犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

内田樹著 『昭和のエートス』より

2013-06-08 00:01:38 | 読書感想文

p.181~ 「記号的な殺人と喪の儀礼について―秋葉原連続殺傷事件を読む」より
(事件の2日後、平成20年6月11日の文章です。)

 個人的経験が人間をどう変えるか、その決定因は、出来事そのもののうちにあるではなく、出来事をどういう「文脈」に置いて読むかという「物語」のレベルにある。例えば、無差別殺人の犯人は、勤務先の工場の更衣室で自分の作業着が見当たらなかったことを「解雇」のシグナルだと解釈した。同じことを自分の勘違いだと思う人もいるだろうし、同僚のいたずらだと思う人もいるだろう。けれども、この人物は選ぶことのできる解釈のうちの「最悪のもの」を選択した。

 「被害者」はどのようなコメントであれ、それが自分にとってもっとも不愉快な含意を持つレベルにおいて解釈する権利をもっている。「現に私はその言葉で傷ついた」というひとことで「言った側」のどのような言い訳もリジェクトされる。これが私たちの時代の「政治的に正しい」ルールである。その結果、私たちの社会は、誰が何を言っても、そのメッセージを自分のつくりあげた「鋳型」に落とし込んで、「その言葉は私を不快にした」と金切り声を上げる「被害者」たちを組織的に生産することになった。

 今回の秋葉原の事件に私が感じたのは、犯人が採用した「物語」の恐るべきシンプルさと、同じく恐るべき堅牢性である。人を殴ろうとしたことのある人なら、他人の顔を殴るということがどれくらいの生理的抵抗を克服する必要があるかを知っているはずである。人間の身体の厚みや奥行きや手触りや温度を「感じて」しまうと、人間は他人の身体を毀損することができない。他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、「記号」に見えるときだけである。

 だから、人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」する。そこにあるのが具体的な長い時間をかけて造り上げられた「人間の身体」だと思っていたら、人間の身体を短時間に、「効率的に」破壊することはできない。今回の犯人の目にもおそらく人間は「記号」に見えていたのだろう思う。「無差別」とはそういうことである。ひとりひとりの人間の個別性には「何の意味もない」ということを前件にしないと、「無差別」ということは成り立たない。

 私たちの社会は現実の厚みを捨象して、すべてを記号として扱う術に習熟することを現にその成員たちに向かって日々要求している。それどころか、この事件そのものが私たちに「すべてを記号として扱うこと」を要求している。というのは、私たちは殺された人々のひとりひとりの肖像をいくら詳細に描き出されても、犯行の手順の詳細を知っても、それによっては事件について「何も理解できない」からである。

 この事件について、メディアは被害者の個人史のようなものを紹介し、それがいかに「かけがえのないもの」であるかをパセティック(悲劇的)な筆致で描き出している。けれども、そんなことをいくら知らされても私たちは「この事件について」は何一つ知ることができない。この事件について理解したいと思えば、私たちは「死者たちのことはとりあえず脇に置いて」という情報の操作を強いられる。私たちは記号的に殺された死者たちをもう一度記号的に殺すことに「加担」させられることなしには、この事件について語ることができない。


***************************************************

 内田氏はこの本の別のところで、メディアの用いる語法の欺瞞性について指摘しています(p.203~)。テレビで社会問題を批判的に論じる全ての人々が共有する、「先取りされた責任放棄」のことです。すなわち、「私はこの事件の発生に何の責任もありません」、そして「この事件が解決しないことにも何の責任もありません」というメッセージです。自分に責任の一端も存在しないことを確認して初めて、問題への厳しい非難が可能となるということです。

 メディアの用いる語法の流布によって、「被害者」という単語は二種類の意味を背負わされるようになったと感じることがあります。内田氏が加藤被告をカギ括弧のついた「被害者」と称し、殺された者をカギ括弧の付かない被害者と称しているのも、その表れだと思います。カギ括弧がつく「被害者」のほうは、被害者であることによって政治的な発言力を増し、弱者であることの特権を振りかざし、望んでその地位に留まるのが通常と思われます。

 カギ括弧のつく「被害者」は、一方では「加害者もまた被害者なのだ」と主張し、他方では被害者意識、被害者特権、被害者面、被害者気取りといった単語で批判を浴びるのが通常です。また、このはね返りによって、カギ括弧のない被害者の絶句と沈黙に対して安易な解釈が与えられることは、恐るべき知性の退廃だと思います。メディアの用いる語法によって、「遺族の恨みの暴走」「行き過ぎた報復感情」といった解釈の枠組みが与えられることは、喪の儀礼を遂行する能力の欠如を示すものだと思います。

 この事件直後の報道は、5年前も5年後も同じように、「将来の夢を奪われた被害者」のお涙頂戴の物語ばかりだったと記憶しています。加害者側の物語に支配されまいと抵抗し、あえて加害者の言い分を語らず、死者側の物語を取り戻すという目的自体は間違っていないと確信しますが、美化された物語はいつも軽薄です。そして、「死者たちのことは『とりあえず』脇に置く」という情報の操作を行い、脇に置いた後は取りに戻るという本来の喪の儀礼は、例によって実現されることがありません。

 内田氏はこの本のあとがきで、今や他罰的な言説は様々なメディアで蔓延し、人性を荒廃させていると述べています。5年前の「将来の夢を奪われた被害者」のお涙頂戴の報道は、当然ながら一過性のものであり、5年経てば見る影もありません。5年前から解り切っていたことだと言えばそれまでですが、5年前に「将来の夢を奪われた」ことに心を痛めた者は、その5年後の将来である現在において「将来の夢を奪われ続けている」ことについて、僅かでも心を痛める義務があるのだと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。