犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小林秀雄著 『考えるヒント 3』

2008-07-13 21:37:05 | 読書感想文
「歴史と文学」より (p.228~9)

歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にするが、一ったん出来て了った事は、もう取返しがつかぬという事は、僕等は肝に銘じて知っているわけであります。歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛憎の念というものであって、決して因果の鎖という様なものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。

母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起ったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死という出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけには参るまい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。

母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実が在るのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものとなるのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。

つまり、実証的な事実の群れは、母親にとっては一向不確かなものだと言える。歴史の現実性だとか具体性だとか客観性だとかいう事を申します、実に曖昧な言葉であるが、もしそういう言葉が使いたければ、母親の愛情が、歴史事実を現実化し具体化し客観化すると言わねばならぬ筈であります。詭弁でも逆説でもない。僕等が日常経験しているところを、ありの儘に語る事が、何んで詭弁や逆説でありましょうか。先きに、歴史は二度と繰り返さぬ、と僕等は肝に銘じて知っていると言いました。僕はこの言わば原理を少しばかり演繹したに過ぎませぬ。僕等は、みなそうしているのです。


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これは何と、昭和16年(1941年)3月の文章である。時あたかも太平洋戦争の直前期であり、恐らくこの文章の発表当時は、全く時代の流れに合わないものであった。しかしながら、その時代にそぐわないということは、時代を超えて妥当するということでもある。

赤紙が来て、多くの若者が戦地に送られ、その母親は複雑な思いで息子を送り出すしかなかった。世に戦争を語り継ぐ文脈は多いが、時代は容赦なく流れる以上、それによって風化も免れない。そのような中で、時代を超える言葉は、気がついた時にはすでに時代を超えており、現代に通用するか否かといった議論すら不要にする。まさに、肝に銘じて知っているからである。