犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

天野篤著 『一途一心、命をつなぐ』より その1

2014-01-15 22:40:05 | 読書感想文

p.30~

 手術を通してかかわった患者さんは、大半は元気になった。だが、なかには自分の力が及ばず、助けられなかった患者さんもいる。正直なところ、元気になった患者さんのことはすぐに忘れてしまうが、助けられなかった患者さんのことはいつまでたっても忘れられない。今も亡くなった患者さんの顔が、事あるごとに浮かんでくる。病室や手術前の表情、交わした言葉、残された家族の方々……。

 何をしても、どうやっても防げなかった死もある。当時の医療の限界もあった。しかし、もう少し自分に力があれば防げたかもしれないと思う死もある。もちろん、全力は尽くした。懸命に閻魔さまと闘った。しかし、それでも助けられなかったのは事実だ。敗北の原因を必ず分析して、その経験を今後に生かすようにしている。二度と同じ結果は招かない。絶対に無駄にしないぞと心に決めている。亡くなった患者さんたちのことは、そうやって死ぬまでずっと引きずっていく覚悟でいる。


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 知人の医師が医療事故で訴えられたとき、その心情を詳しく聞いたことがあります。今まで積み上げてきたものが全て崩され、座り込みたくなったとのことです。そして、訴状に綴られた厳しい文字は、彼が最初に医師を志した時にまで遡って全人生を否定し、職業人の誇りを傷つけるものであったと言います。過酷な勤務条件でも患者さんのために尽くしてきたのは何だったのか、もう気力が湧かなくなったとの話でした。

 その訴訟の原告は、「これを機に医療過誤がなくなってほしい」「過ちを認めて信頼される病院や医師になってほしい」との意志でやむなく訴訟を起こしたとのことです。彼は、そうであるならばすぐに訴訟を取り下げるのが筋ではないかと語っていました。ただでさえ多忙な状況の中で、裁判の対応に医師が体力も気力も奪われ、何もかも投げ出したくなる状態を作られれば、むしろ次の医療事故につながってしまうからです。

 私はその話を聞き、ここで真に問題とされているのは具体的な過失の有無ではなく、真相なるものは最初から決まり切っていることを知りました。そして、知人の語る言葉は筋が通りすぎており、彼の全人生や誇りが乗っているが故に私自身の人生とは無関係であり、これを他人事として捉えている自分の薄情な視線にも気がつきました。

(続きます。)

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