February 2, 2016
文庫本化された村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫)を、友人から借りて読んだ。物語の大筋は、主人公・多崎つくるが高校時代に行動を共にしていた親友4人から、20歳の時何の予告もなしに関係を断たれ、死ぬことだけを考えて生きるという孤独のなかへ落ち込んで行くが、何とか立ち直り、36歳のとき知り合った2歳年上の女性の力を借りて、自分を断絶したかつての友人を訪ねて、あれはいったい何だったのかを問う過去への「巡礼」に出る、というもの。この物語のひとつの主題は、20代の初めに、何の前触れもなく突然その存在を否定され、その後の彼の人格の形成に大きな影響を与えたできごととそこからの自己の回復である。「たぶんそのために僕は人と深いところでかかわれないようになってしまった」と作品の中で「つくる」は語る。で、これだけでは、単なる青春小説のような安直な物語であるが、もちろん村上春樹の小説がこの範囲でないことはわかる。大きな主題を提起しているのだろう。ここで、まだ読み終わってないのだが、加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』の中で、本書について語っている部分を参考にさせてもらった。
まず、本書について書かれている部分を少し引用させてもらう。
この小説が、村上として三・一一のできごとに答える最初の作品として書かれていることは、主人公の遭う厄災とそれからの回答の劇が、ちょうど彼(多崎つくる)の二〇歳の歳と一六年後、三六歳の現在を行きかう「巡礼」の時間を構成しつつ、一九九五年の地下鉄サリン事件から二〇一一年の原発事故までの「一六年」間にぴたりと重なっていること、しかもこの主人公の試練の物語に、この時間の起点と終点をなす「大地震」、また原発事故は現れることがない(起こらない)ことに、しっかり刻印されている。
この小説は、日本社会に起こった東日本大震災と原発事故とそこからの回復という物語の代わりに、多崎つくるという主人公に起こる、理由のあかされない友人との共同体からの突然の排除と絶望、そしてそこからの回復の試みという試練を描くのである。(加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』岩波新書)
私は、加藤氏のこの見解にすべて賛同するわけではない、というかここまで並列して大きな主題と小さな主題を解説することには少し違和感を感じるが、単なる物語として読み切れないテーゼを含んでいることはわかる。それは、前回の読書会で読んだ、日常に潜む不安を描いた『国境の南、太陽の西』の時と同じである。しかし本書は物語の登場人物の悩みが共通感覚として読者に伝わらないのではないかと思う。これは村上春樹自身の悩みの軽さにも通じるのではないかとも思ったりする。今私は、村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』も、電車の中に持ち歩いて読んでいる。村上春樹の物語に描かれる孤独や不安と走ること、この同時進行が、もう私のような化石化しつつある世代には理解できないことかもしれない。あるいは、私の読みの浅さから来ているのだろう。
画像は、正月の花の残りの「千両」。長持ちしている。