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最強武将を手玉にした真田の智謀 (村上義清5)

2011年03月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)」です。

信濃へ侵攻した甲斐の若き大将「武田晴信」
義清は上田原にて激突し、これを大敗させたのです。
しかし、信濃守護「小笠原長時」を追って勢いを取り戻した武田勢は、義清の留守を狙って山城・戸石城へと侵攻。
争っていた「高梨政頼」と結んで軍勢を急遽反転させた義清は、撤退する武田勢を追撃して再び大敗させたのでした。
こちらが、世に宣伝された”戸石崩れ”という晴信の敗戦です。


天文二十年(1551)
あの晴信をしても落とせなかった堅城・戸石城。
しかし、仕えていた「真田幸隆」は調略をもって、内通者を押さえ、この城をあっさり攻略しております
さらに葛尾城より北の清野氏の内通にも成功しているなど、合戦での勝利者であった村上勢を次々に切り崩していったのでした。

そのあまりな鮮やかさに、武田の宿将らは幸隆を牽制したようですが、晴信は彼を重用し続けています。
優秀な参謀として、以後は特に信濃攻略にて大活躍することとなるのでした。

なお、ライバル「上杉謙信」は、
我、弓を取らば真田に劣らぬが、智謀は七日遅れあり
そう評しておりました。
真田氏と言えば大坂合戦で華々しく活躍した孫「幸村(信繁)」、晴信に側近として仕え、「両眼の如し」と言われた子「昌幸」が有名ですが、この幸隆も只者ではありません。
信濃攻略ほか、西上野侵攻でも功を上げています。
謙信の批評そのまんまな活躍を見せていたんですね。
晴信との相性も良かったらしく、譜代家臣と同様の扱いをされていました。

天文二十二年(1553)
その敗戦を切っ掛けに、これまで村上家を頼っていた国人らにも動揺が走りました。
安雲、筑摩から武田勢が侵入すると、次々にそちらへと鞍替えを始めたのです。
それまで共に戦っていた「布下雅朝」、「屋代政国」、「楽巌寺雅方(らくがんじ・まさたか)」という各将までも、武田氏に降ってしまったのでした。

局地戦では勝利していたものの、結局は居城・葛尾城を支えることができなった義清。
越後にて勢力を伸ばしていた「上杉謙信」を頼って、落ち延びたのでした。
なお、彼の居城であった葛尾城は、義清の脱出後に総攻撃で陥落しています。

助けを乞われた謙信は、戦国時代では珍しく義理がたいことで有名な大将。
実際に彼を客将として遇した謙信は、その失地回復のため、信濃へ頻繁に出兵することとなるのです。
天文二十二年(1553)の数ヵ月後には八幡・布施での合戦に勝利。
一度は葛尾城までをも奪回するなど、武田勢と死闘を繰り広げることとなるのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「非凡な嫡男・父の念願を果たす」(6/6)


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※そんな訳で、お弁当箱まで戦国です。
 真田家は人気あるねぇ。