病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

心身に「見える」ものを伝える

2018-02-22 11:51:49 | はとはあと最新情報
心身に「見える」ものを伝える

この「はとはあと」ブログが拘っている「見る」という言葉は、平易で日常的な意味合いのように思われますが、考えていくとかなり深いものがあります。こうした解説の引き合いによく出てくるのは、すでにご存知のとおり、室町時代の猿楽師であった世阿弥の「離見の見」ですね。そのほか「風姿花伝」とか「秘すれば花」とか、優美な言葉による芸術的な書物が多く残されているようです。今回は、それら世阿弥の著作の中の「離見の見(りけんのけん)」について少し勉強して見ることにしましょう。

「離見の見」は、漢字の直訳?でいくと、「離れて見る」こと自体を「見る」「眺める」ということになり、それでほぼ間違いないだろうと思います。「離れて見る」は誰もが日常していることで、何も特別なことはないのですが、その後に「見る」が付いていますから、これがどんな意味と効果をもつものか、考えてみたいのです。しかし、その前に離れて見るという言葉「離見」について定義しておく必要がありそうです。というと途端に難しそうな雰囲気になりそうですが、何れにしても気分の話なので、大らかにお付き合いください。

離れて見るとは、多くのばあい「全体を見る」あるいは「印象を捉える」というように考えてはいかがでしょう。つまり焦点が定まっていない状態のことで、懸命に「見たい」「見届けたい」と願いながら、完全な把握ができていないという意味があると思うのです。目の視点はあちこちの移動し、探し物をするときのような眼差しです。しかしこの「全体視」、何にも縛られず全体を眺める行為こそ熟慮、思考、独創といったクリエーティブにつながる過程と考えてはいかがでしょう。体験的ですがそんな気がしています。

世阿弥は能を舞いながら考えました。観客の満足で納得の顔付きサインはどうしたら現れてくるのか。まさに医療サービスの場と同じで、自らが行ってる施術への理解と感動について日々一心に務めていたと思います。そんなある日ある時、閃いたのは「舞っている自らの心が観客席にあること」。その離れた席から見える姿こそ、本当に伝えたい表現であることを知ったのです。どんな芸術もサービス、そしてコミュニケーションも、この発想なしに感動はないのではないでしょうか。

そうです、一見して(全体視で)から感じるものとは、感覚的な本音のメッセージであることが多くかつ大量の情報なのではないでしょうか。医療の場でこのような非言語の人間的作用を考え、仕組みとして採り入れないのは片手落ちといえるのです。
世阿弥は、役者だけではありません。今でいえば劇団のオーナーでありプロデューサーでもあり、常に劇団の発展のために何をしたらいいかを考え抜きました。総合的なブランディングにも乗り出していたような気がするのです。

提供:日本HIS研究センター(NPO)

 私たちNPO法人が「はとはあと」で提唱してきた「病院広報」とは、まさにこれらのエッセンスに近いものがあります。言葉にすると、いといろと差し障りが出てくる医療現場を、今ここに有効なデザインで解決していくこと。あるいは施設と連携して地域に「ヘルスリテラシー」を伝え、自主自立の健康コミュニティ提唱の輪を広げることを目指しているのです。