犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『暮らしの哲学』より

2014-01-05 22:21:14 | 読書感想文

「不可能な『今年』」  p.185~187より

 「今年の目標」という不思議な観念について、ふと思いました。大人になっても、そういう目標を立てる人はいます。「来年は飛躍の年にしたい」「今年こそは」と、人は言う。ちょうどこの暮れ頃からそれは始まって、年賀状でもそのように宣言し、正月3日間くらいは、自分でもそんなふうに唱えていたりする。「今年こそは飛躍の年にするぞ」。

 しかし、可笑しいじゃないですか。正月3日もすると、そんなの見事に忘れちゃうんですよ。松がとれて、会社が始まって、日常の暮らしが再開されると、いつものように何となく続いていっちゃうんですよ。今年の目標? そんなこと言ったっけ。三日坊主。

 人が「今年の目標」を持ちこたえたためしがないのは、「目標」が立派すぎるためではなくて、「今年」というのが不可能だからだと私は考えます。「今年」というのは、いったいどこに存在しますか。今存在しているどこに今年なんてものが存在しますかね。「今年」もしくは「1年」というのは、明らかに観念だということがわかります。そんなものは、観念の中にしか存在しないものであって、存在しているのは、やっぱり今もしくはせいぜい今日だけなんですね。

 それでも人は、現実が現実のままズルズルと過ぎてゆくのにも耐えられない。それで、1年のうちの最初と最後の1週間以外は完全に忘れているような「今年」「来年」という観念を、性懲りもなく持ち出してくる。そうして、暮れになれば「来年は」と盛り上がり、お正月には「今年こそ」と決意する。そしてまたすぐに忘れる。


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 自分自身でも訳のわからないこのブログですが、いつの間にか7年目に入ったようです。このような駄文を以前からお読み頂いている方には、お礼とお詫びを申し上げる以外にありません。私はこの間、何も成長しておりませんし、世の中の足を引っ張る力すらなく、ただ厭世観と虚栄心の間を動いているように思います。

 無私の精神とは、非常に簡単で、非常に難しいものだと思います。自分の立ち位置を消し去り、普遍的なことや万人に当てはまることを語れば、それはただの他人事です。すなわち、物事の実態を知らない部外者の戯言です。人間の精神の真に迫らず、表面的で浅く、誰の心にも響かない言葉を語るしかないことになります。

 他方で、自分の立ち位置をしっかり持ち、その心の奥底の本音を語れば、その言葉はすぐに普遍性を失ってしまうものと思います。単に個人の狭い経験から語られた言説であり、ごく限られた範囲内でのみ通じる話に過ぎず、無関係の人にとってはどうでもいいということです。「そんな話には興味がない」と言われて終わりです。

 自分を主観的に見ることは至極簡単であり、精神的に余裕がある者の大局観からは人間の息遣いが聞こえず、他人を他人事のように扱って平然としているのだろうと思います。同じように、「木を見て森を見ず」にならないように上空から森を鳥瞰してみれば、地に足が着かず、目線が高くなるだけなのだろうと思います。

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