犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

天野篤著 『一途一心、命をつなぐ』より その2

2014-01-16 22:42:43 | 読書感想文

p.37~

 大げさに聞こえるかもしれないが、困難な手術に立ち向かっているとき、僕の中では患者さんを助けるという一点を通して、自分自身が“世界”と対峙しているような気持ちになっている。できることはやった。やり尽くした。自分と引き換えでもいいから、とにかく命を助けてくれ。世界を相手に、そんな取引をしているような感覚なのだ。

 そもそも、自分がきちんと力をこめて手術をすれば、結果は裏切らないと信じている。これまでの多くの経験を通して、そのことを身をもって知っている。だから、もしここまでやって命を助けられないとしたら、今までやってきたことはいったい何だったのか、自分自身の存在まで否定せざるを得なくなるではないか……。


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(その1からの続きです。)

 同じ頃、私は仕事で医療事故裁判の原告側についていましたが、病院側の激しい主張には胸をえぐられ続けていました。特に、「患者の命を救うことができなかった良心の呵責から事実の隠蔽が生じているのではないか」と原告が述べたのに対し、医師から「良心の呵責なるものは全く存在しない」との自信に満ちた反論を受けたときには、私は自分の考えの甘さや人生経験の浅さを思い知らされるしかありませんでした。

 病院側からは、このような訴訟こそが医療の崩壊を招いているのだとの意見が繰り返され、医療現場の疲弊について原告は勉強不足であるとも指摘されました。これらは、原告を激しい混乱に陥れるものでした。原告は、なお医師という職業に対して尊敬の念を有しており、実際に病院でお世話になった看護師などの方々にも心苦しい思いを有していただけに、訴訟の意義や目的について確信を奪われざるを得なかったからです。

 私はこの状況に直面し、ここで問題とされているのは具体的な過失の有無の一点であり、「本当のことを知りたい」という悲痛な思いのみであることを知りました。そして、これを語ろうとする言葉は必ず筋を曲げられることになり、故に私自身の人生ではこれを受け止められず、客観的に捉えざるを得なくなる絶望にも気がつきました。

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