犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

修復的司法の問題点 その3

2008-07-24 20:01:39 | 実存・心理・宗教
「息子を返せ」。「娘を返せ」。修復的司法の理論からは、このような両親の言葉には積極的な評価が与えられない。いわく、「いつまで犯人を恨み続けるのでしょうか」。「厳罰に処されれば、それで済むのでしょうか」。「犯人をずっと憎み続けて、あなたは幸せになれますか」。修復的司法はこのような問いを立てて、遺された家族の復讐心の呪縛からの解放をテーマとし、その支援体制の確立を目指してきた。ここでは、子どもを奪われた親において「息子を返せ」「娘を返せ」という要求をしなくなることが前進であり、立ち直りであり、幸福であるとされている。

それでは、この幸福と不幸は、いったい誰を基準としているのか。修復的司法の理論からは、それはもちろん遺された家族の幸福と不幸であるとされる。ここに1つの大きな転倒がある。子どもを奪われた親が、「息子を返せ」「娘を返せ」と問う。現にそのように問うたということは、問わないよりも問うたほうが幸福だからである。現代の科学的な常識を前提とした上でも、やはり自分の心の奥底を見つめてみれば、帰ってきてほしいという気持ちは抑えられない。これは現実である。そして、返してもらうように要求する相手は、当然それを奪った者である。これも現実である。そうであれば、抑えがたい「息子を返せ」「娘を返せ」との問いを無理に抑え込むことが、果たして本人にとって幸福であるのか。あるいは、そのような問いは事件直後の異様な心理状態におけるものであって、いずれ解消される問いであるとの理論が、果たして本人を幸福にするものなのか。

「息子を返せ」「娘を返せ」という問いが生じなくなることによって、何よりも幸福になるのは、その周囲の人間である。このような答えのない問いを聞かされることは苦しい。従って周囲は、「いつまでも悲しんでいると死んだ子が浮かばれない」などといった慰め方をする。これによって何よりも利益を得るのは、周囲のほうである。腫れ物に触らないで済むからである。科学主義の客観性を前提とする修復的司法も同様である。両親における「息子を返せ」「娘を返せ」という問いが生じざるを得ないという論理の正しさに耐えられず、あるいは沈黙の深さに耐えられず、この問いに被害感情というマイナスのレッテルを貼って抑えようとする。これによって何よりも利益を得るのは、厳罰を免れる被告人と、刑法の厳罰化に反対する主張を持った人々である。子どもを奪われた親自身の利益は、本人の意志にかかわらず押し付けられるしかない。

「なぜ彼(彼女)は死ななければならなかったのか」という問いがある。他方で、「憎しみの連鎖からいかに遺族を解放すべきか」という問いがある。この2つの問いを比較してみれば、その鋭さの差は明瞭である。前者の問いは自分自身を向いているが、後者の問いは他人を向いている。また、前者は抑えがたく沸き上がってくる問いであり、言語道断の自己洞察を経ているが、後者は一定の結論を前提として問いが逆算されており、それ自体がソフトな理論武装となっている。人間の直観は、このような問いの差を見抜けないほど弱くはない。恨みから癒しへ、悲しみから立ち直りへ。人生をこのような単純なモデルに誘導しようとする理論に対しては、言葉で上手く表現できなくても、人間は何とも言えない気持ち悪さを感じるはずである。

「息子を返せ」。「娘を返せ」。修復的司法においては、両親がそのような問いの呪縛から抜けられないうちは不幸であり、抜けられれば幸福になるとされる。しかしながら、幸福や不幸は、他人に決めてもらうものではない。このような問いが消えることによって、遺された両親は立ち直ることができるのだという結論は、あくまでも修復的司法の学者におけるわかり方である。実証科学は自分自身を抜かすことによって客観性を獲得したが、これを自分自身に戻されると説明が付かないという欠点を持っている。「息子を返せ」「娘を返せ」という両親の言葉が聞きたくないのは、あくまでも修復的司法の学者の主観である。また、遺された家族が犯人に厳罰を求めれば未だ立ち直っておらず、犯人を赦したならば家族は見事に立ち直ったという評価も、そのように評価したいという学者の主観である。