犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

『ひまわりの おか』

2014-03-16 22:53:43 | 読書感想文

※ 東日本大震災の津波により、石巻市立大川小学校に通わせていた子どもを亡くした母親の手紙をもとに作られた絵本です。

p.33~ 葉方丹氏の「あとがきにかえて」より

 ひまわりの丘をたずねるたびに、お母さんたちは、子どものことを聞かせてくれました。涙を流し、時には笑いながら話してくれました。お母さんたちの話は、子どもへの深い深い愛に溢れていました。そして、そのぶん、深い深い悲しみに満ちていました。子を想う母親の心は、果てがないと思いました。そのことを、できるだけ多くの人たちに伝えたいと思いました。そして、お母さんたちが書いてくれた、子どもたちについての手紙をもとに、この絵本をつくることになったのです。

 ひまわりは、日々、大きくなっていきます。お母さんたちは、ひまわりの世話をしながら、ひまわりに語りかけています。きっと、子どもと話しているのです。ネイティブ・アメリカンの人たちは、「この世の中、誰ひとり私のことを思わなくなったら、私の姿は消えてしまう」と信じていました。人は、人を想うこと、人に想われることで、生きていけるのです。お母さんたちは、いつもどこでも、子どもたちのことを想っています。子どもたちは、お母さんといっしょに生きています。


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 「事実が正確に表現されていない」「言葉が不正確である」などと評される場合の問題には、大きく分けて、2つの状況があると思います。その1つは、「客観的事実と言語とが対応していない」という場合であり、実際に体験していない者の議論は伝聞からの想像に陥らざるを得ない結果として、事実の歪曲や隠蔽の有無が争われることになる状況です。恐らく、言葉の不正確性が問題とされて争われる場合の99パーセント以上が、この部分から生じているのだろうと思います。

 ここでの客観的事実とは、紛れもない主観的事実のことであり、本当に我が身に起きた歴史的な出来事であればこそ事実が正確に記せるのであって、ここで客観的事実と言語とが初めて対応するのだと思います。実際に自身に生じた歴史的事実については認識や解釈を巡る議論も起こり得ず、単に体験の有無が決定的な差異を生ずるからです。東日本大震災においても、体験の有無による言葉の温度差は如何ともし難く、温度の低い側はひたすら謙虚になるしかないと感じます。

 他方、上記の問題のもう1つの場合、すなわち言葉の不正確性が問題となる1パーセント未満の場面とは、本当に自身に起きた出来事であるがゆえに正確に書き残すことができず、本当のところは言葉にならないという状況です。人は自分の心の中を言葉にしなければ自分の心の中はわかりませんが、その自分の心の中を正確に言葉にしようとすればするほど嘘を語ってしまうという逆説があります。そして、この沈黙に苦しむ者は、安い言葉の嘘を必ず見抜くはずだと思います。

 人間がこの沈黙の言葉を語ろうとするときには、「詩」「物語」「絵画」といった高度に抽象的な伝達手段を選択せざるを得ないものと思います。言語の限界を知り抜いた者は、広い意味での論理を適切に用いて、正確な嘘を語らなければならないからです。もっとも、これはもとより言葉の不正確性が問題となる1パーセント未満の場合であり、実際に世の中で交わされている膨大な言葉の中で、絶句の深さを伴った言葉はごく僅かだと思います。容易に見つからないと思います。

 以下は、大川小学校の裁判の部外者である私の勝手な願望ですが、原告側の弁護士も被告側も弁護士も、この絵本の言葉を念頭に置きつつ話を進めてほしいと感じます。法律家にとって、絵本など六法全書よりもかなり下に位置づけられ、感傷的な空想と決め込むのが通常のことと思います。しかしながら、この裁判が「安全確保義務」「危険調査義務」といった抽象概念の切り回しの頭脳労働で終わるのであれば、法律というものはあまりに惨めで虚しい言葉の羅列だと思います。

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