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ぽかぽか春庭「森鴎外つづき」

2023-03-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230309
ぽかぽか春庭アーカイブ(も)森鴎外つづき

 かまとばあちゃんが亡くなった。(2003/10/31)男性長寿世界一だった中願寺雄吉さんに続いて、女性長寿世界一のかまとばあちゃんまで同じ年に亡くなるなんて、残念でならないが、こればかりは思し召しのままに。

 二日間続けて眠り二日続けて起きている、という日常生活を続けたかまとばあちゃんの姿をテレビで見るのが好きだった。きんさんぎんさんがアイドルになって以後、私たちにとって、高齢者アイドルは「私も行く末、あんなふうにおおらかに年をとりたい」という希望を持ち続けるために、なくてはならない、世の清涼剤。

 一方、電車の中でたまたま席をゆずったら、「あなたは親切でいい人だけど、うちの嫁ときたら、あなたと同じ年格好なのに、、、」と、ひたすら嫁の悪口をしゃべり続けていたおばあさん。他人に親切な私も、姑から見れば鬼嫁である。ディズニーパレード見物の場所取りに夢中になり、 孫のために見やすい席を確保しようとして、私をつきとばしたおばあさんもいた。いろんな姿のおばあさん。

 映画の中のおばあさん像もさまざま。
 おばあさんが主役を張り、すてきだった映画。『ハロルドとモード』(日本公開タイトル:少年は虹を渡る)のモード。アガサ・クリスティのおばあさん探偵ミス・マープル。『黄昏』のキャサリン・ヘプバーン。『八月の鯨』のリリアン・ギッシュ、ベティ・ディビス。おばあさんが主役でなく、脇役として活躍している映画なら、もっとたくさん。

 そんな映画のおばあさん像の中で、これはもう、わたし的には世界一、という主役おばあさんを見た。韓国映画『おばあちゃんの家』である。主演しているのは、映画出演どころか、映画を見ることさえ出来ない山奥の村で静かに暮らしてきた素人のおばあちゃん。このおばあちゃんが、ほんとにほんとにすてきだった。

 孫役を演じた子役も、数本のCMに出演した経験を持つのみ。おばあちゃんをはじめ、村人役は、みな素人。それを韓国の女性監督イ・ジョンヒャンは、すばらしい映画作品に仕上げた。おばあちゃん役キム・ウルブンが腰をかがめ杖をついて山道を歩いている姿を眺めているだけで、もうほかには何もいらないくらい、感動!である。

 ストーリーは単純。わがまま放題都会育ちのサンウという少年が、夏休みの間、おばあちゃんの家に預けられる。母一人子一人家庭の母が職探しをする間のやむえない措置である。サンウの母親にとって、17歳で家出したまま戻っていなかったオモニの家。
 その一夏の、孫とおばあちゃん、周囲の村人とのふれあい。でも、まあ、ストーリーを知るよりも、とにかくおばあちゃんの姿を知ってほしい。

 おばあちゃんは、聾唖者だ。しゃべれず、わずかなジェスチャーで伝えるのみ。でも、おばあちゃんの手が、笑顔が、足取りが、どんな言葉よりも雄弁に孫への無限の愛を伝える。今年はたくさん映画を見たが、その中で私にとってはベストワンと言ってもいいくらい。
 キム・ウルブンが演じるハルモニを見て、幼かったころの私のおばあちゃんを思い出す。

 母方の祖父は芝居道楽だった。有り金すべて「農村歌舞伎」復興のためにつぎ込んで、戦中戦後途絶えていた、地域の農村歌舞伎を再興した。
 嫁に出した娘のところの外孫に、ただの一度もこずかいをくれなかった竹じいさん。姉も私もお年玉さえもらったことがなかった。
 妹は、田舎の農村歌舞伎を継承している人に会ったとき、「この小道具もこの衣装も、みんな竹さんが自前で買いそろえてくれたものだ」と聞かされた。小道具の名宝友切丸の一本は、きっと私のお年玉になるはずだったお金で買ったんだわ。桜姫のかんざしも、弁天小僧の唐傘も。

 家計費はぎりぎりしか渡されず、やりくりに苦労した梅ばあちゃん。義太夫を語り、踊りを踊ってすごす竹じいさんに泣かされ続きだった。
 梅ばあちゃんは、ぐちぐちと夫の道楽をこぼしながら、私たちに紙人形を作ってくれたり、竹が全部芝居に注ぎ込んでしまって残り少ない現金の中から工面して、私と姉にこずかいを渡してくれたりした。私の母は、そんな愚痴を聞いてあげ、梅ばあちゃんが私たちにくれた以上のおこずかいを渡して田舎に帰した。

 父方の祖母は写真を見ただけ。父が2歳の時に病没した。姑にいびり抜かれて、病気がちになったとも聞く。姑というのは、10/17「ルーツ」項に登場した父の祖母、私の曾祖母である。曾祖母が田舎の素封家の出身でありながら、破産して没落した話を書いた。

 曾祖母といっても、自分は17歳で長男を生み、長男は20歳のときに「恋愛結婚」で私の父をもうけたから、37歳で孫を持ったおばあちゃんである。私が息子を生んだのが39歳のとき。父は、ずっと祖母を母親だと信じて育ち、母(実は祖母)への恩愛の念は人一倍強かった。おいえを再興して祖母の無念をはらすのが、父にとって生涯の課題となった。

 祖父の結婚は「自由恋愛結婚」、当時で言えば「出来合いのくっつきあい」であったから、もう、曾祖母の気に入らないこと、おびただしい。自分の代で身上をつぶしたという負い目のある曾祖母の生き甲斐は、自分が生きているうちに「うだつ」の上がった家を建て直すことだった。そんな「くっつきあい」の自由をゆるしていては、お家再興はのぞめない。

 曾祖母は、長男の嫁が気に食わず、いびり通した。わずか2歳の息子を残して病没した私の祖母、旧姓「長沼はん」。はんの弟が本庄在で薬問屋をしていたという以外の情報を、私も知らない。おっとりした笑顔の美しい写真が一枚残されているだけで、実母についての質問は曾祖母が許さなかったから、父は母親の墓がどこにあるのかも知らないままだった。

 曾祖母は「つぶしてしまった家だから」と、生涯「表紋」を着物につけず「裏紋」しか用いなかった。父は曾祖母が亡くなった後、「もう、いいだろ」と、表紋の「抱沢潟」に戻した。「うだつ」を上げたわけではなかったが、曾祖母亡き後はもう「破産した家柄」と負い目を持つこともない。もともと裸一貫の家であることを誇ればよい。

 祖父は、長沼はんが死んだのち、嫁を四度むかえた。ふたりめの妻も、三人目四人目も、姑のいびりに耐えられず、すぐに逃げ出した。五人目がようやく居着いた。五人目は、姑以上に強かった。姑との別居を結婚の条件とし、先妻が生んだ継子を育てることはしない、と言い切った。それで父は祖母が育てることになったのだ。後妻は父の弟妹5人をもうけたが、15年間父と会わせなかった。父は自分の下に兄弟が5人もいることを知らずに成人した。

 曾祖母は、孫息子の嫁も気に入らなかった。嫁いですぐに姉と私を生んだ母が、またもや「嫁いびり」で参りそうになっているのを見て、祖父は父に「ばあさんとの別居」を申しつけた。自分の嫁、はんが病気で亡くなったことを、祖父はずっと悔やんでいたのだろう。

 私が4歳のとき、父は恩愛断ち切って曾祖母と別居した。私たちは「核家族」となって新築した家に引っ越した。あまりに急いで引っ越したため、最初の晩、電灯が通じていなかった。真っ暗な家の中で、ろうそくをたよりにお手洗いへ行ったことを鮮明に覚えている。

 曾祖母は、田舎の旧家で育った矜持の高さと、自分の代で没落したという負い目がないまぜになった屈折した感情を持ち続けたから、子供心に「こわいおばあさん」であり、姉も妹もなつかなかった。私だけは12歳のときに曾祖母が亡くなるまで「この子が、男であったなら、必ずふたたびうだつの上がった家にしたろうに」と言われ、けっこうかわいがられた。曾祖母の気に入らなかった孫嫁である私の母は、娘三人だけを生んで、ついに「男の子」は生まなかったから、私が「男まさり」でお家再興をめざすほかなかった。

 「お家再興」なったか。ハッハッ!半年間、こわれた圧力釜を買い換える金もなかったことは、昨日書いた。
 うだつがあがらずとも、血糖値は毎年上がっている。おお、こわっ!気を付けよう、無芸大食ふとりすぎ。

 <つづく>
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