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ニーハオ春庭中国日記「大連・友有り遠方よりたずねる」

2011-10-07 22:50:00 | 日記
2007/06/18 月
ニーハオ春庭中国通信>朋あり遠方より大連へ

 週末を利用して、大連へ行ってきました。老朋友(ラオポンヨー=長年友情が続いている古い友人)を訪ねての旅。
 13年前に知り合った中国で一番の友人、ハンさん。老朋友といっても、私よりずっと若い、今35歳です。(中国の数え年では37歳ですが)

 13年前に私に中国語を教えてくれた家庭教師であり、9歳だった娘と4歳だった息子が夏休みに中国へきたとき、私が仕事中に世話をしてくれた、子どもたちにとっても大事な人でした。

 このとき、彼女は大学日本語学科に在籍する3年生でした。
 卒業後は日本語教師として働き始めましたが、日本語の上達を願って、日系企業に転職、日本での1年半の勤務を経て、帰国。日本語教師に戻りました。

 子育てをしつつ、かつ日本語を教えながら大学院修士課程に進み、立派に修士号を得た努力家です。今は大学の中堅教師。
 現在、助教授昇進を控えて、授業にも研究にも忙しい時期です。

 論文提出や英語試験の忙しい時期にあたるのに、私を気遣って大連へ招いてくれました。
 (中国の大学では、一般的に、講師昇進時には「中国標準語」の試験、助教授昇進時には英語の試験があるそうです。日本では論文審査だけというところが多いので、昇任システムがちがいます)。

 実は5月のゴールデンウィークにも「いっしょに青島へ旅行しよう」との招待を受けたのですが、この時は彼女が旅行にでかける日と私が仕事を終える日が合わず、残念ながらあきらめた経緯がありました。

 6月中旬、私もようやく仕事がやりくりでき状態になりました。火曜日と金曜日の仕事を交換して、金曜日を休んでもいいことにしてもらい、木曜の夜、内陸から海辺の街へ向かいました。
 1時間遅れで出発した飛行機。夜間飛行の最後、大連の町の灯りがきれいに見えました。

 空港にはハンさんと、ハンサムなご主人が出迎えてくれました。
 木曜日と金曜日の夜は、大学内の「国際会議中心招待所」に宿泊。

 彼女は、登山やハイキングが趣味のご主人、歌と踊りが大好きな娘のシンシアといっしょに大学職員住宅で暮らしています。

 毎週のように土日には登山に出かけるご主人、この週末も友人とキャンプに出かけると言います。
 たぶん、私が気遣いなく土曜日の夜、彼女の家に宿泊できるように、出かけるスケジュールを組んでくれたのではないかと思います。

<大連つづく>



2007/06/19 火
ニーハオ春庭中国通信>大連の大学キャンパス見学

 大連は、北京や上海の次くらいに、日本人にもなじみの深い町。遼東半島の先端にある港町です。

 1899年にロシアが中国から租借地を得て、海辺の辺鄙な地だった青泥窪に、極東経営の要として都市を建設、「遠い東の地」という意味のロシア語「ダーリニー・ヴォストーク」と名付けました。
 日露戦争後、日本が租借権を得て、ダーリニーに大連の漢字をあて、中華人民共和国建国後も大連の名のまま発展してきました。
 人口650万人、経済開発区には、1000社もの日系企業が進出し、投資額も大きいため、若者の日本語学習熱も他の都市を上回って盛んなようです。

 彼女の勤務するソフトウェア学部(軟件学院)は、数年前に本部から経済開発区ソフトウエアパーク(軟件園)に移転しました。
 大連市西部にある本部キャンパスから車で1時間(ラッシュ時の渋滞時間を含む)離れた場所にある、経済開発区の中の「大連ソフトウェアパーク(大連軟件園)」は、中国のシリコンバレーにすべく開発された特区です。

 外国語学部日本語学科だけではなく、理系の学部でも、日本語は第一外国語、第二外国語として学ばれています。
 ハンさんが教えている学部では、専門のソフトウエア研究のほか、卒業時には日本語能力試験2級合格と英語検定試験合格を義務づけており、日系企業その他の就職に有利なようにはかられています。
 
 ハンさんは、現在1年生の「初級後半」の授業と視聴覚授業を受け持っています。
 90分のうち、普段は教科書60分、テレビドラマ視聴30分のメニューですが、15日の金曜日、視聴覚の時間をさいて、スペシャルゲスト「3月に日本からやってきた日本人教師」による日本語特別授業を行うことになりました。

 最初はそんな予定はなかったのです。
 最初は、ただ「大学内を見学したい」と、ハンさんの仕事場までついていきました。
 ハンさんの教科書の授業を見せてもらう計画だったのですが、せっかく日本人がやってきたのだから、学生たちのために何かしゃべってもいいんじゃないか、ということになりました。

 30分の持ち時間のうち、15分はコンピュータのパワーポイントで写真を見せながら日本の生活文化について解説。
 食文化、衣文化など、身近な生活について、中国と同じところ、同じように見えて違うところなど話しました。
 また、質疑応答では活発に質問が出て、日本語を学ぶ学生たちの日本への強い関心がうかがえました。

 学生たちは、日本の生活のうち表面に見える部分については、よく知っています。この日の授業でも、教科書に入る前に視聴していたのは、日本のテレビドラマ『医龍』です。

昨年2006年に日本で放映された病院を舞台にしたドラマで、むずかしい医学用語なども出てくるのですが、学生たちはヘッドフォンで日本語をきき、中国語字幕で内容を確かめながら、視聴していました。

 生死を直接扱うドラマのストーリーを楽しむと同時に、テレビドラマのなかに表われている現代日本の社会や家庭のすがたが、よい学習材料となっています。

<大連つづく>
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2007年06月20日


ニーハオ春庭「大連で授業」
2007/06/20 水
ニーハオ春庭中国通信>大連で授業

 私の写真での日本紹介は、テレビドラマから学べるような、生き生きした現代社会を反映したものとはすこし違っていて、生活文化の歴史についてからはじめました。

 衣服の文化について。
 日本の衣服はどのような歴史を経て現在のようなスタイルになってきたのか、源氏物語絵巻の十二単や、浮世絵の女性の着物などを紹介し、着物の着付けはこのようにやる、というスライドショウを見せました。

 着物の着付けの複雑さに、学生たちびっくり。
 日頃、着物を着ている女性はテレビドラマのなかで見ることができても、このように、長襦袢、着物、帯の着付けの仕方を紹介することはありません。
 学生たち、和服の帯は、背中に座布団をくくりつけているのではないことが、初めて分かったのではないかと思います。

 食文化の紹介。
 弥生時代の食事メニューを再現した写真。奈良時代のメニューなど、日本人の食事の紹介。

 和食の献立。代表的な料理の写真。
 食材や調味料。醤油やマヨネーズは、同じように見えても、中国で売っているものは、微妙に味が違うことなども話しました。キューピー合弁会社のマヨネーズ、日本のより甘みが強い。

 昨年9月に入学した1年生の学生たちは、日本企業で働くことや日本留学に興味を持っているので、「日本の生活は物価が高いだろうけれど、留学生たちはどのように暮らしているのか」とか「日本企業でソフトウェアエンジニアとして働くとしたら、初任給はどれくらいか」とか、質問がでました。

 初任給は会社によって異なるけれど、大学卒初任給は20~30万円くらい、というと、「すご~い」と、その「中国に比べると高給」に驚いていました。

 「でも、中国で1元で売っているペットボトルの水は、日本では10元しますよ。食べ物は中国の10倍から20倍するし、東京近辺で風呂付き部屋を借りるなら、30~50平米の狭い部屋でも一ヶ月に10万円くらの家賃を払わなければならないから、中国で3000元(4万5千円)の給料をもらう方が、ずっと豊かな生活を楽しめる」というような解説をしました。

 給料の高さだけで日本を選ぶなら失望することもあるでしょう。
 でも、若いうちに外国で勉強したり働いたりすることは、とてもいい経験になるから、ぜひみなさん、日本へ来てください、とすすめて話をしめくくりました。

 次の1年生クラスの授業では、前半は「一番日本語が上手な学生」が「日本人と会話できる特権」を得て、キャンパスを案内してくれました。その間、他の学生たちは、教科書の復習授業。

 一学部だけのキャンパスなのに、広い、広い。歩き疲れました。
 案内してくれた1年生は、「水曜日に体育の授業があるので体育館まで歩いていくけれど、寮の部屋から同じキャンパス敷地内の体育館まで15分くらいかかる」と、言っていました。  

 後半は1コマ目と同じように写真スライドでの日本紹介と質疑応答。
 最後に学生たちと記念写真をとって、お別れしました。

 日本の大学では語学授業は「単位をとるためにしかたなく」学ぶ学生も多いし、設備も整っていません。せいぜい、ビデオ、CDや録音テープくらい。
 でも、さすがに最先端のソフトウェアパークにある大学だけに、ハンさんの語学教室の設備のすばらしさにびっくりしました。

 ハン先生は、DVDやパワーポイントを駆使して授業を行い、私たちが日本の大学で黒板にチョークで説明を書くところを、パソコンのキーボードでささっと打ち出した文字をスクリーンにうつして説明していました。

 私は中国にきて、今の勤務校で初めてパワーポイントをつかった授業をしてみたのです。日本ではまだまだ各教室にパソコン、スクリーン、DVDプロジェクターなどを完備したところは少ないです。
 理工大学ソフトウェア学部の設備は、勤務校を上回るものでした。

 ハン先生と学生食堂で米繊(ミンシェン)を食べて、午前中のスケジュール終了。

<大連つづく>
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2007年06月21日


ニーハオ春庭「大連の山と海」
2007/06/21 木
ニーハオ春庭中国通信>大連の山と海

 金曜日午前中に訪れた、経済開発区の軟件学院(ソフトウェア学部)。
 すぐ後ろには大連で一番高い山、大黒山がそびえています。標高663m。
 山をバックに写真を撮ったあと、バスで、いったん宿舎の国際会議中心招待所へ戻りました。
 午後は、海辺へ。

 私は、「どこへ行くのか知らないバス」に乗って、終点まで行って折り返してくる「ミニ・ミステリーツアー」や、「ただ電車に乗ってまわりの景色をみている」ことが好き。今、住んでいる町でも、週末にバスに乗って町中をただ走っているだけで楽しいです。
  私がハンさんに「大連でやってみたいこと」と、希望したことのひとつは、「トラム(路面電車=市電)」やバスに乗って町の中を走り回ること。

 大連には、昔ながらの路面電車が残っています。
 3系統のうち、町の西部を走る202系統は2両連結の新型トラム。流線型の新幹線のような形。
 大連駅から左右に伸びている201、203両系統は、海老茶色や緑色のレトロな車両が多いです。

 6月14日、金曜日午後。大連西部地域に位置する大学から、まず202系新型トラムで市の中心地へ行きました。
 それからバスとトラムを乗り換えながら、旧満鉄時代の駅舎がそのまま利用されている沙河口駅を見て、次は201系統トラムで大連駅へ。203系統に乗り換えて、魯迅路を通って終点の東海公園へ。市の、西から東へ、トラム全部に乗ったことになります。

 東海公園は、大連市の東端にある海辺の公園です。海も眺められるし、台子山、東山という山でハイキングもできる風光明媚な市民の憩いの場です。
 早朝と夕方7時からは無料ですが、私とハンさんが入場したのは6時20分だったので、入場料ひとり20元きっちり取られました。
 海之韵広場やゴマフアザラシの飼育池などの名所を散歩しながら海辺を回りました。

 台子山は、標高189mにすぎないのですが、海辺に立つ189mの石の山は、なかなかの偉容です。近づいていくと、地学・地質の先生たちなら、きっといろいろな発見があると思うような地層や柱状節理の岩があるのですが、私にはどの地層を見ても、区別がつきません。

 「大連山の会」のメンバーであるハンさんは、何度も歩いているコースなのだそうです。「でも、階段ばかりの山道なんでしょう?」と、泰山登山で階段登りに疲れてしまった私が聞くと、階段の道も坂道もあるとのこと。

大連東端の東海公園から、大連港の方向に沈む夕日を眺めました。
 夕暮れの海には、釣り船が浮かんでいます。海岸の堤防から釣り糸をたれている人もいます。

 そうだ、魚!9年ぶりに会う朋友とながめる夕日もロマンチックですが、花より団子、夕日の海より海鮮料理! 
 というわけで、夕ご飯は大連名物の海鮮料理へ。

<つづく>
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2007年06月22日


ニーハオ春庭「大連海鮮三昧」
2007/06/22 金
ニーハオ春庭中国通信>大連海鮮三昧

 私が暮らしている内陸地の町でも、冷凍冷蔵輸送の発達した現在では、魚や貝も豊富に手に入れられるようになっていますが、なんと言っても海辺の町大連に来たからには、海鮮料理が楽しみのひとつです。

 大連に住む朋友ハンさんのご招待で、「東海明珠美食城」という海鮮レストランへ行きました。大連でも評判のいい店だそうです。
 注文コーナーには、生け簀や水槽に、各種の魚、貝、蛸、蝦などがウニョウニョと動いています。客は料理してほしい食材を選んで、料理方法などを注文します。

 ハンさんは、海草と蝦の和え物、ホタテの煮物、蝦と野菜の鍋、赤貝の刺身、などを注文してくれました。
 ビールはこの店独自に作っているハウスビール。ちょっと変わった風味でおいしかった。

 赤貝の刺身、わさび醤油でいただきました。おいしいおいしいとぺろりと食べてしましましたが、あとで聞いてみると、やたらな店で刺身を注文してはいけないのだって。
 新鮮な材料を清潔に料理できる信用できる店でないと、生の海鮮でひどい下痢になった日本人の話は数知れず、、、、とか。

 実をいうと、私の上司もゴールデンウィークに大連に来て、最初の日に腹痛。6日間の大連滞在のうち、中4日間は病院で点滴を受けていたといいます。
海鮮料理にあたったのではなく、ビビンバの上にのっていた半熟卵が原因らしいこと。ついに海鮮は食べずじまいだったと、悔しがっている上司に、海鮮のうまさをたっぷりと土産話にしてやろっと。意地悪な私。

 高い店だから清潔で安全、というわけでもなく、客の目に見える店の中がいくらこぎれいでも、厨房は別。

 繁盛していて客の回転がよく、常に新鮮な食材をおいていること。料理人が生の食材を扱い慣れていて、包丁やまな板まな箸にまで気をつけていること。衛生観念が一般の中国の厨房より高く、下働きの調理人や服務員にまで衛生教育が行き届いていること、、、、、

 鍋や煮物は食べきれないので、残った分はテイクアウト(ダーパオ=打包)。
 気軽に「ダーパオ」と言えるのは、最近の中国のいいところ。昔は「残しておくのが、礼儀」でした。

 全部食べたら「私はまだ満腹していない、あなたのもてなしは不足している」という意味になるから、皿の上に半分は残しておくのがもてなしへの感謝の表し方でした。もてなすほうは、太っ腹を表すために、皿の上をそのままにしてレストランを去る。

 私にはもったいなく思えて、昔はいつも「残った分を持って帰りたい」と思ったもんですが、今は、親しい人同士の会食なら、ダーパオOKです。
 おなかいっぱい食べて、二人で150元ほど。日本円にするとひとり千円ちょっとくらいです。

<大連つづく>
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2007年06月23日


大連家庭料理
2007/06/23 土
ニーハオ春庭中国通信>大連家庭料理

 土曜日の夕食は、まず、海鮮市場へ買い出しに行きました。玉華市場という、生きのよさで知られる市場なのだそうです。
 店先の木箱には、さまざまな魚、貝、海産物がうごめいています。魚はピョンピョン跳ねているし、蟹や海老、貝などもモゾモゾと動いています。

 ばふんウニ(馬糞雲丹)、殻に入っているもの、1斤(500g)20元。アワビ1斤25元。貝(はまぐりの一種だそうだけれど、日本で見る蛤よりずっと大きかった)のむき身1斤20元。
 中国の食材の中では、「ぜいたく」なもののほうですが、生きて動いているアワビが1個100円くらいで食べられるなんて、文字通り有り難いこと。

 夕食はハンさん手作りの水餃子。
 中国では焼き餃子はめったに食べません。ほとんどが水餃子。たくさん作った水餃子が残ったときに焼き餃子にする程度。餃子本来のうまさを味わうには水餃子が一番といいます。

 中国の女性が「餃子を作る」といえば、皆、小麦粉を練るところから始めます。
 小麦粉に塩や水を入れてこね、棒状にします。小さめの団子にちぎって、粉をひいた台の上でころころと転がして球にし、その球を綿棒でくるくるとのして皮を作ります。くるくるの具合が、皆手早く、あっという間に薄い円形になります。

 具は、家庭によって「おふくろの味」がちがいます。どの中国人にとっても「うちのおふくろの餃子が最高」なんだって。
 50年も昔のこと、私の母親が最初に覚えた中華料理が「八宝菜」、次だか次の次だったかが「餃子」だったので、私にとっても、餃子は思い出の「おふくろの味」のひとつです。

 ハンさんは、ナマコと貝と蝦を細かく切ってニラと混ぜ合わせ、海鮮餃子の具を作りました。包むところは私もほんのちょびっと手伝いました。
 こどものころ、母に半分邪魔にされながらも一生懸命皮に具入れて包んだことを思い出しながら。

 ハンさんは、「センセー、お上手ですね」とほめてくれましたが、10個くらい包むと、「先生、居間でゆっくりなさっていてください」と、丁重な「休憩のすすめ」をいただきました。アハッ、半分邪魔というより、全面的におジャマになってしまうお手伝いだったんですね。

 ばふんウニの殻を、はさみでジョキジョキ切ってお皿に並べると、朱色の実(?)が鮮やかです。
 ウニョウニョ動いていたアワビ、茹でただけの超カンタン料理ですが、お醤油をたらしてかぶりついたら最高!
 山国田舎育ちの身には、夢のような海鮮三昧でした。

<大連つづく>
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2007年06月24日


ニーハオ春庭「大連さくらんぼ」
2007/06/24 日
ニーハオ春庭中国通信>大連さくらんぼ

 大連周辺は、遼東半島の中で「果物名産地」のひとつです。
 りんご、梨、桃など、いろんな果物がおいしい。ハンさんの実家も、りんご果樹園をもっている農家でした。

 6月15日土曜日、ハンさんが「大連サクランボ狩り」に連れて行ってくれました。
 ハンさんの同僚たち、ソフトウェア学部(軟件学院)の、英語の先生日本語の先生が家族同伴で郊外のさくらんぼ農園へ行くツアーに、私も「ハンさんの家族」として混ぜてもらったのです。

 行き先は、旅順方面へ50kmくらいのところ。「大学職員バス」貸し切りで1時間ほどで、龍頭鎮という地域にあるさくらんぼ農園につきました。
 
 バスを降りてさくらんぼや桃の木の間を歩き、「どの木からとっても、直接口に入れるのは食べ放題、おみやげに持って帰るのは1斤10元から15元(500g、150~200円くらい)」という注意を受けて、サクランボ狩り開始。

 見慣れたソメイヨシノとは違う種類の木。幹は太いですが余り背が高くありません。どの枝にもびっしりと実がついています。
 緑の葉の間の赤い実が、日の光を受けて、宝石のように輝いています。
 私はこの真っ赤なルビーのようなさくらんぼを取っていましたが、「こちらの黄色い種類のほうがおいしいよ」という人がありました。

 黄色にほんのり紅がさしている種類、こちらは実が堅いけれど、美味しい。赤いほうは実がやわらかく、口に入れた感じはこちらのほうが甘い気がするのだけれど、おみやげなら、実が堅い方がモチがいいのだと、あとでききました。

 私は赤い方ばかり摘んでいて、「混ぜると計量できないから、赤と黄色は別々に袋にいれたほうがいい」というので、摘むのはもっぱら赤いほうにして、黄色い方は、おなかの袋に入れました。

 黄色いさくらんぼを食べるとつい、♪若い娘がウッフン、お色けありそでウッフン♪なんて鼻歌歌いたくなってしまうところが、若くない証拠ですね。

<大連・つづく>


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2007年06月25日


ニーハオ春庭「あんな夢こんな夢いっぱい」
2007/06/25 月
ニーハオ春庭中国通信>あんな夢こんな夢いっぱい

 職員親睦のさくらんぼ狩りに「同行の家族」は、ハンさんと小学校2年生のシンシアちゃん。ほかの先生たちも、お子さんを連れています。

 シンシアは、中国名は「シンシン」ですが、幼稚園のときから習っている英語教室のクラスネームがシンシアなので、そちらが気に入って「シンシア」を呼び名にしています。

 とてもかわいらしいお嬢さんで、歌と踊りがじょうずです。毎週土曜日にダンスのレッスン、日曜日には英語とピアノのレッスンがあり、多忙な小学生。

 日頃は、お母さんは朝早くの通勤、帰宅も遅いので、おばあちゃんと過ごすことが多いので、週末はお母さんにいっぱい甘えたいシンシアちゃん、母娘、仲良くさくらんぼを摘んでいます。

 みな、おなかいっぱいサクランボを食べたあとは、木陰で休憩。
 ハンさんが紹介してくれた同僚のうち、ハンさんの上司にあたるリュウ先生は、私の勤務校に大学時代のクラスメートがいるのだそうです。
 日本の日本語教育業界もそうですが、中国も、この業界けっこう狭い。どこに行っても知りあい同士がいる。

 日本に留学して博士号を得たリュウ先生、出産子育てをしながら仕事を続けてきた人で、ハンさんにとって「大学では先輩であり、大学院では指導教官であり、仕事では上司」そして仕事を持つ女性としてライフスタイルを学ばせてもらった、という大事な人です。
 リュウ先生の息子さんはシンシアの通っている小学校の1年生。

 シンシアちゃんや、同僚の子どもたちが、かわるがわるお得意の歌や踊りを披露してくれました。
 最初は恥ずかしがっていたリュウ先生の坊ちゃんも、大きな声でうたいました。

 シンシアちゃんは、踊りをならっていて発表会などにも出ているので、木陰のにわかステージでも、ものおじもせず、にこにこ笑顔で歌と踊りを見せてくれます
 シンシアのお得意の歌のひとつは、日本語の「ドラエモンの主題歌」。ドラエモンは、こちらのテレビで放映されていて、子どもたちの人気者です。
 テレビから流れてくる主題歌は日本語ですが、中国なまりの発音の中国女性の歌声です。

 ♪「こんなこといいな、できたらいいな、あんな夢こんな夢いっぱいあるけど~♪」シンシアの日本語の歌、とてもじょうずです。

 宝石のようなさくらんぼの実が輝く木の下で、かわいい歌声を聞くことができて、ほんとに「あんな夢こんな夢」を、「みんなみんなみんな、かなえてくれる不思議なぽっけでかなえてくれる~」いう気分でした。

 おみやげは、不思議なポッケいっぱいのさくらんぼ。
 ドラエモンのおなかについている四次元ポケットからは、便利な道具がいろいろ出てきますが、私のおなかの不思議なポケットは、さくらんぼ食べてもビール飲んでも、それを脂肪のかたまりに変えてしまう不思議なポケット。

 さくらんぼをいっぱい詰め込んで、、、、 不思議だなあ、いつのまに、こんな脂肪のかたまりにかわっている、、、、って、毎日食べ過ぎた結果というだけですね。

 <大連つづく>
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2007年06月26日


ニーハオ春庭「石臼と小公主(1)」
2007/06/26 火
ニーハオ春庭中国通信>大連・石臼と小公主(1)

 サクランボ狩りからの帰り道、大連市内へ戻る同僚たちと分かれ、バスを下車。「近頃はやりの東北田舎料理の店」へ行きました。
 駐車場には車がいっぱい。大連やもっと遠くからも、グルメを乗せた自家用車が押し寄せてくる、名物店なのだそうです。

 一種の「食のテーマパーク」になっているレストランで、オンドルを備えた東北の田舎風の家を模して立ち並んでいる客室に、服務員が行き交って厨房から料理を運んできます。
 中庭には、実際に水くみをしている井戸、粉やトウモロコシを挽く回転式の大きな石臼などがおいてあって、田舎の暮らしを再現しています。

 ハンさんの思い出話。
 「母が豆を石臼でつぶして豆腐をつくるとき、あそこにあるのと同じような石臼を、自分たちの力だけで回して豆を呉にしていました。
 本当は大きな石臼をロバに引かせてぐるぐる周らせて動かす方式だったんですが、個人が豆腐を作るためには、ロバを使わせてもらえなかった。
 私が子どもの頃の農村は集団農場方式で、ロバは村の共同財産でしたから、個人利用ができなかったんです。母は、苦労して石臼を挽き、子どもたちもお手伝いしました」

 お母さんが豆腐を作ってお父さんが町に売りに行き、村のなかでも「現金」を得ることのできる一家だったので、ハンさんは農家の出身でも大学まで進学できました。
 ハンさんの頭のよさから、ご両親の才覚あるようすがうかがえます。
 自由に経済活動ができなかった昔の農村を考えると、ハンさんが優秀な人であるとしても、娘を大学に進学させてやるのは、ご両親にとってなかなか大変なことだったのではないかと思います。

 シンシアは、楽しそうに石臼の前で写真を撮っていました。
 シンシアと私の会話は片言英語と片言中国語です。シンシアの英語、週に一回のレッスンだそうですが、日本の大学生より上手に英語の会話ができます。
 お母さんが日本語の先生なのに、シンシアは日本語より英語のレッスンが好きで、日本語は「ドラエモンのうた」だけ覚えたんだって。

 一番大きい棟では、結婚式が行われていて、テーブルの上には次々とごちそうが運ばれてきます。
 白いウェディングドレスを着た花嫁さんは、花婿さんと、腕を廻し合って飲み物を飲むようすを、皆に披露したりして幸せそうです。

 伝統的な中国の花嫁衣装は赤いチャイナドレスでした。
 赤はお祝いの色で、「白はお葬式の服の色」だったので、結婚式には使わなかったのに、最近は白い西洋風のウェディングドレスが主流。
 女性は「プリンセス(小公主)のようなドレスを着たい」と、小さな女の子だったころに夢見たような、すてきなドレスに身を包んで結婚式を迎えるのでしょう。

 スピーチをする花婿の前にシャボン玉が吹き出したりする演出もあり、昔に比べて結婚式も年々派手になってきたようです。
 13年前も、日頃は倹約していても結婚式などのイベントでは、派手に客を招待するのが中国式でしたが、豊かになってきている都市近郊農村の結婚式、どんどん「ド派手度」がアップしてきたのかも。

 結婚式の棟をぬけて、生け簀の棟へ。ここも、食材が水槽や生け簀に並んでいる中から、客が食べたいものを選ぶ方式です。
 さよりの唐揚げ、田舎風の麺、羊肉の焼肉串、寒天料理などが私たちのいるアウトドアテーブルに運ばれてきました。

 日本で私は、寒天を食べるときトコロテンとか牛乳羹などのデザートで食べるくらいでしたが、中華料理では、料理の素材として使われ、煮物や和え物、いろんな調理がなされます。
 ダイエットにもいいので、もっと寒天料理をたべたほうがいいのかも。

 メインディッシュは「東北干しきのこと鶏肉の煮込み」、ここの名物料理とか。
 どれもおいしかったです。

<大連つづく>
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2007年06月27日


ニーハオ春庭「石臼と小公主(2)」
2007/06/27 水
ニーハオ春庭中国通信>大連・石臼と小公主(2)

 土曜日の夕方、シンシアは「ダンスのレッスン」へ。
 レッスン後半を見学させてもらいました。レッスン前半の、柔軟体操や基礎訓練の部分は見学禁止。
 私が日本で練習しているダンスも、前半は柔軟運動や、ルルベプリエ、ジュッテ、ピルエットなど、バレエ基礎運動が中心なので、見学しなくてもたぶん、同じような基礎訓練だろうと、想像がつきます。

 シンシアたちの踊りは、日本の「創作児童舞踊」と同じ雰囲気です。
 5時半から7時までは小学生のクラス。7時からは中学生以上の人のクラスです。
 大学付属幼稚園の中にある「舞踊練習場」で行われているレッスン、三方の壁に鏡とバレエレッスンバーが取り付けてあります。

 月末にダンスの競技会があるそうで、先生の指導は実に厳しいものでした。
 先生が模範の演技をやってみせたあと、先生のようにできない子を、容赦なくしかりとばします。日本だったら、こんな厳しい先生だと生徒が逃げ出してしまうのではないか、と心配になるのに、ハンさんは「厳しければ厳しいほど、生徒の技量があがり、親は先生を評価します。もし、甘い先生だったら、親は先生を信用しないでしょう」と、いいます。

 この話を聞いて、腑に落ちたことがありました。
 学生の作文に日本語授業の感想が書いてあったのですが、「日本人の先生たちは、とても厳しく私たちを指導してくださいます」と書かれていて、「え、私、そんなに学生に厳しくしているつもりはないのに、宿題出し過ぎているかしら」と、ちょっと心配したことがあったのです。まあ、それ以後も、宿題はバンバンだしているんですけど。

 ハンさんにだずねてみると、「厳しい先生」と評価されることは、学生たちが先生の指導を「いいかげんではなく、きちんと指導している」と認めていることになり、日本語で「先生は厳しい」と表現するニュアンスとは異なる、ということでした。
 そうだったのか!

 シンシアはレオタードに長いレッスンスカートをはいて練習していますが、本番のときにはお姫様のようなスカートをはくのでしょう。
 母親が「シンシアには踊りの才能がある」と、いうように、レッスン生の中で、動きが一番よかったです。

 シンシアは、ダンスと英語とピアノを習っています。ピアノレッスン、月謝は月に100元と聞きました。共働きの夫婦であっても、月謝100元はそう安くはない出費になります。シンシアは、大学付属小学校に通い、ピアノや英語のレッスンを受け、恵まれた教育を受けています。

親の服を買う費用を削っても、大事な大事な一人っ子のため、教育費につぎ込むのが現代の中国。一人っ子は、両親、祖父母の愛情を独り占めして小皇帝、小公主(王女さま)のように育てられています。

 石臼を挽くにも苦労の連続だったハンさんのお母さんの時代から、楽しそうにダンスに興じるシンシアちゃんの姿まで、中国の移り変わりの大きさにびっくりします。
 豊かさを満喫するようになったシンシアの世代。でも、おばあちゃんたちがどれほど苦労を重ねてきたのか、新しい世代にも忘れてほしくないと思います。

<大連つづく>
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2007年06月28日


ニーハオ春庭「小公主と、星に願いを(1)」
2007/06/28 木
ニーハオ春庭中国通信>大連・小公主と、星に願いを(1)

 土曜日夜、ハンさんが夕ご飯を作っている間、シンシアちゃんといっしょに過ごしました。家族のアルバムをみせてもらったり、シンシアがピアノをひいているところを写真にとったりしました。

 シンシアは、大好きな絵本「小公主(シャオゴンチュァ)」をみせてくれました。
 ディズニープリンセスが出てくる絵本で、シンシアは「これは愛麗儿(アリエル)、これは愛洛(オーロラ)」と、小公主(プリンセス)の名前を教えてくれます。
 
 ハンさんは、「私が子どもの頃、お姫様にまったく興味がなかったのに、この子はお姫様とかきれいな服やアクセサリーとか、女の子らしいものが大好きで、私とぜんぜん違ってます」と、言います。

 シンシアが日本語ではなく、英語のほうが好きなのは、「大きくなったら、ディズニープリンセスになりたい」からのようです。

 日曜日の朝、シンシアはおばあちゃんに連れられて英語とピアノのレッスンにでかけました。
 自慢の孫がかわいくてならないおばあちゃんと、教育に心を砕く両親に囲まれて、シンシアはすくすくと成長しています。

 一人っ子の娘に十分な教育を与えてやれると思う一方、ハンさんは「シンシアに弟か妹がいたらなあ、と、かなわぬ願いを持ったこともあります」と、言います。

 1979年以後、「漢民族の場合、子どもはひとりだけ」という政策が厳しく指導され、80年代以後の子どもたちは、兄弟がいない。シンシアも、もちろん一人っ子です。
 ハンさんの知りあいは、アメリカ滞在中に二人目を出産したことを隠したまま帰国し、仕事に復帰しました。しかし二人目の子がいることが露見したとたん転勤(という名の左遷)させられ、結局仕事を辞めざるをえなくなったとか。

 また、農村では「二人目の子を役所に届け出られず、戸籍に入っていないため教育も受けられない子」もいると聞きます。
 出生前に男女の区別を知ることができる現代、新生児は男児の出生が多い。男の子が家を継ぐことを願う中国の伝統的な考え方から、胎児が女児だとわかると、出産をやめてしまう夫婦もあるからです。男女比率のアンバランスから、将来は、「嫁不足」という問題も起きてくると考えられます。

 中国13億の人口のうち、55ある少数民族は二人以上の子を持つことが認められています。
 人口のほとんどを占める漢民族の場合、夫も妻も博士号を持っていると、二人目の子が認められる。
 少数民族については、まあ、納得だけれど、「夫婦とも博士号」というほうは、優生思想みたいで気分悪い。

 今、80年代以後に出生した一人っ子が結婚適齢期を迎えています。一人っ子同士が結婚した場合は、二人目の出産が許可されています。

<大連・つづく>
08:08 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2007年06月29日


ニーハオ春庭「小公主と星に願いを(2)」
2007/06/29 金
ニーハオ春庭中国通信>大連・小公主と「星に願いを」(2)

 人口そして食料問題は中国の大きな課題なので、これからも当分人口抑制政策が続くのではないかと思いますが、余裕がでてきた中産階級には、「二人目の子をもてない」ことの不満がくすぶっています。

 60億人の全地球人口のうち、13億人は中国人。つまり地球にいる4人にひとりは中国人です。全体の人口問題を考えるなら、「自由に生んでよくて、どんどん中国人が増えていったら、地球のほとんどは中国人」になるだろうと思うし、食糧問題など深刻になるという政府の政策もわからないではないですが、個人の人生をみると、「子どもに兄弟を与えてやりたかった」「子どもの出産をどうするかは、個人の人生に属する人権問題」というのもわかり、複雑なところです。

 生まれた子にできるかぎりのよい環境を与えてやりたいのは、どの親も同じ。皆、夜には星に願いをかけ、こどもの将来が明るいものになるよう、祈ります。

 ディズニー版ピノキオでは、こおろぎさん(ジムニークリケット)は、♪輝く星に心の夢を、祈ればいつか叶うでしょう♪と、やさしく歌い、ピノキオの「よい心」を表現しています。

 ところが、イタリアのカルロ・コローディーが書き、1883年に発売された初版本では、コオロギがピノキオに「よい心」を持つように話しかけると、ピノキオは「うるさい!」と、コオロギを叩き殺してしまう。
 監督ロベルト・ベニーニ自身がピノキオを演じた実写映画版は、原作に忠実だったので、大甘のディズニー版を見慣れた観客には評判が悪かった。

 「一人っ子政策」が、人口抑制の成功例となるのか、さまざまな問題を引き起こす原因となるのか、まだわかりません。
 一人っ子の未来は、ディズニーの「星に願いを」の甘い歌声になるのか、原作本やベニーニの映画のように「良い子になりなさい」と説教するウットーシイやつをたたき殺してしまう結果になるのか。

 ディズニーのお姫様が大好きなかわいいシンシア。
 大きくなったらディズニーのお姫様になりたいという夢、かなうといいね。

 星に願いを 祈ればいつか あなたの夢が かなうでしょう
   ♪When You Wish Upon A Star Your Dream Comes True. ~♪ 

<大連つづく>

07:40 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年06月30日


ニーハオ春庭「大連住宅事情」
2007/06/30 土
ニーハオ春庭中国通信>大連住宅事情

 ハンさんのご主人がつとめる日系企業も経済開発区の中にあります。ふたりの通勤時間を考えれば、経済開発区のなかにあるご主人の社宅に住む方が便利です。
 しかし、ふたりにとって一番大切なことは、「一人っ子」の娘シンシアちゃんの教育のこと。

 シンシアが大学本部キャンパス近くにある付属小学校に通っているため、娘の教育を第一に考えて本部キャンパス大学職員住宅のほうで暮らしてきました。経済開発区の職場まで、夫婦とも通勤に1時間以上かかります。
 東京の感覚でいうなら、国立市から東京を抜けて、幕張メッセへ通勤するっていう感じかな。

 ハンさんが出勤中、朝夕のシンシアの世話は、すぐ近くに住む姑さんがしてくれます。 朝6時には家を出なければならない通勤ですが、おばあちゃんが孫の朝ご飯を世話し、学校から帰ったあと預かってくれるおかげで、共働きを続けることができます。
 住宅は、何よりも娘の小学校に近いところ、というのが第一条件です。

 日系企業に勤務するご主人の会社から支給されている住宅は人に貸して、お金を貯め、ようやくローンで家を買う手続きが完了したと、うれしそうでした。
 引っ越す予定の新居は、中古アパートメントハウスの5階。現在の住居から数分のところにありますが、今よりもっと付属小学校に近くなる。

 「88平米で42万元(約630万円)で、半分が頭金、半分がローン。今のふたりの給料でだせるぎりぎりの値段で住宅を探しました。古くてもいいから安い物件という条件で選んだので、内装も全部直さなければ住めないのだけれど、大連は、今どんどん家の値段が上がっているので、これ以上掘り出し物を待ってお金を貯めてからと考えていると、手が届かなくなってしまうから」と、住宅の値段も教えてくれました。

 大連の海辺の高級住宅地。1平米1万元。平均100平米のマンションが100万元(1500万円)くらいで、一般的な共働きの夫婦にはとても手が出ない値段です。
 しかし、日本人にとっては、100平米で1500万円ならお手頃な値段なので、日系企業などが社用にどんどん住宅を買う。で、住宅高騰が続き、住宅ブームといっても、一般の中国人にとっては高値の花になってしまう。

 新居の前まで連れて行ってくれました。まだ、現在の居住者が入居中なので、中は見せてもらえません。
 7月いっぱいで前住者出ていくので、内装リフォームが済みしだい、大学が夏休みの8月中には引っ越しするそうです。

 広さからみたら「お買い得」なアパートメントハウスですが、難点は、「ここの5階に入居しますが、エレベーターがないんです。以前の中国建築基準では、7階くらいの高さまでエレベーターなしのビルが許可されていたので、一般住宅にエレベーターがついている物件はほとんどありません」

 う~、2階へ行くにもエレベーターを使いたくなってしまう、階段大嫌いの私にはつらい仕様かも。ダイエットにはよさそうだけれど、いくら食べても太らないという細いハンさんが、ますます痩せてしまうと困ります。

 今のハンさんの住宅は、居間が日本風にいうと15畳くらい、夫婦の寝室が12畳くらい、子ども室が6畳くらい、ダイニングキッチンが4畳半くらい。トイレシャワー室が2畳弱くらい。
 日本の一般的な団地サイズよりずっとひとつの部屋が広いですが、日本人にはバスタブがないのがつらいかも。お湯にひたって一日の疲れをとる人が多いので。
 たぶん、他の大学職員住宅の部屋も同じようなつくりでしょう。シャワーのみのほうが多く、バスタブを備えている家は、中国のアパートメントハウスでは少ないのかもしれません。
 
 こうして、中国の一般家庭の中を見せてもらえるのも、今回中国に来て始めてのことでしたから、とても興味深く泊めてもらいました。
 
<大連つづく>



2007/7/02 月
ニーハオ春庭中国通信>大連・星海広場の漢白玉華表

 シンシアがピアノの練習に出かけた後、ハンさんと星海公園へ行きました。
 シーズンには海水浴客でにぎわう「海辺の公園」で、大連最大の広場が名所になっています。
 ハンさんと「二人乗り自転車」で、星海広場を散歩しました。

 ロシア租借地の街としてダーリニー・ヴォストークが建設された1899年から百年目にあたるのが、1999年。大連が都市として出発した節目の年でした。

 星海広場は、それを記念して星海公園に作られた新しい広場です。
 節目の年に合わせて、直径が1999メートルの円形の広場。一周すると6km強ほどのちょうど散歩によい距離になっています。

 中央に高さ19、97mのトーテムポールの大型のような記念柱が立っています。こちらは香港返還の年1997年を記念しています。白い柱石が、夏の陽を受けて輝いています。

 この記念柱は、「漢白玉華表」と呼ばれているもので、昔、皇帝が馬を停める際に、馬のひもをつなぐ柱として使用されのだそうです。皇帝が馬を停める、すなわちその地が皇帝に所属し、皇帝の権力のもとにあることを、この漢白玉華表でしめしました。

 皇帝だけが建てることができ、中央への統一、中華民族統合の象徴として建てられたのだといいます。
 星海広場の漢城玉華表にも、皇帝の象徴である龍が彫り込まれています。

 大連市がこの柱を立てたとき、「漢白玉華表は国の代表者の象徴」だから、北京以外の地に建設するのはいかがなものか、という中央からのクレームが市長に届いたのだそうです。

 市長は「大連が都市として建設されてから百年目の1999年を記念する」というと、中央に反対されると思って「香港返還の市民の喜びを表現したものであり、国の統合の象徴である」という大義名分を考え、香港返還の1997年にちなんだ高さにしたという知恵者。
 「市のお祝いではなく、国家全体の慶事を記念している」という名分が認められ、無事「漢白玉華表」が大連の広場に立てられました。

 知恵者はどこにもいるもんですが、このエピソード、東北地方随一の貿易都市、産業都市として発展してきた大連のしたたかさを象徴しているように思いました。

 広場の海辺よりに「大連名士、千人の足跡」が、レリーフとして床に並べられています。海辺へ向かって進んでいく千の足跡の先端には、未来を目指す男の子と女の子の像。大連の未来を象徴している像なのだそうです。

 広場に憩う人々、かわるがわるこの像の前で写真を撮っています。
 海辺の明るく開放的な大連の町、未来へ向かって前進、また前進、という感じでした。

大連・星海広場と漢白玉華表の写真「大連は今日もいい天気」より
http://www012.upp.so-net.ne.jp/kidalian/luyou/xinggu/xinggu.htm

<大連つづく>

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2007年07月03日


ニーハオ春庭「大連マラソン」
2007/07/03 火
ニーハオ春庭中国通信>大連マラソン

 星海広場から市内の洋服屋へ行こうとしたら、道はどこも大渋滞。交通規制がかかっていて、前進また前進どころか、のろのろ運転です。
 6月18日の日曜日は、ANAが主催する「大連国際市民マラソン」の日。2007年は、第21回目、大連市民には毎年おなじみの大イベントです。 

 ANAは、2007年が、中国線就航20周年にあたるので、2007年を「ANA’S CHINA YEAR」と称し、いろいろなイベントを企画しているのですが、この大連マラソンもそのひとつです。日本からもマラソン参加ツアーが来ています。

 金曜日にオーダーしてもらった夏服を受け取るためにタクシーで市の中心部へ向かうおうとしても、どの脇道へ入ってみても大渋滞。
 マラソン、朝8時スタートというから、2時間ちょっとかかるとして、お昼前には交通規制がなくなるだろうと思ったのが大誤算。マラソンを2時間で走るのはトップ選手であり、市民マラソン、7時間8時間かかるのは当たり前。その間ずっと交通規制です。 

 動かないタクシーを乗り捨てて、ハンさんは裏道を歩き出しました。スラムのようにごちゃごちゃしているところ。零細民の零細な商いをする店が道の両側につづいています。ごみなども片づけられていないので、表通りとは雰囲気がちがいます。
 「大連の裏側を見せちゃいましたねぇ」と、ハンさんは言いますが、発展している表通りのすぐ裏手に、このようなごちゃごちゃの街があること、普通の観光ツアーでは見ることができないだろうから、貴重なひとときとなりました。

 ほんとうはもっとゆっくり「裏側」も見たかったのですが、なにしろ飛行機の出発時間がせまっています。どんどん歩くハンさんのうしろを、迷子にならないように必死についていきました。

 夏服をオーダーメードで注文するなんて、日本ではなかったこと。
 イージー縫製ではありますが、金曜午後に生地を買って採寸し、日曜昼には縫い上がっている。ハンさんが「大連のおみやげに」と、自分のなじみの洋服屋に無理を言って、「金曜日に注文、日曜日に仕上げ」という強行注文をしてくれました。

 おなかはたっぷり13号、胸はぺちゃんこ9号、という「洋梨スタイル」の体型。胸のお肉が全部おなかに下がってしまったという具合なので、夏服つるしを、おなかに合わせて買うと、胸や肩幅はぶかぶか。レディメードの宿命ですが、オーダーメードなんてこと、考えもしてきませんでした。
 はじめて、胸のあたりはぶかぶかじゃなくて、おなかはちゃんとおさまる夏上着ができあがりました。

 大連の空港につき、国内便小型機(乗客33人、パーサーひとり)に乗り込んだのは、なんと離陸10分前でした。ぎりぎりセーフ。
 たくさんの楽しかった思い出を、胸に(そしておなかに)いっぱいにして、離陸しました。

 大連の海鮮やさくらんぼがつまったおなか。
 はい、さっき、ちょっと見栄を張りました。おなかは13号じゃなくて、17号。

 号、轟、Go!、小型飛行機、私の重さにも耐えて、無事大連の空を飛んで北へ向かいました。

 大連の市民ランナーが黙々と自分のペースで走り続けている姿を胸に納めて、私も、まだまだ続く中国での仕事をマイぺースで走って行かなくちゃ。

<大連おわり>

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