僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~和歌山県那智勝浦 熊野那智大社~

2017-09-07 19:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称とされていますが、やっと2社目の熊野那智大社まで辿り着くことが出来ました。
熊野那智大社の主祭神は「熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)すなわちイザナミノミコト」となりますが、第一殿 滝宮(大己貴命)、第二殿 証誠殿(家都御子大神)、第三殿 中御前(御子速玉大神)、第四殿 西御前(熊野夫須美大神)、第五殿 若宮(天照大神)、第六殿 八社殿(天神地祗)と六つの本殿が並びます。

熊野三山では「熊野十二所権現」と呼ばれる12柱の神様が祀られていますが、この熊野那智大社だけは飛龍権現という滝の神様を第一殿の滝宮にお祀りしています。
熊野那智大社は那智の滝と並行するような高さにありますが、滝の下にある飛龍神社の飛龍権現も加えて13柱として祀っているようです。(注:第6殿の八社殿は8柱の神を祀っている)

 

土産物屋さんが並ぶ通りを歩いて行くと、「表参道」の看板が出てきます。
見た感じではとても表参道とは見えなかったため、周囲を探したのでしたが、結局この石段が表参道ということでした。
石段の途中の段のない踊り場には何件かの土産物屋さんがあって、表参道らしい雰囲気は多少ありましたが、下の土産物屋通りの方がお店は整っているようですね。



石段を登りきると見えてくるのは一之鳥居。
鳥居は神の領域を守る結界ですが、神社めぐりをしていると鳥居の雰囲気で神社の感じが何となく分かるような気がしています。
わざわざ参道を戻って鳥居から入ったりすることもあるのですが、この鳥居はとても雰囲気のよい鳥居だと思います。



石段はこれで終わりかと思っていたら、ニ之鳥居までの石段があるではないですか。
前日から熊野速玉大社・神倉神社・補陀落山寺・飛龍神社(那智の滝)と石段の昇り降りで足に疲れがきていたので、“まだ登るのか?”と結構つらい石段(467段)でした。



熊野那智大社の本殿は元々は大瀧の近くに祀られていたそうですが、約1700年前にこの場所へ遷ったといわれます。
拝所には護摩木を燃やす常香炉があり、記入用の護摩木が置かれていましたから熊野の地には神仏習合が根付いていることが実感できます。



主祭神である熊野夫須美大神の“夫須美(ふすみ)”は“結(むすび)”という意味につながるとされ、諸々の願いを結ぶ御利益があるとありましたので、神妙にお参りを致しました。
社殿は317年に現在の位置に創建され、織田信長の焼き討ち(1581年)で焼失しましたが、豊臣秀吉によって再興(1851~1854年)されたと伝えられます。
信長の焼き討ちが那智勝浦にまで及んでいたとは驚きます。



江戸時代には第8代将軍・吉宗の尽力で享保の大改修が行われたとされ、社殿は重要文化財の指定を受けています。



拝所より中へは入れませんので玉垣越しに社殿の様子を見てみました。
拝所の正面には第1~5殿が横並びに建ち、第6殿だけが他とは直角の向きに建てられているようです。

神社の社にある千木は祀られている神様が男神か女神かによって先端部の形が違いますのですが、熊野那智大社でも熊野速玉神社と同じく違いが見られます。
女神を祀っている第4殿(熊野夫須美大神)と第5殿(天照大神)の千木は地面に並行した形になっていて、男神を祀る社殿の千木との違いがありました。(左の2殿)



熊野の神に“神武天皇御東征に際に天皇の軍隊を熊野国から大和国へ道案内し勝利に導いたとされる八咫烏”が数えられますが、境内にある御縣彦社(みあがたひこしゃ)では八咫烏を神として祀っています。
社は本殿と同様に重要文化財に指定された建築物で、正面には八咫烏の銅像が祀られていました。





境内には樹齢約850年の樟が御神木として祀られており、この御神木は、平重盛(清盛の嫡男)の御手植えと伝わっています。
ここでも熊野速玉大社の樹齢約千年の葛の神木と同じく、平重盛の御手植え伝説が伝承されているようです。



この樟は内部が空洞になっており、初穂料を納めると護摩木を持って胎内くぐりが出来るようでした。
入口が少し狭そうでしたので胎内くぐりは断念しましたが、胎内くぐりに入る方の姿は多く見受けられました。



さて、神社の御朱印は寺院に比べると頂いた数は少ないのですが、現在使っている御朱印帳の残るページがわずかになっていましたので、熊野那智神社の御朱印帳を購入しました。
本殿と滝の位置関係は違ってはいますが、記憶に残る風景とはこんな感じかもしれないということいいのではないでしょうか。

 

本州のほぼ最南端、深山と海しかないような地の果てとも思える熊野三山が大変な信仰を集めたのは、生きながらの再生を目指して人々が訪れたからだといわれます。
この時期に熊野を訪れたくなったのは、少し甦りの気持ちが強くなってきていたのかもしれません。


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御朱印蒐集~和歌山県那智勝浦 熊野那智大社別宮 飛瀧神社~

2017-09-06 06:50:50 | 野鳥
 日本人はよく“日本三大○○”のように名所などを選ぶことがありますが、滝の『日本三大瀑布』には「那智の滝(和歌山)・華厳の滝(栃木)・布田の滝(茨木)」が選ばれ、『日本三大神滝』は「那智の滝・華厳の滝・布引の滝(兵庫)」が選ばれています。
那智の滝と華厳の滝は両方で選ばれている名瀑ということになりますが、滝好きの当方もやっと那智の滝へ訪れることができました。

那智の滝の面白いところは、滝の下から見ることが出来て、平行線の位置からも見ることが出来ることでしょうか。
駐車場に車を停めた時点で滝が見えてきて、ワクワクする気持ちを押さえながら、まずは滝の下にある飛龍神社に参詣することにしました。



飛龍神社は、熊野那智大社の別宮とされており、那智の滝そのものを御神体とする神社でした。
従って本殿などの建築物はなく、直接滝を神として拝むことになります。



那智の滝のある大雲取連山には那智48滝と呼ばれる数多くの滝があるそうで、修験道の行場として中世から瀧篭行をされる修行者が集まったといわれます。
この48滝は秘密性が高かったことから詳細が文献等では残されておらず、謎の部分が多かったとされます。
しかし、1988年に青岸渡寺の副住職の方が熊野から吉野へ向けての順峯による奥駈に取り組み、那智四十八滝回峯行の再興を図られたそうです。



土産物屋などが並ぶ門前町の奥には非常に雰囲気のある鳥居が見えます。
ここから先は神の領域に入るということになりますが、“早く行きたい!”“焦れながらゆっくりと行きたい!”の両方の気持ちが湧いてきます。



鳥居を抜けるとちょっときつい下りの石段が続きます。
しかし、進めば進むほど滝の水音が大きくなって聞こえてくる。やっと来ることが出来たんだとの感慨も深い。



滝の前には鳥居があり眼前には見上げるほどの高さの滝がそびえ立つ。
そびえ立つという表現はおかしいのですが、一直線に落ちてくる様子は誰かの言葉を借りれば“空に向かってそそり立つ白い剣”のようにも見えてきます。



滝の高さは133m、銚子口の幅13m ・瀧壺の深さは10m以上といわれ、毎秒1トンの水量があるとされる大瀧です。
滝を前にすると強い生命力を感じることが出来るため滝が好きなのですが、この大瀧は神々しいまでの迫力があり見ているだけで心身が清められていく気持ちになってきます。



まさしく日本人が自然崇拝してきた原点ともいえる熊野の地の中でも代表的な自然物ですから、古来より熊野信仰が人気を博したのも納得がいきます。
那智の滝は那智山信仰の根元とまでいわれ、平安時代の後期には熊野信仰が全国に広がってあまりにも多くの参拝者が訪れたことから、多くの参拝者が訪れるさまを「蟻の熊野詣」と称されたといわれています。



那智の滝に最も近いお滝壺拝所では「延命長寿のお瀧水」という御神水(滝壺の水)を飲むことが出来るようになっています。
このお瀧水の由来は、滝壺に花山(かざん)法皇が延命長寿の仙薬である「九穴(くけつ)の貝」をお沈めになったことに始まり、延命長寿の水として広まったそうです。



初穂料を納めると盃とお守りが授与され、盃は持ち帰ることが出来ました。
その盃で龍の口から流れるお瀧水を頂きましたので10年は寿命が延びたかもしれませんね。

 

周辺を一回りするコースを歩いていると途中に祈願所が建てられていました。
内部を見なかったのですが、この「お滝祈願所」には観音菩薩・役小角と眷族・滝不動などが安置されているようです。



那智の滝は133mの高さから落ちる滝で、調べてみると京都タワー(131m)よりも高い。もちろん通天閣(108m)より遥かに高い滝になります。
京都タワーは京都府で一番高い建築物とされていますから、その高さは自然物である滝とは思えないような高さになります。

那智の滝が最初に見えた時には“ウワァー”と声を上げてしまいましたが、近くで見ているとその迫力で言葉も出なくなってしまいました。
この滝を言葉にするなら品格を感じつつも迫力に気圧されてしまう滝ということになるのでしょうか。


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トウネンをパチリ!

2017-09-05 06:32:18 | 野鳥
 9月に入って朝夕ひんやりとしてきて、暑い夏もついに終わったかと感じるようになりましたね。
田圃周辺を行くと、もう稲刈りが始まっていて、稲刈りの後の独特の香りが周囲を包みます。

農道にはマルバルコウやニラの花が咲き始めて、季節が変わってきたことを改めて実感したりもします。
今月も後半になれば彼岸花が咲き始めて、いよいよ秋の野鳥シーズン到来ということになるのでしょうか。



渡りのシギチを探してみたのですが、見つけられたのはトウネン4羽だけ。
シギチの集まりそうな田圃がなかなかないんですよね。



移動中にミサゴが飛んでいるのを見かけたので急行してみますと、遠くで1羽がダイブしているのが見えます。
見事に獲物をゲットして飛び去ると、次の2羽目も獲物をゲットして帰宅コースへ。

あぁ5分早く来れば良かったと残念がっている所へ3羽目がダイブする。
こいつは失敗してそのまま帰っていってしまいましたので、トビしか飛ばない空を見上げてこちらも撤収です。







ツクツクボウシの声が消えて、彼岸花の咲く頃には一気ににぎやかになってくるのかもしれませんね。


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御朱印蒐集~和歌山県那智勝浦 補陀落山寺・熊野三所大神社~

2017-09-03 18:05:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 那智勝浦には「那智の滝」「熊野那智大社」などの有名な観光スポットがありますが、海に近い那智勝浦には「補陀落山寺」という天台宗の寺院があります。
補陀落山寺も世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の資産の一部になっていますが、この寺院は“補陀洛渡海の出発点”として知られる寺院です。

「補陀落」とはサンスクリット語で「ポータラカ」の音訳した言葉とされ、ポータラカとはインドの遥か南方の海上にあり、八角の形状をした山だという伝説があるそうです。
その山は観音菩薩が住む浄土だといわれており、この補陀落山寺はポータラカへの出発点にあたるとして信仰されてきたと考えられます。



補陀落山寺は4世紀頃の第16代天皇・仁徳天皇の時代にインドから熊野へ漂着した裸形上人によって開山されたと伝わります。
那智にはかつて「那智七本願」といわれる7つの寺院があり、熊野那智大社の造営・修理のためのお布施を集めていたとされますが、現在も残っているのはこの補陀落山寺と妙法山阿弥陀寺の2寺だけのようです。



寺院は江戸時代までは大伽藍があったそうですが、1808年の台風でほとんどの堂宇を失ってしまい、長らく仮本堂だった時代を経て、1990年に再建されたとされます。
歴史は非常に古い寺院ですが、本堂のみが再建されてかつての大伽藍の面影は今は見ることは出来ません。





「補陀落」は華厳経でインドの南端にあるとされており、日本では遥か南洋の彼方に「観音浄土(補陀落)」があると信じられていたそうです。
阿弥陀様のおられるのは西方極楽浄土、薬師様の東方浄瑠璃世界。観音様がおられるのは南洋の彼方となるということから、仏の世界観は各方角に向かって構築されているのかもしれませんね。



拝所からお参りした後、堂内へ入ると外陣には「鎌倉期の地蔵菩薩坐像」と「賓頭盧」様が祀られていました。
地蔵菩薩坐像はかなり痛みが見られましたが、坐像はあまり見る機会がありませんし、錫杖をお持ちでなかったため寺院の方に聞いて教えて頂くことになりました。

内陣へ入ると重要文化財の「木造千手観音立像(平安後期)」こそ秘仏で見ることは出来ませんでしたが、広目・多聞の2天像(平安後期)は見応えがある仏像でした。
脇陣には2躰の不動明王が祀られ、そのうち1躰は矜羯羅童子と制多迦童子を脇に従えており、その横には元はお前立ちかだったのかと思われる十一面千手観音が祀られていました。


十一面千住観音立像・・・和歌山県 那智勝浦町HPより

「補陀洛渡海」は南方にある観音浄土を目指して僧侶が渡海していく「捨身行」のことで、補陀落山寺からは江戸時代までに25名の渡海の記録が残されているようです。
渡海する僧は屋形船の屋形に入ると外から釘を打たれて、30日分の食料を持って曳き船に曳航され、途中で綱を切られて熊野灘を漂流していったそうです。

本来は「即身仏」のように“報恩・得果のため、身体を犠牲にして仏道を求める修行”だったと考えられますが、時代が下るに伴い儀式化していき住職が60歳になると渡海するようになったといわれます。
また“勧進のための儀式”といった意味合いも出てくるようになり、周囲からの圧力によって渡海させられた僧もいたようです。

金光坊という僧侶は船からの脱出を試みたものの、海岸で捕まえられて海に投げ込まれたという話があるそうです。
江戸時代には死んでから遺体を水葬するようになったとされますが、観音浄土への信仰とはいえ、実際は“死ぬための行”だったことは確かなようです。



再建された船は屋形の四方に「発心門・修行門・菩提門・涅槃門」の4つの殯門があり、狭くて暗い屋形に閉じ込められて波に揺られる僧侶はさぞや恐怖心を感じたことでしょう。
しかも渡海は11月に行われたといいますから、海上を漂いながら寒さとの戦いもあったのではないでしょうか。

さて、熊野の地には神仏習合の歴史が残っている場所が多いのですが、補陀落山寺と隣り合わせに「熊野三所大神社」がありました。



熊野三所大神社は、かつては「浜の王子社」と呼ばれていて「熊野九十九王子」の一つだったとされます。
熊野九十九王子は熊野古道に沿って皇族・貴人の熊野詣の際に参詣者の守護を祈願するため熊野古道沿いに造営されたとされます。

「王子」というと皇族の王子を想像してしまいますが、“修行者を守護する神仏は童子の姿をとる”という修験道の考えから「王子」と命名されているようです。
また実際に九十九の王子があった訳ではなく、数が多いという意味から九十九と数えられているといわれます。

熊野三所大神社の御祭神は「家津美御子大神・夫須美大神・速玉大神」の熊野三所権現で、鳥居の横には「浜ノ宮の大樟」と呼ばれる御神木がありました。
樹高25m・幹周り7m強で樹齢800年といわれる巨木です。



補陀落山寺と熊野三所大神社は神仏習合の寺社で隣り合わせて建てられていますが、明治の神仏分離によって分離され現在はひっそりとした神社になっていました。
祭典などの時は別でしょうけど、訪れる人も限られた村の神社といった感があります。



現在は補陀洛山寺と熊野三所大神社から海岸線までは少し距離がありますが、昔はもっと近くに海岸線があったといわれます。
平維盛(清盛の孫、父は重盛)は、一ノ谷の戦いでの敗退により都落ちして、高野山に入り、その後に熊野三山に参詣したとされます。

そして、この地より補陀落渡海に習って小舟を漕ぎ出して入水していったと伝わります。
観音浄土への出発点である補陀落山寺から観音浄土を目指して、死出の旅に出たということなのでしょう。


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御朱印蒐集~和歌山県新宮市 神倉神社~

2017-09-02 07:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 和歌山県新宮市にある「神倉神社」は、熊野三山の一つである「熊野速玉神社」の摂社になります。
熊野速玉神社の縁起によると熊野の神々が最初に降臨したのは神倉山とされ、降り立った場所は山中にあるゴトビキ岩だったとされます。

神倉神社はゴトビキ岩を御神体とする磐座信仰の神社であり、アニミズム信仰の社ということになります。
また、日本書紀には神武天皇が紀元前3年の東征の際に“熊野神邑に至り、旦天磐盾に登りて”と記されているとされています。



神倉神社はアニミズム信仰の場でありましたが、128年頃に熊野速玉神社が創建されたことから神道と結びつき、「熊野信仰」として全国へ拡がっていったようです。
こういった経緯があって、熊野速玉神社はこの神倉神社に対して「新宮社」と呼ばれることになり、その名は地名になっていったと思われます。



神倉神社は熊野速玉神社にほど近い場所にあり、住宅街の外れにある駐車場から橋を渡って山に入ります。
寺院などでは「彼岸と此岸」の境に橋がありますが、ここは「神域と俗界」の境を切る橋になるのだと思います。

しかし、鳥居の前まで来て、急勾配の石段を見ると“この石段を登るのか!”と恐ろしくなってしまいます。
石段上りには慣れているとはいえ、こいつはかなり手応えがありそうです。



神倉山は標高199mの山で、ゴトビキ岩のある神社は中腹120mの位置にあるとされる低山で、石段は538段といわれていますが、登り始めるとかなりきつい。
ゴツゴツとした石が積まれていて歩きにくいことこの上なく、勾配がきついため、何度も休み休みしながら汗びっしょりになって登っていくことになりました。



あまりにも苦しいので水戸黄門の主題歌の歌詞を思い出しながら杖を頼りに登る。
“♪人生楽ありゃ苦もあるさ...歩いてゆくんだしっかりと 自分の道をふみしめて♪”

幸いにして後半は勾配がややなだらかになったので少し楽にはなりましたが、登っておられる方は当方同様に息も絶え絶えといった感じです。
やっと鳥居が見えてきた時には暑さでゆでダコのように真っ赤な顔になっていましたが、たどり着いた安堵感に満たされる。



区切るように囲まれた玉垣の内側が神域(本殿)ということになるのでしょう。
手水舎がありましたので清めるとともに、少しクールダウン出来ました。



ゴトビキ岩は写真で見たことはありましたが、その巨大さには想像以上の驚きがあります。
「ゴトビキ」とは熊野地方の方言で「ヒキガエル」の意味らしいのですが、その雄大な姿を見ると「熊野灘へ向かうクジラ」に見えてしまいます。



本殿前には地元の方と思える方が写真を撮ってくださっていました。
当方が着いた時はちょうとゴトビキ岩に太陽がかかってきて、“ダイヤモンド富士”を思わせる“ダイヤモンド・ゴトビキ”を背景にした記念写真を撮っていただくことが出来ましたよ。
ゴトビキ山の下で座禅を組んでメディテーションしているかのような写真を撮ってもらっている方もおられましたので、この場まで来ると和やんだ雰囲気も漂います。



ゴトブキ岩が向かう方向には新宮市内とその奥に見える熊野灘は絶景です。
黒潮の流れる熊野灘の先には遥か遠くまで広がる太平洋。流されていったらどこに辿り着くのでしょうね。



天照大神と高倉下命を御祭神とする拝殿にお参りして神倉山を降りましたが、今度は石段下りが待っています。
急勾配で不揃いの石段のため降りるのも一苦労です。

足を滑らさないようにと注意しながらの下り道をやっと降りきった時には再び汗びっしょりのゆでダコ状態になってしまいました。
あまりにも汗をかいてしまったので、途中のショッピングセンターでTシャツを買って、お店で着替えさせてもらいましたよ。


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