犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の裁判所書記官の日記 (18)

2011-08-16 00:02:33 | 国家・政治・刑罰
(17)から続きます。

 人間であれば、誰しも必ず間違いを犯す。この命題は、被告人の犯罪の文脈においては、「人は必ず立ち直ることができる」との生産的な希望に誘導される。他方、この命題は、公務員の職務過誤の文脈においては、「絶対にあってはならない」との厳しい非難に誘導される。絶対に間違い(職務過誤)のあってはならない現場で、人の間違い(犯罪)に日々携わる国家公務員は、精神衛生を健康に保つためには、この点を自分なりに上手く処理することを求められる。
 私が裁判所書記官になってから数年の間に、精神疾患で休職した周囲の職員は、すでに二桁に達した。私が見る限り、何らかの拍子に内部からの破綻を来した同僚は、「公務員の重い職責」と言われるところの重さを、納得しないままに内部に溜め込んでいたように思える。すなわち、重さの本質への考察が上手くできないまま、個人の本心とは裏腹に、従わざるを得ない役割の方を自分であると思い込んでいた。そして、この不一致が許容量を超えたとき、仕事への誇りが内部から崩壊したように見受けられた。

 今日の午前中の幼児虐待の事件については、裁判所に持ち込まれた最初の時から、私はその処理に携わっていた。母親の内縁の夫が先に保護責任者遺棄致死罪で逮捕された際、その逮捕状をめぐる問題に係わっていたからである。逮捕状の請求が深夜であったため、慣れない民事部の裁判官と宿直の書記官が処理し、押印を1か所漏らしてしまった。さらには、警察官も気付かずに逮捕状を執行し、送検された後、初めて検察事務官がこれに気付いた。
 このような場合、法律を正確に適用すれば、被告人を釈放したうえで緊急逮捕し、かつ逮捕状の執行から72時間以内に勾留請求しなければならない。検察事務官は私に対し、これで被告人は自分の罪に永久に向き合うことができなくなるかも知れないと語った。私は裁判官に対し、「人の命の重さ」は「印鑑の重さ」に劣るものかと嘆いた。ふと気が付いてみると、逮捕状には最初から全ての押印があり、釈放の必要はなかった。私は、この国の法制度を最前線で支える者の覚悟を知った。

 刑事部の書記官は、毎週決められた日に法廷に出て、刑事事件を日常的に処理している。しかしながら、犯罪はあくまでも別世界の出来事であり、犯罪者は別世界の人間である。これは、自分自身は犯罪者に落ちていないということであり、差別感情の裏返しでもある。そして、この差別意識は、刑事部の書記官の必要条件である。連日のように覚醒剤や大麻、麻薬などを目にしつつ、これに興味を持たないでいられるのは、公務員の高い倫理のなせる業ではない。単に、このような薬物を使う人間を下等生物だと思っているからである。
 他方、刑事部の書記官にとって、犯罪被害者は同じ世界に生きる人間である。それは、いずれも良識を備えた人間であり、社会の秩序を乱すような者ではないという意味においてである。それだけに、いわゆる堅い仕事である書記官の職務倫理と、被害者の内に秘めた狂気との隔絶は大きい。裁判所に対する国民の信頼という価値を保持すべき要請からすれば、書記官が裁判所の中で当事者に殺害されるよりも、書記官が痴漢や覗きで検挙されるほうがよっぽど痛い。

 裁判所書記官が精神衛生を健康に保つ技術は、被告人の法廷での弁解の技術と軌を一にする。職務倫理を馬鹿正直に追求しているだけでは、いずれ不当感に苛まれ、現実に幻滅することとなる。人は誰しも間違いを犯すのであれば、その後のことを考え、ダメージを最小限に抑えるべく、自己保身の術を身に付けざるを得ない。真面目に仕事に打ち込んだ挙句に懲戒処分を受け、心が折れて休職する恐れがあるのならば、そうならない前に証拠を隠滅し、上手い言い訳を考えておくことも社会人の責任である。
 他方、犯罪被害者の法廷での陳述は、裁判所書記官の職務上の思考と交わる点がない。犯罪者は別世界の人間であり、被害者は同じ世界の人間であっても、思考の枠組みに関しては見事に逆転している。午前中の裁判の母親は、弁護人からの主尋問に応じて、取調べで誘導されて意に添わない供述調書に署名させられた点につき、大いに不満であるとの供述を行った。我が子の死やそれに対する罪について、完全に意識の外に追いやることが可能であるという事実は、社会人の仕事の方法論をも支えている。


(19)へ続きます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。