病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

「見せる」コミュニケーションの意味を考える

2019-03-10 13:48:13 | はとはあと最新情報
「見せる」コミュニケーションの意味を考える

9日夜、NHKテレビのブラタモリの番組で、徳島の阿波踊りが紹介されていた。他の地区で行われてきた盆踊りから、「阿波踊り」として全国に認められる存在になるため、踊り手とチーム全体の「見せ方」を変えるために集中したという。目をとらえる踊り手の衣装や得意な編笠はもちろん、踊りそのものにもシッカリしたテンポ、メリハリのある動きを感じるように手を加えてみた。観衆の目を捉えることに集中した努力と工夫に集中が行われたという。番組では、その比較映像も流れされたが、一目瞭然とはこのことであった。

「見せる」ことは、視神経から脳、体感通して納得と行動に結びつく身体反応である。俗に一体感という言葉もあるが、人心を集め互いの共感につなぐには欠かせない手立てである。反面、見せることは「見せかけ」という欺瞞を感じさせる契機にもなる。ここで軽薄さだけが伝わってしまっては、ただの情報処理にも終わり、裏切りにもなりかねない。真剣で真摯な動きこそ、人々の心に伝わり感動を呼ぶのだということ。「見せる」ことは、ともすれば進んで信頼を失う危険性を秘めている。「見える」を提供するには覚悟がいるのだ。

とはいえ「見せる」は、さまざまな社会や人間同士のコミュニケーションにとって欠かせない。欠かせないのに日本では必要な理解が進んでいない。インターネットの時代だ。今さら見せる情報は彼方此方にあって氾濫している。必要はないという意識レベルでもうウンザリというわけである。しかしそうではない。ないのは「心に響く」情報であり、「役立つ情報」である。または、そのあり方ではないか。特に求められるのは、「見せる」情報のスマートさである。抵抗なく「読みたくなる・見てみたくなる」表情に目線の会う情報である。

つまりは、「非言語の使い方」が大きい。経営理念など精神的なマインドは言語では梗塞しがちである。伝えるべき内容が抽象的であるなら、シンボルとなる場所に彫刻を配置し、その持ち味を理念と響き合う演出してみる。理解が固定化しては困るが、言葉で解説することで本来の意味が屈折するのが心配である。理念はトップ、理事長が言葉限定で語るべきであろう。要は、市民や職員など社会から「存在すること」に「納得」を得ること。そのために日々「経営の方向を見せる」小さな印象と実感の、単純な繰り返しが何より必要になる。Mitameya190310

初めての「病院広報の基本」(DVDによる通信10講座)
認定単位取得可能 受講受付中!
※詳しい案内は、日本HIS研究センターのサイト http://www.j-his.jp/

両眼は前方に向き、見えても後方は見えない?

2019-03-03 13:09:23 | はとはあと最新情報
両眼は前方に向き見えても後方は見えない?

今更ながらヒトの眼は間違いなく左右にある。人は誰でもその両眼の窓から見える世界を恐る恐る捉えながら生きている。だが、二つの事象を把握するためというのではなく、捉える世界は一つになっている。動的な対象であろうが、静止した事物であろうが、その空間や色彩、ときに温感さえも把握して神経に伝えていく。あたかもこの両眼による視覚世界は「額縁」に収まった絵画のようである。幅や奥行を示して象徴化し、実際にあるものもないものも区別なく脳裏に運べる。天国や地獄という夢の想像において神仏も抜け目がないのだ。

しかし、ヒトの両眼は目前の対象を、それぞれどのような機能分担により捉えようとしているのだろう。左右いずれかが主で、そうでない方が予備というわけではあるまい。左右の僅かな捉え方の違い・ズレを感知することで、よりリアルな実感を全身に伝えることで立体感、実在感などの成果を引き出していると考えるのはどうだろう。体操競技の平均台の演技で、両手を開いてバランスをとり、次なる演技に備えるのも同様、ヒトの身体が環境に適応すべく仕組まれた感覚対応であることを考えると、人体の当然の姿、有り様が理解できる。

そのような身体能力として、ヒトの視覚神経や視力構造が関わっている。しかし、ヒトの目や顔面の向きは、前向きにしか配置されていない。両眼によって前向きの知覚はできても、背後に向けた世界が感知できないがどうなのだろう。もちろん振り向けば可能であるが常時は困難で、敵に背後から襲われるなど、よくあるお馴染みのシーンがある。つまり人間の知覚世界は、前には広がっているが、後ろは楽屋の物置のような存在であるのか。それをカバーするのが神経のネットワーク。ヒトにも備わった身体知能という仕組みである。 

ヒトが生きていく上で欠かせない知覚や感覚を受け取り、脳の指令を待たなくても行動に移す仕組み、それがイメージである。これらには日頃溜め込んだ印象が役に立つ。向こうからやってくる自転車は「なぜかふらつきが激しい」と「見れば」、反射的に身を道端に寄せて様子をみるなどの対応がイメージという知性によって可能である。観る目の役割は、体型だった知性・合理性もさることながら、直感や印象によって高められる感性での判断である。合理の基準に加えて、感覚判断に意味や価値を見出す仕組みも欠かせない時代が来ている。

このようなイメージ理解を願うには、人間の心の動きを表した成果物をなるべく「観たり」「見たり」することに尽きる。自分の心に新しい絵を取り込み、感じることに時間を使うこと以外にない。音楽やアートに親しむことで、心地よい経験を積むことで自然に得ること(分かること)ができる。無理をせず自然体でいること。ときに少し考えてみる。そんな本にであえるようになれば、身体の中にイメージタンクができた証かもしれない。それも大事だが最大の収穫は、イメージという独自言語を使いモノを「見る」ことができるようになることだ。Mitameya190303


初めての「病院広報の基本」(DVD通信講座)
認定単位取得可能 受講受付中!

※詳しくは、日本HIS研究センター http://www.j-his.jp/

「いいものを観る」「いいものを観せる」努力が開く未来

2019-02-24 11:38:15 | はとはあと最新情報
「いいものを観る」「いいものを観せる」努力が開く未来

人の論理的判断は、ときには鬱陶しい経験になる。多分こうだろうという直感を優先させることが合理的であって当然というような場合がある。場合があるというより、われわれの日常の多くは、そうした脳?の直感とともに行動している。もっといえば、左脳の判断を参考にしながら、右脳の直情評価もあってコトが進んでいく。まさに時と場合によるのだが、どちらを優先させるといいかという“仕切り”に覚悟をもって望むことが必要である。なんの覚悟か、それは命を全うしようとする生身が担っている、生まれながらの責任からである。

先週、京都大学大学院で開かれた「健康デザイン論」の講座に招かれてゲスト参加してきた。講師は広告代理店大手の電通、それも3名の講師がコメントとワークショップを指導した。テーマは「人を動かす“企画書の企てる“方法」で、私が主張するデザインが「問題解決」であるという点で興味があった。彼らは「医療はコミュニケーションである」との考えのもと、いつしか「動いてしまう企画」を提示した。人は理屈では動かないが、共感があれば、心よく賛同する特質を理解したアクティベーション・デザインの提示であった。

済んでしまった、ある程度の結論を後から評価するときも、このような視点を進んで評価することも重要ではないか。ともすればエビデンスの明確な根拠が云々となるが、後日の評価に見捨てられてしまう事例は悲運である。それは大らかな生の認識でではなく、生死につながる計算メモを勿体なく懐に忍ばせるような精神ではないのか。大らかに心地よく笑顔で迎える布袋和尚のような心根がすべてを包み込むことを考えよう。生きていく以上、いいことも、悪いことも、入れ替わり立ち代りやってくる。その動きが見えなければいけない。

こう述べてのすぐさまの決まり切った反論はわかっている。あえてここに議論を書かない。なぜなら正直な感覚を述べているからだ。それよりも心地よい笑顔で優しく振舞い、困った人を支え癒す手立ては何か、どうすれば社会善が生まれるのか、思考の努力をしなければならない。ほんの思いつきだが、こうした点に、本当に共感して脳に焼き込まれるのは、論拠の配置がいかに整然としていても、刻一刻と変化するデータといっても、結局は人間の目を通すのである。重要なことは、意欲の湧き上がる環境やコミュニケーションではないか。

要は「見ること」つまり「見えた世界」をどう活用するかである。過去の記憶やその先入観によってその質も変化する。変化したフェーズによって映像化されたイメージも変化する。つまり見えた世界(としか言いようのない世界)とは写真や動画のようなもので、その撮影条件のよって質は自在に変化しするから、見えた世界(対応するイメージ)にもさまざまな変化と反応がある。そこにあるのは外的な縛りではない。あるのはそこに残された印象である。その場に生まれる“笑顔”にこそ前向きの、次なるアクティベーションがある。Mitameya190224

地域住民は、病院のいったい何を「見ている」のか

2019-02-17 16:24:33 | はとはあと最新情報
地域住民は、病院のいったい何を「見ている」のか

私たちは自らの内的宇宙に生きつつ、その印象世界の纏まりを意識し、自在に分析・検証・判断をしながら生きている。それらは言葉として編集され外部化されることでその遣りとりは、他人の立場にも少しは理解され共有される。つまり自己→言語→他者という感性による往来の中で、知的価値をその場の協働により創造して行くことになる。ここに科学的分析など到底及ばない生命的乱動のように見えてしまうのは致し方なく、「なるがまま」「ありのまま」自在な姿こそ合理的であり、人間として納得のいく実感ではないだろうか。

昨日は、日本HIS研究センターの企画運営会議という月例の集会に出席した。只でさえ忙殺されそうな状況の中、年度末の課題山積に議論は白熱した。気になるのは、大きな流れが明白でない段階に、細部に議論が集中してしまうことだ。準備不足の会合によくありがち、根気よく進める以外にない。むしろ「その場に立ち上がる湯気」やはり「ありのまま」という目の前に見える現実を尊重し、「流れに身を任す」ことも必要である。決定は力任せではなく、自分の意思、使われた言葉、メンバーの理解の質を統合して考えてみることである。

そのような場を十分に見わたし、進むべき道筋(戦略)を決めるには、言語情報よりも非言語、つまりビジュアル(図解)による資料が有効である。視覚には「小さな情報単位を嫌う」という原則がある。まして高齢人口の時代である。文字情報を極限まで制限して、なるべく「全体視」が可能な情報づくりが望まれる。いわゆる「パッと見て理解する」仕掛けの情報づくりである。また忘れてならないのは文面の漢字率(30%)で「可能な限り制限する」こと、視覚が細部に及ばなくても理解可能なように脳神経への配慮が重要である。

またそれを見込んで「バーチャル・チーム」という手法を提案しているが、時間切れ、準備不足で果たせなかった。それぞれ多忙かつ創造的な仕事ぶりの中にいるメンバーである。決定していく時間と場所は代替えの効かない基本条件である。その現実をクリアするには、タテの発想をヨコにしてみる、また経済などをハバとオクユキと置き換えてみる発想が必要である。「バーチャル・チーム」は会議・打ち合わせの固定概念を打ち破るにふさわしい。ぜひ、多職種が協働する医療現場では、この枠組みに挑戦してみるべきだと思う。

理念らしき理念、方針書らしき方針書、一見してそれらしい体裁をしていても、どこか軽々しい。熱のある情報はその威力を表面に滲み出しているはず。それらは「本質の研究」「サービスの研究」から距離を感じさせる。見た目だけのこうした筋合いは、必ず「制度」や「基準」からも距離があるように見える。利用者が「安心したい」を訴えるのはこのことに安心したいのだ。「虚いのない真心の医療かどうか」という精神性。病院に集まる医療の利用者は、欲望満足を願う「消費者」ではなく、顧客の特権を主張する「患者」でもない。mitameya190217






「複眼で観る」今春の夢を求めて

2019-02-11 13:46:39 | はとはあと最新情報
「複眼で観る」今春の夢を求めて

前号で個人的な若い経験をあえて捻じ込んで紹介したのは、柔道もアートも、方程式では解けない感覚の世界を追求した“身体知性”の成果物であること。いずれも論理の形式を束ねるだけの、科学一点張りの世界で説明のつくものではない。私なりの理解を経験の中で説明したに過ぎない。だが、こう書いてしまえば、「なんだ、当たり前の話」でないかと叱られそうだが、時にはこのような「複眼」でモノを見ていくコト、または行動していくコトが全体または要点理解・全体認識に求められることにも多々あることはご存知のとおりである。

このことは医療や介護サービスの場でも欠かせないテーマである。「患者様第一のサービスは何より大事」であり、その施設がもっとも重視する理念である旨を掲げない病院経営はないし、それなりの職員教育が行い院内掲示にも謳われていて、サービスの場に集う人々の文化としても育ってきているのは間違いない。サービスの利用者のサイドに立った専門サービス(商品)の提供という視点から評価できるのではないか。つまり医療の目的である本質部分ではないが、サブサービスとしての付加価値においていえることである。

では、医療の本質つまり病態の改善や予防、患者教育など医療が本来的に担うべき使命の部分ではどうだろうか。医療の本質は医学の適応であり、論理的な仕組みとして社会に適応している。すべてにこの本質を外すことはできない。しかし、現実には利用者の心地よさに配慮して、それなりの満足や納得感により、共感的で協力的な受療を進めることが必要である。ここに利用者の心理や感性など心身の快適性を理解した医療が求められることになる。付加サービスの満足を上げることが受療の満足を上げるという研究成果もでている。

「複眼で観る」ことこそ現実の眼差しではないだろうか。世はまさに科学全盛でありテクノロジーの時代である。好きなことが科学でできる。この理想を享受するためには、好奇心によるテーマの受け入れ、掘り下げとともに、審美眼や非言語によるコミュニケーションへの参加が欠かせない。「科学の進展が全てではなく、科学自体がアートの資質を備えている社会」が待たれるのかも知れない。人に備わった理性と感性は「複眼で観る」ものである。要は、知性を土台にした高い感性による心地よい情報社会に求められる。春よ早く来い。
mitameya190211


社会との良好なコミュニケーション戦略構築サポート
広報プランナー認定講座<会員募集 !!!
日本HIS研究センター(NPO) 
関連情報は、075-741-8219または、http://www.j-his.jp/