私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

残暑の中で

2016-09-06 13:40:44 | 日記

September 6, 2016

朝から残暑が始まっている。午後から急な雨が降るかもしれないという予報もあり、早目に家を出た。まず図書館に向かう。予約してあった本・金時鐘『失くした季節』(藤原書店)が届いたというメールが図書館からあった。先日のブログで触れたが、金時鐘(キム・シジョン)は、1929年朝鮮で生まれ、済州島で育つ。朝鮮半島の南北分断に反対する武装蜂起「済州島4・3事件」に参加、日本に渡り、1950年ごろから日本語で詩作を始める。本書のほか、多くの詩集、評論集、エッセイが刊行されている。私も数冊図書館に予約してあるが、新聞に取り上げられると、私もそうだが、予約する人が何人かいてすぐには読めない。本書は詩集だからか割合早く届いたのだろう。装丁も簡素ですてきだ。ページをめくりたい気持ちを抑えて、ショッピングセンターでいくつか買い物をした。ショップの片隅にあったリーガースベゴニアの小さな鉢も買った。普通のベゴニアより育てるのが難しい花だ。今年はぜひ年を越させたい。

さて、借りてきた本について書こう。藤原書店の本は高価で、図書館でなければ手にできない。夏、秋、冬、春という題にそれぞれ8篇の詩が載っている。自然を題材にした抒情詩のような形をとっているが、内容は自然賛美の抒情詩ではない。キム・シジョンの生きてきた過程が刻まれているからこそ読む者の胸を打つのだろう。私も、たとえフィクションであっても作家の生きてきた足音が聞こえる作品が好きだ。キム・シジョンも、本書のあとがき」の中で、「・・・この詩集も春夏秋冬の四時を題材にしているので、当然「自然」が主題を為しているようなものではあるが、少なくとも自然に心情の機微を託すような、純情な私はとうにそこからおさらばしている。つもりの私である。」と書いている。紹介記事を新聞で読んだだけで初めて触れた詩であるが、若い頃に吉本隆明の初期の詩に惹かれたときのような感慨を持った。次に、本書の「秋」の中から一遍の詩を引用させていただく。

         一枚の葉
    一枚の葉を拾い上げ
       初めてのように覗きこむ。
    半ば染まったまま
    葉はやりとげてもない形で落ちていて
    それでもこれで一生なのだと
    かすかに風を匂わせている。
    思えば途中は過程のさ中であり
    終わりはいつも終わらないうちに終わってしまう
    みちなかの執着でもあるものだ。
    そうしてその留まりは
    本来に立ち帰る始まりともなるのだ。

    土にはとうてい帰れないあまたの葉が
    並木の下でにじってよじれて
    飛びだしたいばかりにじれている。
    今に風を巻いて
    街の空いっぱい
    かき消えた群雀を蘇らせるやも知れぬ。
    ぼくは今更の思いで木の肌をさすり
    自ら落ちていった他の葉を掴んで声をあげた。
    どれほどの便法が木を装ってきたことだろう。
    物言わぬ葉は色を成して散り敷き
    ただ運ばれて炎に供する
    あまりにも無機質な敗北に慣れてしまったのだ。
    落ちてはすべてが終わるのか?!
    途中の過程は奪われて
    物みな生存帰属を殺していっている。
    秋にすら遅れてしまった斑な葉に
    頬を寄せ
    せめて1枚
    風光る空中に
    放つ。                
                       (金時鐘『失くした季節』藤原書店)

画像は、図書館の庭にある柿の木。夏が終わったばかりだというのに、柿はもうこんなに色づいている。