September 14, 2016
図書館で借りていた金時鐘の詩集『失くした季節』を返却し、届いているという連絡を受けた金時鐘『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)を借りてきた。本書の表題の「朝鮮」は、南北をひとつにした総称としての「朝鮮」のことだと、著者は「あとがき」で書いているが、韓国とか朝鮮とかについての私の知識はあまりにもお粗末だ。歴史の授業では全く触れられなかったうえに、その後の人生でも、総じてアジアにほとんど目を向けてこなかった。先日のブログで触れたことだが、朝日新聞で金時鐘についての記事を読み、この人物についてもう少し深く知りたいと思った。これは何か分らないが、私のその時の直感のようなものだった。まず詩集『失くした季節』を読んで、心に響くものがあった。性別も国籍も生きてきた人生も全く異なるのに、その詩の言葉のすべてが理解できるのだ。もし人間という大きなくくりの中で分けるならば、私はこの人物と同じ範疇に入るのではないかと思っている。
図書館に返却せざるを得なかった詩集は、もう少し手元に置きたかった。そして今『朝鮮と日本に生きる』のページをめくり始めている。やはり読書会の本として皆で読みたいという気持が強いので、自分で買うことになると思うが、まずこの本を読もう。このほかにもまだ何冊か金時鐘の本が予約してあり、今年はこの方の著作で終わりそうだ。現在、この詩人が育った日本統治下の済州島は、韓流ブームもあって観光地として有名だ。それもいいだろう。私も30年以上前に、読書会の友人たちと、「キムチを作る旅行」ということで韓国を訪れたことがある。その時とは全く違う心情にいる自分の姿がおかしいが、30年という年月が人間に、いいとかわるいとかではなく何かを与えるのだと思うと、来し方も無駄ではなかったのかもしれない。
画像は、「リーガースベゴニア」。