犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『勝っても負けても41歳からの哲学』より

2013-03-14 23:18:13 | 読書感想文

p.127~ 『何を信仰しているの』より

 新しいローマ法王が選出された。前のヨハネ・パウロ2世が亡くなって、新法王が選出されるまでのあれこれをテレビで観ていて、私もあれこれ考えた、今さらながら、宗教とは、我々にとって何なのだろう。

 もしも本当に信仰する、ある種の絶対者をそれとして認めるということであるなら、法王も教会も一切無用のはずである。信仰は、たったひとりでも可能なはずである。なぜなら、絶対とは、ある意味で、自分が存在しているというこのこと以外の何ものでもないからである。絶対的なその原点から眺めるなら、法王なんて存在は、全くのナンセンスである。

 そうではなくて、法王とは、現世における特定の集団、特定の勢力を代表し、その利害得失を差配する人なのだというなら、話は明快である。げんに、法王選出のためのコンクラーベとは、完全な政治である。テレビなどで観る限り、彼らは、宗教が政治となっていることを、微塵も自覚していない。どころか、宗教とは、すなわち政治なのである。そこにはちょっと凄いものがある。

 ウソがウソなりに通用するのは、ウソに騙されたがっている人がいるからである。人は、ウソに騙されるのが好きなのである。いや正確には、真実によく耐えられないのである。存在することには意味も理由もなく、天国も地獄も存在しないなんて真実には、我々は耐えられない。だから人はウソを欲する。


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 上記は、8年前にベネディクト16世がローマ法王に選出された時の『週刊新潮』の連載です(平成17年6月2日号)。池田氏の週刊新潮の連載は、その当時の時事ネタでありながらも時代の流れに乗っておらず、しかも時代に逆らうわけでもなく、常識では説明がつかないものばかりです。そして、今となっては、「今」がいつなのか煙に巻かれているようで、古くなればなるほど新しくなるような妙な感じがします。

 2年前、東日本大震災を体験した7歳の日本人少女からの「なぜこんなに悲しい思いをしないといけないのか」という質問に対し、ベネディクト16世が答えていたことを思い出します。法王は、「私も自問しており、答えはないかもしれない。キリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる。私は苦しむ日本のすべての子どもたちのために祈る」などと答えていたようです。

 今さらながらの私の感想としては、何だかなぁと思います。ローマ法王ともあろう者が自問して答えがないのであれば、「私も自問しており、答えはないかもしれない」で止めておくしかないと思いますが、それではローマ法王ともあろう者が格好がつかないのであれば、余計なことでも言っておかないと収まりがつかないのだろうと思います。

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