犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

村上隆著 『創造力なき日本』より

2014-01-06 22:01:06 | 読書感想文

p.137~

 世界中、アメリカが唱えた「夢はいつか叶う」を傍受してしまい、ぬるいこと甚だしい。夢なんて叶わない。それが現実です。だから人は念じ、宗教を発足し、祈るんです。芸術は、金持ちの慰みでありつつも、困った人の救済です。

 思い返してみてください。ぼくらが映画館に行くときにどういう気持ちになっているか。すかっとしたい、泣いてみたい、感動してみたい、などと思っているはずです。美術館に行くときは違います。「このアーティストの人生ってどんなものだったのか?」と想像したり、この作品は見たことないけど、「どれくらいの大きさなのかな」などと考えていたりするわけです。

 それで、実際に行ってよかったと思えるいい展覧会は、サラウンディングに作家や作品のことがわかった気になれるものです。みんな、作家の人生、伴侶、時代、そして何より、作家の不幸に期待しているのです。

 不幸にもかかわらず、とてつもない集中力でつくられた美しい作品、荒々しい作品、細かい作品が、その作家の人生の枠をはみ出しているときに感動するわけです。つまりアーティストは不幸と美をエンターテインメント化する道化なのです。


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 精神的にも時間的にも余裕のある者が、他人からの称賛を受けることを前提として造り上げた作品は、恵まれた者の道楽の所産という雰囲気を免れないものと思います。自己満足と自己顕示欲とは、他人の目との関連性においては正反対を向いているようですが、道楽である作品の中には両者が共存しているのだろうと思います。

 一般的には、人間が生存すること自体で窮している環境では文化は生まれず、一流の道を極めるにはそれなりの条件が整うことが必要だと考えられているように思います。しかしながら、芸術作品よりも先に芸術家という職業があり、平凡な人生への嫌悪感があり、その結果として生じる苦労や不幸というものは、方向が逆だと感じます。

 幸福で満ち足りている人には芸術作品などを創る動機がなく、従って、本物の心の闇や狂気が必然的に現れるのが本筋だと思います。そして、ここに逆説的に救済が生じるはずです。ゆえに、芸術家という職業が商品化し、私生活を切り売りすることに価値と羨望の視線が生じるのであれば、これもやはり方向性が反対だと感じます。

 『創造力なき日本』という題名に照らして言えば、現在の日本社会の環境は、創作者の生き様を洞察するには不向きだと思います。すなわち、不幸のエネルギーは心の闇や狂気ではなく、これは芸術の問題ではあり得ず、社会保障などの政策の守備範囲です。そして、この社会で求められているのは癒しであり、「ゆるキャラ」という創作です。

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