犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岡山駅ホーム突き落とし事件

2008-03-31 16:33:26 | 言語・論理・構造
3月25日、JR岡山駅の山陽線ホームにおいて、県職員の假谷国明さん(38歳)が18歳の少年に突き落とされ、電車にはねられて亡くなった。28日の葬儀では、父親の要さん(70歳)は、「このような事件が二度と起きないように」との趣旨で、假谷さんの小学1年生の長女の手紙を報道陣の方に向かって読み上げた。
「とうさんへ いつもおしごとがんばってくれてありがとう でも、じこにあって つらいめにあったとおもうけど みんなとうさんをしんぱいしていて わたしは学校からかえってきて とうさんがしんだときいて とてもかなしくなりました。でも とうさんがいなくても学校はがんばります」。

この事件に関しては、テレビのニュースを片っ端から見てコメンテーターの意見も聞いたし、新聞の社説も読んだ。色々なブログも片っ端から見た。しかし、この小学1年生の長女の手紙以上の言葉はどこにも存在しないようである。マスコミは必死になって事件を大きく伝え、知りうる限りの詳細を報じている。そして、事件の悲惨さを伝え、再発防止を訴えている。これはこれで最善を尽くしていると言えるが、これまでに起きた事件の時と何ら変わりがない。真実を伝えようとするならば、それはやはり沈黙の中に示されるしかない。この長女の言葉は、どんなマスコミの言葉にも勝る力を持っている以上、マスコミが余計な形容詞や副詞を連発すれば、皮肉にも真実の報道からは遠ざかる。

一人息子を亡くした父親の要さんは、自宅の前では、「本当ならたたき殺してやりたいくらいに、はらわたが煮えくり返っている」と語った後、「しかし、日本は法治国家なので罪を償い、早く更生して世の中に役立つようになってほしい」と表情を押さえ、唇をかみしめていた。絶句の中から絞り出される言葉はここまで残酷なのか。これは、聞く者を選ぶ言葉である。「更生して世の中に役立て」という要求は、「死刑になれ」という要求よりも残酷である。ただ、聞くだけの力量がなければ、その底抜けの残酷さには気付かない。感情を内に秘め、怒りの嵐が通り過ぎるのを待つ、これが凄まじき怒りの本質である。修復的司法のマニュアルなど木っ端微塵である。

せめてもの救いは、少年の父親がマスコミの前に謝罪に現れたことである。今までは同じような事件があっても、このような光景を見ることは少なかった。父親は、およそ言葉にできる限りでの陳謝の意を表していたようであり、我が子が憎いとも語っていたとのことである。少年の複雑な胸中は父親にも理解できないであろうが、現時点で人間としてなしうる限りの謝罪をしているとは言えるだろう。日本は法治国家である以上、罪を償い、早く更生して世の中の役に立たなければならない。これは地獄である。假谷国明さんの人生と合わせて、2人分の人生を生きなければならない。人を殺したことは、自らが死ぬまでついて回る。その恐るべき事実を片時も忘れないことが「更生」である。その意味で、假谷要さんの述べる「更生」の意味は、少年法の厳罰化反対派の述べるそれとは逆である。

「とうさんへ。いつもおしごとがんばってくれてありがとう」。その通りだろう。「わたしは学校からかえってきて、とうさんがしんだときいて、とてもかなしくなりました」。その通りだろう。「でも、とうさんがいなくても学校はがんばります」。その通りだろう。

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