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近江国には南北に走る「北国街道」があり、越前国で北陸道通じていることから、江戸時代から国と国を結ぶ街道が縦横に張めぐされていたことになります。
北国街道は、湖北地方を通って福井県今庄方面へ向かう街道ですが、中山道の鳥居本宿(彦根市)を越えた辺りで中山道と分岐して北上しています。
追分の近くには「右 中山道 摺針・番場」「左 北國街道 米原・きの本道」の道標があり、ここが北国街道の起点となっているようです。
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追分から中山道へ入ると、「磨針峠 望湖堂」と彫られた石碑があり、横に「弘法大師縁の地」と彫られてあり、中山道・摺針峠(磨針峠)へと向かってみました。
石碑には「明治天皇御聖跡」とも彫られていて、「磨針峠(すりはりとうげ)」という峠の名にも興味がひかれます。
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旧の中山道は舗装された生活道になっていますが、国道から分岐した最初の部分は荒れた旧中山道と舗装道が平行しています。
旧中山道の道は草で埋め尽くされたような道となっていて、さすがにこの季節には歩く人もいないような荒れた道です。
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舗装道を進んで摺針峠に差し掛かると、峠の最上部に「望湖堂跡」と「摺針神明宮」が見えてきました。
ここは舗装された道と坂道に分岐していて、坂道を登った一段高い場所に神社はあり、かつての旧中山道は神社の前を通っていたとされています。
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「摺針神明宮」は霊仙山系の山麓に祀られた神社で、この峠に弘法大師・空海にちなんだ逸話が残されているという。
“諸国を修行して歩いていた青年層が挫折しそうな精神状態の時にこの峠に差し掛かった時、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会ったという。”
“青年僧が老婆に聞いてみると、1本しかない大切な針を折ってしまい、斧を磨いて針にするといったといいます。”
青年僧は、神が僧にひたむきに生きる老婆の姿を見せて、修行に打ち込ませようとしたのだと悟り、自分の未熟さを恥じて修行に励んだとされます。
その青年僧が後の弘法大師・空海であったと伝わります。
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その後、再び摺針峠(磨針峠)を訪れた空海は、摺針神明宮に栃餅を供えて、杉の若木を植えて歌を詠んだと伝わります。
「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」
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本堂に通じる石段の横には、弘法大師お手植え杉跡の石碑が祀られ、後方には巨大な切り株が残されています。
弘法大師お手植えと伝えられた「弘法杉」は、幹周8m・樹高40mともされていた巨大杉で、その幹周には驚きを隠せませんが、切り株の大きさからかなりの巨樹だったことが伺われます。
「弘法杉」は残念ながら昭和56年(1981年)の「五六豪雪」と呼ばれる記録的豪雪によって倒壊してしまったという。
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本殿はこじんまりとした祠でしたが、後方に広がる山には畏れのような感覚を覚えます。
山麓の神社に参拝すると、ある種の緊張感を感じざるを得ません。
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さて、この場所にあった「磨針峠 望湖堂」は、かつて磨針峠にあった大きな茶屋だったといい、参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、幕末の和宮降嫁の際にも立ち寄られたといわれます。
建物は本陣構えで、その繁栄ぶりから両隣の宿場の鳥居本宿や番場宿の本陣から奉行宛に連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むよう訴えられたとか。
望湖堂は1991年の失火により、参勤交代や朝鮮通信使の資料とともに失われてしまったようで、弘法杉とともに失われた歴史となってしまいました。
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浮世絵師・歌川広重は中山道の69の宿場を描いた「木曽海道六十九次」の中で鳥居本を描いていますが、実際に絵のモチーフとして描かれているのは磨針峠から見降ろした風景です。
遠くに琵琶湖を眺めながら、望湖堂で景色を眺めながらくつろいでいる人たちの姿があります。
角度は違いますが、江戸時代の人が眺めた景色を味わってみます。
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広重の絵には琵琶湖の前に内湖が見えていますが、これはかつてここに内湖があったということでしょう。
戦前の琵琶湖周辺には40数か所の内湖があったといい、戦中・戦後に食料増産のため干拓事業が行われたため、内湖の多数は干拓または規模縮小されたといいます。
広重の絵は、もう見ることの出来ない風景を描いているということになります。
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磨針峠を東側に下ると見えてくるのは「磨針一里塚跡」の石碑。
道の両端は空き地になっているが、もう一里塚があった痕跡は見られません。
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中山道を進むと分岐があり、右に行くと鳥居本宿方面で、左に行くと番場宿方面。
どちらへ行ってもよかったのですが、番場宿を抜けて国道8号線へ戻る道へ進む。
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名神高速に沿った中山道を進んで行くと、小摺針峠へ入る前に「泰平水」という湧き水とお地蔵さんの祠がありました。
水量はあまり豊富ではありませんでしたが、中山道を行く旅人たちの喉を潤したり、地蔵さんに手を合わせて旅の安堵を祈られたことでしょう。
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番場宿の一角にはお地蔵さんに見立てた石が2躰祀られていて、お花が供えられています。
後方の木の下にはもう花期を終えようとしているはずの彼岸花が咲き残っていました。
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