私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

病院へ

2014-12-08 16:38:01 | 日記
December 8, 2014

こんなにも病院というところへ行く日が待たれたことはない。白内障の手術後の眼についてである。1週間前に眼鏡が出来ると張り切って出かけたのに、両目に炎症があり、さらに右目の眼圧が異常に高かった。ステロイド系の点眼薬を1日4回さすように言われたが、右目に霧がかかったような状況は変わらない。しかし、今日の診断で、眼圧は正常になり、左目は完治、右目に関しては、さらに点眼を続けるようにということだった。私は、素人判断で、眼圧が高いのは何か重篤な病気のサインではないかと心配していた。正常に戻ったということを聞いて、思わず、「ああよかった。」と声をあげた。ほっとしたところで、電車の中や病院の待合室で少しずつ読んでいた須賀敦子『塩一トンの読書』(河出書房新社)について少し書こう。

だいぶ前にこの著者の『本に読まれて』(中公文庫)を読んだ。こちらは書評だけを集めたもので、取り上げられている本の中からいくつか読んだ記憶がある。残念ながらこの頃どんなに興味深く読んだ本でも、しばらくすると全く記憶から落ちてしまう。しかし、本屋でこの本を手にしたときは、薄れた記憶の中で、また何か新しい本が読めるのではないかという気持ちもあって、買った。本書は、本にまつわるエッセイといったものだろうか。須賀敦子さんは、夫との死別後、日本に帰国し、50歳で大学に専任の職を得た。ご自分の運命をどう考えられていたかは分からないが、人に教えるという立場に最も近い人だったように思える。何事にも襟を正して立ち向かうという姿勢が、どのエッセイにも感じられる。決して堅苦しくはないのだが、ルーズな生き方をしてきた私は、本にまつわる話でありながら、日常を反省させられた。題名にある「塩1トン」は、須賀さんのお姑さんが言われた「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」という言葉から取っている。本書のまえがきのような形で書かれている文から少し引用させてもらおう。

 ・・・「読んだつもり」になっていた本をじっさいに読んで、そのあたらしさにおどろくこともすばらしいが、ずっと以前に読んで、こうだと思っていた本を読み返してみて、前に読んだときとはすっかり印象が違って、それがなんともうれしいことがある。それは、年月のうちに、読み手自身が変るからで、子供のときには喧嘩したり、相手に無関心だったりしたのに、おとなになてから、なにかのきっかけで、深い親しみをもつようになる友人に似ている。一トンの塩を舐めるうちに、ある書物がかけがえのない友人になるのだ。そして、すぐれた本ほど、まるで読み手といっしょに成長したのではないかと思えるくらい、読み手の受容度が高く、あるいは広くなった分だけ、あたらしい顔でこたえてくれる。それは、人生の経験がよりゆたかにななったせいのこともあり、語学や、レトリックや文学史や小説作法といった、読むための技術をより多く身につけたせいのこともある。古典があたらしい襞を開いてくれないのは、読み手が人間的に成長していないか、いつまでも素手で本に挑もうとするからだろう。・・・(須賀敦子『塩1トンの読書』河出文庫)

画像は、「ポインセチア」。あまりいい写真ではないのですが。


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