犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

白川静著 『漢字百話』より その1

2013-04-15 22:58:56 | 読書感想文

p.119~

 永生は古今を通じてかわることのない人の願いである。しかしその願いは、かつてかなえられたことがなく、また今後もかなえられることはないであろう。久遠の世界は、死によってのみはじめてえられる世界である。

 「久」は尸(屍)を後ろから支えている形である。「遠」は死喪の礼における袁から出ている。久遠とは、実に死の世界である。その字に久遠の意味を与えたのは、おそらく弁証法的思惟を好んだ戦国期の司祭者たちであろう。かれらは死をおそれることがなく、むしろ死において真実の認識に達しようとしたのである。


p.230~

 「眞(真)」とは顛れたる人であり、道傍の死者をいう。この枉死者の霊は嗔恚にみちており、これを板屋にき、これを道端に填め、その霊を鎮めなければならない。その怨霊が再びあらわれて禍することをなからしめること、それが鎮魂である。

 このいとわしくも思われる「真」という字を、こともあろうに真実在の世界の表象に用いたのは、荘子である。荘子以前の文献にこの字がみえないのは、その本来の字義が示すように、それは人間の最も異常な状態をいう語であるからであろう。それでもしこの語に、究極的な悟達をいう真人・真知というような高い形而上的意味を与えうるものがあるとすれば、それはそのような死霊の世界に何らかの意味で関与する宗教者でなくてはならない。


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 字源の解釈は、どれも確定的なものではなく、白川静氏の学説も数ある仮説の中の1つだそうです。現在進行形の事柄ですら出自が確定できないことは多く、ましてや大昔の文字の成り立ちを正確に捉えることなど、今となっては不可能です。そして、どの学説が正しいのかという論争は、研究者でない者にとってはどうでもいい問題だと思います。

 ただ、いかなる論争においても共通することは、その学説が捉えている地点の深さと浅さが与える印象だと思います。浅い議論は、その浅さの範囲内での深さを装わなければならないのに対し、深い議論にはその必要がないということです。そして、その差は、やはり「死」を避けていないかという点に尽きるのだと思います。

 上記の白川氏の説は、名前の中に「眞(真)」の漢字がある人にとっては何だかショックであるという点については、全くその通りだと思います。他方で、「人は必ず死ぬ」という命題は真である以上、白川氏の「真」の文字の解釈に対して違和感を覚えるならば、その「真」のどこが真なのだろうかとも思います。

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