February 22, 2016
新聞の「文化・文芸」欄」で、キルケゴールを取り上げていた。その解説で、キルケゴールは、「自己の不安と絶望を見つめつつ、神の前にひとりで立つ「単独者」の存在(神の前の実存)と罪を考察した。」とある。そして、この欄の筆者は、この哲学者についての案内のことばを、「人間疎外に抗し、主体の真理を唱えたキルケゴール。デジタル社会での主体のあり方を考える上で学ぶべきことは多い。」と結んでいる。(朝日新聞、2016年2月22日) 同じページに連載されている夏目漱石の『門』での、主人公が心に不安を抱いて、座禅で救いを得られるかと、鎌倉の禅寺を訪れるあたりを読んでいたためか、昨夜眠れぬままに、自分の来し方での「罪」について考えていた。もう救いを得るには遅いが、なにか得るものがあるかもしれないと、次回の読書会の本にキルケゴールの『死に至る病』を選ぼうかと思ったりした。
友人のブログを覗くと、私がブログで書いた、ある本についてのことばに触れてくださっていた。大変な読書家なので、私の本選びの先生と言っていいほどの存在だが、それとは別に、友人のブログを読む楽しみが最近強くなってきている。人はひとりでは生きられないことを実感しているこの頃だ。歳をとるにつれて外出したり人に会ったりするjことが少なくなってくる。まして、私のように一人暮らしの身には、誰かと言葉を交わすことなく数日が過ぎていくことがある。そんな時、友人のブログを読んで、生身の人の存在を実感する。ネット社会にますます移行していく今日、いろいろと問題もあろうが、どこかで友人と、また不特定多数の人とつながっているという状況を、何か心強いものと感じている。キルケゴールの「単独者」としての人間存在を探りつつ、人とのつながりを求める凡者の思い、つれづれの中での贅沢な悩みである。
画像は、ベランダでやっと咲いた「クリスマスローズ」。美しいとは言い難いが、私には貴重な開花である。