「法律家は条文を使いこなすプロである。専門分野の条文に全部目を通し、読みこなすのは最低条件である。法律は条文から始まって、一旦離れてまた条文に戻ってくる世界であるから、条文を知らないのでは話にならない。法律家はまさに法律で飯を食っている以上、すべての条文を熟知した上で、リーガルオピニオンを述べるのが仕事である。あやふやな知識での相談は素人でもできるが、法律相談はそのようなものであってはならず、ましてや人生相談ではない。お客さんは法律の専門家でプロにお金を払っているのだから、法律家は日々勉強を怠るべきではなく、常に最新の法改正と判例の動向に注目しなければならない。そして、情に流されることなく、条文に則って客観的かつ明確な判断をしなければならない」。
上記は、私がある弁護士から聞いた心構えである。ここまで自信満々であると、もはや法律の素人が何を言ってもビクともせず、取り付く島もない。ある種の真面目さは有害である。
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p.241~245 より引用
科学技術や法律というものは、誰にでも平等に適用されるところに意味がある。ところが、人間はひとりひとりが個性を持ち、個性的な生活を営んでいる。科学技術や法律はそういう個別性に対応するのが苦手だ。また、科学技術は実証性を生命線にしている。そこで科学者は、証拠による証明がなされない問題に対しては、態度を留保しようとするし、行政官は法規による線引きの範囲内で問題を処理してしまおうとする。
行政や権威ある研究者のこのような独善性は、その後の公害事件や薬害事件でも、必ずと言ってよいほど見られた。そうした専門家の視野狭窄と言うべき判断や行動の基準は、「専門家社会のブラックホール」として、この国のあらゆる分野にしみ渡っている。真先に救済や支援の手を差しのべられるべき被害者やその家族を放置して、表面的な正論を吐き、積極的な行動はとらないで、自分の権威・権力によって都合のいいように取り仕切っていく。この社会を動かしている様々な分野の専門家たちは、自分の専門分野の知識や規範の枠内だけで物事を処理し、生身の人間への配慮が希薄になっている。
私はかねて、専門家社会の専門家あるいは専門的職業人に求められるのは、ひとりひとりが「2.5人称の視点」を身につけることと、その視点を業務のなかで確実に生かせるような組織的な取り組みをすることだと提言してきた。そのためには具体的にどうすればいいのか。問題に取り組むときに、まず自ら現場に行き、被害の状況を実感するとともに、被害者、患者、障害者の生の声を聞くことだ。法規や理論の適用を机上で考える前に、現場を踏む。そうしてこそ本当に「わかる」という事実認識ができるのだ。
上記は、私がある弁護士から聞いた心構えである。ここまで自信満々であると、もはや法律の素人が何を言ってもビクともせず、取り付く島もない。ある種の真面目さは有害である。
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p.241~245 より引用
科学技術や法律というものは、誰にでも平等に適用されるところに意味がある。ところが、人間はひとりひとりが個性を持ち、個性的な生活を営んでいる。科学技術や法律はそういう個別性に対応するのが苦手だ。また、科学技術は実証性を生命線にしている。そこで科学者は、証拠による証明がなされない問題に対しては、態度を留保しようとするし、行政官は法規による線引きの範囲内で問題を処理してしまおうとする。
行政や権威ある研究者のこのような独善性は、その後の公害事件や薬害事件でも、必ずと言ってよいほど見られた。そうした専門家の視野狭窄と言うべき判断や行動の基準は、「専門家社会のブラックホール」として、この国のあらゆる分野にしみ渡っている。真先に救済や支援の手を差しのべられるべき被害者やその家族を放置して、表面的な正論を吐き、積極的な行動はとらないで、自分の権威・権力によって都合のいいように取り仕切っていく。この社会を動かしている様々な分野の専門家たちは、自分の専門分野の知識や規範の枠内だけで物事を処理し、生身の人間への配慮が希薄になっている。
私はかねて、専門家社会の専門家あるいは専門的職業人に求められるのは、ひとりひとりが「2.5人称の視点」を身につけることと、その視点を業務のなかで確実に生かせるような組織的な取り組みをすることだと提言してきた。そのためには具体的にどうすればいいのか。問題に取り組むときに、まず自ら現場に行き、被害の状況を実感するとともに、被害者、患者、障害者の生の声を聞くことだ。法規や理論の適用を机上で考える前に、現場を踏む。そうしてこそ本当に「わかる」という事実認識ができるのだ。