犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『「人生の答」の出し方』 その2

2008-07-16 23:42:14 | 読書感想文
「法律家は条文を使いこなすプロである。専門分野の条文に全部目を通し、読みこなすのは最低条件である。法律は条文から始まって、一旦離れてまた条文に戻ってくる世界であるから、条文を知らないのでは話にならない。法律家はまさに法律で飯を食っている以上、すべての条文を熟知した上で、リーガルオピニオンを述べるのが仕事である。あやふやな知識での相談は素人でもできるが、法律相談はそのようなものであってはならず、ましてや人生相談ではない。お客さんは法律の専門家でプロにお金を払っているのだから、法律家は日々勉強を怠るべきではなく、常に最新の法改正と判例の動向に注目しなければならない。そして、情に流されることなく、条文に則って客観的かつ明確な判断をしなければならない」。

上記は、私がある弁護士から聞いた心構えである。ここまで自信満々であると、もはや法律の素人が何を言ってもビクともせず、取り付く島もない。ある種の真面目さは有害である。


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p.241~245 より引用

科学技術や法律というものは、誰にでも平等に適用されるところに意味がある。ところが、人間はひとりひとりが個性を持ち、個性的な生活を営んでいる。科学技術や法律はそういう個別性に対応するのが苦手だ。また、科学技術は実証性を生命線にしている。そこで科学者は、証拠による証明がなされない問題に対しては、態度を留保しようとするし、行政官は法規による線引きの範囲内で問題を処理してしまおうとする。

行政や権威ある研究者のこのような独善性は、その後の公害事件や薬害事件でも、必ずと言ってよいほど見られた。そうした専門家の視野狭窄と言うべき判断や行動の基準は、「専門家社会のブラックホール」として、この国のあらゆる分野にしみ渡っている。真先に救済や支援の手を差しのべられるべき被害者やその家族を放置して、表面的な正論を吐き、積極的な行動はとらないで、自分の権威・権力によって都合のいいように取り仕切っていく。この社会を動かしている様々な分野の専門家たちは、自分の専門分野の知識や規範の枠内だけで物事を処理し、生身の人間への配慮が希薄になっている。

私はかねて、専門家社会の専門家あるいは専門的職業人に求められるのは、ひとりひとりが「2.5人称の視点」を身につけることと、その視点を業務のなかで確実に生かせるような組織的な取り組みをすることだと提言してきた。そのためには具体的にどうすればいいのか。問題に取り組むときに、まず自ら現場に行き、被害の状況を実感するとともに、被害者、患者、障害者の生の声を聞くことだ。法規や理論の適用を机上で考える前に、現場を踏む。そうしてこそ本当に「わかる」という事実認識ができるのだ。

柳田邦男著 『「人生の答」の出し方』 その1

2008-07-15 22:20:10 | 読書感想文
p.109~117 より引用

脳の科学研究の最先端を紹介するある本のこと。その本を最後まで読んで、愕然としたところがあった。人間の思考や感情の動きは、脳内の電気信号や神経伝達物質のはたらきによって起こるものであることがわかってきたので、脳にはたらくクスリの開発が急速に進んでいる。近い将来、心の病気や悩みや自制心喪失などというものは、すべてクスリでコントロールできるようになる。いま行われている精神療法の類はほとんどいらなくなるし、神だの仏だのというのも、結局脳内の物質的なはたらきによる幻想に過ぎないことも解明されるようになる、というのだ。

すごい楽観主義だなあと私は思った。と同時に、あまりにも変だと思った。人は一人きりの無人島に生きているのではない。家族や学校や職場や地域における人間関係のなかで生きているがゆえに、悩んだり喜怒哀楽の感情を抱いたり、生きがいをみつけたりするのだ。確かに、思考や感情のはたらきは脳内物質のはたらきによって起こるに違いないし、それらをクスリで抑えることはできるだろう。だが、その人なりの個性的で具体的な生きがいを見出したり、思索を深めたり、深い宗教心のある生き方をしたりといったことを、クスリで操ることはできるはずもない。もしそういうことが可能になったとしたら、そのように操作された人は、もはや人間ではなく、ロボットに過ぎない。

問題は医師が自分の診断は限られた知識と経験の範囲内で行なっているのだということを忘れて、人間の心と身体のダイナミックな関係やいのちの可能性を見る眼を失っているところにある。そういう視野狭窄症は、医療の場に限らず、法律、行政、経済、教育などあらゆる分野の専門家が陥りやすい現代社会の病理になっている。科学の力はすばらしい。問題は、その先なのだ。いかに生きるかという次元になった時、どう生きるかの考え方とか生きがいという問題が登場してくる。


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社会科学は、自然科学に匹敵するほどの客観性、実証性、明確性を追求してきた。従って、その弊害もまた同様である。法律の専門家は心理学については全くの素人であり、心理学の専門家は法律については全くの素人であるならば、犯罪被害者の心のケアもセクショナリズムの煽りをまともに受けてしまう。すなわち「心のケア」ではなく「脳のケア」となり、さらには「大脳辺縁系の海馬のケア」「側頭葉の連合野のケア」へと細分化する。どんなに人間的な悲しみを語っても、「それは作業記憶の長期記憶である」「陳述性記憶のエピソード記憶である」などと分析されて終わりではどうしようもない。

社会科学は、当然の要請として、社会正義の実現、社会貢献、人類の進歩などを目指してきた。いわゆる進歩史観である。ここでは、人間の悲しみは乱暴に切り捨てられてきた。個人主義とは言いながら、「進歩なんかしなくてもよい」という個人の存在は許されない。また、人間の悲しみを時代の中心に置こうとすると、それは時代の逆行であるとして嫌われてしまう。そして、悲しんでいる人は弱者であるとして、治療の対象とされてきた。もちろん、それによって悲しみが癒されるというメリットもある。しかし、それがすべてではない。それがすべてとなってしまえば、人間が人間でなくなってしまう。

小林秀雄著 『考えるヒント 3』

2008-07-13 21:37:05 | 読書感想文
「歴史と文学」より (p.228~9)

歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にするが、一ったん出来て了った事は、もう取返しがつかぬという事は、僕等は肝に銘じて知っているわけであります。歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛憎の念というものであって、決して因果の鎖という様なものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。

母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起ったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死という出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけには参るまい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。

母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実が在るのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものとなるのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。

つまり、実証的な事実の群れは、母親にとっては一向不確かなものだと言える。歴史の現実性だとか具体性だとか客観性だとかいう事を申します、実に曖昧な言葉であるが、もしそういう言葉が使いたければ、母親の愛情が、歴史事実を現実化し具体化し客観化すると言わねばならぬ筈であります。詭弁でも逆説でもない。僕等が日常経験しているところを、ありの儘に語る事が、何んで詭弁や逆説でありましょうか。先きに、歴史は二度と繰り返さぬ、と僕等は肝に銘じて知っていると言いました。僕はこの言わば原理を少しばかり演繹したに過ぎませぬ。僕等は、みなそうしているのです。


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これは何と、昭和16年(1941年)3月の文章である。時あたかも太平洋戦争の直前期であり、恐らくこの文章の発表当時は、全く時代の流れに合わないものであった。しかしながら、その時代にそぐわないということは、時代を超えて妥当するということでもある。

赤紙が来て、多くの若者が戦地に送られ、その母親は複雑な思いで息子を送り出すしかなかった。世に戦争を語り継ぐ文脈は多いが、時代は容赦なく流れる以上、それによって風化も免れない。そのような中で、時代を超える言葉は、気がついた時にはすでに時代を超えており、現代に通用するか否かといった議論すら不要にする。まさに、肝に銘じて知っているからである。

下関駅殺傷事件 死刑判決確定

2008-07-12 22:15:37 | 国家・政治・刑罰
1999年(平成11年)9月29日に発生したJR下関駅通り魔事件の裁判が、9年の時を経て、ようやく確定することとなった。上部康明被告(44)は、下関駅にレンタカーで突っ込み、通行人をはねた後、車から降りて包丁で通行人に襲いかかった。先月の秋葉原通り魔事件と同じである。現に弁護側は、上告審で秋葉原の事件との類似性を指摘し、被告人は責任能力がなく無罪だと主張している。最高裁は、「何一つ落ち度のない駅利用者らを無差別に襲った極めて悪質で残虐な犯行。社会に与えた衝撃も大きく、死刑を是認せざるを得ない」と述べ、上告を棄却した。下関駅の事件では、5人が死亡し10人が重軽傷を負った。秋葉原の事件では、7人が死亡し10人が重軽傷を負った。

近代の人権思想・個人主義は、全体主義的な思考を完全に排したはずであった。すなわち、個人のために社会があるのであって、社会のために個人がいるのではないという単純な事実である。人の命は地球より重い。しかし、どういうわけか、このような事件の原因を探るとなると、その原因は社会全体に求められることになる。現に上部被告も、「将来に絶望し自暴自棄となり、自分を追い詰めたのは社会や両親だと思った」と供述している。確かに、9年前には、現在のように派遣労働のシステムの問題点も顕在化しておらず、ネット社会の病理も表面化していなかった。しかしながら、犯人の心理構造は、秋葉原の事件とそっくりである。そして、事件の真犯人は社会の病理であるとされ、「この国の在り方を根本的に考え直す時期に来ているのではないでしょうか」と語られる点もそっくりである。これでは、また9年後に同じような事件が起きることを認めているようなものである。

因果関係は、すべて結果論であり、時間を逆向きにしている。従って、結び付けようとすれば何でも結びつくし、結び付けようとしなければ何も結びつかない。事件を起こした犯人自身が「社会に恨みがあった」と述べている以上、事件の遠因に社会構造の問題点があると言えば、それは確かに正解である。秋葉原の事件においても、派遣労働のシステムやネット社会がその遠因であると言われれば、これは一般的に広く受け入れられる命題となる。しかしながら、この逆向きの時間軸を元に戻してみると、かなり妙な話になる。社会全体に原因があるならば、全員が犯罪者になっていなければ、筋が通らなくなるからである。現実には、社会に無差別大量殺人の原因が蔓延しているにも関わらず、圧倒的多数の人間はそのような行動に出ていない。社会の病理は、必要条件ではあっても、十分条件ではないからである。この世の中には、秋葉原の加藤容疑者によりもひどい状況に置かれている人が沢山いるが、誰も秋葉原で通り魔事件を起こしていない。これも単純な事実である。

鳩山法務大臣による死刑執行のたびに、多くの団体から抗議声明が出されている。しかしながら、検事による死刑求刑、裁判所による死刑判決に対しては、そのような抗議声明はほとんど出されない。死刑執行は死刑判決に基づくものである以上、時間的にも論理的にも、死刑判決への抗議が先に来るはずである。ところが、どんなに死刑に反対する人も、なぜかこの時点では強い怒りが発生しない。この単純な現実は、人間の心情の深い真実を示している。死刑執行の報に接したときの本能的で反射的な激しい怒りは、なぜか死刑判決の時点では起こらない。それは、死刑執行によって初めて現実に生命が失われるからである。

殺されてほしくない人が現実に殺され、取り返しのつかない現実が生じたことによって、生き残った者は、抽象的な理屈でなく全身で現実に向き合わざるを得なくなる。従って、冷静さを欠いて感情が露わになり、死刑執行に際しての抗議声明が出されることになる。このことは翻って、近代法治国家の理屈が、どう頑張っても人間の心情の深い真実に逆らえないことを示している。抽象的な理屈の上では、無罪の推定が働く以上、有罪判決が確定するまでは、どんな殺人犯であっても本当に人を殺したかどうかはわからないことになっている。従って、真犯人であることを前提とした被害者遺族の意見陳述の導入が消極的に捉えられることになる。しかし、この抽象的な理屈が、全身で現実に向き合わざるを得ない遺族に通用するはずもない。遺族が裁判の確定の時点まで犯人への怒りを延期できないのは、死刑廃止論者が死刑判決の時点まで怒りを前倒しできないのと同じことである。

ある交通事故の裁判

2008-07-11 00:05:11 | その他
私は以前、法律事務所(弁護士事務所)の事務員をしていた。その事務所では、交通事故や医療過誤で家族を亡くされた方からの依頼を何件か受けていた。刑事的に立件されなかったり、刑事裁判の判決があまりに軽かったりして、納得できない家族が民事裁判を起こすためである。どの事件も、弁護士が原告である家族の訴訟代理人に就き、地方裁判所で損害賠償請求権の民事裁判を進めていた。しかし、このような事件は例によって進行が遅く、被告側からの答弁書や準備書面でますます傷ついたり、裁判所の心証も芳しくなかったりで、なかなか思うように行っていなかった。これは、日本の平均的な民事裁判の光景である。

原告である家族は、交通事故や医療過誤で家族を亡くされてからは生活が一変し、なかなか心を割って話ができる相手に恵まれていなかった。そこで、たびたび事務所に電話がかかってきたが、事件の進行状況の説明という名目がいつの間にか10分、20分と話が長くなり、忙しい弁護士はイライラするのが常であった。そして、多くの場合、弁護士は原告である家族からの電話や事務所訪問を嫌がっていた。そんな中で、その方面の仕事が、いつの間にか事務員である私に回るようになっていた。私が電話で話を聞いたり、事務所で直接話を聞いたりすると、なぜか納得されることが多く、適材適所の役割分担ができていたからである。もちろん、弁護士法72条の非弁行為に抵触しないよう、その都度弁護士からの指示を受けていた。

ある日、交通事故で息子さんを亡くされた母親が、事務所に期日の打ち合わせにやってきた。バイクで走っていて車にはねられ、数日後に死亡した事故である。バイクと車の過失相殺が焦点であったが、裁判の行方は大体見えており、裁判所からの和解勧告もあり、賠償額もほぼ決まりかかっていた。しかし、その母親はいつ事務所に来ても心の底から納得して帰ることはなく、弁護士としても苦しいところであった。これ以上の増額は無理であるとの説明を尽くしても、なかなか理解してもらえず、弁護士と家族の気持ちはすれ違いつつあった。信頼関係が完全に崩れれば、辞任ということにもなりかねない。そこでその日は、弁護士からの委任を受けて、私がその母親の話を聞くことになった。

裁判の大きな争点は、バイクと車の過失相殺であった。車の運転手は、死人に口なしと言わんばかりに、バイクの大幅な制限速度違反を主張していた。母親は私に向かって、必死に力説した。「うちの息子のバイクのスピードは……」。「うちの息子は普段から慎重な性格で……」。どれもこれも、すでに弁護士が詳しく聞いていた話ばかりである。この言葉を法律の専門家として聞いてしまえば、すべては法律的な評価として過失相殺の条文に変換され、同じことの繰り返しである。これ以上の増額は望めない、納得してくれ、いや納得できないとの言い合いである。現に、弁護士においては、要領を得ない感情的な家族であるとの印象が生じており、家族においては、何を言っても伝わらなくてもどかしいとの印象が生じていたようである。しかし私はその日、母親の別の言葉が強烈に引っかかった。「うちの息子」という言葉である。

息子さんは、すでに亡くなっている。しかし、なぜか「うちの息子」という言葉が、文法上正しいものとして成立している。これは比喩ではなく、文法的に正しい。誰もこれを否定することはできない。そして私は、亡くなった方について、「うちの息子」と言えてしまうことが不思議であった。その母親がではない。一般的な文法がである。そして、母親は、自分の息子の無念を晴らそうとしているのではない。全国に交通安全を訴えたいというわけでもない。あえて言えば、事故の真実を知りたいということであるが、それも知れば知るほど苦しいことであり、それも全てではない。私に強烈に突き刺さったのは、述語のほうではなく、主語のほうであった。「うちの息子が……」。「うちの息子は……」。息子さんは亡くなっていない。文法上、亡くなることができない。生きているから苦しい。だから、裁判で闘わなければならない。

私も、それに合わせて話を進めた。「○○さんのバイクのスピードは……」。「○○さんは普段から慎重な性格で……」。確かに息子さんは生きていた。私の中でも息子さんは生きていた。母親の前で、「○○さん」と呼ぶことができるからである。そして私は、その女性を当然のように「○○さんの母親」だと思っている自分に気がついた。○○さんは一人息子であり、もはや彼女は、法律的には母親と呼べる地位にはいなかった。しかし、その女性は紛れもなく、その時点で母親であった。「亡くなった息子さん」と過去形で言えるのは、現在があるからである。すなわち、過去形を使うことによって、翻って現在が証明されている。現在が過去を存在させているならば、すべては現在ではないか。過去に亡くなった息子さんも現在に存在するしかなく、その女性も現在において母親であるしかない。現に自分は、「○○さんのお母さん」と呼んでいたではないか。

涙が止まらなかった。母親も泣いていた。その日を境に、事務所との信頼関係は戻り、無事に和解までこぎつけることができた。母親は私ばかりにお礼を言うので、あとで弁護士から「事務員として出すぎである」とこっぴどく怒られたが、これはご愛嬌である。大前提として、数字に強い弁護士が赤本で淡々と逸失利益の計算をしたり、自動車工学の専門家の無機質な数字だらけの本と格闘しなければ、交通事故の裁判はできない。しかし、それだけでは原告が裁判を起こす意味がないばかりか、賠償金が多い少ないの議論だけとなり、かえって苦しみとなってしまう。私は、母親が流した涙について、心のケアや癒しといったありきたりの言葉で説明されることを拒む。言葉にならない何かは、言葉にすることができないからである。


(プライバシーの侵害と守秘違反にならないよう、若干の脚色を入れました)

森達也著 『死刑』 第6章 償えない罪

2008-07-09 21:09:41 | 読書感想文
★ ノンフィクション作家・藤井誠二氏の言葉より

p.270
廃止派の人はよく、犯人を死刑にしても被害者は何も癒されないという言い方をしますよね。それは僕もよくわかっているつもりです。でも死刑になった場合とならなかった場合とでは、遺族の中に大きな感情の開きがあるんです。遺族はこれからも生きていかなくちゃならない。仮に死刑判決が出なかった場合、死刑の下は無期だから、だいたい25年くらいで社会に出てきます。少年の場合はとりあえず7年で仮釈放が与えられる。いつ社会に出てくるかわからない。家族を殺された遺族にしてみれば、加害者が社会に出てくることに物理的な恐怖感がまずあるんです。

p.273
本村洋さんは、早く加害者を世へ出してくれ、自分が殺しに行くからってことを、おそらく被害者遺族として初めてメディアでああいうふうに言ったんですね。遺族の人ってみんな、ああいう気持ちを持つ。それは当たり前のことなんだけど、それを怖くて言えない部分があるんですよ。本村さんはそれを言って、世論の後押しもありメディアがわっと取り上げた。これも遺族をめぐる誤解のひとつでもあるんだけど、みんな本当に感情を抑えています。なるべく社会に受け入れられやすいように慎重にものを言っている。

p.273~4
死刑は反対だけど、もし自分の家族が殺されたら国の代わりに自分で殺すって言う人ってよくいますよね。でもね、絶対無理だと思う。被害者が加害者を殺した例を僕は知りません。被害者遺族で、こっそりナイフを法廷に持っていった人を僕は何人か知っています。一応ガードしてる職員がいるけど、物理的にはあんなの全然関係なく実行できるはずです。でも殺せない。結局は、ナイフに触わることもできなかったって、みんな言います。人間的にもシステム的にも、個人で復讐なんて絶対にできない。人を殺すって、復讐するって、それほど恐ろしいことなんです。


★ 全国犯罪被害者の会(あすの会)幹事・松村恒夫氏の言葉より

p.292
量刑としては3人殺さなければ死刑にならないと言われていますね。けれど、人を殺すってそういうことじゃないんです。殺害されたのはひとりでも、殺しているのはひとりじゃない。実際に春奈の場合でも、何千人ものご先祖様がいて、やっと生まれたひとりなんだよね。春奈がご先祖様になって、また子供が生まれて何千人になったかもしれない。ひとりではない。みんな被害者なんです。だからひとり殺したから懲役15年だという問題じゃない。

p.295~6
うちの会で動いている幹事のほとんどは、自分の事件は終わっています。だから自分には何も返ってこないけれども、犠牲者となった奥さんなり子供なりと天国で会ったときに、よくやったねと言われることだけを信じてやっています。あとは今後、万が一被害者になった人の迷惑にならないように、助けになるようにとのことだけですから。本当ならば死刑という制度を使わないで済む社会になればいちばんいい。でも、法治国家である以上は執行すべきです。(本当の率直な気持ちは)春奈を返してくださいということです。

p.297
(加害者が更生しようが)関係ない。全然関係ない。よく生きて償うっていうじゃないですか。何するのよ。どうやって償えるの。償うっていうことは殺した人を生き返らせることなんだよね。それができるなら初めて生きて償うって言えると思う。それ以外、生きて償うということはありえないと思いますよ。


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洗練された思考は、穏やかな口調によって、反対論の論拠もすべて飲み込んだ上での逡巡と自問自答とを行間から示す。自ら犯罪被害を体験していない藤井氏の言葉は、体験者に無限に寄り添うことによって、普遍的な思想に昇華している。他方、自ら犯罪被害を体験した松村氏の言葉は、個人を離れて誰にでも通用する考えを見出そうとすることによって、普遍的な思想に昇華している。

全国犯罪被害者の会(あすの会)が、朝日新聞の素粒子の「死に神」報道に再質問をしたことについて、単なるクレーマーであると捉える向きもある。そこに示されているのは、行間の深さを読み取れるか否か、それを聞く側の実力である。

修復的司法の問題点 その2

2008-07-07 23:18:14 | 時間・生死・人生
修復的司法の最大の問題点は、家族を突然亡くした人の抑え難い心の動きを抑え込もうとすることである。すなわち、「もう一度だけでも会いたい」という否定できない直観を否定しようとすることである。これは、自然の摂理に対してマイナスの評価を下すものである。修復的司法の考え方を貫徹する限り、遺された家族が「もう一度だけでも会いたい」と思い続けている限り、修復は完了しない。そして、そのような思いを抱いている限り、家族は立ち直っていないし、幸福になることができない。ゆえに、このような怒りと恨みからの解放が求められることになる。

「もう一度会いたい」という家族の意志に対して「被害感情」という名称を付することは、それ自体が一定の視角の採り方である。すなわち、そのような意志そのものの内容に入ることなく、その形式だけを取り上げている。言い換えれば、「会えないにもかかわらず遺族は『もう一度会いたい』と言っていること」を感情として観察している。このような問題からの回避は、一つの恐れの表われである。家族が死者に「もう一度会いたい」と思うことは、犯罪による死だけではなく、災害や病気による急死においても同様であり、人間の普遍的な心の動きである。犯罪被害による死も、この論理の形式に逆らうことはできない。従って、犯人に対する厳罰の要求はとりあえずカッコに入れて、まずは人間の抑え難い心の動きを正面から見据える必要がある。

客観的物理的世界を前提とする限り、死者は帰らない。従って、家族が「せめてもう一度だけでも会いたい」と言っても、死者に会えるわけがなく、そのような要求は非現実的な感情だとの評価が下される。しかし、そんなことは言われなくてもわかっている。問題は、さらにその先である。通常の意味では会えないことがわかっているにもかかわらず、なお会いたいとの心の動きが抑えがたく湧き上がってくること、これが人間の心の動きの中核である。そして、これは紛れもない現実である。「会いたくないと思っている」と言えば嘘になり、「会いたいと思っている」と言えば本当になるからである。これ以外の現実がどこにあるのか。逆説的な論理の字面だけを追っても仕方がない道理である。「もう一度だけでも会いたい」という直観は、人間存在の論理の要請であり、これを抑えるのは不自然である。

犯罪による死の場合は、天災や病気による死と異なり、その論理の要請が犯人に対する厳罰の要求に結びつく。「もう一度会いたい」ならば、それは会えなくなった原因を作った人間への怒りとなり、従って厳罰を求めるのも当然の論理の流れだからである。修復的司法は、「犯人を厳罰に処したところで遺族は救われるのでしょうか」、「いつまでも犯人を恨み続けて幸福になれるのでしょうか」などの問いを好むが、これは誘導尋問である上に視角が鈍い。遺された家族が犯人を恨まざるを得ないのは、その犯人によって愛する家族と会えなくなったからである。そして「せめて最後にもう一度だけでも会いたい」という心の動きは、人間が人間である限り否定することができないからである。

実証科学は、証拠によって証明できないものを扱うことができない。従って、「もう一度だけでも会いたい」という意志を正面から受け止めることができず、その意志そのものを客体化し、「被害感情」「厳罰感情」などと名付けた。これではピントがずれるのも当然である。「もう一度会いたい」という直観は、犯罪被害による死の場合、それは犯人への怒りや恨みと表裏一体である。そして、その表裏一体性をもたらしたのは、被害者の家族ではなく、犯人の側である。この論理の形式が人間存在において成立している限り、遺された家族が怒りと恨みから解放されることが幸福をもたらすとの主張は説得力を持たない。解放されてしまえば、「せめてもう一度だけでも会いたい」という最後の願いを断念したことになるからである。

谷沢永一著 『いじめを粉砕する九の鉄則』

2008-07-06 21:37:50 | 読書感想文
近代社会は、どの国の憲法にも書かれているとおり、人間の平等を建前とする。ところが人間には、多かれ少なかれ他人を出し抜きたいという欲望があり、その衝突が争いを生じさせる。原始的には、生きるための食欲と物欲、子孫を残すための性欲である。この秩序が維持されると、さらなる高い欲望の争い、すなわち支配欲や権力欲の争いが展開される。すなわち、身分制度を否定した近代社会の平等が、皮肉にも平等に欲望の争いを生じさせる土壌を肯定し、それが不平等を生むことになった。現代社会のいじめは、この1つの形態である。

従来、いじめは学校の中で行われる行為であり、「職場のいじめ」という言い回しはなされていなかった。もちろん、いじめは人間社会において不可避である以上、昔から大人社会にも存在した行為である。但し、大人は経験則上限度というものを知っており、自己規制がかかっていたのに対して、子どもは限度を知らないことが多かったため、学校のいじめが主に問題とされていた。近年、「職場のいじめ」が問題とされ、パワハラによる休業や過労自殺に労災認定がされるようになってきたことは、大人社会が幼稚になってきたことを示している。特に、近年は社会の流れが早く、時代に遅れないように必死に付いて行く様子は、大人も子どもも変わらない。

近年のいじめの特徴として、いじめる側といじめられる側が流動的であり、油断ができないという点が挙げられている。すなわち、いつ自分がいじめの標的となるかわからないため、嫌でもいじめに加わるしかない。これは、1人の人間の中に、いじめる人間といじめられる人間が同時に混在しているということである。すなわち、支配欲や権力欲の争いの特徴的な面である。さらには、日本人の国民性として、このような陰湿ないじめを好む人が多いという点も指摘されているようである。どんなに近代憲法が人間の平等を規定しても、DNAに深く刻まれた国民性のほうがはるかに古い。それゆえに、日本人が群れの中で自己と他者とを比較して、優越感と劣等感の衝突を繰り返す行動もなかなか消えない。

いじめによる自殺が起きたときに、何よりも責められるべきは、いじめをしていた人間である。この一次的な論理的な関係は動かない。マスコミは、いじめた生徒を責めることができないため、その怒りの矛先を学校に向けることが多いが、あくまでも学校は一次的ではない。これは、幼児虐待が起きたときに、その虐待をした親を差し置いて、児童相談所に対して「なぜ見抜けなかったのか」との攻撃をする状況と似ている。このような責任追及は、論理的に第一次的な責任追及を飛ばしているため、肝心なところが抜けてしまう。いじめは学校や教師にわからないように行われ、虐待は児童相談所にわからないように行われるものである。従って、「なぜ見抜けなかったのか」との問いに対する解答は、「直接の加害者が見抜けないようにしていたこと」だと答えるのが一番正解に近い。

浅羽通明著 『右翼と左翼』

2008-07-05 20:38:29 | 読書感想文
「右翼」も「左翼」も、個々の人間を指すものではなく、あくまでも抽象概念である。かつ、両者は対概念である。従って、この右翼と左翼の対立は、その前提を共有している者の間でしか意味を持たない。すなわち、この世のすべての事象を右翼か左翼かで分類することは無理な話である。例えば、白と黒は「色」という仲間の内でのみ対立しており、甘さと辛さは「味」という仲間のうちでのみ対立している。ここで、白と甘さは対立しておらず、黒と辛さも対立していない。従来の右翼と左翼のパラダイムが、現代社会を分析する概念としてそぐわなくなって来たのも、当然と言えば当然のことである。新左翼、新自由主義経済思想、新保守主義なども、あくまでも同じ前提を共有している仲間内の対立であり、その外に出てしまえば対立はない。

戦後の日本では、右翼は自主憲法制定・再軍備・9条改憲、左翼は反戦平和・非武装・9条護憲という独特な対立軸が作られてきた。これはあくまでも戦後の日本という前提を共有した上での対立であり、時代的にも場所的にも限られた特殊な事態である。従って、「右翼」「左翼」概念にとって本質的ではない。特に左翼はもともと革新派・急進派のことであり、暴力によって革命を目指す立場であって、平和主義との結びつきは薄い。戦後の日本でも安保闘争で火炎瓶を投げたり、内ゲバからあさま山荘事件に至ったり、現在でも大学には「反戦のために闘争しよう」といった立看板やポスターがある。そこには、左翼的思考と平和主義との結びつきが必然ではないことが表れている。

右翼とは、人間の感情や情緒を重視し、人間は自由・平等・人権といった概念だけでは割り切れないものだとする考え方である。これに対し左翼とは、人間は自由かつ平等であり、それは国際的かつ普遍的であるとする考え方である。そして、これを未だ理解していない人に広く啓蒙することによって、正しい世の中を実現することが人類の進歩であると考える。さらに、左翼はその運動の方向性によって、「権力左翼」(プロレタリア独裁を目指す)、「反抗左翼」(現代思想・演劇)、「自由左翼」(リベラル派・人権派)などに分けられている。一般に現在の日本では、社民党や朝日新聞系・岩波書店系のジャーナリスト、文化人が「自由左翼」に属するものと分類されている。また、憲法によって権力を抑制し、人権を守ることを目的とする法曹界にもそのような傾向がみられる。

自由左翼は、自由主義・民主主義・平等主義という絶対的な理念がある以上、その活動にも一定の方向性がある。すなわち、犯罪そのものよりも、犯罪の取締りや刑罰のほうを問題とする。通信傍受法(盗聴法)や共謀罪(組織犯罪処罰法改正)への反対運動がその代表である。これを押し進めれば、売買春の合法化、薬物の脱犯罪化といったところまで貫徹されることになる。そこにあるのは、人類の進歩のための啓蒙である。そして、不正に満ちた現在の世の中を自分達の手で正すという使命感である。厳罰主義が右傾化の象徴であり、保守反動であり、戦前に戻る危険があるとの位置づけがなされるのも、このような構造に原因がある。しかしながら、「人の一生の時間を奪っておきながら懲役5年では短すぎる」となどいう人間の倫理的な直観は、右翼も左翼も含むところの大前提である生命に関するものであり、「厳罰感情」のパラダイムに収まるものではない。すなわち、右翼と左翼の対立の構造の外にある。

朝日新聞のコラム「素粒子」欄が、「永世死刑執行人 鳩山法相。またの名、死に神」との記事を載せ、全国犯罪被害者の会や地下鉄サリン事件被害者の会から抗議を受けた。「素粒子」は、言うまでもなく権力への風刺であり、それゆえに左翼的正義である。そして、刑罰は国家が国民の人権を制約する行為であり、中でも市民の生命を奪うことは国家刑罰権の発動の究極であるという左翼的なモデルからすれば、この風刺には非の打ち所がない。そこでは、市民は風刺を喝采して、権力者である法務大臣を揶揄すべき存在であることが大前提である。これに対して、被害者の会が指摘しているのは、右翼も左翼も含むところの大前提である生命の重さ、死の重さである。犯罪被害者は左翼的正義と衝突することが多いが、権力者などではなく社会的弱者であるという点で、右翼的ではない。人間の生死の大切さは、右翼と左翼の対立の構造の外にある。この人間の生死の問題を、左翼的正義の刑罰論で風刺したことが、今回の「素粒子」の問題点である。

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 その3

2008-07-03 21:23:17 | 読書感想文
「陸田真志 3通目の手紙」より

p.30~38より抜粋

私は法律上の刑罰は、何ら私にとって償いになるとは思っていません。私は死刑だろうが、無期だろうが屁でもないのです。私の罪は、そのような法律、つまり他人が「ここからは死刑、ここからは死ななくてよし」と決めた法律なんぞには関係のない、私自身が「悪い」とする、自分自身にとっても「罪」以外の何物でもなく、たまたま私が「法律上の罪」をした時が現在で、場所が日本で、そこのその時の法律において「死になさい、生きなさい」と言われるなら、「わかりました」と言うだけの話なのです。

そんな他人が決めた法律上の人権という「他人の概念」を、自分や人間の天賦の権利と信じている「人権派」の人たちや、その人権という概念を自ら他人を殺す事で否定しといて自分の人権だけは他人に守れと言う、堺の19歳に、「自分で始めた薬物のせいに、自分の罪を転嫁させるのは見苦しかないか? それは君が殺した被害者に対して、殺害以上の罪を犯しているとは思わないか? それで君は、この先何十年か生きて、やはり死んでいく時に、どう思って死んでいくつもりなのか?」と聞いてみたいのです。

私の罪とは、厳密に言えば被害者の命を奪った事より、彼らが彼ら自身の真実に気付き得た可能性を奪った事にあります。人間がその自己の真の目的に気付く潜在能力を有している。その事こそが万人に平等にある「人が人としてある」天賦の権利、「人権」であると思えるのです。その為のきっかけと時間を、罪を犯した者に与えてくれる死刑制度は、むしろ、非常に人道的であると思えるし、無理にその人間自身の罪悪を考えさせないようにする少年法や人権派のほうが、むしろ、非常に人の道を外したものであり、その人間への「仁義」を見失っていると思うのです。

私が被害者の事を思う度、自身の犯罪を悔いるのは、この一点のみです。「御遺族の気持ちを思うと」と前に書きましたが、あれもよく考えれば私の偽善であったと思うのです。何故なら私は、彼らではないし、彼らの気持ちなど分かることは決してない。私は私の思う仕方でしか、罪も償いもわからないし、出来ないのだ。どうやっても、私が殺した被害者は帰ってはこないのだ。そう思えました。

自分が思う事によってのみ、宇宙も国も社会も「在る」と認められる。自分が思えない限りは、それはどこかにあっても、自分には在り得ない。つまり、生きている間には絶対に知り得ない自己の「死」は存在し得ないし、存在しない「死」が在る事によって「在る」とされる、「生」は在るも無いも「ない」。今、本当にあるのは、「思う自分」を在ると思う「考え」だ。そして、その「考え」自体にある全ての存在への判断基準は、「在るも無いもない生」によってはあり得なく、それ自体として「正、否」があり、それは生まれたものでないのだから死にもしない。


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陸田死刑囚が殺した被害者の2人は、SMクラブの共同経営者であり、いわば「殺されても仕方がない人達」であった。これに対して、同じ日に死刑を執行された宮崎勤死刑囚によって殺された被害者の4人は、何の罪もない幼い女の子であった。その意味でも、陸田死刑囚が獄中で気付いた事実は、宮崎死刑囚にとってはより強く気付かなければならない種類の事実である。死刑の執行は、遺族にとっては「1つの区切り」であると言われることが多いが、死刑囚が最期の瞬間に何を考えていたのかによって、その区切りの意味も全く異なってくる。


素粒子への批判 厳粛に受け止め 犯罪被害者の会に本社(朝日新聞) - goo ニュース