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ぽかぽか春庭「生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界 in 庭園美術館」

2024-06-22 12:00:01 | エッセイ、コラム

20240622 
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩6月(3)生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界 in 庭園美術館

 竹久夢二、それほど好きでもなかった。伊香保にある竹久夢二美術館も、一度も見たことがない。2千円以上は高いと思うので入館がむずかしい。

 岡山の夢二のふるさとに建つ夢二郷土美術館が、長く行方不明とされてきた油彩画「アマリリス」の発見新収蔵されたのを機会に、夢二郷土美術館に先立って庭園美術館での公開となりました。東京での先行公開のほうが、メディアで取り上げられる宣伝効果が大きいからと思われます。
 庭園美術館での今回の展示作品187点のうちの186点が、夢二郷土美術館コレクションです。
 第3水曜日65歳以上無料の日に、無料を利用しないと損した気になる貧乏性によって観覧。撮影OKの版画や雑誌挿絵原画もかなりありました。
 
 庭園美術館の口上
 「大正ロマン」を象徴する画家であり、詩人でもあった竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)。
 1884(明治17)年に岡山県で生まれた夢二は、正規の美術教育を受けることなく独学で自身の画風を確立し、「夢二式」と称される叙情的な美人画によって人気を博しました。
 グラフィックデザイナーの草分けとしても活躍し、本や雑誌の装丁、衣服や雑貨などのデザインを手がけ、暮らしの中の美を追い求めました。
夢二の作品は、没後90年を経た今もなお多くの人々を魅了し続けています。
本展は、生誕140年を記念して、最新の研究に基づく新たな視点からその生涯をたどります。
 このたび発見された大正中期の名画《アマリリス》、滞米中に描かれた貴重な油彩画《西海岸の裸婦》、そして夢二を看取った友人に遺したスケッチ帖や素描など、初公開資料を含む約180点の作品を夢二郷土美術館コレクションを中心にご紹介します。
 世の中のさまざまな価値観が劇的に変化しつつあった20世紀前半、時代の立役者となった竹久夢二の魅力を存分にご堪能ください。

 1914(大正3)年、夢二は自らデザインした封筒や千代紙をはじめとする文具・小間物類を販売する「港屋絵草紙店」を開店しました。商品の広告チラシには「可愛い」という言葉が用いられ、当時の女性たちの心をつかみ、憧れの的となりました。夢二の可愛いデザインは約100年を経た今もなお、私たちを魅了し続けています。本展では時代を経ても色褪せない夢二の魅力をご堪能いただきます。
。  
港屋封筒 「桜草」「蔓草」「きのこ」大正前期 

 夢二郷土美術館所蔵 幻の名画《アマリリス》公開!
長らく所在不明であった油彩画《アマリリス》が、近年の調査により発見されました。夢二の油彩画は現存するだけでも約30点と少なく、本作はその来歴も含めて大変貴重な作例といえます。本展は、発見後、東京で公開・展示する初めての機会となります。また《アマリリス》に加えて、貴重な油彩画を多数展示し、これまであまり紹介されてこなかった油彩画家としての夢二の一面に迫ります。
 
 夢二の展覧会は、昭和の乙女たちにも大人気だったそうです。


 展示は、5章で構成されています。
1章 清新な写生と『夢二のアール・ヌーヴォー』 
 「アマリリス」は、1919年に展覧会に出された後、夢二が約3年間滞在した東京都文京区の菊富士ホテルに寄贈。44年に閉館した後、アマリリスは所在不明になっていました。菊富士ホテルは、大正昭和に芸術家や文士が宿にしていた本郷菊坂に建っていたホテル。の一昨年、同館が購入した。
文人集まる「菊富士ホテル」 当時の夢二を語る人々 
 菊富士ホテルは、大正から昭和にかけて名だたる文士や芸術家が暮らし夢二も投宿していました。世話になった謝礼としてアマリリスを贈ったとも、溜まった宿代が払えずに宿代としておいていったともいわれています。2022年に夢二郷土美術館が購入したあと5日のみの公開ののち、一般公開はこの庭園美術館が初公開となります。
 入館すると大広間に設置された壁に「アマリリス」が、最初に目に入ります。本郷菊坂の跡地の石碑には止宿者として坂口安吾や谷崎潤一郎とともに夢二の名もある。
 今回の目玉作品で、ポスターもこの絵がメイン。 

 夢二は長く画壇には評価されてきませんでした。今でいうテキスタイルデザインやグラフィックデザイン、浴衣や帯の柄、雑誌の挿絵や表紙、封筒や便箋の絵柄。売るために何でも手掛けた表現スタイル。従来の画壇の重鎮からは「所詮、売り絵の描き手であり、芸術ではない」と軽んじられてきたからです。現在のようなテキスタイルやグラフィックも含めて、アート作品として認められる世になって、「おんなこどもの好売り絵」という評価が変わってきたのです。
 みなとや版千代紙「桜草」「蔓草「きのこ」
  



・2章 大正浪漫の源泉──異郷、異国への夢」
 私が夢二を好きでなかったのは「世の中で好まれる、うつむいた儚げな女性像」「美しくたおやかな触れれば消えてしまいそうな少女像」が気に入らなかったからです。「自立してこそ女」と60年前の女子高で息巻いていた少女には、ロー・ルクセンブルクのような戦い抜いた女性こそが美しい、と思っていたから、夢二的少女は、当時の演歌に出てくる「捨てられてもじっと耐えてあなたを待つわ」的な女性と同じように、蹴とばしてやりたいくらいに思っていました。

 女性像の変遷。 今、耐え忍んで着てはもらえぬセーター編むのも、落ち葉の舞い散る終着駅で過去から逃げるのも、あなた好みの女になりたいと歌うのも、みんな昭和の男たちが抱く幻しの女性像にすぎず、そんな女はいないからこそ、男たちは昭和のスナックで幻想の女の歌に聞きほれたのだとわかってきました。「あなただけが頼りなの」なんてうつむき加減で上目遣いができた女性たちのしたたかさを、見上げる思い。自立自立といいながら、「高齢貧困者」になっている自分に「アホやったな、あんた」と同情する。

 「アマリリス」1919(大正8)は、当時の恋人であったモデルのお葉を描いた油彩。ハイカラな花であったアマリリスをお葉の髪飾りのように配し、テーブルにはコーヒーカップ。モダンな雰囲気をちりばめ、異郷へのあこがれが醸し出されています。本を膝に載せているお葉には、知的な雰囲気も出してほしかったのでしょうね。顔の大きさに比べて、手が大きすぎるように感じます。独学で洋画を習得した夢二とはいえ、人体デッサンなどは学んだとおもうのですが、手前に置かれた手を強調したのはなぜか。「従来、美人画といえば手足は小さめに描く」というセオリーであったのに、手を実際より大きめに描き、しかも左手人差し指と小指は、70代の私の指が変形性関節症のために少々曲がっているように、曲がっています。お葉の手を、大きな手曲がった指として描いたのは、夢二のどんな意識があったのでしょうか。他の挿絵や表紙絵など、どの女性像も別段手を大きくは描いていないので、気になりました。

「一座の花形」木版みなとや版 1916(大正5)ころ
 


3章 日本のベル・エポック──『夢二の時代』の芸術文化
 西洋文化取りいれに沸き立った明治後半から大正モダニズム時代の大衆文化。外国曲や日本の名歌などの楽譜を千点も出版したセノオ楽譜の表紙絵にも、モダンなイメージが表され、夢二は270点の表紙絵を描きました。「セノオ楽譜」は、妹尾幸陽が日本や外国の数々の名歌と名曲を紹介するために出版していた楽譜集。夢二の作詞した「宵待ち草」の表紙も描いています。

 「ヴェニスの船唄」1925(大正14)
  

 屏風「憩い(女)」昭和初期


 大正期終わりの夢二の仕事として、関東大震災直後に東京の町をスケッチがあります。NHK「英雄たちの選択」で夢二の大震災スケッチを取り上げたのに、録画しそこねたのですが、竹久夢二伊香保記念館で10月15日まで震災スケッチの展示があるというので、機会があれば見にいきましょう。
    

4章 アール・デコの魅惑と新しい日本画──1924-1931年

 「湖畔舞妓図」昭和初期     「立田姫」1931(昭和6)
  

5章 夢二の新世界──アメリカとヨーロッパでの活動──1931-1934年

 初公開のスケッチブックで晩年の夢二に迫る
夢二は、晩年の1931(昭和6)年から約2年間、欧米各地を巡る旅に出かけます。1930年代前半は、モダンな芸術と都市文化が急速に発展する一方で、ナチズムが勃興する不穏な時代でもありました。夢二は欧米滞在中の出来事を多数のスケッチとして残し、その一部は友人の手元に残されました。本展では初公開となるスケッチ帖を紹介します。

 晩年になって、長年の夢だった外遊を果たします。しかし、帰朝後わずかな年月でなくなることとなり、欧米滞在の成果が十分に残せたとはいえない心残りがあったことでしょう。

 今まであまり好きではないと思ってきた竹久夢二。夢二郷土美術館の180点余りを見て、お、これは竹久夢二伊香保記念館へも行こうかという気になりました。めでたし。

エントランスで

新館で


<つづく>
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