、注目度が違いすぎます(まぁ、マスコミ的には「子ども」が殺したという方が話題性があってよいから報道しているに過ぎませんけどね)。それで「今の子どもたちはどうなっているのか?」などとぬかす奴らがしたり顔してしゃしゃり出てくることの方がむしろ不健全(あるいは不穏)ではないでしょうか?

子どもと満足にコミュニケーションがとれない親の方にも特有の欠陥があるからこそ殺されたという視点は無視できないのではないでしょうか? それでも出来た子どもと親なんてものは大した数いるわけではないのですが、その中で特例的に親殺し子殺しが発生するのは、致し方ないことと思って諦めた方がよいのだと思います。親の言動に対して殺意が芽生えるなんてのは、誰しもあることですし、実際に殺害に至った場合は、誰にもどうすることもできないので、やはり諦めた方がよいのです(諦めるといっても、子どもを見捨てるということではありません。しでかしてしまった行為の動機やら理由やらについての追求を諦めた方がよいということです)。
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Unknown (ゆうとまま)
2008-07-22 17:43:13
私は「悲劇」と「地獄」の言葉が適しているかどうかわかりませんが、違いをいっているのはわかりますよ。犯罪被害者の遺族しての実経験から。
「悲劇」として例をあげた通り魔事件の苦しみも終わりはありません。でも、犯人という加害者は家族でも知り合いでもないということは、憎しみの方向が一定方向だけですみます。それにより憎しみが提言されることはなく、むしろ増加するとも思いますが、憎しみの方向だけはシンプルです。「加害者が憎い 殺してやりたい」
「地獄」として例をあげた、親殺し、子殺しは遺族は
家族に(または親戚に)加害者と被害者を持つわけです。父親を殺した娘の母は配偶者を殺した憎い犯人は
自分の一番愛する娘であるわけです。その憎しみの方向は複雑だと思います。

ブログ主さんはそれをいっているのだと私は感じました。ただしいかはわかりませんが。

あと、事件の当事者でなければ、誰も資格なんて
ないんです。

あなたも、私も、そしてブログ主も。
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ラーフラ様 (某Y.ike)
2008-07-22 23:02:31
おっしゃる通りだと思います。
ちなみに、親が子どもを殺すのは、尊属殺でなく卑属殺と呼ばれています(この呼称もどうかと思いますが)。刑法200条の改正案として、尊属と卑属を含んだ親族殺にするという意見もあったらしいですが(刑法の244条の親族相盗例のようなもの)、いずれにしても憲法14条に反するということで、廃止になったようです。
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ゆうとまま様 (某Y.ike)
2008-07-22 23:19:23
ありがとうございます。もちろん、それぞれの方にそれぞれの立場から「悲劇」と「地獄」の言葉の意味を解釈して頂ければ幸いなのですが、私が考えていたのはそのようなことです。

残された母親のことを考えると、やはり私の拙い語彙力をもってすれば、この世の地獄としか言えません。母親として娘を愛すれば、妻として夫を冒涜することになる。他方、妻として夫を偲べば、母親として娘を苦しめることになる。これが1人の人間の中に同居しているわけですからね。

「勉強しろと言われた」とか、「数学が苦手になってきた」とか、マスコミで言われているほど簡単な話ではないと思います。
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