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おひとり様の外食

2010-12-12 09:23:00 | 日記
2008/11/19
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>おひとり様の外食(1)製麺所ラーメンふじまる

 昨日11月18日は、娘&息子が遊びに出かけて「晩ごはん食べて、閉園まで遊んでくるから、ハハひとりで夕ご飯食べて」という。ディズニーフリークの娘&息子は、ハロウィーンだ、クリスマスだと、しょっちゅう舞浜へ行く。なんでも、18日はミッキーマウスの誕生日でバースディ特別ショウがあったんだって。私は仕事して帰ってひとりで食べるのも味気ないから、ラーメンでも食べることにする。

 ラーメンのお気に入り店がある。メニューは一種類のみ。750円が並。1000円は国産ぶためん(チャーシュー大盛り)。生卵、国産ニンニクなどは別料金だけど、キャベツもやしの「野菜増し」は無料。

 豚背油スープのこってり系なので、体調よろしくおなかがぺこぺこの時でないと、年寄りの胃にはきつい。ファンは男性がほとんどで、女性は男性の「連れ」として来るのみ。年配女性がおひとり様で食べてるのは、2004年から店に通ってきたのに、私以外に見たことがない。

 だから、たまにしか行かない常連とも言えないのに店長さんは私を覚えていてくれてる。いつだったか財布にお金が入っていないのを忘れて入店し食券機の前で、「あ、銀行寄ってくるの忘れた、お金が足りない」とつぶやいたら、「この次来るときいっしょに払ってくれればいいですよ」と言ってくれた。

 春庭bbs 2008年2月15日の書き込みより。現在のラーメンの値段は750円だけど、1年半前は680円だったことがわかる。

haruniwa (2008-02-15 12:31:28)
 昨夜は、ラーメン食べて早寝。
 「製麺所ラーメン富士丸」というのが、私のお気に入り。

 「製麺所ラーメン二郎 マルジ」が、店名変更。昨年、わたしが中国へ行っている間に「製麺所ラーメン富士丸」になったけれど、作っている人は、私が2004年に初めて食べたときから変わっていない。(創業1994年ころらしい)

 ラーメン通の間では「二郎系」と呼ばれる種類で、豚背油たっぷりの汁にごろごろ大きなチャーシューが入り、上にもやしとキャベツのゆでたのが、富士山のように山盛りになっています。
http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13002910/

 私の注文は「麺少な目、やさいたっぷりニンニク少々」680円です。
 麺は自家製手打ちの太麺。体調がよく胃が万全の時でなければ、「緬少な目」でも完食はむずかしい。このごろは、麺半分という注文もします。麺半分でも他店のラーメンの量と同じくらい。

 私は食べ物は完食をルールにしているので、残したくないので、月に一度はたべたいけれど、実際には、季節に一度ほどの注文になっています。

 食べたあとは、ちと苦しい。おなかいっぱいだし、背油スープは年寄りの胃にはきつい。
 三ヶ月に一度しか行かないのに、いすにすわると店長が黙礼してくれる。イケメンの店長なのでちょっとうれしかったりして。

 それで、2月14日、仕事帰りにふじまるラーメンによって、完食した後、「もう、お母さんは夕食いらない。寝る」と、8時に寝てしまった。娘は私が買っておいた安売り牛肉で牛丼をつくり、弟と2人で食べたって。

ラーメン
haruniwa (2008-02-16 01:07:47)
 昨日寄ったラーメン屋にまた今日も行った。2日続けて同じ店で食べて、それでも美味いと感じるかどうかの実験のためにいったのだけれど、うまかった。
 昨日2月14は木曜日で開店と同時に入ったので、待ち時間は10分だったけれど、今日は花金で、ラーメン通オノコどもがグループでわんさか列をつくって並んでいた。

 北本通り沿いの歩道にならぶベンチ。きたほんどおりっつうくらいだから、道路は北へ向かって延びており、寒風ふきすさぶ。前のほう15人くらいはベンチがあるけれど、あと15人くらいは立ったまま風にさらされてまつ。

 私は列に並び初めて、すぐに後悔した。たかがラーメン一杯のために、こんな難行苦行をつむ意味が、私にはない。

 とおくからこのラーメン富士丸めあてに電車賃かけ、1週間のイベントとして来ているラーメン通若人たちには、たかがいっぱいのラーメンのために、この難行苦行をかさねることこそ、味を高める秘訣なのだろうが、私にはそんな義理はない。

 近所だから、自転車できて、食べたいときに食べればよい私には、なんで、みんなこんな寒い中、バカみたいにならんでんだよ、と思っていた。私が一番ばかだね。なぜなら私が一番年寄りだから。
 列にならんで65分。やっと店の中に入れたときは、死後硬直がはじまりそうな気配だった。

 ただし、いつも自由にこられるというわけではない。
 私自身の体調がよくて、胃がぴんぴんしていること、という条件に加えて、息子娘が外出していることという条件が加わる。

 娘と息子が家にいるときの夕食、私は外食しないでちゃんと家で食べるようにしているので。
 疑似母子家庭3人母子は、こうやって、肩寄せあって一杯のかけそばをすすってきたのだよ。
=============

 味の表現ができない私なので、週に三日このラーメン富士丸に通うという人の評価を見てください。
http://r.tabelog.com/tokyo/rvwdtl/411127/

<つづく>
07:53 コメント(2) ページのトップへ
2009年11月20日


ぽかぽか春庭「500円ランチ」
2008/11/20
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>おひとり様の外食(2)500円ランチ

 ふだん外食ランチするとき、千円以上のメニューは高いから食べない。で、私の外食、お気に入りはどこかというと。ワンコインランチ\500で昼ご飯が食べられる店。
 東京近辺でワンコインランチの情報サイトも充実してきて、渋谷や新宿などの繁華街でも500円ワンコインランチが増えているようです。世が不況なれば、ランチも激安勝負をかける。

 厚労省が貧困者の割合を発表して、自分が貧困者であることを自覚した人も増えたので、激安店増加はありがたい。結婚以来ずっと貧困者の春庭ランチは、コンビニで賞味期限切れ直前弁当を格安で売るならそれで十分と思っているのだけれど。(ちなみに、政府の言う「貧困家庭」とは、税金などを引いたひとりあたりの可処分所得が年間114万円以下。夫婦二人暮らしなら、228万円、4人家族なら可処分所得456万円以下が貧困家庭です)。

 貧困者春庭が気にいっているワンコインランチ店、3店のご紹介。「ポポキ」「みのや」「ちゃぶぜん」

 総武線西千葉駅前ポポキ。ポポキとは、ハワイ語で猫のこと。ドア前の猫の置物が目印。
 ご主人と奥さんが世界中を旅した記念写真が壁中にところせましと貼ってあります。私は、残念ながら、ポポキ夫妻のように世界中を旅行したことはない。でも、ここにある写真全部の国の留学生を教えてきた。私が教えた留学生の国籍は100ヶ国になる。今期はじめて教える国の留学生はアフリカのウガンダから。アラビア半島オマーンからの学生は、たしか二人目だと思う。

 ポポキ、いつも学生ですぐいっぱいになってしまうのだけど、列作って並んで食べる価値はある。なにしろ、500円。
 ランチ\500、ディナー\600(メニュー内容は、ランチもディナーもほとんど同じ)。ワンプレートに山盛りのおかずとご飯、サラダ。ハワイ名物ロコモコほか、オリジナル多国籍料理。食い盛り学生向け格安ランチ。
 カウンター10席だけの店の中、ドアの外に並んで待つ人、多数。

 お次のワンコイン食堂紹介は、京浜東北線東十条駅北口階段上って20メートル。トンカツの「みのや」。王子、十条、東十条界隈を紹介する番組などでは常連の店だけど、有名になっても店の人たちは淡々とトンカツをあげ、トントンとキャベツを刻んでいる。
 どんぶりの豚汁(かつおだし)と、山盛りのキャベツ。何よりもトンカツがでかい。それで、セットで500円。ランチタイムは11:00~14:00だけど、夕食タイムもまったく同じ値段同じメニュー。
http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13008750/

 千葉駅構内(エキナカ)の一膳飯屋「ちゃぶぜん」
 おろしカツ丼580円、唐揚げ定食560円など、どれもおいしい一膳飯ですが、新聞に取り上げられて、ど~んと注文する人が増えているのが「いわし定食」
 よその店の「鰺フライ」「いわしフライ」では、開きにした鰺や鰯がフライになっていますが、ちゃぶぜんのいわしフライは、頭を落とし、骨を抜いた丸姿でフライになっています。太めがうれしいイワシの丸揚げがどんとふたつ。おみそ汁、佃煮、ご飯で500円。
 「ちゃぶぜん」紹介ブログをリンク
http://blogs.yahoo.co.jp/taro_hana_99/29034741.html

 「さくら水産」は、都内どこの駅前にもあるチェーン店。500円ランチの定食は、ごはんおかわり食べ放題。店の壁際にジャーが置いてあって、客はセルフサービスでおかわりする。私はご飯のおかわりはしないけれど、生卵と味付けのりとふりかけ、みそ汁ご自由にどうぞ、ってとこがお気に入り。居酒屋チェーンのランチなので、女性がひとりで食べてるのは、吉野屋の牛丼と同じく、ちょっとおひとり様しにくい雰囲気はあるのだけれど。

 10月11月のヨシギュー、牛丼食べると1枚サービス券がつき、3枚ためると1食無料になる、というキャンペーンをやっていて、券が3枚あったので、先週、東武線川越駅の駅構内にある吉野屋で牛丼を食す。吉野屋は後払い方式の店が多いけれど、駅構内にあるせいか松屋などと同じく食券制だった。席についたら店員に「あ、そちらで食券買ってください」と言われ、気弱く「あの、サービス券3枚持ってます」と申告。カウンターで黙々と箸を動かすお父さん達と並んで、1食380円の牛丼(サービス分で割ると一食285円)を食べた。 なんだか涙ぐましいランチをおひとり様にてかっ込み、仕事先へ行ったのでした。

 貧民の貧困食と言うのはやめましょうね。「B級グルメ探訪の愛好者」と言っておきましょう。
 
<おわり>
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おひとり様の老後ビフォーアフター

2010-12-07 06:17:00 | 日記
2009/12/21
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・今年の百円本から(1)おひとりさまの老後

 貧乏一家にようやく暖かさが!ってほどでもないけど、昨日、めでたくこの冬はじめて暖房を入れました。換気扇を取り外した穴をビニール袋でふさいで5年になる我が家、この冬は、暖房を入れずにすごす最長記録の更新です。親子して我慢大会を続けてきましたが、限界にきて息子風邪ひくし、娘はうつるし。まあ、寒い日々でした。
 初暖房は12月20日朝。家にたったひとつの暖房器具であるストーブに石油をいれ、ファンヒーター運転開始。
 これまでどうやって暖を求めていたかというと、食事時間以外は各自ふとんに潜って寝床読書やら寝床ゲームで自分の体温暖房という究極のエコ生活でした。でも、私、ふとんにもぐるとすぐに寝ちゃうから、家では読書時間ほとんどとれなかった。
 
 このところの読書は、ほとんどが仕事関連に役立つと思える本や自分がレポート書いて提出するための参考書で、純粋な「お楽しみ読書」が極端に少なくなってしまった。お楽しみ読書用の本はほとんどが古本屋の百円均一本。専門書は高くても買わざるをえないけれど、お楽しみ本は百円本に限る。しかし読む時間は電車の中でとるしかないので、どうしても仕事本優先になってしまう。

 仕事本といっても、自分の好きな分野の話であるから、読めばおもしろい。今年2009年に出版された本では、荒川洋平『日本語という外国語』、籾山洋介『日本語表現で学ぶ入門からの認知言語学』などおもしろく読みました。

 ベストセラーというのは、出版された年にはレビューが新聞やネットにどっと出るので、おおよその内容はわかる。買うときのワタクシルール。①新刊書で買う②単行本が古本屋で半額になったら買う③文庫本になったら買う④単行本新書文庫本とも百円になったら買う、というランキングがあります。

 百円本に出回るまで買うのをやめておこうと思った本、たとえば水村美苗『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』2008年出版。レビューでだいたい内容がわかったし、自分には合わない論調だということもわかったので、すぐには読まなくてもいいと判断。2009年に小林秀雄賞を受賞したことによってまた売上げもあがったようですが、まだ百円均一本の中に出回ってこない。

 ようやく百円本になってブックオフで買って読んだのが上野千鶴子『おひとりさまの老後』。2007年に出版されたときのレビューを見て、やはり「これは読んだら腹立つから、ほとぼりさめるまで読まんでおこう」と思ったのですが、百円均一本に出ていたので電車の中で読んでみましたが、レビューどおりでした。

 ネットレビューのコピー
  「シングルの老後についてのノウハウ本。といっても、「カネがそこそこあって、かつ友達がたくさんいる人」の話しか出てきません。きっと著者は、カネがなかったり友達がいない人は自己責任なので淋しく死になさい、という考えなのでしょう。
  「やはり一部の成功した人、恵まれている人の立場で書かれたものだと思います。上野先生には期待して読ませていただいたのですが、もっと庶民の目線で書いていただきたかった。読んでいて無神経さが目に付き、とても疲れてしまいました。人間はそんなに強くない。順調な時ばかりではない。今、心身ともに元気な人には参考になると思います」
  
 上野千鶴子に言われんでも、老後に「ある程度の金は必要」とか「困ったときに手をさしのべてくれるような友達がいること」とか、わかっているっつうの。
 わかっているけど、現在心身弱っている高齢者予備軍にとっては、今の自分の境遇は、「若い頃は子育てや日銭かせぎにせいいっぱいで、友達を作る余裕すらなかった」「生活保護より低い金額の年金しか得られないことがわかっている」という現実の前に、心なえるばかり。

 明日をも知れぬ爪に火ともす暮らしを続けているのに、「老後には年金にプラスするお金が必要、個人年金を加えよう」とか「○○さんは、生命保険を個人年金に仕立て直して一ヶ月100万円の年金を得ている」というような話ばかり並んでいると、「明日は公園の片隅で暮らす覚悟」を固めて年末すごす層の人間には、ウソ寒くなるって部分もありました。「友人をふやそう」という例でも、東大教授上野先生は「別荘に友達を集めてパーテイをする」という交流を楽しんでおられるよし。ゴミ屋敷のような2DKに母子片寄せ合って暮らしている我が家からみると、ため息が出ます。と、年末恒例愚痴特集にちょうどいい『おひとりさまの老後』でした。

<つづく>
04:07 コメント(2) ページのトップへ
2009年12月22日


ぽかぽか春庭「平安朝の生活と文学を読む平成の生活と文学」
2009/12/22
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感今年の百円本から(2)平安朝の生活と文学を読む平成の生活と文学

 『おひとりさまの老後』は、友人のミサイルママにあげました。ミサイルママは、離婚後女手ひとつで息子ふたりを育て上げ、次男君は大学卒業後家を出て自立していますが、長男くんはアルバイトしながら演劇活動を続けており同居中。「パラサイト息子をかかえて、細々働く母親」仲間です。

 いずれ一人暮らしで老後を過ごすことになるだろうと思っている人なので、一応参考のために本を回しましたが、彼女も読んだらため息ついて「こんなに余裕あるんなら、老後の心配なんぞすることないよ」と思うんじゃないかな。「老後も続けられる趣味を持て」という御教訓の部では、彼女はすでに、ジャズダンス、合唱団、独行山登りという趣味を持っているし。
 1400円だして新刊書買ったなら、「ミサイルママとランチでもしたほうがよかった」って気にもなるけれど、100円ならね。読んで得るところもあったのだし、わびしい思いをつのらせることもないか。恵まれた老後をおくる人もいれば、うらぶれた暮らしを今のまま続ける私もいるってことで。

 百円本、碩学のこのような貴重な作品をたった100円で買って申し訳ないと思いながら読むこともあります。池田亀鑑『平安朝の生活と文学』角川文庫。初出は1952年。文庫化されたのが1964年で、私が買ったのは1987年の第33版。息長く読まれてきた平安文学の理解を助ける平安朝の生活について書かれています。
 橋本治『源氏供養・上巻』。下巻は100円の書棚にはなかった。それで、ついでに『平安朝の生活と文学』を買ったのです。源氏供養も平安朝の生活と文学も、仕事とは直接関わらないお楽しみ読書として、おもしろく読みました。直接仕事には関わらないと言っても、日本語教師は留学生にとって日本の文化の窓口ですから、どんなことであれ読んでおいて損はない。

 加藤周一『日本人とは何か』、澤瀉久敬『「自分で考える」ということ』など、100円で買っちゃってすみませんねぇと思いながら読ませていただきました。
 村瀬学『恐怖とは何か』なども、100円でなければ、手に取ることはなかったであろう専門外分野の本。身体感覚、安全からはずれることの恐怖などについて、まとめてありました。

 おひとりさまで老後をすごすというとき、「もっとも安上がりな趣味」は、百円本読書だろうと思います。脳の老化防止に最適。本を読むのが楽しいと思えるとお得です。
 自転車で10分のところに快適な図書館もあるし、古本屋もあるし、お金はなくともまあまあ楽しい「おひとりさまの老後」を過ごせそうでよかったと思います。
 上野千鶴子は「老後退屈しない暮らし」には、「そこそこのお金と友人のネットワーク」が必要と書いていますが、私はなんとかして「お金も友達も少ないけれど、楽しい老後」をめざします。

 東京都の老人交通パスがもらえるようになったら、「老人パスでめぐる文学歴史散歩」なんかもして、写真をネットにUPする楽しみ方もできそうだし、BS放送などやTutayaが始めた100円レンタルDVDなんか利用すれば映画もいろいろ楽しめそうだし、「退屈死に」はしないでしょう。

 今のところ、映画は「映画パスポート」というのを借りられて、タダで見ています。
 今年見た映画、日本映画では西川美和『ディア・ドクター』2009、役所広司『ガマの油』 2008、滝田洋二郎『おくりびと』2008など。今年封切りではなく、去年公開の映画が多いのは、ロードショウ館ではなく、二番館の飯田橋ギンレイホールで見ることが多いから。夫から「会社の福利厚生用」の映画カードを借りてタダで見る。なけなしの生活費を会社運転資金に貸し出した分の利子にもならんとは思うけれどね。

<つづく>

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2009年歳末風景2009年12月

2010-11-23 19:45:00 | 日記
2009/12/27
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(1)すき焼きファミリー忘年会

 23日は「おひとりさまの老後」の先達、姑のご機嫌伺いの日でした。姑は85歳で一人暮らしを続けています。健康オタクで、健康にいいことは何でも試している。毎朝徒歩15分のところにある公園へラジオ体操に出かけ、30分のウォーキングと体操で一日を始める。桑の葉の粉末茶が血糖値の安定にいいと聞けば取り寄せて飲んでみるし、タマネギの皮を煎じたお茶が血圧にいいと聞けば、「無農薬タマネギの皮」というのを銀座の健康食品店で売っているという話を聞きつけて買いに出かける。そのときどきでマイブームは変わるので、ひところこっていた「カスピ海ヨーグルト」を、姑の家に寄るたびに食べさせられるのはなくなったのだけれど、さて、23日にはどんな食品のお相伴にあずかることやらと、娘息子夫と私の4人で出かけました。

 今回は姑が「新しいすき焼き鍋を買ったので、みんなですき焼きを食べたい」という希望でした。実を言うと、私は余所で食べる鍋が苦手。「取り箸を使ってくださいね、直箸を鍋につっこまれると、私、あと食べられなくなるから」と、遠慮しいしいやっとの思いでみなにお願いしても、みんなが取り箸を使うのは最初の一回目取り分けのときくらい。だいたいの人は、2度目に具を取るときは、もう取り箸のことなんぞすっかり忘れて、直接自分の箸を鍋につっこむ。

 「偏向潔癖性」と自分で名付けたビョーキで、私、子供のころから人が口をつけた箸がさわった鍋はいやなのです。「鍋で熱湯消毒しているんだから汚くないよ」と、私の非を責めてくる人もいるのですが、別段感染症がうつるとか、ばい菌がいるとか思っているんではなく、単にビョーキです。潔癖性といっても、清潔好きとか掃除好きとは関係なく、単に人が箸をつけたものが嫌いなだけ。我が子の残り物を食べたこともありません。

 我が家の鍋料理は、ガスコンロで煮た大鍋から、小さい土鍋に小分けにして銘々鍋(?)でテーブルに出すという方式で、娘息子には不評。子供の頃はこれが鍋料理なんだと信じ込まされていたけれど、大きくなって、よそでは大鍋で皆がいっしょに食べるのを鍋料理と呼ぶのだと娘息子にもわかってしまい、「別々鍋なんて、鍋料理とは言わない」と娘が主張するので、この冬はまだ一度も鍋料理をしていない。
 
 姑は張り切って牛肉や葱、焼き豆腐などを準備していました。白菜などは「半玉刻んでおいたのだけれど、多すぎたかしら」と笊に山盛り。でも結局全部食べてしまいました。肉の卸問屋で買ったという霜降り肉、手頃な値段なのに、おいしかったです。私と娘がテーブルの上で調理係を代わる代わるして、夫や息子には菜箸で銘々鉢に取り分けて入れてやる方式で、ちょっと忙しかったですが、鍋にはきっちり菜箸だけを使いましたから、私もおなかいっぱいいただきました。
 姑が、「故郷の伝統食品」として作った「小豆カボチャ」が今回の「特別メニュー」。カボチャを冬至に食べるのはどの地方にもあるけれど、姑の故郷ではカボチャに小豆を混ぜて煮る。私の故郷では食べたことのない冬至食。血糖値を気にする姑の方針で甘さ控えめ。おいしかったです。

 姑へは、私から「お歳暮」と書いた熨斗袋をプレゼント。袋の下にはいつものように私の名前を書きます。姑は「息子が自営する会社の経営は苦しい」とは知っていますが、「ヨメが稼いできたぎりぎりの生活費まで会社の運転資金につぎ込んでいる」とまでは知らせていないので、「息子は一家の大黒柱」と思っています。姑に現実を知らせて心配させることもないので、一家の貧困度を話したことはないですが、ささやかながらの祝い袋まで夫からのプレゼントと思われるのはしゃくだから、私の名前だけをかくのです。ヨメの意地。

 姑は元気いっぱいしゃべりまくっていました。老人会では70代は「若手」で90代になると「私は年だから、もう役員できない」と言うのも納得してもらえるのだそう。84歳の姑も、ようやく「私、このごろ何でも忘れてしまうから、役員なんてできないわ」と、お役ご免を願ったのだって。たしかに、姑のおしゃべりは「新しいことは何にも覚えられない」といって、昔の思い出話がほとんどでしたが、まあ、私よりは元気に見えます。

 老老介護というのも、私のほうが先に介護される境遇になるって場合もあり得る。どうやら私のほうが先にガタがきているみたいですから。声を出すことが健康にいいと信じている姑、童謡を歌う会と詩吟の会に毎週でかけ、お習字教室のお稽古も欠かさない。せいぜい姑に元気のもとを学ぶことにしましょう。私も10ヶ月お休みしたジャズダンスサークルに来年は復帰するつもりです。

<つづく>
07:34 コメント(3) ページのトップへ
2009年12月28日


ぽかぽか春庭「ダンスサークル忘年会」
2009/12/28
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(2)ダンスサークル忘年会

 家族忘年会のほか、出席した忘年会はひとつだけ。12月18日金曜日は、ジャズダンスサークルの忘年会でした。ジャズダンスといっても、フラメンコ風ダンスありフラダンスあり、ソーランなどの民謡で踊ることもあり、マイケル・ジャクソンやプレスリーの曲あり、何でも踊ります。
 今年3月に中国に出かける前、「半年やすみます」と言って休会費を払ったのだけれど、帰国しても忙しさと体調不良にまぎれて、ずっと休会のままでした。2010年年明けから練習に復帰するということで、忘年会には参加しました。
 働く女性が週の終わりに集まって、身体を動かして一週間凝り固まった心身ほぐし、たまには練習後に集まっておしゃべりして、という自主サークルです。離婚やら別居やら親の介護やらさまざまな女性のライフステージを抱えながら、みな年に一度の発表会では自分たちで衣装を考え、プログラムを手作りし、楽しみながら踊っています。

 体調を考えてこのところ控えていたのですが、忘年会くらいはいいかと生ビール中ジョッキを頼みました。メンバーの半数はビールで半数はホットウーロン茶という注文ですが、アルコールが入らなくても、皆よくしゃべります。

 週末に夫婦仲良く観劇など続けているという話を聞いてきたトモさんのところでは、最近週末が楽しくないのだって。これまではご主人が仕事場に月~金で泊まりこんで働き、週末だけ帰宅していたので、週末は仲良くすごしてきたのに、最近の不況で事務所を閉鎖し、毎日自宅にいることになった。そうしたら、週末に仲良く過ごすことが難しくなって、毎日の夕食の準備がストレスになってきたのだって。娘さんが嫁いだあと、一人で気ままに食べたいものを手軽にすませていた平日も、ご主人がいるとなると、仕事を終えてあわただしく帰宅したあとそれなりの夕食を整えようとすると、気が重いのだと言う。え~、ストレスになるくらいなら、夕ご飯作らなければいいんじゃないの、と思ったけれど、人それぞれの生き方だろうから。

 お宅はどうなの?と聞かれたけど、私は今、夕食作りをリタイアした境遇だから、食べるだけの人。2007年に中国へ行っていた間、娘が夕食作り係りになってから、ずっと娘が夕ご飯作ってくれています。私はたまに自分で「けんちん汁食べたくなった」とか「ジャガイモ煮っ転がし食べよ」と思って、自分の食べたくなったものを作るくらい。
 娘の料理は、生協の半調理品やレトルトを利用する「お手軽簡単クッキング」です。ジャガイモの皮むきとか大根千切りとか、下ごしらえに手間暇かかることはしたがらないので、そういうものが食べたいときは私が自分で作る。普段の食事はどうしても若者向けの献立になります。娘とむすこはイタリアンパスタが好きなので、今まではスパゲッティやマカロニくらいしか知らなかった私も、ペンネとかフィットチーネとかいろんな種類のパスタがあることを知りました。

 私と「パラサイト息子を抱えて細々働く母親同盟」を結んでいるミサイルママも、「このごろ息子が自分で台所に立って自分の分の食事を自分で作るようになったの。私は私で気ままに自分の食べたい分だけ作るんだけど、たまに息子が作ったのが鍋に残っているとき食べてみると、これがけっこうおいしい」と、言う。うらやましいな。我が息子は父親の遺伝子を受け継ぎ、自分で作るくらいなら、コンビニのおにぎり一個でもカップヌードルでもあんパン1個でも、面倒なことなしに食べるほうがいい、と言う。

 「外食主義」の夫ですが、このところ食うや食わずの貧困生活だから、事務所のキッチンで鍋に湯をわかすことくらいはする。カレー屋へ行く回数より、レトルトカレーを温めて、パックご飯をチンして食べる回数のほうが多くなったというし、ラーメンも作るようになった、と言う。「インスタントではないよ。ちゃんと鍋でラーメン作るんだ」と威張るので、娘がよくよく問いただすと、夫はカップヌードルやどんぶりにお湯を注ぐチキンラーメンのたぐいを「インスタントラーメン」と呼ぶのだと信じており、鍋で作る袋入りのラーメンはインスタントではないと思っていたのでした。

 近頃は男子厨房に入り浸りで料理三昧のご亭主もいるそうだけれど、なんにせよ、作るのも食べるのも、それぞれ好きにしたらええんでないかい。作るのが面倒だと思ったら、作らないでも生きていける今の世はありがたし。一番やっかいなのは、余所でうまいもんを食べ慣れて口が肥え、女房の作る食事をおいしいともありがたいとも思わずに食べるだけで文句つけるダンナだということになった。

 介護のたいへんさやら、亭主のこきおろしやら、不出来な子供の愚痴やら、おしゃべりの花を咲かせているダンス仲間の女性たち、居酒屋での「自分が作ったり、後かたづけしたりしなくてもよい食べ物」は、どんな料理でもうれしい。焼き鳥、豆腐サラダ、鰹たたきなど、運ばれてくるつまみをつぎつぎ平らげていきました。
 
 帰宅して、ミサイルママに買い置いてもらっていた今年9月の発表会のDVDを早速パソコンで見てみました。サークルのオバハンたち、オープニングの曲では、私が中国土産としてサークルメンバーに渡した「中国東方舞(中国風ベリーダンス)」のヒップスカーフを腰に巻いて踊っている。うん、みんなエグザイルのダンサーには負けてるけれど、楽しそうな笑顔はだれにも負けてないサイコーの踊りでしたよ。

<つづく>
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2009年12月29日


ぽかぽか春庭「下北沢界隈」
2009/12/29
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(3)下北沢界隈

 1970年以来40年続くおつきあいの友人K子さんが、お芝居に招待してくれました。演劇好きな私ですが、このところ、とんと劇場に足を運ぶこともなかったので、年末演劇忘年会と思って、いそいそ出かけました。

 下北沢は若者の街、そして小劇場のメッカです。しかし、私は下北沢で演劇を見たことがなく、初めて下北沢に降りました。K子さんは、「それなら、下北沢の駅周辺をちょっと歩いてみましょう」と、本多劇場や「劇」などの前を通りながら、下北沢駅周辺を案内してくれました。

 本多劇場は下北沢では一番大きい。上戸彩が主演した2006年のドラマ『下北サンデーズ』(原作石田衣良)では、駅前劇場(客席数160)からスズナリ(客席数230)へすすみ、下北沢の上がりの本多劇場(客席数386)へと進出していくのが「シモキタの出世コース」と描かれていました。「下北サンデーズ」、視聴率は低かったようですが、我が家ではヒットドラマで、毎週楽しみに見ていました。

 駅前の韓国食堂でちょっとおなかに入れてからミニシアターへ。入った劇場は、小劇場の中でもこれ以上客席が少ないところはないだろうというくらいの客席数26席のミニシアターです。定年後生活のライフテーマを「演劇」にしているK子さんは、このミニシアターの「シーズンチケット」というのを購入。劇場レパートリーのうちの5本を見ることができ、うち1本は「ペア鑑賞券」付きという制度。そのペア鑑賞の「お連れ様」として誘ってもらったのです。

 「東京ノーヴイレパートリーシアター」の付属第一スタジオでの公演。レパートリーをすべて見てきたKさんによると、「観客の数が出演者数より少ない回もあった」そうです。演出家はロシア人で、役者たちは、スタニスラーフスキイ・システムというロシアのリアリズム演技による訓練を受けている、ということでしたが、ぼそぼそつぶやくようなセリフ術でときどき何言っているのかわからないこともありました。

 客席数26で、お客とキスできそうな距離で演じているからいいようなものの、これで本多劇場へ進出したとき、マイクをつかわなければ、一番うしろの席には声が届かないかも、というのはよけいな心配で、大劇場ではちゃんとうしろまで届く発声ができるのが役者。といっても、商業演劇の大劇場公演ではマイクを使うので、近頃の舞台役者、発声訓練では滑舌練習はするけれど、音量訓練はしたことないという役者も増えてきました。大声が必要なのは、マイク設備のない教室で講義する教師くらいなものになった。 

 「ノーヴイ」というのは、ロシア語で「新しい」という意味だそうです。日本語では「新劇」というと、独特のニュアンスがありますが、さて、「東京」日本語、「ノーヴィ」ロシア語、「レパートリーシアター」英語、という「やど屋旅館ホテル」みたいな「混成語」を劇団名にしているこの劇団の味やいかに、と13の客席が2列並んでいる前列の真ん中に座りました。小劇場の椅子というと、ベンチに横並びとか床に座布団とか、折り畳み椅子というのが多いのですが、この小劇場の椅子はゆったりした一人がけの肘掛け付きのチェアです。

 演目は近松門左衛門の『曽根崎心中』。私は昔むかしに文楽で見たことがあるきりです。(劇場へ行ったのではなく、3チャンネルあたりのテレビ放映か何かで)。歌舞伎の演目にもなっているのですが、私は人が演じるのを見たことがなかったので、今回初の人間曾根崎です。
 近松門左衛門の代表作にして人形浄瑠璃が「時代物」から「世話物」へとジャンルをひろげる最初の作品になった『曽根崎心中』。お初徳兵衛の心中事件を脚色した今でいう「実話の再現ドラマ」です。

 元禄16年4月7日(太陽暦では1703年5月22日)、大阪堂島新地天満屋の女郎・はつ(数え21歳、満年齢だと19歳)と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛(25歳)が梅田・曽根崎の露天神の森で情死した事件に基いて、近松門左衛門は歌舞伎と浄瑠璃の脚本を1ヶ月で書き上げました。心中事件の1ヶ月後には舞台で『曽根崎心中』が上演されている。すごい早業。今の感覚でいえば、事件発生後、すぐにテレビで「再現ドラマ」を放送するようなもの。テレビの再現ドラマはその場で消えていくような薄っぺらいものにしかなりませんけれど、天才近松は事件からたった1ヶ月後の上演で、300年後も上演が続く傑作を書き上げました。

<つづく>
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2009年12月30日


ぽかぽか春庭「一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ」
09/12/30
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(4)一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ

 江戸幕府開闢して100年。激動の戦国時代からみると、身分は固定され出世の糸口も見つからない時代の閉塞感にあえず人々にとって、「心中」という行為が、自分の人生に最後の光輝をあたえる行為として映りました。『曽根崎心中』の大ヒット以後、江戸元禄時代を生きる人々に心中ブームが起こりました。
 名もなくしがない手代の徳兵衛と、人身を売り渡された女郎のおはつとが、共に死を遂げたことで、物語の主人公として津々浦々にも知られる「死をもって愛を貫いた二人」として語りつがれるのを見た人々にとって、心中は極北の自己主張に思えたのです。
 近松の『心中天網島』上演は1720年。心中ブームは過熱します。しかし、元禄から享保へと時代が変わると、江戸幕府は1723(享保8)年に、心中物の上演禁止と実際に心中した者の葬儀禁止を発令しました。暴れんのはいいけど、情死は御法度、心中はお嫌いな八代将軍だったのです。

 『曾根崎心中』の大ヒットで、上演した竹本座の座元は、貯まりにたまっていた借金を、きれいに返済するほどの大もうけ。お初徳兵衛が心中したおかげで、竹本屋は首くくらんでも済んだ、というオチがつきました。人生一発逆転。「劇的!」はどこに転がっているかわかりません。

 「東京ノーヴイレパートリーシアター」の『曽根崎心中』は、近松門左衛門がナレーター役で出てくるという演出で、心中に至る途中の場面展開を、近松が両手にお初と徳兵衛の人形をはめて語る、という趣向もあり、おもしろい演出でした。演出舞台監督としてレオニード・アニシモフというロシア人演出家の名があげられています。レパートリーのうち『かもめ』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』というチェホフものや、ゴーリキの『どん底』などは、彼の演出を継承して上演しているのでしょうけれど、この『曽根崎心中』の演出を実際に行ったのは誰なんだろう。公式にはこれもアニシモフ演出になっているのだけれど。

 曽根崎心中はあまりにも有名なお芝居です。忠臣蔵のお芝居を「最後にちゃんと仇討ちができるのかどうか」をはらはらしながら見る人はおそらくいない。最後に本懐遂げて雪中泉岳寺へ凱旋することを皆知っていて見ているのですが、曽根崎心中のお話も、江戸時代の人はふたりが心中して幕がおりることを承知で見ていた。で、このミニシアターに来ている人も、ストーリーは承知だ、ということが前提になっていて演出されているのだろうと思いました。もし、初めて曽根崎心中を見た人が26人の観客の中にいて、ストーリーを追ってこの芝居を見ていたのなら、なぜ二人が死ななくてはならなかったか、死ぬことによってどうしようとしていたのか、よくわからなかったのではないかと思えたのです。

 終演後、近くのお好み屋でK子さんと歓談。K子さんは、一昨年定年退職した「キャリア」で、リタイア人生を謳歌しています。年金もない私から見ると、あこがれの「おひとりさま年金生活」を続けている人。今回、お芝居もおもしろそうでしたが、何よりもK子さんの暮らしぶりを聞かせてもらうのを楽しみに下北沢で会うことにしたのです。繁華街から一歩入った住宅地にあるマンションのローンも終わって、悠々自適のおひとりさま。

 K子さんは、現在、高円寺にある演劇スクールに通学中です。演劇史や演劇理論を学ぶ一年コースで、さまざまな演劇との関わりを持つ人々とともに、舞台美術から演出方法まで演劇について幅広く学ぶことができるのだそうです。舞台美術の授業では自分で舞台の正面図俯瞰図を描き、舞台模型を作ることまで課題になっているそうで、本格的に演劇を学んだ結果、演劇研究を大学院で続けていこうか、という気も出てきたというK子さん。「今更勉強しても何になるわけでもないけれど、やってみたいことがあるので」と、K子さんは言います。

 「やってみたいこと」というのは、前回会ったとき私も強くすすめた「ギリシャ悲劇」の上演。ギリシャ悲劇は、K子さんが若いころに関わってきた分野です。「単なる朗読会ではなく、かといって蜷川幸雄が演出するようなスペクタクル的な上演でもなく、もう少し違う形で、ギリシャ悲劇を上演する方法はないか、研究してみたい」というのがK子さんのライフワーク。

 「いいね、いいね、上演しましょう」と、お好み焼きとビール1杯ですぐ盛り上がる私。K子さんは、「じゃ、主役はあなた」と冗談をいうので、もう私は、メディアだろうとエレクトラだろうと、何でもやりましょう、とすぐその気になる。K子さんの研究がまとまって上演できるのが20年後だとして、80歳の私が主役をしたら、どんなアンティゴネー、どんなアンドロマケになることやら。おっと、文化勲章国民栄誉賞森光子さんは89歳にしてこの11月にも明治座公演にゲスト出演して元気な舞台姿だったというというし、HAL80歳ヘカベは案外いいんじゃないの?
 
 さてこのライフワークの夢は、♪一足づつに消えていく、夢のゆめこそあはれなれ、となるのやら、
 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる、星の妹背(いもせ)の天の川。梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、我とそなたは婦夫星(めおとぼし)。かならず添うと縋(すが)り寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし。

 2009年10月にお寺(椎名町金剛院)で上演された際の『曽根崎心中』
http://www.youtube.com/watch?v=bij6olnXiIg
 東京レパートリーシアターがユーチューブに出している『曾根崎心中』の数シーン。
http://www.youtube.com/watch?v=3zAsYQ_z3Pg&feature=related

 あれ、数うれば暁の、七つの時がむつ鳴りて、残るひとひがこんねんの、日めくり納めの一枚よ、寂滅為楽と響くなり。2009年残り一日を有意義におすごしくださいませ。

<つづく>
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2009年12月31日


ぽかぽか春庭「よいお年を」
2009/12/31
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(5)よいお年を

 今年1年振り返り、良いこともあり、残念無念なこともあり。悪いこともいいこともあるのが人生。禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事塞翁が馬。ということで、今年前半は中国で楽しく暮らし、たらふく中華料理を食べたまではよかったのですが、後半は年をとったことを痛感させられる病院通い。28日月曜日は病院最終日に駆け込んで、眼底検査やら緑内障検査やら、新型インフルエンザ予防接種やらをしてきました。

 左目に緑内障の兆候もあるということで、1ヶ月後の再検査の結果で結論を出すと言う。文字が読めないと、仕事できなくなるから、目はいちばん気にしてきたのに、老眼は気になったけれど、緑内障まで気にかけてこなかった。
 「身体が資本、元気なだけがとりえの私」と、自分に思いこませて暮らしてきたけれど、それは検査せずに事実を知らずにいたからそう思いこめたのであって、きちんと検査してみたら、あっちも悪いこっちもガタが来ていると、内科整形外科眼科の医者に責め立てられて、もう明日にもくたばりそうな気分。

 毎年、「今年も貧乏だったけれど、風邪ひいたくらいで、大事になることはなくすんだのだから、よしとしよう」と、大晦日をまとめるのに、今年は最後まで落ち込みから回復しませんでした。来年はもっともっと健康に気をつけなければ。年には勝てません。カロリー制限もするし、チョコ一箱一気食いやら「ランチはかりんとうと甘納豆1袋ずつ」なんて食生活も改める(つもり)。

 カフェ日記は365日のうち350日は更新してまいりました。コメント返信をしていませんのに、春庭コラムへの感想をありがたくちょうだいしております。拙い文章へのみなさまからのコメントに感謝いたします。
 来年もかわりなくご来訪いただきますよう、お願い申し上げます。それではこれにて、本年のおひらき。
 みなさまに置かれましても、来年が千里を駆けて飛躍する年となりますように。よいお年を。

<おわり> 
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2010年新年

2010-11-18 09:41:00 | 日記
2010/01/01
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(1)新年おめでとうございます

 新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 暮れに、春庭はなけなしの虎の子はたいてジャンボ宝くじ買ったのですが、まあ、例年に変わらず、、、おっと、正月早々縁起悪い話をしちゃいけませんね。言霊、ことだま。せめて元旦くらいは「虎の子を得る」ような景気のいい話しをしておきましょう。虎にまつわる諺など。もっとも大切なもののたとえとして、虎が子を大切にするようすから、「虎の子」という成句ができました。たいていは現金をさすのですが、一番大切な虎の子、あなたにとっては、何でしょうか。私にとっては、このコラムを書き続けることが元気の元でもありますので、2010年もせっせとつづってまいります。

 ジャンボくじでは3億得ることができませんでしたが、HALの志は、「虎は子を思うて千里を帰る」
 千里を走れるという虎は、巣穴にいる自分の子供を思って、千里先まで獲物を追いかけ、また千里を走って子のもとへ帰ってくる。親が子を思う気持ちの強さをたとえているのですが、仕事して疲れて千里とまではいかないけれど、片道90分を駆けて帰宅してみれば、子はゲーム三昧、ゴミ出しひとつやってない、という有様で、、、あれれ、また景気の悪い話しになってきた。
 ひとつ、虎にまつわる勢いのいい諺など紹介して、縁起良く新年を始めましょう。

 虎の故事成句・諺で、一番人口に膾炙しているのは、
・牡丹に唐獅子、竹に虎=ぴったり調和して絵柄が会っている組み合わせ。
・虎穴に入らずんば虎子を得ず=虎の住む洞穴に入らなければ虎の子は得られない。何事も危険をおかさなければ、目的を達したり、大きな成果を得たりすることはできないことのたとえ。現代語では「ハイリスクハイリターン」。英語ではThe more danger, the more honour. Nothing venture,nothing win.でしょうか。

 四字熟語では、
・虎視眈々=虎が獲物を狙って鋭い目でじっと見下ろすように、おのれの野望を遂げるため、じっと機会を狙っている様子。
・虎嘯風生(虎うそぶけば風しょうず)=虎がほえると谷風(春風)が起こる。立派な君主のもとにはすぐれた臣下が現れる、また、英雄が出現して天下に風雲の起こることのたとえ。出典『「淮南子(えなんじ)』天文訓(てんもんくん)虎嘯きて谷風至り、竜挙がりて景雲属(あつ)まる。

 そのほか、虎は威勢があったり、能力が高いことのたとえに使われることが多い。
・虎豹豈犬羊の欺きを受けんや=虎や豹のような強い獣は犬や羊などには騙されない。徳のある者は凡人などにあなどられることはない。
・之を用いれば即ち虎となり、用いざれば即ち鼠となる=人は、重い地位を与えられれば虎のように勢いづいて大きな働きをするが、用いられないとなると鼠のようにこそこそと逃げ隠れする小人物で終わってしまう。人はその地位によって能力を発揮できる。出典『東方朔(とうほうさく)』
・雲は竜に従い風は虎に従う=雲は雨をもたらす竜に従って現れ、風は虎が吠える息の勢いに従って起こる。立派で聡明な君主のもとにはすぐれた臣下が出現し、これを助けるというたとえ。また、相応しいものを伴うことで物事がうまくいくというたとえ。(成語林より)出典『易教(えききょう)』乾(けん)
・騎虎の勢い=走る虎に乗ってしまった者は、途中で降りれば虎に食われるから、降りたくても降りられず、行き着くところまでいくしかない。無茶な勢いで物事を始める蛮勇のたとえ。
・苛政は虎よりも猛し=租税を厳しく取り立てるむごい政治は、人を食う虎よりも恐ろしがられる。

 あれれ、なんだか話が難しくなってきて、景気も先行き不安な様子になってきたので、ここらでおひらき。
 みなさまの1年が、虎穴に入らんでも虎の尾を踏まずとも、「虎の子を得る」ものとなりますように。

<つづく>
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2010年01月02日


ぽかぽか春庭「虎の子のゆくえ」
2010/01/02
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(2)虎の子のゆくえ

 2009年の春庭メインイベントは中国赴任でした。古代高句麗の好太王石碑(広開土王碑)を訪ねる旅や長白山(白頭山)登山など、楽しい思い出がたくさん残りましたが、ひとつだけできないまま終わって残念だったことがあります。東北虎(アムール虎・シベリアンタイガーの亜種)の保護飼育施設(虎園)の見学ができなかったこと。同僚のリグン先生が「絶滅危惧種になっている東北虎を集めて繁殖をはかっている施設なのでぜひお目にかけたい」と、二度も見物日程をつくってくれたのに、二度とも体調が悪くなったり、仕事が入ったりして行けませんでした。

 そのときは、「虎より仕事優先」と思ったのですが、今年が寅年だったことを考えると「無理しても見学に行って写真の一枚もとっておけばよかった」と思います。市内の動物園では東北虎の写真をとったのですが、広い虎舎の奥にいて、私のデジカメではズームを最大にしても、ちっちゃくて、虎か猫かわからないような姿しか撮れませんでした。
 遠目であっても、虎舎のなかにいる東北虎、風格ある姿は美しかったです。

 東北虎は、長白山の山中の王として生きてきたのに、開発が続き今や野生の虎は絶滅危惧。ハルビン近郊などに「虎園」が設けられ、保護繁殖の対象になっています。日本のトキみたいな存在。日本トキが絶滅してしまったのは、その美しい羽が狙われて捕獲されたこともありますが、何より大きい原因は、田圃に農薬がまかれてトキが餌にする田の小動物がいなくなったこと、トキが営巣して卵を温める静かな森がなくなったこと。
 トラの生息地も同じ環境破壊にあいました。山は切り開かれ、野に鉄道が通り、虎が生きていく環境がなくなってしまった。

 トキは同種の中国トキを人工繁殖させてから野生に戻す努力が続けられていますが、東北虎は、繁殖して個体数が増えたとして、野生に戻すことは難しいのではないかと思います。開発と自然破壊はとどまることなく進んできました。虎園の飼育場から野生に戻そうにも、虎がウサギや狐を狩る広い野山は、消えています。かって虎が生息していた長白山も、虎が生きていけるだけの生態系は確保できない。
 開発された田畑や工場の土地を「森に戻そう」と主張しても難しいだろうから、せめて、東北虎を主人公にした「虎文学」をご紹介いたしましょう。

 ニコライ・A. バイコフ, 今村 龍夫訳『偉大なる王(ワン)』完訳版(中公文庫)
 東北の開発によって倒れていく虎を描いています。シートン動物記などの動物文学が大好きだった小学生のころ読んだきり読み返していないので、細部は忘れていますが、最後に王と呼ばれた虎が倒れるところでは泣いたことを覚えています。

  虎の次に滅亡するのは、人間です。まあ、私はこのまま環境破壊が続いて人間が絶滅したとしても、カンブリア紀の生物大絶滅の再来、そういうこともあるだろうさ、という派なので、人間が地球の「王」になった次には、猿がなろうともゴキブリがなろうとも、それでいいと思っています。恐竜はジュラ紀には地球の王となり、体長40mというデカさまで進化しました。崖の岩が落ちてきてしっぽにコツンとあたると、数分後に脳が「痛い」と感じるくらいだった、というのは冗談ですが、その身体のデカさゆえに、寒冷化した地球で生き延びることができなかった。

 隕石衝突で舞い上がった灰が天空を覆って日差しが遮られ地球の温度が下がったとき、卵が孵化することができなかったので、恐竜は生き延びることができなかった。胎生のほ乳類が地球の覇者になり、人間が「王」となった。この王は愚かな王で、「偉大なる王」ではなかったゆえ、次は人間が滅びるのです。人間は体長をでかくする方向には進化せず、脳の精度を上げる方向に進化したけれど、恐竜が身体のデカさをもてあましたように、人間は発達した脳を制御できなかった。快適に暮らしたいという欲望のほうが、環境保全の欲望より強かったのだから、欲望ゆえに人間が滅びるのだとしたら、これは人間という種に備わった滅亡プログラムの一環であり、運命を変える努力をしなかった人間は、当然地球の「種の変転」に組み込まれて滅びます。恐竜は自らが滅びただけですが、人間は他の種をさんざん滅ぼしていますから、罪深い。

 人間の次に何が地球の王となるのかわかりませんが、地球が太陽に飲み込まれて新星になる日まで、あと50億年はいろんな生物が覇者として交代するでしょう。地球100億年の時間のなか、その中程の、太陽を一周するこの時に、私は生きて生活してまいります。生き延びることができるかしら。人間滅ぶその前に、春庭は飢えて滅びることになりそうです。今年は去年より授業数減って、収入ますます減少。ううっ、私の虎の子が、千里を走って去っていく。

東北の虎吠えし野に一人居て千里は遠しと立ちつくすかな
長白山生態再現コーナーに東北虎の剥製吠えたり(東北師範大学自然博物館にてソンイェンティン、魏シャンユエと)
東北虎と白虎指さし虎(フー)フーとはしゃぐシャンユエ高校生なり(長春市動物園にてルールー、シャンユエと)
渤海の浜に寄り添う友のいて「偉大なる王」読みし日語りき(葫蘆島の海岸にて周アリンと)

<つづく>
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2010年01月03日


ぽかぽか春庭「時代を駆ける-駅伝を見ながら」
2010/01/03
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(3)時代を駆ける-駅伝を見ながら

 虎は一日に千里を駆け千里を戻る。日本の若者は正月早々、箱根山まで100kmを駆け、百キロを戻る。今年も箱根駅伝のテレビ観戦楽しみました。
 夫と娘と私の出身校が出場できるので、応援にも力が入ります。私が在籍中の大学もいれて4校の応援ができるから、どこかひとつくらいは優勝に絡んでいけると、娘とふたりわいわいとテレビの前へ。往路は、娘が手に汗握って応援する展開。4区あたりで息子が起きてきた。息子の在籍校に駅伝部はないから、客観的にレース展開を見るだけ。

 新キャッチフレーズが「山の竜神」となった柏原竜二。去年2009年は「山の神(今井正人)を越えた、山の神童」というネーミングでしたが、神童っても童はこどもなんだから、神を越えちゃまずいだろ、と批判され、1年間考え抜かれたネーミングが「山の竜神」。おっと、それって、ただ竜二っていう本名に「ん」つけただけじゃん、なんていうツッコミを一応しましたが、竜神という字面は重々しいけれど、サユリンとかマスミンとか名前に「ん」をつけるニックネームと思えば、足取りも軽くなる感じ。リュージン、いいんじゃない。予想通りに6人抜きを演じて往路優勝のテープを切りました。

 竜神がトップを奪ったあと、娘は「1区から4区までトップを応援できて、それだけでもさい先よい年と思うことにしましょう」と、残念そう。「自分の出身校が下位で走っていたときは、テレビがトップばかりうつすので、もっと下位も映してくれればいいのに、と思ったけれど、自分の応援するところがトップになると、下位なんか映さなくていいから、トップをずっと映せばいいのに、って思うもんだ」と、おかしそうです。

 私は、辺見庸の『自分自身への審問』を読みながら見ていました。私にとって辺見庸は、「単行本が出版されたら発売と同時に買う作家」のひとりだったのですが、このところ新刊書店にはとんとご無沙汰で、専門書をアマゾンで買うか、百円本ショップで買うかのどちらかになってしまって、2006年新刊の『審問』を買い損ねていました。百円ショップで見つけて買ったのです。辺見様、闘病中なのに印税納めなくてすみません。なにしろ夫が生活費持ち出していってしまうから、石油も買えない状態でいましたので。

 いつもぐずぐずとヤワな志しか持ち得ない自分の心を脇において、「時代の良心」として辺見が語るのを聞いてきました。辺見庸を時代を併走する人として愛読することで、自分の不運を愚痴るばかりの私自身の「良心の代理」を得てきたというところ。
 辺見庸は2004年に脳出血に倒れ癌を患い、壮絶な闘病の中、ますますとぎすまされた言葉のかずかずを結晶させている。

 また愚痴で始まりそうな年初に、ガツンと活を入れてほしくて、走り抜ける若者達の姿を追いながら、順位展開のない画面の間やCMの時間、細切れで読みました。細切れで読むには惜しい、ギリギリと時代を切り取る言葉たちを片目で追いながら、耳では、ケニア人留学生ダニエルがごぼう抜きを演じ、コスマスがトップに迫る活躍するのを聞きました。ダニエルやコスマスの故郷を思い、ケニアのサバンナや海辺の青空を思う。

 辺見庸はアフガニスタンの空を「たんば(胆礬)色」と形容しました。胆礬色とは硫酸銅の結晶が持つ半透明の青を言います。辺見庸がアフガニスタンで見た美しい青空の色は、また、「正義の名のもとに人を殺す行為」が、システマティック平然と実施される大地の上に広がる空の色でもありました。
 若者達の力走を見ながら、私は、辺見の「闘い続ける言葉」にどこまで併走できるのやら、と思います。

<つづく>
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2010年01月04日


ぽかぽか春庭「復路リユース」
2010/01/04
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(4)復路リユース

 箱根駅伝、東洋大の二連覇というフィナーレ。復路は往路を折り返して走るリユース(再使用)です。
 娘の出身校は往路の活躍に比べ復路はぎりぎりシード校入り。往路に主力選手を投入したのは作戦通りなのだそうですが、娘は「ぎゃあ、父のところが復路優勝しちゃって、また選手起用術の良否とか解説を聞かされる羽目になりそう」と悔しそう。
 観戦したほうは、「あそこは1キロ3分10秒以内のペースで運ぶべきだったでしょう」とかなんとか、勝手に走り方を批評して見ていますが、どの選手も精一杯走ったのは間違いない。シード落ちしたところも、たすきを渡せなかったところも、選手一人一人が己と闘って走り続けたのでしょう。

 私?私とて己との闘いを続けていました。わたしは、「食べたい、もっと食べたい」という果てしない食欲と闘っておりました。
 娘は、「母、確か大晦日には、新年から甘い物と炭水化物は食べないって言ってたよね。お正月になったら、三が日過ぎたら食べないに変わった。こりゃ、三が日過ぎると松の内過ぎたらに変わって、結局決意はいつもの、明日はいつも明日ってことになりそうだ」と、言います。そうね、2010年の出だしは、闘いにちょっと負けてる。はい、娘が作った栗きんとんは甘さ控えめでおいしかった。暮れに姑が煮て持たせてくれた小豆を冷凍して置いたのを解凍してお汁粉をつくって息子と食べた。(娘はあんこが嫌いでお汁粉を作ってくれないので、これは自分で作る)

 いやあ、眼圧が高いの、ガンマなんたらの数値が悪いのとさんざん脅されて、これまで健康を過信していたことの反省は十分にしております。明日から、炭水化物は控え、腹八分目を決意し、ゆっくり噛んで満腹中枢が働くよう、心がけます。早食いがイケマセンのです。わかってます。あ、大食いもいけません。あ~ん、食べるしか楽しみがないのに、つらい。

 辺見庸は、脳出血と癌の両方を患った後も、身体の変調とも世の変節とも闘っている。 今、同じように九州のウェブ友は「首から下が完全麻痺」という状態と闘っています。車椅子の生活を改善するために、難しい手術を勇気を出してうけたところ、手術後に首から下がまったく動かなくなってしまったのです。車椅子生活の中、パソコンでウェブ友と通信したり、詩を日記に載せたりすることをなによりの生き甲斐にしていたchiruchiru77さん、パソコンをクリックすることも不可能になり、どれほどつらいことでしょう。そのような状況であっても、チルチルさんは未来への希望を失わず、全身麻痺と闘っています。

 チルチルさんとの会話を、看護に通う妹さんが代理で書き留め、「青い鳥日記」にのせてくれました。
 Ifもしも
(姉)ねぇ!もし、もしもね、もしも手が自由に使えるようになったら、何が一番にしたいかわかる?
(妹)ハナクソホジリ!
(姉)がはっはっはっはー、なんでわかったとぉ!?

 首から下がまったく動かないという状態でも、読者に笑いを届けようとする友の志を受けながら、私もまた今年、書き続けることで時代を走っていこうと思うのです。

 箱根駅伝往復応援している間に、辺見庸の『自分自身への審問』を読み終わりました。食事制限すらできないヤワな私の心身に、ずっしり重い読後感でした。
 たんば(胆礬)色の空の下では、今年も「テロに対抗するために撤退はあり得ない」という「正義」のいくさがつづくのでしょう。今年も職を失い住む所も心の拠り所も失った人が3万人を越えて自死していくのでしょう。辺見は、この3万の自死を「見えない内戦」と評していました。何でもかんでも金銭に換算する価値観しか持てなくなった国での、「価値なきもの」とされた人々、己の生きていく価値を見いだせなくされた人々が内戦に負けた結果の自死です。勝ち組は株や相場の高下に一喜一憂しながら、笑顔も介護の質も思いやりもすべてに値札を張りながら勝ち続けていくのでしょう。

 私も病身となっても働き続けなければ食べていくこともできないので働きます。がんばります。書き続けます。

<つづく>
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2010年01月05日


ぽかぽか春庭「復路リデュース」
2010/01/05
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(5)復路リデュース

 人生、とっくに折り返し点を超えて、山下りが始まっていたというのに、自分の下り坂を考えずに突っ走ってきました。走り続けなければ倒れてしまう自転車操業ということもありましたし、山道を駆けめぐるアップダウンの激しい道で、今が登りか下りかも考える暇なく、ただひたすら働き続けてきたのです。クロスカントリーロード駆けめぐる山道が破壊されてずたずたであることにも目をつぶり、ひたすらペダルをこぎ、走り続けてきました。

 トキも東北虎も絶滅危惧種となりましたが、環境破壊が続いて、次に倒れるのは人間です。「地球に優しく」というエコ標語に対して、誰が言ったせりふか忘れましたが、「本当に地球にやさしくしたければ、地球にとって一番いいのは人間が絶滅することだ。スーパーにエコ袋持っていって環境保護した気になるな、割り箸使わないくらいで、自分はエコ生活しているなんて思うな、まず、あんたが地球から消えることが、あんたにできる最高のエコロジー」と、喝破した方がいました。

 私は地球から消えてしまいたくはないので、せめてリユース・リサイクルにでも励みましょう。2010年最初のシリーズは、再利用リユースから始めます。
 2003年にカフェ日記を始めたのですが、2003年9月と10月に書いた文章は、カフェコラムから削除して、本サイト『話しことばの通い路』に格納してあります。読もうと思えば、本サイトのを見ればいいことなのですが、カフェコラムとして書いたのに削除してしまったのは残念に思うので、再録したいと思います。

 2003年9月10月の春庭コラムをどうしてカフェ日記から削除したのかというと、2003年10月30日に書いたコラムにある人物の実名を書いてしまったからです。
 40年前、私が大学病院内科検査室の検査士として働いていたときの思い出話を書きました。その中に、同期同僚の仲良しだった友達カコさんを登場させ、その同僚が結婚した相手の名を実名で書き込みました。連絡が途絶えた友が、今どうしているのか、知りたいという思いがありました。

 カコさんがおつきあいしていた人の名前を検索すると、某県の赤十字病院副院長をしているお医者さんが出てきます。カコさんは学生時代に知り合った医者の卵と結婚したいと望んでいたので、この副院長さんの奥さんになっているのではないかしら、赤十字病院に問い合わせのはがきでも出してみようか、いや、長年連絡が来ないのは、連絡をとりたくない事情があるのかもしれないから、迷惑をかけるかもしれない、と躊躇していたら、思いがけなくカコさん本人が、春庭コラムを読んだ、というメールをくれたのです。ネットが人捜しに役立つことが実感できましたが、結果はあまりよい方向に向かいませんでした。

 カコさんからのメールは、なつかしい友にネット上で再会できた、という内容ではなく、夫の実名を削除してほしい、という依頼でした。それは本当に申し訳ないことでした。勝手に実名を出されたりしたら、迷惑に思うでしょう。実名を仮名かイニシャルに変えようと思ったのですが、古いバージョンのころのカフェ日記は、日記の「一部分書き換え」ができなかったのです。一箇所でも書き換えをすると、それは新規作成となって、作成当日の欄に移動してしまい、日付が変わってしまう。

 日付と内容の順番を違えると、当時書いていたシリーズが成立しなくなってしまう。「アイウエオ順に作者名をあげて、本の内容と自分語りを連動させる」という試みをしているシリーズだったので、ひとつだけ順番を変えると、アイウエオ順からひと文字が抜けてしまう。この時は、ひと文字でも抜けるとシリーズ整合性がなくなってしまうような気がして、2003年10月分を全部カフェ日記から削除しました。春庭の本サイト『話しことばの通い路』に格納し、カフェコラムからはリデュース(削減)してしまったのです。

<つづく>
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2010年01月06日


ぽかぽか春庭「復路リサイクル」
2010/01/06
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(6)復路リサイクル

 今になってみれば、削除要請があった10月30日の日記だけ削除すればよかったのだ、と思いますが、そのときは一ヶ月分削除がベストに思えたのでした。カコさんの意志を尊重し、カコさんに少しでも迷惑がかからないようにしたい、という思いが強かったのです。
 文章から「カコさんの夫の実名削除」だけを実行することができないなら、10月執筆分を全文削除する、ということにして、そのときはそれで仕方がないとと思えました。

 カコさんから連絡が来て、私はネットが結ぶ縁に大喜びしたのですが、カコさんのメールは再び途絶えました。「現在、英語教育を学ぶために、大学院修士課程に在学中」というカコさんの近況報告を受けたあと、パソコンメールにあるアドレスのバックアップを取らないうちパソコンが壊れて、アドレス不明になってしまったのです。
 春庭サイトに掲げてあるメールアドレスは変えていないので、カコさんが連絡したいと思えば、連絡してくるだろう、連絡がないということは、昔の友情をなつかしく思っておつきあいを復活させる気持ちが薄いのだろうと諦めてしまいました。

 私は大学病院で働いた時代をなつかしく思い、一番仲良しだったカコさんを今でも古い友人として大切に思っているのですが、当時も今も、これは片思い。当時カコさんは、恋人のタロさんとのおつきあいが大切で、同僚の私は単に仕事場での仲良しにすぎなかった。
 カコさん、今どうしているでしょうか。たぶん、英語教育の仕事や赤十字病院副院長夫人としての生活を続けて充実した人生を送っていることと思います。

 大学病院で内科検査士をして働いたころのこと、たった1年半の検査士生活でした。取得した衛生検査技師の資格は今ではただの紙切れですが、東京に出てきて一生懸命働いたころの思い出、今では宝物のように思います。

 (調べてみたら、2005年に衛生検査技師資格は臨床検査技師に統合されて、今ではこの資格は廃止されていました。衛生検査技師と臨床検査技師の違い。臨床検査技師は、医師看護師の指導の元、静脈からの採血検査ができるけれど、衛生検査技師は採血を行うことはできない、と、わかりました。そういえば、私は耳たぶにメスを入れて採血する業務を行ったけれど、注射での採血をしたことがなかった、今頃気づいた。最近の検査では採取する血液量が多くなったので、耳たぶ切開の採血法では十分な量を確保できないから、静脈採血業務ができない資格では不自由だから臨床検査技師に統合されたのでしょう)

 2003年に最初に書いたカフェコラムシリーズ、これも7年たった今になってみれば、宝物のように思えます。何も削除することはなかったなあ、と思うので、再録します。リユース&リサイクル掲載。
 1977年以前に読んだ本の作者名を(あ)から(む)まで並べ、作品の思い出たどってつづった自分語り。

 (め)以後の分は、2003年11月からのカフェコラムに掲載してありますので、すでに読んでくださった方もいるかもしれません。2003年に9月と10月の分を、読んでくださった方もいたとして、もう忘れていると思います。記憶に残るようなことは書いていないから。二度目の掲載リユースでも、もう一度お読みくださるなら、ありがたく存じます。

 たいしたこと書いてないけれど、自分語りってのは、年寄りに何度でも語らせてあげるのが、親切ってもんです。私など、姑が「生まれ故郷の家から女学校に通学するのに、駅のある所まで普段は片道歩いて1時間の道のりだけど、冬になると雪の道を踏んで片道2時間もかかったんだべした。冬だけ町に下宿する人もいたけれど、うちは貧乏だから下宿させてもらうお金がなかった」と語るのを、年始のたびに冬の思い出として聞かされております。そのたびに、「ええ、えぇ、米沢の雪はたいへんだったでしょうねぇ」と相づちうって、姑孝行相務めておりまする。

 2003年に「老いの準備」として書き始めた内容なのですが、今では本当に老いと戦う日々が始まって、ああ、このころは老いることが身にしみていなかったから、気楽に「老い支度」なんて言っていたんだなあと思います。では、2010年1月2月の春庭コラム、新年会報告のあと、2003「おい老い笈の小文」リユース&リサイクル掲載いたします。

<つづく>
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エスニック料理めぐり&風流俳句作成ソフト2010年2月

2010-11-14 17:06:00 | 日記
2010/02/25
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>エスニックめぐり10年02月(1)北欧料理と西安料理

 学期末、講師仲間の「打ち上げ」が続いて、エスニックめぐりで食べまくり。2月20日は、吉祥寺の北欧料理。22日高田馬場のカンボジア料理。23日銀座の西安料理。おまけに26日王子のワタミ(これはジャズダンスサークルの食事会)もあって、この一週間体重が、、、血糖値が、、、、悩み多き中高年です。でも、半年間お仕事がんばったご褒美に、ま、ちょっと太ってもいいか。え、「ちょっと」で済むのか、、、すみません。

 北欧レストラン「ALLT GOTT」のAコース。前菜は盛り合わせオードブル、小エビや魚のマリネほか。魚はニシンだったかしら。魚の種類が何か、なんて気にする間もなく胃袋に落ちてしまった)。スープはしめじ入りポタージュ。牡蠣のコキーユ。鮭のソテー。プチスィーツ盛り合わせ。コーヒー。4人掛テーブルにワイン1本つけて、会費5千円。女性ばかり17人での会食でした。

 私は日頃講師室で無愛想にしているので、ちょっと敷居が高い思いをしながら椅子についたのですが、同じテーブルの方々、和やかにお話をなさって、私も楽しく話題に加わることができました。今見ているテレビドラマ『蒼穹の昴』の西大后役の田中裕子が、今まで西大后を演じたどの中国女優よりもぴったり役にはまっていると、意見が一致しました。

 今放映しているBS中国語バージョンでは、田中裕子のセリフ部分、中国人俳優が中国語吹き替えをしているのですが、田中裕子が中国語を喋っているのかと思うくらいぴったりと口があっていて違和感がありません。そのうち地上波放送で日本語吹き替えバージョンを放送するだろうと思うのですが、その時は、田中裕子の日本語セリフを聞くことができるだろうと楽しみにしています。京劇のできる宦官・春児を演じている余少群 Yu Shao qunは、京劇のスター梅蘭芳の少年時代を演じてデビューした若手俳優。だれが吹き替えをやるのか、興味津々です。

 西大后の食卓。豪勢な満漢全席の大皿が並べられています。大后が箸を動かし、一口食べる。「美味である」と褒めると、さっと皿が下げられてしまいます。大后は「たまには二口目も食べたいものだ」と嘆きますが、お付きの宦官長、蓮英は「宮廷のきまりでございますから」一点張り。あれま、そうなんだ、どんなにおいしいと思っても一口以上は食べられないなんて、大后もけっこう不自由なんですね。私なんぞ、北欧料理のパン、おかわりしてしまいました。北欧料理、フランス料理系ですが、魚介類がメインで日本人向けに仕立ててあって、「美味である」。

 2月23日にも講師仲間の打ち上げがありました。あちこちの大学に出講していて、いろいろな交流がありますが、日頃講師室で小さくなってすみっこにいる私としては、学期末の打ち上げくらいしか友好関係を保つ機会がありません。この業界はとても狭いので、講師室仲間のひとりと話していると、その人の友達とは、別の大学講師室で顔を合わせている、ということが多々あり、「あの人といっしょに仕事するのはイヤ」という評判が立つと、たちまちのうちに業界中に「人物評」が伝わります。

 私が泣かされたベテラン講師、私が不出来な講師だからキツイ言葉を投げかけられるのは仕方ないのだろうと泣き寝入りしていたら、何人もの方から「私もあの先生に泣かされた」「あの人と同じ曜日には出講したくない」という話を聞き、ああ、こういう評判が駆けめぐったら、日本語業界で仕事するのが不自由になってしまうだろうに、と、かえって気の毒に思ったことがありました。講師の仕事は教室内独立自立であるとはいえ、何かのおりに教材を教え合ったり、ちょっとした疑問質問に答えてもらったり、講師室で助け合うシーンも数多くあります。
 無愛想な私ですが、せめて「あの人がいる講師室に行きたくない」というような風評だけは立てたくないと思い、講師室仲間とは仲良くしていたいと願っています。

 有楽町の西安料理は、「XI'AN」という店で、都内に10店以上支店を展開しているチェーン店です。
 去年中国で教えて、今東京に留学生として来ている中国人学生のブログには、研究室のコンパで、この「XI'AN」の別の支店で食事したことが書かれていました。彼が書いていることには、「この店の西安料理は、西安料理ではなく、日本料理です」。どうやら日本人向けに味を加減してあったので、彼にとっては、辛さが不足していて物足りなかったのかも知れません。私には辛すぎず、十分においしい中華料理でしたが、中国人にとっては、「これは中華料理ではなく日本料理」と思うアレンジなのかもしれません。私は「茄子の揚げ炒め」や餃子、この店の名物という刀削麺など、おいしくいただきました。

<つづく>
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2010年02月26日


ぽかぽか春庭「カンボジア料理」
2010/02/26
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>エスニックめぐり10年02月(2)カンボジア料理

 22日は、高田馬場のレストラン「カンボジア」で、学生といっしょのクラス終了打ち上げ。
 今期の初級ゼロスタートクラス。カンボジアからの留学生がふたりいました。かわいい女子学生ニャンちゃんと、たいへん優秀な男子学生ニィさん。将来はカンボジアの発展を担って立つであろうという人ですが、不法滞在者に見えてしまうらしく、品川とか新宿とか人出の多い場所にでかけると必ず警察官に職務質問され「パスポートを提示しろ」と言われてしまうと嘆いていました。
 もうひとり、マレーシアからの留学生カルさんも、送られる側。マレーシアの中の中国系、客家語を母語としており、見た目も日本人と変わらないので、カルさんは職質を受けたことは無いのだそうです。

 ニィさんとカルさんは、4月からは私立大学大学院に進学します。ニィさんは「グローバル・アグリカルチャー・ディベロップ・スタディ国際農業開発研究」を専門とし、カルさんは「マレーシア熱帯植物の薬効分析」を薬科大学で研究します。ニィさんは、カンボジアの農業はこれから発展する可能性が大いにあり、開発を上手にコントロールする必要があるそうです。同じような気候と土地を持つお隣のタイやベトナムでは米の三期作を行うようになり、飛躍的に農業が発展したのに、カンボジアでは未だに一期作を続けており、三期作をするようになれば、収穫は三倍になるはずだ、とニィさんは言います。しかし、そのためには種籾の選び方蒔き方の指導、土地と水の管理を厳密に行うことが必要になります。

 「米喰う人々」というNHKBSの番組を見ています。前に西アフリカの稲作のようすを見ました。24日の放送では、日本の農業大学で「国際農業開発」を専攻する女子学生がベトナムの三期作農家にホームステイして農業のお手伝いをする、という内容でした。80歳を超えたという一家のおばあちゃんは、ベトナム戦争下で、爆撃や敵襲の合間に命がけで稲作を続け、ベトコン兵士に米を届けたという話をしていました。一家の大黒柱であるお父さんは、「子供の頃はおなかをすかせていたけれど、三期作のおかげで一家がおなかいっぱい食べられるようになり、子供を高校にいかせてやれるようになった」と語っていました。高校生の長男は、大学に進学してより高度な農業を学びたいと夢を持っています。

 ニィさんたちが大学院で農業開発の方法論を学んで帰国したら、カンボジアの農業もより実り豊かに発展していけるだろうと信じています。

 22日、国立大学に残るニャンちゃんや中国のカンさんと、ニィさんカルさんとのお別れ食事会。去年カンボジアへ旅行してきたという日本人学生リサさんも誘いました。リサさんは、3月には上海での日本語教育実習に参加することになっています。今期は、私の「非漢字圏留学生のための漢字授業」のTA(ティーチングアシスタント)としてクラスに入ってくれて、大活躍でした。きっとよい日本語教師になるだろうと思います。

 カンボジアふたりのために、「カンボジア」というレストランを選んだのですが、メニューを見て、ふたりは首をかしげ、「これはカンボジア料理ではありません」
 「カンボジア」という店名ですが、看板には「ベトナム家庭料理」と書いてあります。コースを頼んだところ、生春巻、海老揚げ、などをニョクマムで食べ、中華料理風の烏賊炒め、春雨サラダなど、アジアンエスニック風の料理がテーブルに並びました。味はまあまあですが、量が少な目でコストパフォーマンスから言うと点が低い。

 ウエイトレスはどこの国から来たのか聞かなかったのですが、ニィさんがカンボジア語で話さず、日本語で注文していたのをみると、カンボジア人ではない。日本語はまあまあ通じますが、サービスには気が回らないふうで、最後に供された米粉のうどんのクイティウがカンボジアの麺ということで、かろうじて「カンボジア料理」の気分がでました。カンボジアの学生にはちょっと残念なメニューになってしまいました。

 私は「アンコール」というカンボジアビールを飲んで、それだけでもカンボジア気分になれたのですが。ニィーさんが、「このビールはカンボジアなら一缶50円で飲めます」というので、2缶目は頼みませんでした。アンコールワット見学に必ずカンボジアに行きたいと思っているので、そのときに50円の缶ビールを百本も飲んでやろうと思います。

 リサさんは、去年のカンボジア旅行で「空心菜の炒め物がおいしかった」と話したので注文したかったのですが、カンボジアのふたりには、それがどんな料理かわかりませんでした。中国のカンさんは、英語教師なので「空心菜」を英訳してもらおうと思ったのですが、カンさんにも英語名はわからない。あとでカンボジア料理のサイトを見ると、「空心菜の炒め物」は、カンボジア語(クメール語)ではチャー・トロクンという料理名でした。次は代々木の「アンコールワット」という店に行って、チャー・トロクンを頼んでみようっと。高田馬場の「カンボジア」は、たぶんリピートはないでしょう。

 カンさんたち、中国からの留学生にとって、2月は旧暦新年の春節でした。中国と韓国からの留学生が、国費留学生の寮で新年を祝って盛り上がりました。
 4月にはアジア新年を祝うイベントがあり、カンボジアやタイの留学生が自国の料理を作って新年を楽しむそうです。「先生もぜひ寮に来て、ほんとうのカンボジア料理を食べてください」と言ってもらったので、4月のカンボジア料理を楽しみにしています。

<つづく>
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2010年02月27日


ぽかぽか春庭
2010/02/27
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>エスニックめぐり10年02月(3)居酒屋で3回転半

 26日は、ジャズダンス仲間との食事会。今年の発表会で何を踊るかとか、会費の値上げはどうするか、というような会の運営の話のほか、話し合いをしながら、居酒屋で食べて飲んでという会です。

 練習が終わって、駅前白木屋へ歩く道筋、ミサイルママと盛り上がったのはやはりバンクーバーオリンピックのこと。ミサイルママは高橋のフリーにいたく感動したそうです。
 冬季スケートシーズン、我が家は、フィギュアスケートファンですから、連日盛り上がっていました。2009年の秋、シーズンがはじまって、グランプリシリーズ、フランス、ロシア、中国、アメリカ、カナダ、日本の各大会と韓国でのグランプリファイナル、四大陸大会など、全試合全放映を完全視聴!選手の名前も得意技も苦手なジャンプも全部頭に入れて、いざ、バンクーバー。

 ペア、男子フリー、アイスダンス、女子フリー、全放映を娘息子私で完全視聴。出場全選手の全部のすべりを見続けました。4時間5時間と続くライブ中継を見続けるのも根性です。グランプリシリーズなどでは、日本人の選手が少ないアイスダンスやペアだと金銀メダルをとった選手のスケーティングくらいしか放映してくれないので、今回アイスダンスの地味めなコンパルソリーまで全部見ることができて大満足でした。ただし、アイスダンスのオリジナルセットパターンの放映がありませんでした。

 男子、高橋の銅メダル、織田と小塚の入賞。女子、浅田真央銀、安藤美紀、鈴木明子の入賞。日本勢は参加6選手全員が入賞するという大活躍で、日本中が盛り上がりました。もちろんこの主要選手のスケートのほか、4年後のソチのとき、どの選手が伸びてくるのか、という楽しみのために、下位選手のスケートも全部見たのです。

 男子フリー。今回は復活王者プルシェンコが連覇を狙ったのですが、銀に終わりました。ほとんどが「王子様タイプ」のイケメンスケーターたちの中で、プルシェンコが「ヒール」に回ったのがちょっと面白かったです。プルシェンコは怪我などのためにいったん引退し、サンクトペテルブルク立法議会議員をつとめるなど、スケートとは別の世界でも活躍していたのに、2009年9月に現役復帰し、たちまち4回転を決めて欧州選手権優勝。憎らしいくらいの鮮やかな復活劇でした。

 しかし、バンクーバーでは、4回転を飛ばなかったライサチェックに及ばず、「アメリカ大陸での開催だからしかたがない」とか、「エバン(ライサチェック)に必要なメダルだったね。僕はもう金メダルをひとつ持っているから」と、負け惜しみを言ったり、ヒールぶりを発揮。ロシアでのプルシェンコは子供達あこがれのヒーローです。貧しい家庭に育つも才能を見いだされ努力を続けてきた英雄の人気は絶大で、ロシア国民にとっては、プルシェンコへのバンクーバー審査員の厳しい評価に不満が残りました。 
 女子フリーは、キム・ヨナと浅田真央の19歳ライバルの対決と、競技2日前に応援来ていた母親を失ったロシェットに注目が集まりました。安藤美紀選手も鈴木明子選手も自分の力を出し切ってのスケーティング、ほんとうによい試合でした。

 と、いうようなフィギュア観戦話で盛り上がり、ダンス仲間と居酒屋談義を続けました。プルシェンコは、ダンスとスケートを同時に習いはじめ、両方の教師から圧倒的な才能を評価され将来を嘱望されたのですが、自分の意志でスケート選手になることを選びました。
 ダンスやバレエのステップやポーズは、フィギュアにも共通する基礎で組み立てられています。彼がダンサーになったとしても、ルドルフ・ヌレエフやミハイル・バリシニコフ、ファルフ・ルジマートフと同じくらいのすぐれたダンサーになったことでしょう。ただ、バレエダンサーは、バレエに興味のない人には知られないのに対し、オリンピックメダリストはフィギュアスケートに関心のない人々にも世界中に名前が知られます。

 26日の練習では、先生はバレエのアラベスクのポーズをとらせ、「はい、スケーターはこのまますべっていくんですよ」と。ポジション保っているようメンバーに指示。見た目にはずっと同じ姿勢ですべって、ジャンプよりは楽そうに見えるスパイラルも、美しく華麗なポーズを保つにはすごい筋肉の力だということが、ようくわかりました。
 ダンスを続けている仲間達、メダリストのような才能はかけらもないですが、楽しくジャズダンスやフラメンコ、民族舞踊などを踊り続けています。2010年の発表会曲目などを話し合いながらの、居酒屋での食事とおしゃべり、盛り上がりました。

 さて、2月下旬は、打ち上げ続きで毎日盛大に食べ歩きましたが、これから先、秋のダンス発表会めざして、節制せねばなりません。このおなかの贅肉をもちっと減らせば、きっと私も3回転半のターンがうまく決まるはず、、、、
 あれ、そのツクネ、1つ余り?じゃ、私食べるね。平気、へいき。今食べた分は、来週のピルエットターンで燃焼させるから、、、、

<おわり>
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2010年02月28日


ぽかぽか春庭「風流」
2010/02/28
ぽかぽか春庭2003おい老い笈の小文>あいうえお自分語りリユースリサイクル残り物(俳句ソフト風流)

at 2003 10/15 06:29 編集 ネット海の航海、俳句という名の船に乗り
 高齢者の趣味の中で人気の高い「文芸」。中でもダントツ一番人気は「俳句」である。 短歌や詩を趣味とする人、自分史執筆を目指す人などの人数に比べると、俳句人口は格段に多い。
 日本語文芸の極みまで奥深く分け入ることもできるし、初心者が仲間と腰折れひねって遊ぶこともできる。歳時記一冊、ノートとえんぴつさえあれば、いつでもどこでも、一人でも仲間とでも遊ぶことのできる、究極の遊び道具。

 パソコンと俳句を連動させて遊びたい人向けに、「パソコン利用俳句自動作成ソフト」がある。次から次へ5,7,5,のことばが自動的に繰り出されてくるソフト。それを組み合わせて俳句ができあがり。小学校の国語科教材として利用している先生もいる。
 風野春樹作成の俳句ソフト『風流』が作り出した作品を紹介しよう。
http://member.nifty.ne.jp/windyfield/diary9807a.html#06 風野春樹「サイコドクターあばれ旅、読冊日記98年7月上旬より)

夏の葉がさざめき古都をなぐさめる
去年今年過ぎゆくキスとなりにけり
歯ブラシを恐ろしく見る新年会
葉桜や馬鹿を愛して法隆寺
眩しさや窓辺虚しく包む雪
薔薇の死や嘆く悲劇を傷つける
チューリップ散って短き罪ぞ咲く
卒業式恋しく逃げる抱きしめる
吹き飛ばす蝿の世界の娘の死
馬鹿も咲く頭明るき年賀状

 なまじっかの初心者より、よほどすぐれた句を生み出すのがパソコン宗匠であることがわかるだろう。
 このソフト『風流』は、MS-DOSで作成されたので、現在のパソコン環境では使えないというのが残念。最近のパソコンで簡単に遊べる『風流』のような俳句作成フリーソフトをご存知の方、メールでご一報を。(留学生の日本語教育クラスで遊んでみたい)
ネット上を探してみたのですが、自動俳句制作パソコンソフトは、その後新ソフトは作られていないようです。
=========
2010/02/28
 2月27日、母の忌日にお墓参りに行けなかったので、せめて俳句のひとつもひねって母を偲びまする。春庭、腰痛防止の腰折れ俳句。
・悴むもめくる歳時記春の部に
・広辞苑に新語立項春浅し
・如月の尽きるや母の忌のぬくし
・カラバッジョの果物籠に盛る馬酔木(花馬酔木の季節は春だけれど、ここはひとつ去年秋の小さな実が春先まで木に残っているという趣で。画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは、バロック絵画の先駆者。決闘相手を剣で殺してしまうなど激情の持ち主。カラヴァッジオ肖像画は、イタリア10万リラ紙幣になっている。)
・別れ霜放置のままの友ブログ
・三回転跳んで涙の二月尽
・銀盤の舞姫競って二月尽 

<つづく>
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洪水と復活2010年3月

2010-11-09 11:39:00 | 日記
2010/03/01
ぽかぽか春庭十人十色日記3月>災害(1)大雨洪水

 テレビに臨時ニュースのテロップが出た。南米で大きな地震が起きたという。南米じゃ、地球の裏側だし、ここまで揺れることはないだろうに、と、遠い地震をよそ事だと思っていたら、この地震の余波が太平洋を横断して、日本にも津波を起こすおそれがあるのだという。チリでは400人もの死者を出したという地震による津波。はたして28日には、日本に津波が来たというニュース。大津波警報も出ました。

 地球の裏側から伝わって、1mの津波が日本の浜辺に押し寄せました。どれほど大きなエネルギーなのだろうと思います。海辺にいた人には避難勧告も出て、たいへんだったでしょうけれど、十分に備えをする時間があったろうから、今のところ人的被害の報告はなし。津波によって市街が水浸しになった地区もあるそうで、被害にあった方々にはお見舞い申し上げます。それにしても。

 遠くの地震より、我が家の水被害。津波が日本の海岸に届く前に、我が家への災害が何の前触れもなく大惨事となって押し寄せ、パニックになりました。部屋のなかに大雨が降り、洪水となりました。
 集合住宅ではありふれた災害である「水漏れ事故」が上階の住人によって引き起こされ、深夜の1時から5時まで、部屋の天井全体から大雨が降りつづきました。

 家中のバケツ鍋釜を水受けに使い、タオル、毛布、布団を部屋に敷き詰めて下の階までは水が行かないようにしたのだけれど、我が家の下の階にまで水は伝わり水漏れが及びました。どれほど大量の水が出たのか。
 もとより部屋中に書類、本、服、その他もろもろ散乱していた汚部屋であるけれど、急激な天井からの漏水に、おおかたのものは水びたしになってしまいました。

 水が落ち始めてすぐに上階のドアをたたいたけれど、反応なし。団地の緊急連絡電話に連絡して、玄関脇にある水道元栓を閉めることが先決というので、あわてて上階の部屋の水道元栓をしめましたが、すでにそれまでに大量の水が10階の床から9階の天井へ落ちてしまいました。集合住宅の悲しいところ。上階の床は我が部屋の天井とコンクリ何センチ。

 1時半から2時ころまでドアをたたき続けて、ようやく起きてきた上階住人は、洗面台の水道栓を閉め忘れて、寝込んでしまったとの弁。私がいくら激しくドアをたたいても、起きてこなかったのは、お酒を飲んでいて寝入っていたからみたい。起きてきたときも酒臭かった。(個人情報の問題が起きて以後、団地内住人電話帳は廃止され、上階の人が引っ越しても挨拶もしなくなって久しいので、電話番号は知らなかった)

 上階の住人は、本人の弁によれば、子供は独立し妻とは離婚したあとの一人暮らしという。一人暮らしの人こそ、火災や水漏れに細心の注意を払うべきだと思うけれど、そんなことは一人一人の心がけだから、こちらがあとからどう言っても遅い。団地災害の保険にも入っていないという。

 ノートパソコンやいくらかの本はベランダに出したけれど、ディスクトップパソコンやプリンターは移動する間もなく、水濡れ。ものの移動をするより、下の階に水が落ちないようにする方を優先したので、広辞苑も大漢和も水浸しになった。

 服も布団も水びたしになった被害についてより、自分自身の気持ちの落ち込みが強かった。平静な日常生活を送り続けることは、貴重なものだとわかって暮らしていても、いざ、自分が災害に遭ってみると、どうして私にこのような災難がふりかかってくるのか、ささやかにまじめに生きてきて、なぜ私ばかりがこのようなめにあわされてしまうのか、部屋を片づける気もおきず、うなだれているばかり。

 ようやく気持ちのリハビリとして、助かったノートパソコンをあけた。私にとって、パソコンで文字を打ち出しているのが一番の「日常生活」なのだとよくわかる。
 少し落ち着いて、濡れた衣類や防水に使ったタオル類などの洗濯にかかったけれど、あいにくの雨天。干すところもない。また気分が落ち込む。下着などの洗濯は頼めないけれど、タオル類なら人様に頼んでもいいかと、上階のオッサンが「コインランドリーで洗濯してくる」と申し出てきたので、頼んだ。何度も「申し訳ない」と謝るのだけれど、謝られても、気分は晴れない。

 部屋の畳が水浸しなので、時間がたつにつれ悪臭がただよって、汚部屋度UPです。畳屋が見積もりのために来るというのだけれど。憂鬱度増すばかり。

<つづく> 
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2010年03月02日



2010/03/31
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>プレ復活祭春のことば(4)ブランコ

 え~、3月末のコラムでは殊勝げに『自分もいつかは誰かに「ほっと一息」つけるような安心した気分を味わえる温かいお茶の一服のような文章を書くことができるよう文章修行を続ける」なんて書いたのですが、これは、復活祭向けのアドバルーンというか、確かに、「施無畏」という語を見て、気持ちとしては殊勝な気分であったのです。しかしながら、自分の資質というのもを考えると、これは己を知らぬことばでありました。

 私のキャラというものを冷静に見れば、私の書く文は、「毒を含む知ったかぶり」で言いたい放題しゃべり倒すのが持ち味なのですから、「ほっこり温かい気分になれる文章」は、その資質を持った方におまかせしたほうがよさそうです。
 鋭いとげや毒を含んでしかも人を傷つけないというのも文の芸の中では高度な芸と思うのですが、まだまだ未熟な春庭の文では、きわどい毒を含もうとすると人を攻撃したり傷つけたりしてしまう恐れがあるので、毒といっても「寸鉄人を刺す」ような切れ味ではなく、ぼよよ~ん、どんよりと「腹ぐあいがおかしい」程度の毒です。

 さて、2009年に中国赴任から帰ってきて、どうも頭痛や腹痛など微弱ではあっても不調が続き、これまでそのような不調知らずで「元気なだけがとりえ」と思ってきた身にはにわかに不安がつのり、脳波MRIとか、眼底検査とかいろんな検査を受けてきました。昨日30日には腹部音波検査というのをやりました。

 検査結果のお達しでは。脾臓腎臓など、すべて異常はありませんが、肝臓が「脂肪肝」です。はい、これは音波検査をやらなくても、すでに血液検査で指摘されてきたことでした。悪玉コレストロールがたまり、肝臓の周りは真っ白く脂肪でおおわれているようすが音波でもはっきりとわかるのだそうです。ぐすん。要は、脂っこいもの甘い物の食べ過ぎです。

 私がほっこりしに行く何軒かの「ウェブご近所さん」。勝手に私がご近所と思っているだけなんですけれど、年齢が同年代だと思えたり、本の好みが似ていたりする方々のサイトを毎日一回りしています。sumitomoさんの日記、さりげない日常と愉快な川柳や俳句の文章を楽しみに寄らせていただいてます。

 3月30日のsumitomoさんのコラムでは季語「鞦韆しゅうせん」についてで、「鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし」という三橋鷹女(本名たか子)の句が紹介されていました。口語を生かした現代俳句として国語教科書にも記載されている句のひとつが「鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし」です。ぶらんこを高く高くこぎ上げるときの高揚感開放感と、既婚か恋人のある人なのかわからないけれど、すんなりとは愛をはぐくめないであろう人を我がものとしたいという恋愛の情熱とが、春の空に向かって上がり下がりまた上がる気分を彷彿とさせます。

 さて、sumitomoさんは、「なぜ鞦韆は春の季語なのか」とおたずねなので、ここはひとつ知ったかぶりを発揮したいと思います。これが私の持ち味なので。
 では、明日4月1日より、「なぜ鞦韆は春の季語なのか」へのお答えからスタートします。温かくなったりまた急に真冬並みの寒さに戻ったり、それにつれてこちらの気分もあがったり下がったりが続きました。春庭コラムを読んで、「ほっこり温かい気分」にならずに、とげとげしい気分になったりうんざりしたり、寒々としたり、まあ、いろいろあっても、「いろいろあらーな」がこのコラムの目的のひとつです。
 ブランコも上がったと思ったら下がったり、また上がって下がる、そんな日常を繰り返しながら、3月もおひらきです。あ~あ、片付けがたいへんな月でした。

<おわり>



ぽかぽか春庭「洪水のあと」
2010/03/02
ぽかぽか春庭十人十色日記3月>災害(2)洪水のあと

 10階住人の水漏れ事故により、9階の我が家はもちろん、その下の8階まで水害が及びました。8階の部屋の人は、「留守中に電話機の上に水が垂れたので、電話機がこわれた」と、我が家に電話してきた。「文句は10階に言ってほしい」と、伝えたけれど、我が家は電話機どころか、パソコンプリンタ本服布団が濡れた。

 畳もびしょぬれだから、畳替えもしなければならないけれど、そうなると引っ越し並の荷物の移動が必要となる。部屋の中は、大量の本で埋まっている。濡れた本など捨てたらいいように思うだろうけれど、貴重な専門書類は、ページがよれよれになったとしても捨てる気にはなれない。この本、5千円もしたのに。ぐすん。ま、多くは百円本なんですけどね。

 気持ちのリハビリのためには毎日更新するという「私の日常」を続けたほうがいいと思うのだけれど、3月中、しばし更新不定期となります。

 お見舞いのことば、ありがとうございます。
 チリやハイチの地震その他もっとたいへんな災害にあっている人もいるなか、水濡れぐらいで落ち込んではならじと思うものの、目の前の惨状にただイヤになるばかり。

 でも、片づけをせねばなるまい。

<つづく>
00:33 コメント(7) ページのトップへ
2010年03月10日


ぽかぽか春庭「捨てる」
2010/03/10
ぽかぽか春庭十人十色日記03月>災害(3)捨てる

 27日の深夜1時から5時まで部屋に落ちた漏水。具合が悪くなって、27日と28日は寝ていました。3月1日と2日は、病院へ。3日、4日にものの移動と廃棄。

 3月3日に畳の寸法取りというのがありました。畳なんて、団地規格の既製品なのだと思っていたのですが、ひとつひとつの部屋の寸法がそれぞれ微妙に違うので、部屋にぴったり合わせて敷き詰めるには、きちんと寸法を測らなければならないのだそうです。
 部屋のものを運び出さずに畳をすべて入れ替えるというのは、引っ越し以上にたいへんなのだということがわかりました。

 3月8日に新しい畳が入り、さてそのあともステル捨てるすてる。古い演劇やバレエ公演のパンフレットとか、駄本の類。そんなもの後生大事にとっておいてと言われるようなものばかり、狭い部屋に詰め込まれていました。なんだか捨てがたくて大事にしてきたものも多いけれど、田舎のお屋敷で倉が並んでいるとか、納戸や物置がたくさんあるとかならともかく、都会の団地暮らしではそうもいきません。そうもいかないのに、無理矢理詰め込んでおいたから、いざ漏水事故にあったら、悲惨の極みでした。

 人は十人十色、「向き不向き」があり「好き不好き」がある。「不好き」という語、私はこれまで使ったことはなかった。が、辞書にはあるのでフィネガンズウェイクの翻訳に使ったと、柳瀬尚紀が書いていたので、まねして使ってみました。「不好き」について書かれていた柳瀬の『広辞苑を読む』も水にうたれて廃棄処分。

 私の「不好き」の第一番は掃除と片づけ事です。整理整頓ということがまるでできない。これは私の短所の一つであることは重々承知なのですが、お茶碗洗いや洗濯はイヤではなく、きれいにするのが嫌いというわけでない。茶碗洗いや洗濯は一ヶ所にじっとしてできるので、「ぼうっとしている時間」を過ごせる。茶碗を洗いながら水を出したり止めたりしていても、頭はぼうっとしたり考え事をしたりできる。でも片づけ事は物を移動したり自分も移動するから、なかなかぼうっとできないのだが、それでもぼうっとしながら片づけるから、たいてい片づけたはずのものをどこにしまったのか記憶になくて、一年中さがしものをするハメになる。だから、片づけないで出しっぱなしのほうが、捜し物が減る。

 せっせと捨てていかないと、住み続けるうちに部屋はたちまちゴミ箱状態に。
 で、ここ15年以上は片づけを放棄して部屋中、物で埋まるに任せていたのだけれど、これでもなんとか暮らしていた。でもそれらが全部水浸しになり、捨てなければならなくなって、ただもうイヤで厭で、、、。足の踏み場もなく本、服、その他もろもろ散乱していた部屋に雨が降り注いだ惨状については報告してありましたが、足跡ご挨拶に「足の踏み場は確保しとけと言う天の啓示です そうに決まってる ニコッ」と、あったので、そう思うことにしました。部屋を片づけなさいという啓示であったのでしょう。それから、片づけの日々が続きました。もとより大嫌いなことだから、遅々として進まなかったですけれど。

 片づけられない人というのは、捨てられない人でもあるのです。たとえば、服、2シーズン着なかった服は捨てろ、というのが片づけ整頓名人の言葉であることは承知しているのです。しかし、これは裁縫好きの伯母が縫ってくれた服、これは姑からプレゼントされたコートなのでもう着られないけれど義理でとっておいたもの、というふうになかなか捨ててしまうことができずにいました。思い出の服を、何か別のものに作り替えることができるかも、と未練でとっておいたものも多い。昔はリサイクルで子供の服に作り替えたこともしたけれど、今は洋裁も手芸もとんとご無沙汰。もったいない精神だけが残っているので、いらないものが貯まるたまる。

 2002年に姉が亡くなったとき、衣装道楽だった姉の服のうち、ブランドものだとかは姪達が引き取ったのですが、地味めの服は私にまわってきました。「これ、すごく高級な布地を買ってきて仕立ててもらったものだから、捨てるに惜しい。おばちゃん、着られたら、着てね」なんて言われて「もうちょっとやせたらウエストが入るかも」と思ってとっておいたのとか、結局一度も着ないで捨てることに。狭い部屋のタンスをふさいだだけの服ということになるのか。いや、姉が亡くなってすぐにその場でどんどん姉の服を捨ててしまったら、寂しく思っただろうから、何年かタンスにしまって置いた意味はあったのだ、と思うことにしました。

 濡れた本はダスターシュートへ。濡れなかった本もかなり捨てました。「いつか参考にすることがあるに違いない」と思ってとっておいたり、「この専門書9000円だったのを、無理して買ったんだっけ」とか、思い入れのある本も多かったのですが、必要なときは、ネットで探せば必ず買えると自分におまじないをかけて、捨てました。絶版になっているような希少本や、論文紀要など、捨てるに躊躇するものもありましたが、捨てるのもタイミングってもんでしょう。「縁があったら、またいつか会える」と思って、団地の段ボール新聞紙本雑誌のリサイクル置き場へ。

 狭い団地の一室によくもこれほど物が詰まっていたもんだ、と思います。留学生の作文とか、捨てがたいものも多い。作文の誤用分析などいつできるかわからないのですが、捨てようとしてまたしまい込む紙類も多かった。でも、友人の論文コピーなんてのも思い切って捨てる。すてる。
 あと2週間くらいは、捨てる捨てるすてる生活。

 これまでに本を段ボール箱10箱以上、古着を45リットルの東京都指定ゴミ袋に10袋以上捨てました。古着など余裕があるときにリサイクル処理をしておけばよかったのに、今は余裕がないから、ただ捨てるだけ。
 ようやく半分くらいは片づきました。あと半分、また捨てるステルすてる生活。月末までにはなんとか人間らしい住みかにしたいです。それまではしばし、更新お休みします。

<つづく>
19:40 コメント(13) ページのトップへ
2010年03月18日


ぽかぽか春庭「復活までもうちょっと」
2010/03/18
ぽかぽか春庭十人十色日記03月>災害(4)復活までもうちょっと

 上階からの漏水事故の後始末、3週間かかってようやくなんとか足の踏み場も見えるようになってきました。お見舞いや励ましの言葉をお寄せいただきありがとうございます。
 捨てても捨てても、まだまだ山積みの紙、本、衣類。これまでゴミ屋敷のままに放置してきた自分が悪いのですけれど。十年前の学生の授業感想文とか、あとからあとから出てきます。押入の奥に詰め込んだあと上に積み重ねてしまうと、もう下に何があるかわからなくなって、そのままにしてきたので、別段読み返すこともないものがやたらに詰め込まれていました。災難だったとはいえ、片づけなさいという天の声としてよい機会になったと思っています。
 思いはすれど、大嫌いな整理整頓片づけ事ですから、さっぱりはかどりません。

 なかなか片づかない第一の理由は、嫌いなことをしなければならない自分自身の憂鬱気分によるものです。3月中はずっと「ふさぎの虫」にとりつかれていました。カタカナ言葉で言うならメランコリー、心理用語なら鬱、、、、果てしない落ち込み気分。これがずっと続くなら鬱病へと深みに陥るところでしょう。ストレス解消の甘い物ドカ喰いも禁じられているので、なかなか気分が晴れませんが、幸いなことに南の方から桜咲くニュースも伝わってきたし、少しは気分もぬくまった気分。

 一日ひとつでも整理できたらよしとして、少しずつ、ほんとうに少しずつやっています。たぶん、片づけ名人なら一日でこなすことを1ヶ月かかってのろのろ進む。でも、しゃかりきにがんばるばかりではない、人生停滞時期もあってよい、と、自分を甘やかしています。あと一息というところまできているのですが、その一息にあと一ヶ月くらいかかりそうではあります。

 カフェコラムも気力減退ゆえに「毎日更新」というのを今月はお休みしていますけれど、桜咲いたらまた毎日更新をしていきます。私にとっては書くことは生きること。別段毎日更新しなくても誰も気にとめないのだけれど、自分自身、さて、あったかくなったら冬ごもりから抜け出して蘇生しなくちゃなあと思うのです。

 私は「仏教系汎神論者」なので、キリスト教の復活祭も私のお祭り。復活祭(イースター)は、春分の日(3/21)以降の満月の次の日曜ということで、2010年の復活祭は4月4日らしい。

 私もそのころには復活しますので。
 
<おわり>
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徳田秋声旧居林芙美子旧居2011年11月

2010-11-06 11:51:00 | 日記
2011/11/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居  

 11月2日水曜日。午後の授業が文化祭準備日休講となったので、午前中の授業を終えると東京本郷に駆けつけました。1年に1度たった半日だけ公開される徳田秋声旧居を見るためです。 徳田秋声、私は、山田順子とのスキャンダルのみ知っていて、作品は文庫本になっている『あらくれ』以外に読んだことがありませんでした。それほど愛読した作家ではなかったのに、旧居を訪れたのは、東京都内に残されている数少ない木造平屋建ての明治時代民家だからです。正岡子規の子規庵などは復元された家なので、明治時代の木造建造物がそのまま残されているのは、戦災でほとんどが焼けてしまった東京では貴重なものです。

 秋声は、1905(明治38)年から1943(昭和18)年に没するまで文京区本郷森川町の家で暮らしました。この家が貴重であるのは、今も子孫が住み続けているということです。多くの古い民家が取り壊されてきた東京。残された数少ない家も、移築や復元、記念館などの形で保存されています。明治時代の民家に、実際に人が住み、暮らしを続けている、いわば「呼吸している家」は、おそらくこの徳田秋声旧居以外にないかもしれません。
 普段ご家族が暮らしている家だから、通常は公開していません。1年に1度、半日だけの公開です。これまでの年は、平日公開だと仕事があるので、見学できませんでした。今年、11月2日の午後は休講となり、ようやく見学できたのです。

 10時から13時までの公開と「東京都文化財ウィークリー特別公開」というパンフレットに書いてあったのですが、授業を早めに終えて、急いで電車に乗ったのだけれど、本郷三丁目の駅に着いたらすでに13時5分前。駅から徒歩7分と書いてあったのですが、徒歩だと13時過ぎてしまうので、タクシーに乗りました。こんなに近い距離、タクシーに乗ることなど、私にはなかったことですが。http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_shiseki_haka_tokuda.html

 徳田秋声旧居の玄関を入ると、受付に若い男性が座っていました。あとでうかがうと、受付係は徳田秋声の曾孫さん。秋声の長男徳田一穂さんの長女の息子さんだそうです。 居間に訪問者を迎え、対応して下さったのは、知的な美しい方。私より10歳ほども年下の方かとお見受けしてお話を伺っていたら、戦災の火の粉をかぶった思い出話などが出てくるので、おやっと思っいました。50代の方かと思っていたのですが、1941(昭和16)年のお生まれだそうです。皺一つ無い若々しい表情で、とても今年70歳とは思えません。いっしょにお話を聞いていた訪問者の女性も、「私も同じ年頃なのに」と、驚いていました。居間でお話して下さっていたのは、秋声の孫、徳田一穂さんの次女の章子さんでした。お姉さんは早くに亡くなっていて、現在はお姉さんの息子さん(受付をしていた青年)といっしょにこの旧居に住み続けているのだそうです。 秋声の故郷にある記念館などでも、たびたび秋声についてお話をしてきたという徳田章子さん、訪問者への説明でもいろいろなお話をしてくださいました。

 私が唯一知っているエピソードである山田順子とのいざこざについても、「秋声の妻(章子さんの祖母)が亡くなったあと、林芙美子さんや平林たい子さんが、「秋声先生、お子さんがたくさんおありでたいへんでしょう。何でも手伝えることを言ってください」と申し出たこと、秋声としては妻亡き後、幼い子を抱えて困っていたときに山田順子から熱烈な手紙をもらったので、ついほだされてしまったのでしょう、など、身内から見た「順子もの」についてのお話しをなさいました。

 山田順子からの手紙は現在も保存してあるけれど、公開の予定はない、ということでした。秋声の後期の作『仮装人物』は、順子との恋愛を描いています。講談社文芸文庫でも青空文庫でも読めるので、いつか読んでみなければと思います。http://iaozora.net/cards/000023/files/1699/1699_1923.html 

 また、林芙美子が養子を探していたとき、「一穂さんは女の子が二人おありですから、小さいほうの方(章子さん)をください」と申し込まれ、お断りしたことなど、とっておきのエピソードもお聞きしました。 秋声旧居は東京都の指定文化財になっています。文化財指定を受けると改築などには制限がつきますが、耐震などの工事はできます。本郷界隈でも古い建物はどんどん壊され、ビルが建っていきます。徳田秋声旧居のとなりは、ふたき旅館でしたが、現在シートが貼られて、取り壊し工事の真っ最中でした。1960年代の東大闘争のときは、全学連の指令基地になったというふたき旅館。時代は変わるのだと言うしかないのでしょうが、徳田秋声旧居は「残したいと思っています」というご家族の意志、ありがたいことです。徳田秋声旧居を写真で紹介しているサイトhttp://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/zinbutu/tokuda/

 木村荘八の描いた秋声小説の挿絵が絵はがきになっていたので、買いました。5枚500円。また、秋声の長男、徳田一穂さんの 『秋声と東京回顧 森川町界隈』(日本古書通信社、2008年。秋声の『大学界隈』を併録)も購入。

 11月4日の夜は金沢駅前に宿泊する予定なので、金沢の徳田秋声記念館のパンフレットももらいました。<つづく> 2011/11/06ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(5)林芙美子落合の家 BS2の「帝国劇場百年」という番組で、2009年に『放浪記』が2000回公演を達成したときの中継録画を見ました。2009年5月の2000回公演のときも7月の国民栄誉賞受賞のときも私は中国赴任中で日本のニュースが遠かったので、やっと今年になって舞台中継を見ることができたのです。森光子が1961年から主演を続けてきた舞台「放浪記」。森は41歳で初の主役公演。今年2011年に91歳。 2009年5月9日の帝国劇場公演で節目となる「2000回」を達成したときの88歳での舞台が、帝国劇場100年を記念してノーカットで放映されました。録画しておいたのを、見ました。

 『放浪記』は、昔、まだ白黒テレビの放映で見たのが最初。森光子のでんぐり返しが評判になっていたころ。 次は奈良岡朋子が日夏京子を演じていたバージョンや池内淳子バージョンを見ました。上演記録を見ると、2005年のが池内淳子の出演で、森光子85歳のときの公演です。

 今回の2000回達成、健康不安や妹死去のショックから立ち直ったあとの88歳での上演。ちょっと痛々しい場面もあった。滑舌が悪くなり、台詞がまわっていない部分があったし、若い頃の林芙美子には思えない背の丸まりようが気になった。

 ラストシーンの晩年の芙美子の姿はさすがの貫禄だし、最後のカーテンコールで手をあげ、お辞儀をする姿には神々しささえ感じました。林芙美子は47歳で亡くなっているので、晩年と言っても、今の森光子よりはずっと若いのですけれど、流行作家の悲哀や疲労が全身から感じられる演技でした。 終演後は2000回達成と森光子89歳の誕生日が祝われました。89歳でこの演技、すばらしいものでしたが、2009年の大晦日紅白歌合戦に出場したときの衰えぶりには皆びっくりしたし、2010年の公演にドクターストップがかかったのはやむを得ないことでしょう。

  舞台の第5幕、落合の家のシーン。実際に林芙美子が住んでいた落合の家を再現した美術です。 10月30日、落合の林芙美子記念館へ行きました。3度目の訪問になります。家は19山口文象の設計。居間客間、台所、浴室などの生活部分と、緑敏アトリエ、芙美子書斎(もとは納戸だったが)と書庫などの仕事部分の二棟に別れています。これは戦時中の資材節約という国策に沿って30坪以上の家は建てられなかったから、芙美子所有の30坪と緑敏所有30坪に分けて建設したためです。下落合は戦火に焼かれずに残りました。 流行作家になって以後の芙美子は、養子として迎え入れた一人息子泰の養育と気晴らしの家事、夜も寝ないで書きまくる作品執筆。充実した日々をおくっていました。 舞台『放浪記』のラストシーンで、菊田一夫は芙美子のライバル日夏京子に「おふみさん、あんたちっとも幸せじゃないのね」とつぶやかせます。この台詞の意味については、ぜひ春庭「花の命は短くて」をお読みくださいませ。

  前回の春庭・林芙美子記念館訪問記「花の命は短くて」はこちらにhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0506a.htm 

 今回は、ボランティアガイドさんの説明を受けながら、舞台に登場する居間や客間を見ました。女中部屋の廊下には屋根裏収納庫へ上がる隠し梯子があることなど、見ただけではわからないことも説明してもらいました。

 また、展示室(文子の夫、林緑敏のアトリエだったところ)のテレビでNHKアーカイブスから林芙美子の晩年の姿を見ることができました。死去直前のラジオインタビュー番組。女子中学生たちが著名人に質問をし、答えるという番組で、「若い頃なにをめざしていましたか」とか、「これからの女性はどう生きたらいいのでしょう」というような、内容を女の子たちが真面目そうな表情で質問し、林芙美子がにこにこと答えています。この番組はラジオ放送ですから、録音が残されているのですが、番組広報のために、一部フィルム撮影が行われ、林の映像が1分ほど記録されたのです。

 このインタビュー、文子晩年の姿、と言えるのは、私たちが芙美子の47歳での死が迫っていたことを知っているからであって、芙美子自身は健康に不安を持っていたとはいえ、自分がこれほど早く死ぬとは予想していなかったことでしょう。芙美子は明るく楽しそうに女生徒の質問に答えていました。 芙美子の葬儀委員長だった川端康成が「芙美子を憎む人も多かった」と葬儀で挨拶したように、芙美子の友人関係は決して良好なものばかりではなかったけれど、ビデオの映像から感じられる人柄は、率直で快活な生き生きしたものでした。

 今回は、この映像を見ることができたことが大きな収穫でした。 芙美子の家の庭。玄関前の孟宗竹はますます太くなっていました。まっすぐに己の信じる道を邁進した芙美子の姿を思い浮かべさせるようなすっきり立つ竹でした。

 今年は1951年に林芙美子が無くなってから没後60年の年です。神奈川県近代文学館で芙美子の回顧展が開催されています。11月13日で会期終了となるので、なんとか時間を作って見に行きたいです。

<つづく>
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ごはん食べた?2010年4月

2010-11-04 06:06:00 | 日記
2010/04/11
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(1)吃了飯[口馬]?チーラファンマ?

 上階からの漏水事故のあと、2日間は体調落として寝込み、食欲減退。いくらか痩せたような気もしましたが、「水害見舞い」として、ウェブ友からうどん、リア友(現実社会で行き来するリアルな友達)から角煮饅などを送ってもらい、もりもり食べましたから、今はたちまちリバウンド。(館林うどんも長崎角煮まんじゅうもおいしゅうございました。感謝)

 ストレス解消のためにこれまで無謀喰いを続けてきました。「チョコ数箱一気食い」「ケーキ丸ごとホール喰い」なんかは禁止されてはいるのですが、まあ、ときには禁を犯すのも人生。片付けの合間に甘納豆一袋一気食いなどはやりました。
 漏水後かたづけから復活後、ブランコで揺れておなかをすかせたあとの話題は「食べること」。春庭の喰うや食わずの人生、なんとか食い繋ぐことがメインの生活ですから、食べることについての話をします。

 昨年の半年間、中国で仕事をしました。三度目の中国赴任だったけれど、中国語はさっぱり上達しませんで、挨拶と食堂の注文が出来る程度でおわりました。
 中国語の挨拶、一番よく使われるのは「你好ニーハオ」です。しかし、你好は、実は方言のひとつであったものを普通話(プートンファ=標準語)として採用されて以後広まったものだそうです。人民共和国になるまでの中国で日常の挨拶ことばは「ごはん食べた?」你吃了飯[口馬]?ニー、チーラファンマ?

 中国で一般民衆がともあれ毎食の食事を十分に取れるようになったのは、20世紀後半以後のこと。現代は、貧富の差が大きくなって不満も渦巻く中国大陸ですが、「人民共和国になってから飢える人がいなくなった」と、中国の人々は信じています。お年寄りの中にはおなかをすかせていた記憶を残している人々も多く、昔話をしてもらうと「子供の頃はいつもおなかがすいていたけれど、毛主席のおかげで今は幸福です」と、模範的な回答をします。外国人に何か尋ねられたときは、とりあえず毛沢東をたたえておけばあとのたたりはない、という教育が徹底しているだけかも知れませんが。

 日本では、「空腹に耐えられなかった」という時代を覚えている人たち、高齢化していますが、記憶を語って残してほしいと思います。
 敗戦後占領下の日本に生まれた私の場合、物心ついたころには皆が食べられるようになっており、成長の過程で空腹に泣いた記憶がありません。芋や米を母の実家から分けてもらったことや母が家庭菜園で野菜を作ったり、鶏を飼ったりしていたから、一般の勤労者家庭よりは食材が豊富だったのかもしれません。
 今、泣くのはおもに「肥満道一直線」の我が身体にであって、食欲のままに食べ続けるとどうなるか、という結果に涙するばかり。

 21世紀の今、東京のレストランでは世界中の料理が食べられます。世の家庭では毎食毎食、豊富な献立が食卓に上り、メニューのレベルはさまざまなれど、みなおなかいっぱい食べている。世界的にみても、歴史的にみても、これほどの飽食社会は未曾有のこと。毎日のメニューやその日作った料理のレシピをブログに記録する人が大勢いる。こんなに毎日ごちそうを食べ続けていいのかしらと思うくらい。

<つづく>
19:47 コメント(2) ページのトップへ
2010年04月13日


ぽかぽか春庭「戦下のレシピ」
2010/04/13
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(2)戦下のレシピ

 水に濡れて捨てた本多数の中、斉藤美奈子『戦下のレシピ』は、濡れずに残った。仕事の資料として直接使用しない本は処分すると決めて、捨てようかどうか迷ったけれど、本箱に戻しました。留学生への「日本事情」の授業を担当しなくなってから、歴史関連の本もだいぶ処分したのですが、岩波アクティブ新書の一冊『戦下のレシピ』、そんなに場所もとらないし。

 『戦下のレシピ』には、昭和初期から敗戦時期までの農村と都会の食生活が紹介されています。
 振り返ってみれば、私が生まれる前、戦争中の日本また敗戦後の日本で一般庶民は飢えていた。ただひたすら「おなかいっぱい食べたい」という望みを抱えて生きていた。現代では、飢えて死ぬ人がニュースとして特別な存在になり、飢えた記憶は戦中戦時下、敗戦後の思い出の中に語られるだけ。以下、『戦下のレシピ』一部紹介。

 『戦下のレシピ』に掲載されているメニュー。
 たとえば1940(昭和16)年、太平洋戦争が始まった頃の献立として『主婦之友』12月号に食糧新報国会常務理事・中澤弁治郎が書いている都会向けと農村向けの「国民食」献立。以下の献立に主食は一人米400g麦その他雑穀100gを摂取するのが「栄養献立」とされているのですが、そもそも都会の家庭には、昭和16年の時点ですでに米麦雑穀あわせてもひとり一日300g以下しか配給がなかった。どうやってこの「理想的な栄養献立」を満たせというのだったか。

(1940年12月都会向け)
朝:味噌汁 金平牛蒡(きんぴらごぼう) 漬け物
昼:うどん 汁 薬味
夜:鯖のハンバーグ 清し汁 漬け物
(農村向け)
朝:里芋と大根葉の味噌汁 いなごの佃煮 漬け物
昼:味噌パン 漬け物
夜:打豆飯 ごった汁 漬け物

 1931(昭和6)年頃に成立したと見られている『雨にも負けず』は、「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」と書いています。「玄米4合」は、宮沢賢治流のずいぶんと控えめな食事です。副食物が少なかった戦前の食事では、一日に米飯を6合摂取しないと肉体労働に必要なカロリーを供給できないとされていました。味噌、佃煮、漬け物などをおかずにして、穀類を大量にとるのが、この時代の中心的な食事でした。
 『写真で見る日本陸軍兵営の食事』などの本によると、日本陸軍の食事規定では、一回の食事につき、主食として三食とも麦飯2合(ひとり一日6合)、副食として朝食は汁物(味噌汁・すまし汁など)と漬物。昼食および夕食は、肉や魚を含んだ少量のおかず一品。

 中央物価統制協力会議の資料(法政大学の調査による)と、1944年1月、東京都の労働者世帯の野菜入手状況は、ひとり当たりの配給量は一日平均約25匁(90g)、配給以外に買出しその他で約50匁(180g)を入手。同じく魚介類の配給は一日平均7匁(25g)弱にすぎず、魚の半分は生いわしと丸干しいわし。配給以外に買い出しで入手できる魚介類も10匁(36g)強。1ヶ月後の1944年2月ごろには、東京都における野菜配給量は一人一日当たり平均20匁(72g)、魚は5匁(18g)に減り、戦火が激しくなるとその配給も滞っていきました。

 そうなると、道ばたの野草雑草も貴重な食材。いたどり、おおばこ、はこべ、すべりひゆ等、なんでも食べることに。婦人雑誌などでは「野草をおいしく頂く調理法」などを特集しています。

 1945年に戦争が終わってからさらに厳しい食糧不足が続きました。冷害が続いて国内の穀物生産が危機に瀕した上、戦前のように台湾や満州、朝鮮半島などから食料を調達することは出来なくなったからです。食料の配給制度ではどうやっても生き延びることはできませんでした。食料統制法による闇米販売を犯罪として裁かなければならない裁判官の中に、統制法を守って闇米を拒否し、栄養失調で亡くなった人が何人かいました。(一番有名なのは33歳で亡くなった山口良忠判事)
 と、いうことは、大多数の死ななかった法律家や警察官は法を守ってはいなかったということになります。

 現代の食料自給率は40%に満たない。輸入食料に頼っている中、輸入ができなくなって、もし食料統制法なんてものができたとしたら、、、、闇米を買おうにも、わが家にはお金もないし、一家で栄養失調になるしかないでしょう。集合住宅住まいだから庭でさつまいもを栽培することもできないし。

<つづく>
07:08 コメント(4) ページのトップへ
2010年04月14日


ぽかぽか春庭「満州火鍋」
2010/04/14
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(3)満州火鍋

 戦中戦後に盛んに「家庭で作れる食べ物」として推奨された南瓜とサツマイモ。食べ物が出回るようになると、「芋と南瓜はもう一生食べなくてもいい」と言う人もいたようです。私はいろいろな食材が出回るようになってから物心ついたおかげで、今でもサツマイモもかぼちゃも大好きです。食べ物の記憶というのは、それぞれの人にそれぞれのものですが、戦下にフスマパンとか芋雑炊とかを食べ続けた人にとって、なつかしいというより、「もう二度と食べないでもいい」という味になっているのでしょう。何を食べても、おいしい思い出が蘇る私は、幸福な時代を生きてきたと言えます。お金持ちの家ではなかったけれど、家族5人団欒の食卓を用意してくれた両親に感謝。

 わが家は田舎でしたから、私の子供時代にはもう野菜も十分に出回るようになっていましたが、農家出身の母は「八百屋の野菜なんて新鮮でない」と言って、家の裏手で家庭菜園を作っていました。味噌汁の菜っ葉などは、作る直前に摘むのですから、新鮮そのものです。庭に鶏も飼っていて、毎朝産み立ての卵で「卵かけご飯」を食べましたが、今思うと、野菜やトウモロコシなどの自然の餌で育てた鶏の卵は、現在の配合飼料と抗生物質を食べている鶏の卵とはずいぶん味が違っていたはずです。当時はそれが贅沢とも思わずにいましたが。

 私はタラの芽、蕨、コゴミなどの山菜が好きで、芹、蕗の薹などのちょっと苦みがあるような山野草が好物のひとつです。「あかざ」という雑草のおひたしも好きでした。母が家庭菜園で作った菜っぱのお浸しをゆでているとき、わざわざ私の分だけアカザをゆでてもらって食べました。アカザはそこらの畦や空き地にいくらでも生えていました。
 野菜も豊富に出回る頃になってからアカザを食べるのは、野趣があっておいしいと思えましたが、ほかに食べるものがないときに、おおばこやイタドリなどを食べさせられた子供たちにとっては、「野草をおいしく食べませう」と指導されても、有り難くはなかったことでしょう。

 『戦下のレシピ』続き。
 中国大陸に戦火が広がり、満州では皇帝溥儀が傀儡の身とわかって憤懣をつのらせていたころ。1939(昭和15)年の『婦人倶楽部』2月号には、「満州料理」が紹介されています。
・ホウコウズ(火鍋)
 内地の寄せ鍋の一種ですが、寒い寒い満州の冬、暖かい暖炉の前に集まって頂く夕食に、ホウコウズの美味しさは第一級の食味がございます。
材料(五人前)
 春雨一束、白菜半株、豚肉または兎肉50匁(180g)、竹輪一本、烏賊一尾または鰯五尾、人参一本、葱三本、筍少々

 2007年2009年の中国赴任中も、火鍋は教師達に人気のメニューでした。ありがたいことに、私が行った店の多くは、火鍋がひとりひとり別鍋仕立てになっていたこと。大鍋を前に、いちいち「すみませんが、直箸つっこまないでね。鍋の中にいれるのは取り箸限定にしてください」とお願いせずにすみました。鍋に直箸が入ると食べられないというのは、私のビョーキですが、これは豊かな現代だからこそ言えるわがままであり、食べ物のない時代だったら、直箸だろうと残飯だろうと食べざるを得なかったのかも知れません。

 果たして昭和15年に満州に暮らしていた人々のうち、どれほどがこの「第一級の食味がございます」というレシピで「暖かい暖炉の前に集まって頂く夕食」を味わえたのか、と感じます。『婦人倶楽部』などの雑誌は満鉄勤務のご亭主を持つ奥様方などが購買層だったでしょうけれど、満州の荒野を開拓していた人々は、コウリャンの雑炊をすすっていたのではないでしょうか。

<つづく>
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2010年04月15日


ぽかぽか春庭「19世紀末イギリス荷馬車屋の食事」
2010/04/15
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(4)19世紀末イギリス荷馬車屋の食事

 『戦下のレシピ』は捨てずに取っておくことにしたのですが、古い料理本などはだいぶ処分しました。そのほか、いろんな紙が積み重なっていた中のプリントに、イギリス都市労働者の食事の記録がありました。面白いと思って取っておいたのですが、別段資料として活用したことはなかった。ちょっと湿気たけれど、文字は読めるので、この際コピーしておきます。ネタ元の本の名前が書いてないので、出典がわからないので、記録としては不完全ですが、そのうち出典を探します。

 産業革命後のイギリスでは、食生活が格段に向上したのですが、それでも以下のように単調なメニューであり、ごちそうは日曜日に食べるだけです。また、夜の食事は無しであるか、食べてもパンくらいで、ディナー(一日の中心の食事)は昼にとっています。
   
 19世紀末から20世紀初頭のイギリス都市労働者の食事の記録。
A:荷馬車屋(週給20シリング)
・月曜日(朝):パン ベーコン バター 茶 (昼)豚肉 ジャガイモ プディング 茶 (ハイティ=4時前後のティータイム)パン バター 茶 (夜)茶 
・火曜日(朝)パン ベーコン バター コーヒー (昼)豚肉 パン 茶 (ハイティー)パン バター ゆで卵 茶 (夜)パン ベーコン バター 茶
・水曜日(朝)パン ベーコン バター 茶 (昼)ベーコンエッグ ジャガイモ パン、茶 (ハイティー)パン バター 茶 (夜)なし
・木曜日(朝)パン バター コーヒー (昼)パン ベーコン 茶 (ハイティー)パン バター 茶 (夜)なし
・金曜日(朝)パン バター 茶 (昼)パン バター トースト 茶 (ハイティー)パン バター 茶 (夜)なし  
・土曜日(朝)パン ベーコン コーヒー (昼)ベーコン ジャガイモ プディング 茶 (ハイティー)パン バター ショートケーキ 茶 (夜)パン ニシンの干物 茶
日曜日(朝)パン バター バター入り焼き菓子 コーヒー(昼)豚肉 玉葱 ジャガイモ ヨークシャープディング (ハイティー)パン バター バター入り焼き菓子 茶(夜)パン 肉

 イギリスの都市労働者の食事、つづき。
 週給20シリングの荷馬車屋は夜の食事を抜く日があったのにくらべ、週給25シリングの研磨工は、夜も焼き菓子などでおなかを満たしています。ディナー(一日の中心の食事)は昼ご飯で、肉類の摂取も荷馬車屋より多くなります。

B:研磨工(週給25シリング)
・月曜日(朝)パン バター ジャム チーズ 茶 (昼)パン 牛肉 ジャガイモ キャベツ 茶 (ハイティー)パン バター ジャム 茶 (夜)パン ジャム
・火曜日(朝)パン バター ジャム 茶 (昼)ミートパイ ジャガイモ (ハイティー)パン バター ジャム パイ 茶 (夜)バター入り焼き菓子 
・水曜日(朝)パン バター ジャム 茶 (昼)細切れ牛肉 パン ライスプディング茶(ハイティー)パン バター バター入り焼き菓子 茶 (夜)フサスグリ入り焼き菓子
・木曜日(朝)パン バター 茶 (昼)パン ベーコン ジャガイモ (ハイティー)パン バター 茶 (夜)パン バター
・金曜日(朝)パン バター パイ 茶 (昼)パン ビーフステーキ コーヒー (ハイティ)パン チーズ 茶 (夜)パン 缶詰肉 
・土曜日(朝)パン ベーコン 茶 (昼)パン 牛肉 茶 (ハイティー)パン バター ジャム 茶 (夜)パン バター 
・日曜日(朝)小麦粉焼き菓子 バター 茶 (昼)ローストビーフ ジャガイモ キャベツ ヨークシャープディング (ハイティー)パン バター ジャム 茶 (夜)パン ジャム

C:職工長(週給38シリング)
上記と同様の献立に、昼はスープと肉またはソーセージ、サーディンなどが加わる。飲み物は茶、コーヒーのほか牛乳も加わる。

 19世紀末(1800年代末)週給20シリングの家庭では、しばしば夜の食事は抜きになったけれど、38シリングもらえる職工長になると、チーズが食卓に上ることも増え、肉類も多くなることがわかる。いずれにせよ、現代からみると単調なメニューであり、食べる楽しみはどれほどであったろうか。
 メニューは書いてあったけれど、量が書いてないので、果たしてこの食卓が家族みなに十分行き渡っていたのかどうかわかりません。

<つづく>
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2010年04月17日


ぽかぽか春庭「たのしみは」
2010/04/17
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(5)たのしみは

 19世紀末のイギリスや、昭和時代の日本の庶民の食事からみると、現在の日本人の食卓は王侯貴族の食事のように思えます。
 我が家のメニュー、贅沢をしているつもりもなく、飽食のつもりはありませんが、若い頃に比べ太ってきたことは事実。必要なカロリーより余分に摂取しているから太るのに違いない。

 「隣の晩ご飯」という番組は長寿番組のひとつになっています。みな、お他所の家の食卓にどんなおかずがのっているのかは気になるから、番組も長く続いているのでしょう。春休み夏休みに昼のテレビをつけて、たまに「隣の晩ご飯」を見ることがあるのだけれど、アポなし突撃というにしては、どの家もたっぷりのメニューでおいしそうなおかずがテーブルの上に並びます。我が家のように買ってきた出来合いお総菜や生協レトルト食品が貧相に並んでいる、というような家庭はテレビには登場しないみたい。

 2007年に私が中国に単身赴任して「我が家シェフ」は、娘と交代いたしました。以来、娘が夕食係です。朝ご飯と昼は起きる時間もまちまちなので、それぞれが勝手に食べたいものを食べることになっているのですが、夕食は娘が作り必ず息子と私といっしょに食べます。

 我が家の献立は、ご飯に一汁二菜(汁・スープがないときはおかず3品)が基本。肉または魚のメインディッシュに、野菜のおかずが1品(煮物、温サラダなど)。ミネストローネやけんちん汁、豚汁などの汁物、または付け合わせとして揚げ出し豆腐などの副菜。プラス漬け物など。
 栄養のバランスはよいと思うのだけれど、問題点は量。確実に消費カロリーより多い。飽食のつもりはないといいながら、これはやはり飽食なんでしょう。減らすべきです。はい、了解してはおります。

 食べる喜びは生きる喜び、、、、ですが、これからは食べる意欲をもう少し別の意欲にかえていこうかと思います。
 道浦母都子が食べ物をテーマにして詠んだ歌を集めた本、絵本のような体裁の歌集(短歌とイラストのコラボ)を持っていたはずなのですが、水害騒動で廃棄したほうに入っていたのか、見当たらなくなりました。あれ?道浦ではなくて俵万智の歌だったかしら。こんなふうに、記憶も曖昧になるので、たとえ読み返すことはしなくても、本は持っていたいと思うのです。

 2009年度芸術選奨を受けた柳宣宏歌集『施無畏』から、食べる喜びに溢れる歌を抜き書き。
・コロッケを肉屋に買ひて歩みつつ少年の日のよろこびを食ふ 柳宣宏
・セロファンに包まれたるを春の野に光らせながらほどくおむすび 柳宣宏
・饅頭の白きを食ひてニッと笑む死にさうもない母に寄り添ふ 柳宣宏

 次は、食べる歌の古典。橘曙覧(たちばな あけみ1812~1868)。あけみの「たのしみ」は食べることだけじゃなかったですけれど、食べる歌だけ抜き書き。
・たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時
・たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき
・たのしみは門(かど)売りありく魚買(かひ)て煮(に)る鐺(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時
・たのしみはまれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時
・たのしみは雪ふるよさり酒の糟あぶりて食(くひ)て火にあたる時
・たのしみは木芽(きのめ)煮(にや)して大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほゝばりしとき
・たのしみはつねに好める燒豆腐うまく煮(に)たてゝ食(くは)せけるとき
・たのしみは小豆の飯の冷(ひえ)たるを茶漬(ちやづけ)てふ物になしてくふ時
・たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時
・たのしみは客人(まらうど)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時

<つづく>
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2010年04月18日


ぽかぽか春庭「今朝の麺麭」
2010/04/18
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(6)今朝の麺麭

 食べたつもりで一首詠むってことで、食べる量を減らせるかしら。
食べたたつもりで、春庭も「食べ物の歌」。 
・慶州の旅より戻りてビビンバは吾子の得意の料理となりぬ(我が家のシェフは娘)春庭
・コロッケに揚げるジャガイモ潰すとき娘の指に力みなぎる(握力は私のほうがあるのだけれど) 春庭
・ツナ缶はパッカンと開く缶切りもいらずサラダは出来上がりけり(サラダ担当は息子) 春庭
・春キャベツのサラダは息子が刻みます千切りならず百切りまたよし 春庭
・惚け伯母が最後につぶやく「ビーフストなんとかってのをも一度食べたい」 春庭
・亡き母のひとつ話よ嫁に来て烏賊さばき方知らずに泣いたと 春庭
・八宝菜が亡き母自慢の料理ゆえ八宝菜は今も宝菜(パオツァイ) 春庭
・朝鶏が産んだ卵を飯にかけ命いただき命に感謝(うちのは無精卵だったけど) 春庭
・今朝の麺麭(パン)昼餉の饂飩(うどん)小麦粉の生まれし大地は地球の裏とふ 春庭

 食べ物短歌、、、、なんだか余計おなかがすいてきました。

 休みの日、朝はコーヒーを飲んでから布団に戻って二度寝しながら新聞を読み、ゆっくりしてから起きて10:30~11:30にブランチをいただきます。3時~4時にハイティ(しっかりおなかにたまるおやつを食べるティータイム)のメニューは、ホットケーキだったりバナナだったりします。最近は「キャベツをチンしてポン酢をかけたもの」など食すようにして、カロリーに気をつけてはいますが、甘い物の誘惑を完全排除したらストレスになるからと、自分に甘い食生活管理。

 休日の食生活。ブランチ、ハイティ、夜ごはんという3食、結局は朝ごはん、昼ごはん、夕ごはんと3食食べているのと同じことに思えるのですが、3時ごろ食べるものはどうしても食事というよりおやつという感覚です。3月27日土曜日のハイティは、ひとりでテレビを見ながら、「ナッツクッキーと、タイみやげの固形トムヤムクンスープの素でコンニャクを煮たもの」という自分でもおかしな組み合わせと思うメニューだったのですが、これも一食食べたという感じにはならず、おやつ。

 夜のご飯は8時~9時ごろです。娘の生活リズムで、7時頃からテレビを横目で見ながら作りはじめ、ゴールデンアワーに好きなテレビ番組を見ながら食べたい、という。
 日曜日なら、「ダーウィンが来た」という動物番組を見ながら作って、「龍馬伝」を見ながら食べる、という具合。1月~3月の月曜日、9時からのゴールデンアワーのドラマ『コードブルー』では、緊急手術シーンとか災害救助シーンでは、「血を見るとごはん食べられなくなるから」と目をつぶってしまうこともあり、「そんなくらいなら9時からのテレビ見ながら食べる」という方針を変えたらいいのに、娘は「みんなでワイワイしゃべりながら食べながらテレビ見るのが好き」と言うのです。救助シーンで目をつぶってはらはらしながら「あの人、助かるよね、助かってほしいなあ」なんて言いながら、口にぱくっとご飯を放り込む、そんな「消費される日常」がわれらの生活なので。

 今年の元旦。「書き留めるだけダイエット」をしようと思い立ち、食べたものをを書き留めることにしたのですが、たった一日だけの記録であとはなし崩し、、、、
 毎日のメニューを書き留めておくことで「あ、昨日はちょっと食べ過ぎたから今日は節制しておこう」という気分が生まれて、ダイエットできる、と、岡田斗司夫が『いつまでもデブと思うなよ』に書いてあったのを実践しようと思ったのですが、作る人にとっては自己表現ともなるメニュー記録、食べるだけの人が書き留めるのは案外たいへんなのだとわかりました。食べることの情熱に比べると、メニュー記録は強い意志がないと続かない。

<つづく>
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2010年04月20日


ぽかぽか春庭「いつまでもデブと思う、、、、よ」
2010/04/20
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(7)いつまでもデブと思う、、、よ

 我が家のメインディナーは、主菜一品を娘が調理し、副菜は生協から配達してもらう市販品のおかず、というのが基本です。メニューの中、(生協)と書いてあるのは、この出来合いおかずです。生協品の漬け物やサラダを並べたり、副菜類を袋から出してチンして盛りつける係は息子。春休み中は私が調理することもありましたので、メニューを書き留める気分も出てきました。3月下旬からのメニューを書いておきます。

 夜遅い夕食なので、私はデザートを省略することもある。娘と息子は私が寝たあとに夜食としてデザートを食べています。有名パティシエのケーキ、なんていうときは、我慢できないからつい食べてしまいますけれど、今年の目標は「デザートは我慢」です。おやつはたいてい毎日食べているけれど、食べていないつもりにしているので、書かない。見て見ぬふりってところです。
 調理者の名が書いてないのは私が作ったもの、娘担当のときは(娘)と書いてあります。(生協)とあるときは、息子が袋から出してそのままお皿に出したりチンしたりして並べた物。

3月22日(月)ブランチ:キャベツ蒸し煮 長崎角煮まんじゅう(冷凍品を解凍してチン。K子さんから届いたもの) 夜:ごはん、豚汁(豚肉鶏肉大根人参ジャガ芋キャベツ葱こんにゃく豆腐油揚げ)、肉巻きチーズ(チーズを鶏肉で巻き、その上から豚肉薄切りで巻く。油で焼き付けて周囲を固めたあと蒸し煮)、トリ煮物(鶏胸肉と生姜を微塵切りにして油揚げに詰めて煮た)、(生協)蕪の甘酢漬

3月23日(火)ブランチ:チーズトースト 夜:(娘)生ラーメン(チャーシュー、メンマ、ノリ)、かに玉甘酢あんかけ、(生協)チーズはんぺん

3月24日(水)ブランチ:トースト&コロッケ(近くのスーパーの揚げ物コーナーの男爵&牛挽コロッケ) 夜:(娘)バラちらし寿司(鯛・いくら・まぐろ・ほたて・卵)、(生協)玉こんにゃく醤油煮、(生協)春野菜漬け物、お吸い物(小袋の粉をお湯で溶く「松茸風味吸い物」)

3月25日(木)ブランチ:煮込みうどん(豚肉人参キャベツ市販品つゆ)夜:(娘)ごはん、もやし鳥肉炒め物、(生協)冷や奴と湯葉、(生協)キュウリぬか漬け、デザート:(生協)心斎橋チーズロールケーキ(大阪のパティスリーセイロワンスタージュの直経8cm、長さ12cmくらいを3人で分けた。パティシエの西園誠一郎さんは、1981年バレンタインデー生まれ29歳という若くてイケメンの関西では有名な人なんですと。「デザートは我慢」のつもりが我慢できなくなってしまうではないか)

3月26日(金)ブランチ:もやしキャベツ蒸し煮、チンしたジャガイモのマヨネーズ和え 夜(スパゲティ屋でダンスサークル仲間と食事)老醤(ラオジャン)スパゲティ(ラオジャンというピリ辛の調味料が入ったクリームソース、アスパラガスと小エビのスパゲティ)

3月27日(土)ブランチ:(娘)トマトと豆のペンネ(缶詰のうずら豆、大豆、ひよこ豆を利用) おやつ:クッキー 夜(娘)ご飯、刺身(生協品刺身セットを解凍。まぐろ、サーモン烏賊巻き、ホタテ、えんがわ、海老)、(生協)白菜漬け物、(生協)桜豆腐(ほんのりピンクの豆腐の真ん中に桜の塩漬けが載っていた)、デザート:(生協)エクレア

3月28日(日)ブランチ:塩ラーメン(人参、わかめ、卵)おやつ:羊羹、クッキー 夜:(娘)玉葱ごぼう春雨牛肉の炒め煮、(生協)ポテトサラダ、(生協)チーズかまぼこ、デザート:チョコクッキー(台湾土産としてもらったのだけれどポーランド製)

3月29(月)ブランチ:ジャガイモチーズ焼き(チンしたジャガイモに味噌マヨネーズをかけてスライスチーズをのせてオーブントースターで焼いたもの) ハイティ:カップラーメン(生協、沖縄そば) 夜:(娘)カレーうどん、(生協)揚げ出し豆腐、(生協)長いもの梅酢漬け デザート:(生協)富良野雪解けチーズケーキ(富良野市菓子司新谷)

3月30日(火)昼:コロッケパン(近所のパン屋カンパネルラ製) おやつ:カシューナッツ1袋120g 夜:(娘)ごはん、小エビのオーロラソース和え、ゆでキャベツハーブレモンソース和え(生協)チーズはんぺん、鶏肉ハンバーグ、(スーパー市販品)春巻き デザート:いちご(とちおとめ小粒)ヨーグルト&メープルシロップ

3月31日(水)昼:チーズトースト(8枚切りの1枚) おやつ:おせんべい、クッキー 夜:(娘)生ラーメン(チャーシュー、コーン、のり)、大根サラダ(胡麻油醤油)、椎茸チーズ焼き

<つづく>
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2010年04月23日


ぽかぽか春庭「タケノコ生活」
2010/04/23
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(8)タケノコ生活

 4月6日に大きな筍を買いました。忙しい毎日の夕食では「筍水煮」を買って済ませることが多くなり、皮付きを久しぶりに買いました。娘が調理担当になってから野菜類は煮物が減り、サラダ系が多くなりましたから、筍の煮物も家では作らなくなったのです。私はたまに食べたくなると、おやつ用としてスーパーの出来合い土佐煮を買っていました。

 久しぶりに筍の皮をむくので、息子に「筍生活」という言葉の意味を知っているか尋ねると、案の定知らないという。そこで、皮を何枚か剥かせてみた。「このように着ている着物を一枚一枚はがして質入れしたり家の中のものを売って食いつなぐ貧しい暮らしがタケノコ生活」と教えたけれど、「蜘蛛の子を散らすよう」とか「虱潰しに探す」とかと同じように、シラミも筍の皮を剥くこともトンと生活の中に無くなってしまい、これらの比喩も死語になっていくのでしょう。私だって、蜘蛛の子が巣から四方八方に散るのを現場で見たのは一度だけです。

 筍を買うに当たって、ハタと困ったことに、「筍は米のとぎ汁でまたは糠をひとつかみ入れてウデる」という母の教え。「ウデる」は、母の言葉で「ゆでる」のこと。米糠は筍のえぐみを取るために必要なのですが、うちのお米は無洗米。糠がついていません。それで、筍といっしょに糠漬け用の糠を一袋買いました。筍を煮るのに使った残りは糠床を作ってキュウリでもつけようと思うけれど、たぶん、ぬか漬けはいい味の糠床が仕上がるまでに手入れが悪くて捨てることになるのがオチ。
 
 筍は、ゆでたあと冷めるまで糠入りのまま鍋においておくって手間をおかずに、すぐに湯から引き上げて煮てしまったためにエグ味が残ってしまい、娘も息子も食べてくれません。ひとりで一鍋分あった筍、全部食べました。3食たけのこ。こういうのも「たけのこ生活」?

 我が家の献立メモ4月上旬。
4月1日(木)昼:スクランブルエッグ トースト おやつ:クッキー、煎餅、ゆでキャベツ 夜(娘)ビビンバ(牛肉、もやし、菜、人参、ゼンマイ他)キャベツコーンミニトマトサラダ お吸い物

4月2日(金)昼:ビビンバ(夕べの残り) 夜:ステーキ、ポテトソーセージ

4月3日(土)朝:おじや(たけのこ、椎茸、人参、鶏肉)昼:(留学生とのお花見ピックニックに、教師として自作お弁当をみなにふるまいました)五目寿司(いくら、サヤエンドウ、卵、人参、筍、椎茸、鶏肉、油揚げ)、鶏と椎茸のコチジャン焼き、大根キャベツ浅漬け ツナサンドイッチ おやつ:卵焼き おにぎり 夜:(娘)海鮮丼(いくら、鮪、ウニ)、揚げ出し豆腐、大根とキャベツの浅漬け

4月4日(日)朝:卵雑炊 昼:花見弁当(飛鳥山公園前ほかほか亭ひとつ500円。キンキン司会のアドマチックで紹介されていたので買ってみましたが、まあ、味はそこらのホカ弁屋とかわりません。醤油味のご飯の上にピンクの桜花びらのはんぺんと錦糸卵がのっているほかは、コンビニ弁当のおかずと変わりなし。海老フライ。肉より衣が大きい鶏唐揚げ、煮物蓮根人参がんもどきひとつずつ、肉団子、枝豆3つ) 夜:ホワイトシチュー(牛肉、じゃがいも、人参、大根) キャベツ漬け物

4月5日(月)昼:ホワイトシチュー残り 夜:(娘)生ラーメン(メンマ、(生協)豚角煮 牛肉細切り(シチューで煮たのをほぐしておいたもの)(生協)蕪漬け物 (生協)冷や奴(商品名・波乗りジョニー)

4月6日(火)ブランチ:雑炊(ごはん、人参、椎茸、油揚げ) ハイティ:筍姫皮サラダ 煎餅&クッキー 夜:(娘)ソテー盛り合わせ(チキンソテー 豚肉ワイン漬け焼きはんぺんチーズ ニラ饅頭) ほうれん草とベーコン炒め物 筍土佐煮 

4月7日(水)朝:バナナ ほうれん草ベーコン炒め(夕食のこり) 昼:(椿山荘)さくら御膳(桜エビのかき揚げ 蕗の薹とタラの芽の天ぷら)胡麻豆腐 柴漬け 味噌汁 羊羹) 夜:(娘)刺身(まぐろ ほたて)(姑からのお持たせ)南瓜煮物 ひじき炒め煮 筍土佐煮(私だけ食べた) デザート(コージーコーナー)4種チーズのチーズケーキ

4月8日(木)朝:焼き芋三分の一(姑が自慢の「石焼き芋と同じ仕組みでおいしく芋が焼ける鍋」を使って焼いたもの)昼:キャベツ味噌汁 おやつ:マコロン クッキー 椎茸チーズ焼き 夜:(娘)ごはん もやしと豚肉の炒め物 大根とキュウリの浅漬け 

4月9日(金)朝:バナナ(夕食残りもの)もやしと豚肉の炒め物 昼:(上野駅構内イタリアンの店レモネッロ)前菜・牛肉煮込みソーススパゲティ・ベリータルト、コーヒー 夜:(生協)チャーハン (生協)揚げ出し豆腐 (生協)グリーンサラダ

4月10日(土)ブランチ:日清チキンラーメン 卵  おやつ 饅頭(あんこ)ひとつ 煎餅3枚 夜:(娘)海鮮丼(まぐろ サーモン いくら トビッコ 卵)(生協)白菜漬け物 (生協)胡麻豆腐 デザート:(生協)チーズケーキ

<つづく>
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2010年04月24日


ぽかぽか春庭「ボナペティ」
2010/04/24
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ごはん食べた?(9)ボナペティ

 4月7日に見た映画2本立ての1本は「ココとイゴール」。ブランコシリーズで紹介しました。もう1本は「ジュリアとジュリー」という映画でした。
 ジュリアとは、アメリカの家庭料理にフランス料理を取り入れたテレビ料理番組の有名料理家ジュリア・チャイルドです。

 メリル・ストリープは、料理好きアメリカ人の記憶に残っているジュリアの印象を再現し、「役になりきっていながらメリルの個性はそのまま」というメリル式演技で、16回目のアカデミー主演女優賞ノミネート。オスカーはのがしたけれど、ゴールデングローブ賞は6回目の受賞を果たしました。
2003年にキャサリン・ヘプバーンが亡くなったあとは、私にとって「特にファンと思っているわけではないのに、どうしてもその出演作を見て、演技を見ておきたくなる女優」のNo.1です。こういうのを隠れファンと言うのかも。

 さて、ジュリア・チャイルドは、40歳近くなってから結婚し、子供には恵まれなかったけれど、夫とはラブラブです。夫のパリ転勤でパリとフランス料理が大好きになり、ル・コルドン・ブルーの料理学校に入ったことから、料理教室講師、料理本執筆、テレビ料理番組出演と人生を広げていきました。食べることが大好き。好きなことを極めたいから料理に夢中になり、料理を通して自分の生きる道を探っていきます。
 ボナペティ(Bon Appetit)は、フランス語で「おいしく召し上がれ」(原義は「よい食欲を!」)です。
 ジュリアがテレビ番組で家庭向けのフランス料理を作った後、「ボナペティ」と言うのがシメになっていました。

 ジュリアの料理本出版から40年後のニューヨーク。
 ジュリーは作家になるという若い頃の夢をあきらめ、政府機関の職員として働いています。ジュリーの仕事は、9・11の衝撃から立ち直れない人々への電話相談係。本当に悩みを抱えて電話してくる人もいるけれど、単なる鬱憤晴らしに電話係を攻撃してくる人もいる。仕事のストレスが大きくなる中、知り合いのブログが出版のチャンスを得たことを知り、ジュリーもブログを書き始めます。ブログのテーマは「ジュリア・チャイルドのフランス料理レシピ524を365日で作る記録」
 夫は、ジュリーのブログにもクッキングにも協力的でした。最初のうちは。

 書き続けるうち、ジュリーは読者が増えていく喜びを知り、コメントに一喜一憂します。ブログに熱中するあまり夫との仲違いも経験し、料理雑誌記者に料理を振る舞おうと欠勤したことがばれる結果にもなりました。このときは「寛大な上司」という評判を得たい上役だったので、危うくセーフ。
 ブログが新聞に取り上げられ、ジュリーは念願の作家デビューを果たしました。ブログが本になり映画にもなりました。その映画が『ジュリア&ジュリー』

 さて、この「ご飯食べた?」シリーズも、ジュリアの決まり文句でシメましょう。「ボナペティ、よい食欲を!」
 「女と料理」話の次は「女と掃除」話です。

<おわり>
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春庭の秋の遠足 2010年11月

2010-10-31 08:16:00 | 日記
2010/11/02
ぽかぽか春庭十人十色日記>Tシャツの次の日ドテラを着る十月(1)コケました

 10月29日金曜日。3コマの授業を終え、初級学生の文字語彙テストと文法の第一回目テストの採点記録を済ませて、朦朧としながら駅前に。疲れた!眠い!
 朝、5時半まで徹夜作業して、7時まで2時間だけ寝て、お昼ご飯も食べずに仕事を続けたのですから、眠いし、おなかすいたし。

 駅にガストがあります。ファミレスの中でも、ひたすら「安い!」がウリのレストラン。でもなぁ、徹夜あけで一生懸命仕事をしたのだから、自分にご褒美でもうちょっとおいしそうなところにしたいのだけれど、と思いながら、「禁煙席」と希望を言うと、係の人が案内してくれた席は、隣のおばさんふたりが賑やかにおしゃべりをしている席で、喫煙席のそば。

 分煙のはずが、煙の匂いがキツイ。「あ、すみません、やめます」と、言って外にでる。どうせ食べるなら、もうちょっと疲れが取れそうな席で食べたい。どこへ行こうかと、ぼうっと歩いていたら、どって~ん、とコケました。
 前のめりにバッタリとテレビコントでお笑いタレントがやるようにものの見事に倒れました。ほんの5、6センチの段差があったのです。年をとると、数センチの段差でこけると聞いてはいたのですが、まあ、これがその症状なのかと実感して、しばらく倒れていました。起き上がる気力もないくらい、身体限界。

 日頃どんなに忙しくても、睡眠時間だけは確保して、睡眠不足のときは、通勤90分を利用して立っていても寝る私なのですが、やはり、睡眠時間2時間しか取れなかったのは電車居眠りでもカバーできず。
 徹夜というのは、10月29日締め切りという期日に間に合わせるための作業をしていたから。朝3時半まで家のおんぼろプリンターでプリントアウトしました。

 夫に「どうしても、間に合わせたいのだけれど、バイク便ってどうやって頼むの?」と電話で聞くと、「バイク便だと2万円はかかる場所だなあ。セブンイレブンのクロネコヤマト便だと、朝3時から5時に出せば、その日の午後には着くから、ヤマトにしたら?」と教えてくれました。夫が私の役に立つのは何年ぶりになるかしら。生まれて3ヶ月未熟児の保育器を出て2ヶ月になる息子をおぶって大学院修士課程の入学面接試験を受けたとき、面接の間だけ控え室で息子を抱っこしていてくれた、夫が私のために何か役立ったのは後にも先にもこの一回だけ。あとはいっさい家事も育児もやらず、家計担当もさっさと降りてしまって、私は一人で食い扶持稼ぎも子育てもやってきた。おお、そうすると夫が役立ったのは22年ぶりだな。なんて思いながら、パソコンからの打ち出しはできたけれど、コピー機能が働かない。コピーしなければならないものもあるので、3時半にセブンイレブンへ行って、店内のコピー機で作業。4時まで作業を続けました。

 こんな時間にと思うけれど、道路沿いの24時間営業の店には、途切れなく客が入ってきます。ああ、日本は24時間フル回転なんだなあと、夜は寝ることに徹する日常生活の者は感心してふたりの店員さんが食品棚の入れ替え作業を続けながら客の応対をするのを横目で見ていました。急に寒くなった10月、朝4時半は、まだ真っ暗ですが、荷物の配送が次々に入ってきます。私などたまの徹夜でヒィヒィ言っているのに、真夜中も明け方も働いている人はいるのだ、と働き者ニッポンを実感。

 荷造りをして段ボール一箱、宅急便に託しました。それから郵便局へ行って、速達を一通出して、5時から7時まで一眠りして仕事へ。
 年だから5センチの段差ですっころんだのだと思わずに、「徹夜あけでモーローとしていたから、ころんだのだ、と思うことにします。まあ、若いうちなら、一晩くらい徹夜しても転んだりしないのでしょうから、やっぱり年を実感すべきなのか、,,,

<つづく>
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2010年11月03日


jぽかぽか春庭「クレジットカードおとした」
2010/11/03
ぽかぽか春庭十人十色日記>Tシャツの次の日ドテラを着る十月(2)クレジットカードおとした

 10月29日には駅前でハデにころんで、年を実感しましたが、その前の金曜日、10月22日には、プリペイドカードのスイカを落としました。
 25日。月曜の出勤時に、スイカが入っている財布を出しタッチして改札を通ろうとしたら、通れない。おかしいなあと財布をあけたら、スイカが入っていません。あれぇ?金曜日にチャージして、財布にしまったはずなのに。

 チャージして、領収書だけ受け取って、カードは受け取らずに家に帰ってしまったのです。ただし、これは年のせいじゃない。私は子供の頃からぼうっとすごしていて、落とし物忘れ物は毎日の出来事でした。だから、スイカを駅のチャージ機に忘れてきても、「年取ったための物忘れ」とは思わずに「いつもの落とし物だ」と、年は気になりません。

 年は気にならなくても、スイカカードを落としたのは大問題。量販家電店の会員カードと兼用になっており、会員カードにはクレジット機能がついているからです。万が一心がけの悪い人に拾われたら、クレジット機能を利用して借金もできる。借り入れの最高金額は100万程度の、ランクの低いクレジットカードとはいえ、100万も借り入れられてしまったら、超貧乏暮らしのわが家、立ち直れません。家電店で3Dテレビなどの高額商品を買い込まれてしまうかもしれません。さあ、困った。

 あわてて駅員さんに、「すみません、金曜日にカードチャージして、今ないんですけれど、落とし物の届けはありますか」と尋ねました。駅員さんは電話で問い合わせて「お客様のものかどうかわかりませんが、スイカカードの落とし物が金曜日にありました。ただし、この駅には保管していなくて、上野の落とし物総合案内所へ行ってください」とのこと。その落とし物カードが私のものかどうかは言えない、と駅員さんが言うのだけれど、火曜日に上野へ行きました。

 係官はあちこちの引き出しを調べて、「ありませんねぇ」と言う。あれまあ、もっと探してよ。別の係員が「この引き出しにあるんじゃないか」とアドバイスして、そこを見るとスイカがありました。ああ、よかった。ちゃんと署名欄に名前かいてあるじゃないの。個人情報の問題があるから、私のかどうか、言ってくれなかったみたい。名前を書いて、身分証明書を見せて本人確認。無事、カードが返ってきました。

 カードが返ってきたのは、「情けは人のためならず」のおかげです。10月15日の金曜日、駅前で拾った定期入れ、スイカとバス定期券とディズニーランドパスポート券が入っていたのを、駅員さんに届けた、その御利益でしょう。定期券には16歳と書いてあったので、高校生でしょう。ディズニーランドへ行くのを楽しみにしていたでしょうに、ちゃんと本人のもとへ届いたかしら。

 急な寒さ、皆様、ご自愛ください。私は自愛が足りずに気温乱高下の10月に、さっそく風邪ひきました。風邪引いて授業休講にしたら、その分の講師料が減ってしまうパート講師、休めないから、気力で出講しましたとも。
 インフルエンザも恐いので、11月1日、早々と予防接種を申し込みました。去年は申し込みをしてからずいぶん待たされたので、今年は早めに申し込んだのですが、今年は「今日できますよ」と看護師さんが言うので、申し込んだ当日に接種してしまいました。
 あとは、冬休みになるのを楽しみに、寒さにめげずにがんばります。
 今日、文化の日は、国立博物館や西洋美術館の通常展が無料になる日です。無料とご招待が大好きな私、天気もよいし、出かけてきます。

<つづく>
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2010年11月05日


ぽかぽか春庭「大人の遠足上野公園」
2010/11/05
ぽかぽか春庭十人十色日記>大人の遠足(1)上野公園

 10月はじめには真夏日を記録したと思ったら、下旬には12月並みの寒さ。今年は秋がなくて、夏から一気に冬になってしまったのだけれど、せめて気分は「芸術の秋」をすごすことにしました。
 11月3日文化の日。一日楽しく東京アート散歩ですごしました。
 ダンス仲間のミサイルママと11時半に待ち合わせ。上野へお弁当を持って「大人の遠足」に出発です。

 ミサイルママに「上野でランチしてから美術館にいきます」とメールしたら、「お弁当を持って行くつもり」という返事がきました。それで朝、夕べの残り物詰め合わせのお弁当を作りました。11月2日の夜、仕事を終えて家に着いたのが8時すぎ。あまりに疲れて夕食を食べずに寝てしまったので、私の夕食分がそっくり冷蔵庫に入っていました。娘が用意していてくれたほうれん草とコーンの炒め物、豚肉ハーブソテー、はんぺんチーズ、ニラ饅頭などをそのままチンして、小さな和菓子の空き箱に入れました。鮭とおかかのおむすびふりかけで俵型の小さなおにぎりを三つ結びました。しゃれた和菓子の空き箱、「いつか使うかも」と、とっておくと、「昔モンはこんな空き箱やら包み紙やらを取っておきたがるから部屋が片付かない」と、不評なのですが、こんなときお弁当箱にするのに、ちょうどいい。

 でも、ミサイルママは「あ、そこの回転寿司でお弁当買ってくるから、ちょっと待ってて」という。なんだ、「お弁当もっていく」っていうのは、お弁当作って持って行くんじゃなくて、買って持って行くんだったのね。ミサイルママも日頃は忙しく働いている。

 ミサイルママは美術好きで、インテリアの店に勤めているのでカラー検定の試験をうけたりもしています。区の生涯教育講座で油絵や絵手紙講座を受講したり、彫刻の講座で石膏像の大作を作ったりしてきました。(石膏像は、俳優をしている息子が一人芝居の公演で使って壊れた)
 ふたりとも美術館巡り、庭園めぐりが好き。そして古建築を見て歩くのが好きというところまで共通していることがわかりました。

 私は土日が休みで、ミサイルママは水曜日がインテリア店の定休日なので、いっしょに休めない。11月3日は、水曜日で祝日ですから、ふたりいっしょに出かけることにしました。20年以上ダンス仲間としてつきあってきたのに、二人でのお出かけは初めてのこと。ミサイルママは、一人でないときは妹さんといっしょに出かけるので、なかなか私といっしょという機会はなかった。

 若い頃に山歩き好きの「山ガール」だったことも、ふたりの共通点です。ミサイルママは、息子ふたりの子育てを卒業した数年前に「ちょっと古びた山ガール」復活し、山歩きを楽しんでいます。尾瀬や槍ヶ岳などをひとりで歩いている様子の写真を、何度か見せて貰いました。私も、来年3月に息子が大学を卒業したら「子育て卒業」宣言をして、山歩きも復活するつもり。山ガールならぬ山姥ですが。

 シングルママで息子ふたりを育てたミサイルママと、「実質シングルママ」の私、経済的に余裕がないのが共通している「貧乏仲間」でもあります。お金をかけずに心豊かな生活を楽しむことにかけては、ふたりともひけをとらない。

 文化の日の大人の遠足。上野公園内、歩きながら奏楽堂を眺めました。木造のコンサートホール。美しい建物です。取り壊されるところだったけれど、保存運動のおかげで、芸大内から移築保存されました。
http://www.taitocity.net/taito/sougakudou/

 ミサイルママに、「日曜日や木曜日に入館料のみの無料コンサートがあるんだよ」と、情報を伝えました。東京芸大の大学生院生が、パイプオルガンとチェンバロの演奏をしています。コンサートの予定はこちら。
http://www.taitocity.net/taito/sougakudou/sougakudou_guide/sougakudou_guide3.html

<つづく>
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2010年11月06日


ぽかぽか春庭「黒田記念館」
2010/11/06
ぽかぽか春庭十人十色日記>大人の遠足(2)黒田記念館

 奏楽堂を通り過ぎて、まず無料公開している黒田清輝記念館へ。明治大正画壇の重鎮だった黒田清輝子爵の遺産として設立された美術研究所。1938年竣工のレンガ作り。レンガの壁の側面はツタが這っていましたが、葉は全部落ちていました。ツタの葉に覆われたレンガ壁ってのもステキなので、また葉が茂っていることに見に来ることにします。
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/japanese/gaiyo.html

 レンガ建物が好きな二人には、中の絵よりも外からの建て物を眺められればいいってところですが、せっかくの無料公開日ですから中も見ました。
 黒田清輝の絵、美術教科書に必ず載っている「読書」や「湖畔」の絵は知ってはいましたが、これまで「画壇のボス」のイメージが強くてあまり熱心には見たことがありませんでした。「湖畔」の本物を初めて見ました。モデルは奥さんの照子、写っている湖は芦ノ湖っていうことも初めて知りました。
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_work/oil/oil059.html

 黒田記念館をみたあと、隣の国際こども美術館へ。休館日であることは知っていましたが、この建物もとてもすてきです。こちらは1929年に増築された姿を残しています。
http://maskweb.jp/b_kodomo_1_1.html

 1906年(明治39年)に帝国図書館として建物が作られましたが、その前身は東京図書館。樋口一葉は、上野の東京図書館に通い詰めていたということを日記に書いているという蘊蓄をミサイルママに披露しながら概観を眺めました。ミサイルママは一葉蘊蓄のお返しに、「この中のカフェが安くておいしい」と情報を交換。私は、こども図書館に絵本の展示を見に来たことがありましたが、飲み物はペットボトルで済ませてしまい、カフェによることはしませんでした。次の機会にカフェもぜひ。

 ただし、あとでチェックしたら、「樋口一葉はこの建物がつくられる10年前に亡くなっているので、「東京図書館」に通っていたと思われます。こちらは帝国図書館の前身に当たる図書館で、現在では東京芸術大学の敷地内に煉瓦造りの旧書庫が残っています。」という説明が国際こども図書館の館内案内に書かれていました。
 一葉は帝国図書館に通ったのだとばかり思い込んでいました。確認をとらずにうかつに蘊蓄披露したがる私の癖、いけませんね。

 上野公園の噴水前でおしゃべりしながらお弁当タイム。ミサイルママは寿司弁当、私は「夕食残り物詰め合わせ弁当」を食べました。ミサイルママが登山用に買ったという保温性抜群の水筒に詰めてきたコーヒーを私もお相伴。
 よく晴れて気持ちのいい文化の日、気温はちょっと低めでしたが、暖かいコーヒーもいただいて、楽しい遠足のお弁当タイムでした。

<つづく>
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2010年11月07日


ぽかぽか春庭「こども図書館・芸大銀杏」
2010/11/07
ぽかぽか春庭十人十色日記>大人の遠足(3)こども図書館・芸大銀杏

 上野公園にお弁当を持って一日楽しむ大人の遠足。ミサイルママといっしょの11月3日に続き、11月5日はひとりでもう一度でかけました。3日に行けなかったところをまわろうと思って。
 11月5日金曜日は、出講先の大学が大学祭で休講です。久しぶりに平日に休みがとれたので、午前中は整形外科のマッサージを受けたり、美容院で髪をカットしたり。午後は、上野へ。今回の残り物詰め合わせ弁当は、4日夜に娘が作った「牛コマとエリンギ、パプリカの炒め物」私が作ったおでん、姑が作ったかぼちゃの煮物。それに近所の無添加自然発酵のパン屋フーミーで買った「かぼちゃのティラミス」という菓子パン。

 まず、上野の国際こども図書館のカフェへ。コーヒーを買って外へ出てオープンカフェコーナーでお弁当タイム。空が真っ青。見事な秋晴れ。木の葉はほんの少し色づいたのもあるけれど、まだまだ東京の紅葉は先。カフェの周囲の木々では小鳥が歌っています。上野公園には野鳥も多い。ほんとうにのんびりした気分になれました。こども図書館は親子連れが多く、オープンカフェでも2、3歳くらいの女の子がちょこちょこ走ってはママのところへ戻るのを繰り返しています。ここならいくら走っても大丈夫。

 お弁当の「かぼちゃのティラミス」は、見た目ほど甘すぎずおいしかった。私、本当は甘い物禁止しなくちゃならない身の上なんですけれど。フーミーのパンの中では「じゃがいもパン」というのがわが家での大人気なのですが、今回は12時にお店に行ったらもう売り切れでした。11時半ころの焼き上がりを狙っている人も多いので、ちょうどいい時間にいかないと、なかなか買えない。無添加パンなので、その日に売り切れる量しか店に並べないからです。

 こども図書館の建物は、1906年(明治39年)に帝国図書館として建設された建具などをそのまま保存しています。岩崎邸のガラスもそうでしたが、古いガラスをそのまま保存していて、ガラスにはゆがみがあります。現代のガラスは透明でゆがみ一つないものになっていますので、このガラスを透かして眺めると向こう側がぼうっとゆがんで見える古ガラスに何とも言えない趣があります。いつか建物解説ツアーが行われる木曜日に来館して詳しい説明を受けたいと思います。

 今回は3階の一般閲覧室で開催されている「絵本の世界展」をぐるっとひとまわり見て、1階の昔は「貴賓室」だった「世界を知る」コーナーで閲覧。世界のビーズ手芸、世界の織物と染め物という本を眺めました。15000円するビーズ手芸の本、とても買えませんから、図書館で眺めることができて良かったです。

 こども図書館を出て、隣の黒田記念館をもう一度ぐるっとひとまわり。それから芸大の中を歩き、正木記念館、芸大美術館陳列館、赤レンガ1号館2号館を見ました。
 
赤レンガ館を見た後、建物の裏手へ回って、建物の脇と道路際の木立の間をしばらく歩きました。方向音痴なので、出口と反対側に行ってしまった。

http://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html
 芸大音楽学部と道路の塀際に銀杏の木がたくさん植えられています。上のキャンパスマップでいうと、19,23,21号棟の道路際。
 芸大内の銀杏の木は雌木で、黄葉には早かったのですが、大量のぎんなんが落ちていることを発見!誰も拾おうとしないので、山積みになって放置されています。駒込の六義園の中のいちょう雌木など、近所の人は銀杏がみのるころをよく知っていて、みな拾いに来て、私が歩いてもめったに落ちていません。芸大の銀杏の古木。銀杏も大粒です。今回は臭い銀杏を拾うための手袋や袋の用意がなかったので、あきらめましたが、いつか手袋や袋を持って芸大銀杏拾いに挑戦してみます。
 銀杏(いちょう)と銀杏(ぎんなん)と、どちらも銀杏と書くのはなぜかという漢字表記の問題については、春庭コラムをごらんください。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d985

 お弁当を持って歩いて回る大人の遠足、芸大での建物や彫刻展テキスタイル展の見学、西洋美術館でのデューラー展見学については、次回シリーズ「秋のアート散歩」でご報告いたします。

<おわり>
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春庭の秋の散歩2010年11月

2010-10-30 07:15:00 | 日記
2010/11/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>秋のアート散歩(1)芸大・赤レンガ館、陳列館

 11月5日金曜日の「ひとり遠足」で、芸大の赤レンガ1号館と赤レンガ2号館を初めて見ました。赤レンガ館は音楽学部の正門付近に並んで建てられています。

 美術学部の中にある芸大美術館には何度か来ているけれど、道路を挟んだ音楽学部側の中には立ち入ったことがありませんでした。正門の前に「学外者の立ち入り禁止」と書かれているので、気の小さい私はこれまで中に入ったことがなかったのです。音楽の練習をする場ですから、物見遊山の人が入れ替わり入って来たのではうるさくて練習できないだろうから、このような立て札を立てるのもわかります。

 しかし、今は独立行政法人になったとはいえ、芸大も私たちの税金で設立運営されてきた大学です。納税者が中の建物を静かに見るくらい許されてもいいんじゃないかと思って、今回思い切って中に入りました。
 赤レンガ1号館2号館の紹介サイト。
http://maskweb.jp/b_geidaibrick_0_1.html

 赤レンガ2号館の中、現在は美術修復研究が行われています。正木記念館や陳列館が美術館として一般公開されているのに、赤レンガ館は一般公開はされていないのは残念です。美術修復研究は、他の建物で行うのも可能でしょうから、こちらの赤レンガ館も「芸大音楽博物館」などにして、一般公開してもらいたいものです。

 美術学部には明治時代からの貴重な作品がたくさん収蔵されていますが、音楽学部にも歴代の作曲家の楽譜とか貴重なものがたくさんあるはず。一般公開して、これまで税金で支えて貰ってきたおかえしを納税者にすべきです。
 映画やアニメなど新しい分野の研究教育も行われるようになって、芸大もだいぶ開けては来ましたが、音楽学部はまだまだ閉鎖的な気がします。

 美術学部側の陳列館も赤煉瓦作り。入り口には皇居二重橋の飾電燈が役目を終えて展示されています。
http://maskweb.jp/b_geidaichinretsu_1_0.html
 東京芸大美術館陳列館2階で「テキスタイル コネクション-宇宙を織りなす-」が開催されていました。芸大染織研究室とNPO法人「文化芸術振興研究所」の主催です。

 私は染め物と織り物が好きで、新宿の文化大学美術館などで染織作品を見てきました。芸大で織物を見るのは初めて。
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2010/textile/textile_ja.htm

 スーザン・クレバノフ、ナンシー・コジコフスキー、楊建軍ほか、アメリカ合衆国・中華人民共和国・日本の作家14名による作品が展示されており、とても見応えがありました。針金を編んだ造形作品など、私には「これもテキスタイル?」と思う作品もありましたが、織物は生活着としての日常性から宇宙の広さまで表現できるアートとしてのテキスタイルまで、とても幅が広い。茶碗が日常の湯飲み茶碗飯茶碗から、宇宙までを表現できるのと同じです。作品のカタログが欲しかったけれど、今回のアート散歩は「無料」がコンセプトですから、買いませんでした。会期は11月7日まで。

 芸大美術館本館で開催されている「明治の彫塑 ラグーザと荻原碌山展」は、12月まで会期があるし、有料だから、今回はパス。
 芸大正木記念館で平櫛田中コレクションを見ました。会期は、2010年10月26日(火) - 11月7日(日)。
 正木記念館の建物は、東京国立博物館本館のミニチュアみたいな感じ。
http://www.geidai.ac.jp/museum/concept/masaki_ja.htm

 平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の名を初めて知ったとき画号が「田中」なんて、平櫛という苗字と「たなか」という苗字とふたつあるみたいな号だなあと思ったのですが、平櫛家へ養子に入る前の本姓が「たなか」だったと知りました。もともとの本名を画号にしたんですね。

 平櫛田中は、107歳まで生きた彫刻界の大物。ブロンズ彫刻はいろんな作家を見てきたけれど、木彫の彫刻家と言えば高村光雲と平櫛田中の名くらいしか思いつかない。その平櫛が集めた内外の彫刻作品を芸大に寄付したコレクションが展示されていたのです。いつもは彫刻はあまり見ないのだけれど、無料だから見ました。
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2010/denchu10/denchu10_ja.htm

 小さめの作品が多かったですが、ロダン、ブールデル、マイヨールの作品もあり、弟子たちが平櫛田中をモデルにした作品がふたつ並んでいました。田中は90歳で文化勲章を受章。百歳になったとき、130歳まで木を掘り続ける材料として、600万円出して直径2メートルのクスノキ材を三本買い込んだ、というエピソードが有名。
 私も元気に歩き回って足腰鍛えて、百歳になったら30年分のダンスシューズを買い込みたいな。

<つづく>


ぽかぽか春庭「ドイツ歌曲コンクール」
2010/11/10
ぽかぽか春庭@アート散歩>秋のアート散歩(2)ドイツ歌曲コンクール

 芸大の中をいろいろ見て回って、新しいコンサートホール奏楽堂も確認。木造のコンサートホール、旧奏楽堂は現在は台東区の所有文化財になっていて、木曜日日曜日が一般公開日です。旧奏楽堂の前へ行くと、11月5 日金曜日は公開日ではないのに、人が出入りしています。コンサートをやっているのかなと思って、入り口受付で尋ねたら「今、ドイツリートコンクールをやっていますが、第1部が終わって20分の休憩に入ったところです。第2部は4時50分開演です。お聞きになるなら、入場整理券を差し上げます」といいます。

 財団法人日本友愛青年協会主催の「第21回友愛ドイツ歌曲コンクール」が開催されていました。12月10日に行われる本選会のチケットは2000円ですが、今日の2次予選は入場無料ですから、聞いていくことにしました。
 友愛青年協会は鳩山一郎が設立した団体。(カフェのmitsubaさんは「若い頃この団体の職員をしていた」と、よく日記に書いておられます)現在の主な活動は中国でのボランティア植林運動、軽井沢の山荘経営と、このドイツリートコンクールのようです。

 ドイツリートコンクール優勝者にはウィーンで行われるコンサートへの出演と8日間のオーストリア旅行ご招待&20万円の賞金が与えられます。
 私が聞いたのは、一般の部の第2部。モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、シューマン、ブラームスなどのリートを朗々と歌っていました。7人の審査員は厳しくチェックして本選出場者を選んでいるのだと思いますけれど、素人の私の耳にはみなさん美しい歌声で、どの人が最終予選に残るのかなど、見当も付きません。

 国内の多くの音楽コンクールでは、審査員との弟子関係で優勝者、入賞者が決まるのだと聞いたことがありますけれど、さて、このコンクールは出来レースなのやらガチンコなのやら。

 某文学賞をイケメン若手俳優が受賞したというので、またまた八百長コンクール論が沸騰しています。「芸名での応募ではなかったので、受賞するまでまったく俳優の応募だと気づかなかった」という社長の談話がいかにもウソくさい。最終候補作に残ったら、編集者は応募者と連絡をとり、顔合わせもするので、あれだけ顔が知られている人に気づかなかったということはありえません。また、賞金2000万円の辞退をさせるべきではなかった。実力が評価されて受賞したのなら、堂々と貰えばよい。しかも、1回目だけ大賞を出し、2,3,4回目は該当作無し。第5回目の今回は2000万円辞退で、来年からは200万円にダウンして「新人賞」という名に切り替えるという。何だかなぁ。

 世間で一番有名な文学賞の選定について、その文学賞を主宰している大手出版社の編集者と知り合う機会があったので、聞いてみたところによれば。
 内部編集者による下読みの段階では、数百篇に及ぶ候補作を本気でふるいに掛けて1次予選2次予選と進めていくけれど、最終予選に残すのは「受賞後の単行本を売っていく戦略も含めて、いろいろ社内事情もありまして、,,,」ということでした。5、6篇に絞られた後の最終選考で1作を受賞作とする最終選考では、委員の作家大先生たちにお任せするということでした。つまり、入り口と最後の出口はがちんこ、真ん中はいろんな事情から選抜されるという、、、、。

 世の中のコンクール応募者で、ほんとうに実力だけが評価されると信じている人々には、厳しい現実でしょうが、真ん中の「賞を出す側の事情」をかいくぐるためには、実力だけでは無理ということを知るのも必要かと。芸能界の「主役抜擢オーディション」などがほとんど出来レース、コンクール形式で応募者を集めるのは話題作りのためだけ、というようなことはよく知られるようになってきていますけれど、さて、国内の音楽コンクールのがちんこ具合はいかほどなのか。

 ちなみに、奏楽堂、審査員以外の聴衆は25名。300人は入るホールでちょっと寂しい聴衆でしたが、本選会には満員になるのでしょう。6時から20分の休憩を挟んで、大学大学院学生の部のコンクールでしたが、西洋美術館でデューラー展を見るために奏楽堂を出ました。若い声楽家が伸び伸び育っていくのを祈っています。

<つづく>


ぽかぽか春庭「デューラー展」
2010/11/12
ぽかぽか春庭@アート散歩>秋のアート散歩(3)西洋美術館デューラー展

 デューラー展のチケット、招待券を3枚もらいました。ダンス仲間のミサイルママ、12月8日のオペラコンサートのチケットに応募したらペア券があたったので、いっしょにいかない?と誘ってくれたので、お礼に1枚あげました。K子さんは11月16日の東京芸術劇場のコンサートチケットを「行けなくなったから」とプレゼントしてくれたので、お礼に1枚あげました。バーター貿易のようなもんです。こうして、仲間と仲良く「無料で楽しむ生活」を楽しめます。

 大きなサイズの油絵なら混み混みの人垣の遠くから眺めても、鑑賞可能な場合もあるけれど、今回のデューラー作品は版画と素描。細い線での描写が命の版画だから、なめるくらいくっついて見つめたい。来年1月まで会期はあるけれど、土日はぜったいに一人で一枚の絵を独占するのは無理。この先、冬休みまで平日に休みが取れる日がないし、11月5日金曜日の夜は、文化センターの行事のためダンスサークルの練習がお休みなので、ワンチャンス。西洋美術館、金曜日は8時まで開催しているので、奏楽堂でドイツリートを聴いたあと、西洋美術館でデューラー展を見てしまうことにしました。
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/durer201010.html

 エレベーターで地下の展示室に入ると、ちょうどギャラリートークを開催中で、若いデューラー研究者(イケメン)が作品解説をしていました。30分間は、解説者についてまわりました。すらすらとよどみなくデューラー版画の特徴を述べ、デューラーのパトロンのマクシミリアン公について語り、イタリアルネサンスとドイツルネサンスの芸術ちがいを概説する。興味深い解説が聞けてよかったです。

 終わって聴衆が解散した後、イケメン解説者は、何人かの質問に答えていました。ふっと見ると、解説者が知り合いと話しているのが聞こえました。「いやあ、緊張しちゃって、話したかったことをすっとばしました」というようなことをしゃべっている。いえ、いえ、何のなんの、私のような版画についてまったく何も知らない者にとって、鑑賞の役に立つお話でした。おそらくデューラー研究の大学院生だろうと思います。これから先、がんばってよい研究をつづけてください。

 デューラーの版画、細い線を駆使して聖母マリアも磔刑のキリストも聖人たちも「想像上の犀」も見事に描かれています。これまで美術館で見てきたデューラー、私には四角四面できまじめな版画、という印象でした。この人は一線一線を毎日こつこつを描き続ける職人気質、もしくは宗教者のような人物だったのではないか。酔って管巻いたり、女を追いかけ回したりなんてことはしなかった人だろう、という印象だった。

 イケメン君も、デューラーはコンパスや定規を駆使して絵を構成したと解説していました。彼自身が残した書簡などで、「古典美術の理解でもっとも基本となるのは、幾何学と測量法」と書いたというし、大量の日記、旅行記などを詳細に記録した、きまじめな画家でした。王侯との謁見、芸術家たちの歓迎会(アントワープの宴会など)で、16世紀当時のヨーロッパの食生活までわかる。また、ルネッサンス期の人文学者との幅広い交友についての記録から、ルネッサンス人の精神的内面的な記録もわかる。1528年4月6日に没するまで、ヨーロッパ芸術界の重鎮としてすごし、後世にも大きな影響を残しました。

 芸術家は奔放でハチャメチャで周囲の人のことなど考えないわがまま放題というイメージからすると、なんだか「出来過ぎ君」のようなデューラーの生涯。今回の「素描と版画」という企画も、地味でまじめな企画でちょっと敷居が高かった。
 どうやら私は、「芸術家はハチャメチャであるほど面白い」と思っているみたいです。
 
<つづく>
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2010年11月13日


ぽかぽか春庭「渋沢史料館」
2010/11/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>秋のアート散歩(4)渋沢史料館

 11月7日日曜日、渋沢史料館へ行って来ました。
 飛鳥山公園に並ぶ三つの博物館のうち、紙の博物館と郷土史料館を前身とする飛鳥山博物館には入ったことがあるけれど、渋沢史料館と渋沢庭園に来たことがなく、飛鳥山の南半分が渋沢家の邸宅だったことも知らなかった。

 渋沢栄一は、明治大正の財界を代表する大立て者にして、91歳で没するまで冨と名声と長寿を全部一人で実現した人。日本近代経済の基礎を築き、500を越える会社を設立、子爵を授爵。教育や福祉にも熱心で、論語の精神と経済を両立すべく活動しました。
 私はこれまでそういう「功成り名遂げた人」に興味がなかったので、史料館に入ったことがありませんでした。

 今回見学した晩香廬は、1917(大正6)年、渋沢栄一の喜寿を記念して竣工された洋風茶室(和洋折衷のティールーム)。渋沢邸の中でも、賓客接待用のレセプションルームでした。晩香廬(ばんこうろ)は、丈夫な栗材を使用し、暖炉・薪入れ・火鉢などの調度品、机・椅子などの家具も最新の設計により、全体の調和が図られています。インドのタゴール、中華民国の蒋介石などを迎え入れ、アジア外交を民間人として担った外交の場にもなってきました。
 建物概観の写真撮影は自由ですが、内部の写真撮影は禁止されています。でも、写真に残しておきたい室内でした。「細かいところまで意匠をつくし贅を尽くした作り」という調度品や暖炉のデザイン。
http://maskweb.jp/b_bankouro_1_0.html
 
 青淵文庫(せいえんぶんこ)は、渋沢栄一の80歳傘寿のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて建てられた書庫兼接待所。1925(大正14)年の竣工で、栄一の書庫として、使用されるはずでしたが、関東大震災で栄一のコレクションである論語の書籍が消失したため、実際には書庫ではなく接客の場としても使用された洋館です。東京大空襲にも消失を免れ、建築当時の姿を残しており、晩香廬と共に国の重要文化財に指定されています。
http://maskweb.jp/b_seien_1_0.html

 学芸員によるギャラリートークに午後1時半から参加。
 1923年の完成直前に関東大震災があって、鉄筋コンクリート作りの建物が大きく崩れてしまい、完成が2年遅れの1925年になったという建設中のエピソードや、書庫のステンドグラスは、渋沢家の紋所の柏をデザインしているとか、説明をしてくれました。でも、そのような説明は、もらったパンフレットにも書いてあるので、ひとつくらいは、パンフレットにも載せていないような、「とっておきの話」を加えてくれれば、大勢の人とぞろぞろいっしょに歩きながら見て回るギャラリートークに参加してよかった、と思えるのになあ。

 お金持ちに対して、何はどうあれとりあえず反感を感じてしまう貧乏人の春庭ですが、渋沢栄一はもうけたお金は教育や福祉など社会に還元すべきだという信念をもって経済活動を行ったということらしい。三井三菱安田財閥を築き上げた財界人とはひと味ちがう人物だったようで、今まで「地元に住んでいた偉人」という以上のことは知らなかった不明をわびて、栄一の人となりを一通り学びました。

 渋沢一族のなかで、面白かったのは、栄一の息子渋沢篤二のエピソード。放蕩を続け、名門出の妻を捨てて芸者との生活を選んだため、栄一によって法的に廃嫡され、栄一の後継者は篤二の息子敬三となりました。篤二は禁治産者という烙印を押され、栄一の指示により篤二名義の財産はすべて妻敦子の名義に書き換えられました。栄一なりに、堂上華族である橋本伯爵家出身の嫁を気遣った結果なのでしょう。
 莫大な資産を引き継いで子爵家の当主として生きるよりも、なにがしかの捨て扶持を与えられて、好いたおなごと気楽に生きるほうを選んだ篤二、それもひとつの生き方です。

 敬三は、学者になりたいという夢を諦め、渋沢家を守るために財界人として、また戦後は、幣原内閣の大蔵大臣として政治にも取り組む生涯をおくりました。不遇であった父の生涯を記念するために、父親が撮影した写真を写真集『瞬間の累積』として出版したり、民俗学研究のパトロンとなって研究者を支援しました。

 東京大空襲の際、飛鳥山公園の南側に広がっていた渋沢家の大邸宅のうち、本邸その他が消失。晩香廬と青淵文庫だけが残されました。
 旧岩崎邸、旧朝香宮邸(現都立庭園美術館)、旧前田公爵邸(現近代文学館)、旧古河邸(元陸奥宗光邸)、旧細川侯爵邸(現和敬塾本館)など、都内の近代建築のうちの個人邸宅を見てきて、それぞれに味わいのある邸宅でしたが、今回の晩香廬も、渋沢栄一のひととなりを感じさせるよい建物だと思いました。

<おわり>


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飲むか、飲まないか、それが問題だ2010年11月

2010-10-23 07:09:00 | 日記
ぽかぽか春庭「立ち飲み平澤かまぼこ店」
2010/11/14
ぽかぽか春庭十人十色日記>飲むか、飲まないか、それが問題だ(1)立ち飲み平澤かまぼこ店
 
 人とのリアルつきあいが苦手な私、ネットで知り合った人と実際に顔を合わせるオフ会も数えるほどしか出かけておらず、顔を知っているネット友達も数名のまま増えません。 その中の一人、一度顔合わせをしたことがあって、その後も何度も「会っておしゃべりしませんか」と、メールしたいと思いつつ、残業続きで忙しそうなカフェ日記の記事を見て、もうちょっと時間がありそうなときに会うことにしようと思っていたヨコさんと2度目のオフ会の機会がありました。

 ヨコさんの日記に「文化財ウィークの一般公開で週末には無料観覧できるところに行く予定」と書いてあったので、検索マニアの春庭、さっそく検索開始、ヨコさんがどこに出かけようとしているか突き止めました。ヨコさんの「近代建築めぐり」日記を読んできたので、文化財一般公開、近代建築、週末無料観覧をキーワードに検索を続けたら、行き先がわかりました。

 それで「私も週末に行くつもり。現地で会いましょう」とメールを出しました。春庭@アート散歩に記した渋沢史料館散歩をヨコさんとごいっしょすることができました。
 私が晩香廬室内に入ると、すぐに赤いダウンジャケットにカメラを首から提げた女性が目に入りました。一度会っただけですけれど、なんとなく記憶に残るボブヘア。もし人違いだと恥ずかしいので、遠慮がちに手を振って合図してみる。ヨコさんも「もしかしてこの人かなあ」という感じで、「ハルさんですよね」と確認。2年ぶり2回目のオフ会の挨拶は後回しにして、学芸員による建物内部の説明を聞きました。ヨコさんは渋沢栄一の出身地深谷に移築されている「誠之堂」も見学してきたということです。私もいつか機会があったら見学したい。
http://maskweb.jp/b_seishido_0_1.html

 学芸員が晩香廬と青淵文庫の解説をするギャラリートーク、ヨコさんといっしょに参加し、 ヨコちゃんは、「自分がお金持ちだったら、まずは書庫が、次にビリヤード室が欲しい」と感想を漏らしていました。私は書庫と室内プールとダンスフロアが欲しい。

 渋沢史料館見学のあと、王子駅前のかまぼこ屋の出店のおでん屋でヨコさんとしばし歓談。かまぼこ屋がおでんを売っている立ち飲み屋なのですが、奥に小さな座るスペースもあるとネットで見かけたので、女性が一人では入りにくい飲み屋さん、ヨコさんがビール好きなことは知っていたので誘ってみました。

 毎週講師室で顔を合わせていてもあまり同僚と話しができない愛想無しの私です。団地住まいのお隣さんのことはほとんど知らないけれど、カフェ日記を読んでいる人のことは、毎日の暮らしぶりや考え方を知っていて、お隣さんより親しい。ヨコさんの実際のプラバシーについては、夫の事務所のご近所の会社で働いていること、私の最初の大学の同窓であることくらいしか知らなかったのですが、週末に庭の草むしりをしたとか、植木屋さんに庭木の手入れをしてもらった、なんてことは日記を見て知っている。ヨコさんが旅行先で取った建築写真のネットUPを楽しませてもらっているし、近代建築散歩の話題以外にもいろいろ話がはずみました。

 まずは生ビールで乾杯。2年ぶり2回目のオフ会です。おでん一皿、ビール2本で2時間近くも話し続けました。楽しいひとときをありがとう。ヨコさんまた、会いましょう。

<つづく>


ぽかぽか春庭「こうとうバレエフェスティバル」
2010/11/16
ぽかぽか春庭十人十色日記>飲むか、飲まないか、それが問題だ(2)こうとうバレエフェスティバル

 毎年11月3日に「江東文化芸術祭協賛発表会バレエフェスティバル」が開催され、私たちのジャズダンスサークルの先生のグループが発表会に参加します。毎回1人か二人、サークルの仲間が出演するので、私は毎回見にきています。でも、水曜定休日のミサイルママは3日が水曜日にあたったときだけ観覧できるので、久しぶりのバレエフェスティバル観覧です。3日は、ミサイルママと上野でお弁当を食べ、黒田清輝記念館を見学した後、地下鉄で江東区文化センターへ。

 予定より早く着いたので、3時半から、クラッシックバレエの発表会を見ました。幼稚園くらいの子供のお遊戯会のようなバレエから始まって、なかなか見応えのある発表もありました。バレエの公演、チケットが高いので、なかなか生では見に来られません。普段はテレビの録画放映で楽しんでいるのですが、素人発表会のバレエでも、上手な人たちの踊りは、32回のグランフェッテをこなすと拍手がわき起こったり、なかなか楽しめました。

 夜7時すぎ、ダンス仲間が出演する「ジャズダンスの部」が始まりました。「遅れるけれど行きます」というメールが入っていたK子さんも駆けつけ、私が所属しているジャズダンスサークルの仲間のうちふたりが出演するのに間に合いました。

 テイクファイブ、アンスクエアダンスなど、先生の振り付けもすてきだし、ダンサーもとても上手でした。
 発表曲のうち、ホテルカリフォルニアは、私のサークルでも半年間練習をつづけた曲ですが、私は最後まで振り付けを覚えられなかったので、9月のサークル発表会のときは踊らなかった。

 K子さんは今年4月からサークルに加わって熱心に練習を続けています。定年退職後、身体を動かす機会が減ったことを自覚して、「身体を動かさなければ」と感じていたK子さん、「ダンスは苦手」と言っていたのですが、私が「ラジオ体操するつもりで、できるところだけ参加すればいいから」と、ジャズダンスサークルに誘ったのです。今では「自分の身体の動きを意識するようになり、どのように筋肉をつかっているのか感じられるようになった」というので、半年間で大いに効果があったというところです。

 文化センターのレストランで行われた打ち上げに、K子さんを誘って参加しました。わが家は、息子と娘がおばあちゃんの家に行き、夕食も食べてくるかも知れないというので、打ち上げに参加希望を出したのですが、ミサイルママは「明日の仕事が早いから」と、先に帰宅してしまいました。私のサークルからは、出演者以外には打ち上げ参加がないというので、無理矢理K子さんも誘いました。コース料理と飲み放題で3000円の会費。私はビール2杯とシークァーサーサワーを2杯飲みました。コース料理と言っても、大皿にボンと出される形式のコースで、おつまみ的な料理が多く、どれがメインなのかわからない料理でした。まずくはなかったけれど、メインくらいはひとりひとりに盛りつけた料理がほしかった。

 K子さんは「モダンダンスとジャズダンスの違いがはじめてわかった」と感想を述べていました。
 私はもともとはモダンダンスの練習をしていて、今でもモダンダンスを見るのが好きです。中学生のときポール・テーラーの振り付けをテレビで見てダンスで表現できることのすばらしさに目覚め、マーサ・グラハムらのモダンダンスを見てきました。ポストモダンダンス、コンテンポラリーダンスになると、楽しめない踊りも増えてきましたけれど、フォーサイス、キリアン、ピナバウシェあたりまではテリトリーに入ります。

 私にとって一番「なじみのダンス」は、毎年神戸で行われる「全日本高校・大学ダンスフェスティバル」で高校生大学生が踊るモダンダンスです。今年、NHK教育TVで、8月22日(日)16:00~17:00に放映された23回大会の録画も楽しく見ました。ダンスにかける高校生大学生の姿、アツかった。

 ジャズダンスというのは、クラシックバレエではなく、モダンバレエモダンダンスではないダンスの総称、と言ってもいいくらい、なんでもありのダンスをいうみたいです。そもそもジャズという音楽の定義がとても広い。
 音楽の世界では今ではクラシック分野に入っているガーシュインの「パリのアメリカ人」バーンスタインの「ウエストサイドストーリー」などで、フレッド・アステアやジョージ・チャキリスらが踊ったのもジャズダンス。ブロードウェイミュージカルや、宝塚でも踊られているようなダンス、テーマパークでミッキーミニーがパレードしながら踊るのも、マイケル・ジャクソンが踊るのも、ジャズダンス。テレビでエグザイルやスマップが踊るのもジャズダンス。
 ミュージカル風、ヒップホップ系、ブレイクダンス系、ストリート系、ファンキージャズ、ジャズバレエ等、さまざまなものがジャズダンスと呼ばれています。

 私たちの先生は、日本民謡やフラメンコ、アイリッシュダンスなどさまざまなジャンルの踊りを取り入れた振り付けをしていて、私たちも幅広いダンスを楽しんでいます。 
 K子さんは、他のダンスグループの踊りを見て、このサークルでの活動を続けていられるのは、仲間が親切だからという理由だけでなく、先生の振り付けのセンスが好きだからなのだと気づいたと話していました。私も先生の振り付けが好きですけれど、見ている分にはステキだけれど、自分が踊るには難しくて、ホテルカリフォルニアも覚えきれなかったし、、、、でも、来年9月の発表会めざして、がんばります。10月は忙しくて、ダンスの練習を全休してしまいました。練習に復帰して、なまった身体を鍛えます。
 
<つづく>


ぽかぽか春庭「オペラと焼き鳥」
2010/11/17
ぽかぽか春庭十人十色日記>飲むか、飲まないか、それが問題だ(3)オペラと焼き鳥

 11月16日の夜、としま未来文化財団設立25周年記念のコンサートを聞きました。オペラからミュージカル、歌謡曲までなんでもありのプログラム。
 私は仕事が遅くなるのでどうせ全部は聞けないと思ってチケットを買っていなかったのですが、K子さんが「行けなくなったのでチケットあげる」と言うので、それならチケット無駄にするよりは半分でもいいから聞いてこようとでかけたのです。
 仕事を終えて電車に飛び乗り、90分。池袋に着いたときはもう6時半の開演時間を30分すぎていました。

 ジャズダンス仲間のミサイルママやみきさんがもう来ているはず。
 指揮者兼総合プロデューサーの 坂本和彦さんは、ミサイルママやみきさんが所属している豊島区合唱団の指導者でもあるので、二人とも坂本先生の大ファンです。坂本先生の指導で声を出し、先生のトークに笑い転げているうちにストレスも解消してしまうのだとか。

 私が池袋芸術劇場の長いエスカレーターを登って大ホールの3階へ行ったとき、ドアの外のロビーに、ベルディ椿姫の「乾杯の歌」が聞こえてきました。藤原歌劇団の出演による第一部、「オペラの部」
 これは、第1部が終わったあとの休憩タイムまで客席には入れないかなと思っていたら、乾杯の歌と次の「フニクリフニクラ」の間の坂本さんのトークの時間に係りの人が案内してくれて、席につくことができました。席はミサイルママとみきさんの列の後ろです。
 ミサイルママは還暦記念に「5000人の第九合唱」に参加するのだと、今から計画をたてており、区の合唱団でも年末に向けて「喜びの歌」を練習しています。16日のコンサートでは、藤原歌劇団の合唱で「喜びの歌」を聞きました。

 休憩の間にロビーでサンドイッチを一口。
 第二部は、秋元順子の歌「愛のままに」「マディソン郡の橋」と、宝塚出身の和音美桜と四季出身の岡幸二郎のミュージカルナンバー。レミゼラブルのジャベールの歌「スターズ」や、ウエストサイドのトゥナイトなどを聞きました。

 坂本先生の司会はとても軽妙で楽しく、あっという間に最終曲まで進んでいきました。第一部の終わりにスペシャルプログラムとして、坂本和彦さんが指揮し、エグザイルが歌った即位20周年奉祝曲「太陽の国」が藤原歌劇団の男性デュオによって披露されました。私ははじめて聞きました。
 youtubeのエグザイルの歌唱よりよかった気がします。youtubeのエグザイル映像はこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=zAUTA2hSdWs

 コンサートが終わって、すぐ近くにあるミサイルママの働くインテリアの店へ。8階にインテリア店があるビルの地下は焼鳥屋です。仕事が終わるとさっさと帰宅するミサイルママなので、同じビルにありながら18年間このビルに通勤していてここで焼き鳥を食べるのは4度しかなかった、というので、寄ってみました。焼き鳥1本80円というイマドキ良心的な値段の店で、生ビール、焼き鳥、烏賊の墨あえ、コロッケなどをつまみにおしゃべりしました。

 ダンス仲間の何人かは夫の親や実親の介護を続けてきた人がいたけれどこのところバタバタと見送りをしているという話、ミサイルママの長男君が出演していた戸川晶子経営の「青い部屋」というシャンソンバーが、マネージャーが資金全部を持ち逃げしてしまい経営できなくなったために閉店することになったという話。それぞれたいへんな人生模様ですが、いつものように、ダンスや合唱や山歩きで身体を鍛えてこれからの老後を楽しく生きていこうというところに話は落ち着きました。来月は閉店前に「青い部屋」に行ってみることにしました。

<つづく>

ぽかぽか春庭「我が家のペットに乾杯」
2010/11/19
ぽかぽか春庭十人十色日記>飲むか、飲まないか、それが問題だ(4)我が家のペットに乾杯!

 未熟児で生まれた息子が1才すぎたころ、一羽の文鳥が部屋の中に飛び込んできました。「迷い子の小鳥を預かっています」という張り紙をエレベーターホールの掲示板にだしておいたけれど、引き取り手が現れなかったので、家で飼うことにしました。ホームセンターで鳥かごを買い、ピーちゃんと名付けました。これが我が家の最初のペット。

 文鳥のピーちゃんの鳥かごにつかまって、やっとつかまり立ちができたとき、鳥籠の前でとった息子の写真があります。お下がりの黄色いベビーつなぎ服に白いよだれかけ姿。娘は1才前に歩き出し、2才すぎたころには2語文3語文でにぎやかにおしゃべりしていたのに比べて、息子は立つのも歩き出すのも遅く、未熟児で保育器に入れられ管につながれていたことの後遺症が残っているのではないかと、はらはらしながらの育児でした。予定日より40日早い早産の上、前置胎盤で母胎が極度に弱り、母子ともに死ぬかも知れないという難産。帝王切開で母胎から取り出したあと、5分も産声がでず、自力呼吸ができなかった。

 生後3日間、このあと生き延びることができるのか医者にもわからないという赤ん坊でしたから、そら立った、ようやく歩けたということが、ひとつひとつ倍の喜びでした。

 迷子の小鳥ピーちゃんは息子と娘によくなつき、肩に乗って遊び相手になってくれました。息子は1才半の検診でも「この先、発育上にどのような不全が現れるかはまだ予測がつきません」と、検診の医師に言われ、とにかく生きていてくればいいと思って育てました。

 息子4才娘9才のとき、私が中国に単身赴任が条件の仕事に出かけている半年の間、田舎の妹一家が息子と娘と文鳥を預かってくれました。

 1994年の夏休みに妹が娘と息子を連れて中国へ来たときは、文鳥は妹の亭主が世話をしてくれたのですが、その間に文鳥は死んでしまった。我が家に来たとき何歳だったのかわからないので、寿命だったのかとも思います。帰国した娘には「ピーちゃんは、お空に飛んでいったんだよ」と説明しましたが、もう帰らないことを娘なりに受け止めたようでした。

 息子にとって、我が家の最初のペットのピーちゃんは、「自分より小さくて、いたわってやるべき存在」でした。娘にとって、「自分より小さい存在をいたわったりかわいがったりする」という気持ちを持つための大切な存在は5才下の弟でした。小学生の娘が保育園のお迎え係りになって、母が仕事から帰るまで世話をしてくれて、どこに遊びに行くにも弟を連れて行ったので、娘の同級生「みんなの弟」のような存在でした。今では弟を「姉の使いっぱ」と、こき使っています。我が家でいちばん年が若い息子、いつまでたっても、「ペットのちょい上」の立ち位置から出世しません。

 文鳥の鳥かごにつかまって、ようよう立っていた息子、本日めでたく22才になります。
 12月に提出しなければならない卒業論文の仕上げに四苦八苦していて、誕生日どころじゃないというので、お祝いも卒論提出後に延期しました。

 夫に似てしまい、一滴もアルコールが飲めない娘。一方、息子は私に似て、飲めそうです。でも、誕生日祝い、ピールを飲むか飲まないか、それが問題だ。息子は私がアルコールを控えなければならない体調であることを気にして、自分だけ飲むことはしそうもないし、まあ、ビールもワインもないお祝い御膳であっても、お祝いの気持ちがあればノンアルコール・ビールでも、かんぱ~い!。

 未熟児で生まれて、22才まで何度も苦しい時代を過ごしてきた息子が、今生きていてくれるだけで、感謝でいっぱいの思いです。ありがとう、生まれてきてくれて。ありがとう、生きていてくれて。

<つづく>
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2010年11月20日


ぽかぽか春庭「来年は卯年」
2010/11/20
ぽかぽか春庭十人十色日記>飲むか、飲まないか、それが問題だ(5)来年は卯年

 我が家のペット、文鳥が死んでしまったあと、妹は代わりのペット、ジャンガリアンハムスターをくれました。ハムスターも寿命は短い。3匹のハムスターを飼いましたが、いずれも2年足らずの寿命でした。

 しばらくはペットなしの生活でした。娘が中学校で不登校になったので、ペットを飼う余裕もなかった。娘は中学2年の秋、生徒会長に選ばれた後、生活指導の教師と対立しました。教師が私服で登校してきた生徒を学校から排除しようとしたとき、「長く休んでいてやっと学校へ来る気になった生徒を、私服で来たからといって学校から追い出すべきではない、彼にも学ぶ権利はあるし、公立中学校の制服とは標準服であって、私服で登校してはいけないということはできない」と、教師に向かって主張したため、彼を立腹させてしまったのです。

 生徒会長は教師の生徒指導の「出先機関」としか思っていなかった生活指導教師にとって、自分に対立しようとする生徒会長など許せない存在でしたから、その後、娘はその教師から執拗なイジメを受けました。娘はストレスから神経性胃炎になり、入院しました。1997年11月のこと。12月に退院したあと、娘は二度と中学校へ戻りたくないと言い、中学2年の冬から卒業まで学校へは行きませんでした。1年半の不登校。当時は、不登校に対して行政側学校側は今のように手だてを考えてくれることがなく、学校がしてくれたことといえば、卒業式を欠席した娘のために、校長室での「一人卒業式」を挙行したことだけ。

 1999年の卯年を迎えるとき、1998年12月には年賀状を用意する余裕もなく、「内申点が無くても受験させてくれる高校」を探して、受験準備をしました。1999年4月、娘は都立単位制高校へ進学しました。
 1999年の5月に、妹のモモが知人からネザーランド・ドゥワーフという種類のミニ兎をもらってきて、娘にプレゼントしてくれました。娘が「高校進学祝い」としてペットを希望したのです。

 我が家最初の兎は灰色で、ピーターラビットのような顔立ち。おとなしくてよくなつく、かわいい兎でしたが、部屋飼いしていて本箱の本を囓ったりしていたのがよくなかったのか、4年半の生涯のうち半分は毎月の病院通いが続きました。2002年に死んでしまって、寿命が短い兎はもう飼いたくないと思っていたのに、2ヶ月後、娘と息子が公園で「捨て兎」になっている子兎を拾ってきました。

 「カブトムシの餌」と書かれた段ボールに入れられて放置されていたそうです。足が悪い兎だったので、どうやらペットショップから売れ残りとして捨てられたらしい。白黒茶の三色の模様のウサギ、猫で言うと三毛猫みたいな毛並み。ネットで調べたらハーレクインという種類のようでした。元気のいい、おちゃめなウサギでしたが、もともと足が悪くて捨てられたウサギでしたから、寿命が短くても仕方がなかったのか、2004年に死んでしまいました。

 2匹続けて死なれてしまい、私は「もう、ウサギは飼わない。死なれると悲しいから、絶対にだっこしたりなでたりしない」と言っていたのに、娘は2005年3月に「友達の紹介で買った」と、真っ黒のウサギを連れて帰ってきました。耳がたれている「ロップイヤー」という種類です。私は関わらないことにしたので、ベランダの半分をウサギ小屋にして、そこで飼うこと、部屋には入れないこと、餌などの世話は娘と息子がすること、という約束で、私は頭をなでることもしなかった。

 ベランダ飼いにして、部屋の中の本とか身体に悪いモノを囓らなかったのがよかったのか、前の2匹よりは長生きで、5才半。長寿ウサギは10才くらいまで生きるそうなのですが、5才6才は、もう老体なのです。獣医からは「子供を産ませる気がないのなら子宮を取る手術をしたほうがいい」という健康診断を受けていたのですが、手術なんてかわいそうと思って受けさせないままでした。この10月、検査で子宮の腫瘍が見つかり、入院手術を受けました。幸い腫瘍は悪性ではなく、人間で言う子宮筋腫だったみたいです。手術は成功し、今ウサギはベランダでひなたぼっこしています。

 2011年の干支は兎。12年ぶりのウサギ年、、、、、って、干支が12年ぶりなのは当たり前ですが、前回1999年の兎年に我が家に兎がやってきて以来、初めて卯年を迎えるのです。この12年間、つらいこと苦しいことばかりが続きましたが、ウサギは娘と息子にとって、心和ませる、癒しの存在になってくれました。

 ほんとうはパソコンにウサギの写真を取り込んで年賀状でも作りたいところですが、、、、うちのウサギ、真っ黒だし耳がたれているので、私が写真に撮ると、ただ真っ黒い固まりが写るのです。写真撮影技術があれば、もうちょっとウサギらしく写るのでしょうけれど。これじゃ、もらった人はウサギ年じゃなくて「石炭年」かと思うよね、ということに意見一致。

 我が家のペット、文鳥も兎も、子供達にとっては大切な友達でした。真っ黒くろすけのふうちゃん、できる限り長生きしてほしいです。

 わたしは、来年ウサギ年も次の卯年も生き抜いていくつもり。そのために、乾杯も控えているんですから。

 我が家のペット(のちょっと上)へのお祝いのことばを頂戴し、ありがとうございます。
 ノンアルコールビールは、ふたりとも「まずい」という結論に至りました。

<つづく>



2010/11/21
ぽかぽか春庭十人十色日記>飲むか、飲まないか、それが問題だ(6)頭はコレオスパイラル

 夕べは、娘息子につきあって、夜中の2時半までフィギュアグランプリシリーズロシア杯をテレビ観戦しました。チームプレー苦手の我が家、「みんなで力を合わせてやる競技」のサッカー、バスケット、野球というような団体スポーツは普段はほとんど見ません。先日の女子バレーのブラジル戦アメリカ戦を見たのは久しぶりの球技観戦でした。銅メダルおめでとう!

 娘は高校で、息子は中学で水泳部に所属して大会に出場していたので、夏場は水泳のテレビ放映を見ます。昔は水泳のテレビ観戦なんてあまりなかったけれど、北島や入江などのスター選手輩出でメジャーな大会ならテレビで見ることが可能です。最近ならアジア大会の水泳。団体戦でも、リレーのように個人がひとりで行う競技をつないでいくのはOK。陸上のリレー、水泳のリレー、体操の団体戦なども個人競技の延長として見ていられる。駅伝もハーフマラソンのリレーです。

 秋から冬はもっぱらフィギュアスケートを見ます。子供の頃、私がもっとも熱中したスポーツがスケートでした。中学生になると親に連れられなくてもバスに乗って移動できるようになり、姉と連れだって毎週日曜日はバスに乗って湖へ出かけていきました。最初は赤城の小沼が凍り、次は赤城大沼、伊香保スケートリンクがオープンしたあと榛名湖が凍りました。

 私が湖で滑っていた時代、フィギュアスケートは氷の上に円を描いたり8の字を描いたりする形(フィギュア)を正確に描くことが競技の中心でした。だから、私はフィギュアのスケート靴を履いて、もっぱらスピードを出すことに夢中になっていました。スピード靴もほしかったけれど、フィギュアとスピードをふたつとも買ってもらえるような家計ではありませんでした。

 伊藤みどりが活躍していたころのテレビ中継を幼い娘とともに見ていたからか、今娘と息子はフィギュアスケートの大ファンです。地上波とBSで放映されているフィギュアを全部見ています。いつもは録画でみるのだけれど、20日深夜の女子フリーをライブで見ました。

 ふたりは、細かいルール改定のこともよく知っていて、今シーズンから採用されたコレオステップやコレオスパイラルについて、新しいエレメンツについていけない母に解説してくれます。

 「今のは3回転3回転のはずだったのが、3回転2回転のコンビネーションにしたんだ。他の競技者が出すであろう得点を計算すると、無理して3・3で飛んで失敗するより、安全策をとったほうが、最終得点が上になるって計算なんだよ」なんて、母の苦手な点数計算も教えてくれます。計算はほんと苦手です。前回のアメリカ大会で、織田選手も計算ミスをして、高橋一位、織田二位になりました。敗因はスケート技術ではなく、計算ミス。織田はよく計算ミスをやります。

 後半加点があるから、安藤美姫は5種類のジャンプをすべて後半にプログラムしている、ってことは理解したけれど、細かい計算は母の能力ではとてもわかりません。でも、とにかく、安藤美姫も鈴木明子も村上佳菜子とともにグランプリファイナルに出場できることがわかってうれしいです。

 浅田真央は、初戦のNHK杯の8位で、ポイントが3点しかなく、最終のフランス杯が一位通過で15ポイント得たとしても、合計18ポイントにしかならず、ファイナリストになれそうもないのは残念です。そんな計算も私にはとてもできないのですけれど、娘と息子はふだんおつりの計算もようせんのに、こんなときばかりは総合得点の計算とか熱心にやっています。男子は、高橋出場確定、織田確実、小塚はフランス杯の成績次第。羽生は、今シリーズは残念、来シーズンに期待。

 ほんとはビール片手に観戦したいところですが、つまみの裂き烏賊をチビチビとシャブリながら、ビールは飲みませんでした。
 みんなで夜中にスケート見て、日曜日の朝はみんなで朝寝坊。それでも息子は都立図書館へ、卒論の史料を閲覧に出かけました。私も、やるべきことが山積みなんですけれど、、、、どうも頭の中がコレオスパイラル。スケートペアのエレメンツにデススパイラル(死の螺旋回転)っていうのがありますけれど、まあ、死んではいないけれど、ぐるぐる同じ所を回り続けて、いっこうに先に進もうとしないおつむのまま、停滞しています。

<つづく>


ぽかぽか春庭十人十色日記>飲むか、飲まないか、それが問題だ(7)乾杯はおあずけだけれど、くじけないで、、、、

 喫煙者が禁煙失敗と書いた日記など読むと、やっぱりなあ、と思うのですが(宮藤官九郎も最近禁煙失敗とか)、私も意志薄弱にかけては人後に落ちない、、、、甘いもの禁止と心がけても、さきおとといの夜は「長崎ルイーズの生チョコロールケーキ」おとといのデザートは「生クリームプリン」で、それでも心持ち控えめにしました。

 いつもは一本20センチくらいのロールケーキを3人で3分の1ずつ分けて食べるのですが、ルイーズのロールケーキ、「母は2センチほどの厚みに切ってね」と、節制しました。あ、2センチくらいの厚みって、フツーかな。いつも6~7センチを一気食いするほうが食べ過ぎなんだよね。それにしても、全国どこのお菓子屋さんでも、人気が出ればネットに登場してお取り寄せが簡単にできるようになっています。うちは、生協の冷凍ケーキですが。

 今朝の朝ご飯は、チョコレートとクッキーと柿の種、、、、ダメだこりゃ。でも、完全禁止にすると禁断症状が出て、かえってドカ喰いしそうだから、一日に一回だけ、ちょびっとは「がまんしたご褒美」を許してやらないと。ご褒美だらけ?いえいえ、そんなことはありません、、、、節制、節制!

 平櫛田中107歳、小倉遊亀105歳、片岡珠子103歳までは生きたい。今現役で活躍中の人なら、日野原重明99歳、新藤兼人98歳くらいまでは現役で仕事を続けたい。すごいなあ、98歳で新作映画。マノエル・デ・オリヴェイラ(ポルトガル・ポルト出身の映画監督。 2010年10月現在101歳)の99歳の作品『ブロンド少女は過激に美しく』も見てみたい。

 99歳の日野原重明医師がエッセイで、後藤はつのさんを「人生のモデル」と紹介していました。はつのさんは73歳から絵を描きはじめ、102歳で初個展。今年はニューヨークへの旅を楽しみ、この9月には満107歳の誕生日を祝ったそうです。
 はつのさんの作品紹介サイト
http://www.akakura.gr.jp/~akakura15/mama/

 柴田トヨさん。90歳を過ぎて足腰が不自由になり、腰を痛めて趣味の日本舞踊が踊れなくなりました。息子の健一さんはトヨさんに詩作を勧めました。「ボケ防止」になるからと。産経新聞の投稿欄「朝の詩」にたびたび掲載され、98歳で詩集を自費出版したのが出版社の目にとまり、メジャー出版。現在詩集では異例の版を重ねています。

「くじけないで」
ねぇ 不幸だなんて/溜息をつかないで
陽射しやそよ風は/えこひいきしない
夢は/平等に見られるのよ
私 辛いことが/あったけれど/生きていてよかった
あなたもくじけずに

「秘密」
私ね 死にたいって/思ったことが/何度もあったの
でも 詩を作り始めて/多くの人に励まされ
今はもう/泣き言は言わない
九十八歳でも/恋はするのよ/夢だってみるの
雲にだって乗りたいわ
   
「貯金」
私ね 人からやさしさをもらったら/心に貯金しておくの
さびしくなった時は/それを引き出して元気になる 
あなたも今から/積んでおきなさい
年金よりいいわよ

 日本人は元気な高齢者が大好き。双子のおばあちゃんキンさんギンさんも99歳からアイドルになりました。マスコミは、どうぞ後藤はつのさんや柴田トヨさんを追いかけ回して疲れさせないでくださいね。お二人はご自身の表現の場を確立しているからきっとこれからも凛として年輪を重ねていらっしゃることと思います。
 私も白寿を息子の還暦といっしょに祝うその日まで、体調管理してくじけないでいきたいです。

 節制生活、「今日もがんばりましたね」の一人ビール乾杯は、、、、、控えます、、、、でも、
 To beer or not to beer, that is the question.
 たまには飲みたいです。
 って、忘年会新年会が続く年末年始、たまには、、、、、週一回くらいは、、、、毎日でなければ、、、、
 本日の食後のデザートは「ブルーベリーチーズケーキ」。いつもより小さめに切って食べました。ちょこっと節制。

 ウェブ友の日記から、91歳ふたりと71歳の女性3人のおしゃべり会のようすを読ませてもらい、ほんとうにそんなふうに女同士のおしゃべりを楽しめる99歳までがんばらなくちゃと、思って勇気づけられています。

<おわり>
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2010年歳末 2010年12月

2010-10-21 04:38:00 | 日記
2010/12/26
ぽかぽか春庭十人十色日記>歳末忙中ほっこり(1)クリスマスキャロル

 2010年の年末、さまざまなクリスマスの楽しい夜が、子供たちの胸に残ったことを願っています。私にとっても、「クリスマス」は家族が共にすごすあたたかいイメージのことばです。
 戦後の物のない時代にも、貧しいながらせいいっぱい子供たちを喜ばせてくれようとしてくれた両親の思い出、、、、。
 結婚後、自営業夫の会社は倒産寸前、一家に明日食べていくお金もないという中で娘と息子にみすぼらしいプレゼントしかあげられず、それでも娘と息子はベランダに出て、「サンタさん、プレゼントありがとう」と、大きな声でお礼を言っていたときのこと、、、、。
 様々な年のクリスマスが思い出され、さまざまな言葉にまつわるイメージが去来します。

 今年のクリスマス、22日には、娘息子と東京ディズニーランドのクリスマスを楽しみました。25日には、友人の阿子さんと『クリスマスキャロル』を観劇しました。
 阿子さんとは、音読を希望する視覚障害者と朗読ボランティアとして、図書館朗読室で出会いました。阿子さんが希望する図書を指定し、一冊の本を数回に分けて朗読し、私も自分で選んでは読むことのなかった本と出会うことができました。

 阿子さんは観劇が趣味で、視覚障害者のための音声ガイド付き演劇上演を増やしていく活動を続けていました。私は朗読ボランティアの活動をしなくなったあとも、阿子さんとは個人的に友人としておつきあいを続け、観劇にも「外出ヘルプ」を兼ねてごいっしょしてきました。

 阿子さんはご主人の仕事の関係で2010年の秋に大阪へ引っ越しました。弱視者のご主人にとって、職場は限られたところしかなく、東京での仕事がなくなってしまったあと、活路を求めて大阪へ出て、半年ほど単身赴任をしていました。大阪で生活する決意を固め、阿子さんも東京から大阪のご主人のもとへ引っ越していったのです。

 引っ越し前に、年末には東京に一度戻ってくる、という連絡をもらっていたのですが、25日に東京に行く、という電話がありました。毎年阿子さんが楽しみに鑑賞を続けてきた劇団昴の公演『クリスマスキャロル』を、今年も見る予定だといいます。大阪から新幹線で東京へ向かい、そこから東池袋にある劇場へ行くというのです。「クリスマスキャロル見ませんか」というお誘いを受け、東京駅から池袋までの外出ヘルパーを引き受けました。

 『クリスマスキャロル』は、何度も映画化されていますし、劇団昴の公演も以前に阿子さんといっしょに見たことがあります。とてもよい公演だったので、もう一度見てみるのも悪くないし、阿子さんのガイドヘルパーをするのは、私にとってもとてもよい時間の過ごし方なのです。阿子さんは引っ越したばかりの大阪で、まだ自宅から離れたことのない生活を続けているのだそうです。

 新大阪から一人、新幹線で上京してきた阿子さん、駅員さんの案内で東京駅南乗り換え口に12時半すぎに着きました。私は東京から一つ目の有楽町へ行って有楽町線で東池袋へ行くルートが一番いいと提案したのですが、阿子さんの希望で山手線で池袋まで行くことにしました。ところが新宿駅構内での事故のため山手線は上野駅で止まってしまい、他の路線に乗り換えて下さい」という放送が入りました。仕方がないので、秋葉原まで戻り、飯田橋から有楽町線に乗り換えました。

 開演まで時間があったら、お茶飲もうかと言っていたのが、開演ぎりぎりに東池袋のアウルスポットに着きました。2時開演。
 視覚障害者のための音声ガイドが充実している舞台のため、阿子さんの盲学校時代の同級生のほかにも視覚障害者が観劇に来ていました。いつも昴の公演で見かける盲導犬を連れた方も来ていました。
 阿子さんと障害者の会で活動を共にしてきたケイ子さんは、隣の車椅子席に。阿子さんが大阪へ引っ越してしまうと言うので寂しがって泣いていたという阿子さんの学校時代のお友達2人は、私の後ろの席になりました。

 ディケンズの原作『クリスマスキャロル』は、世界でもっとも知られたクリスマスストーリーのひとつ。守銭奴のスクルージが、クリスマス一晩の出来事で心温かな人間に生まれ変わるという物語です。
 今回も、昴の公演は「視覚障害者用音声ガイド付」です。台詞だけで演劇を鑑賞する視覚障害の方のために、音声が聞こえず目に見なければわからない舞台上の動きを解説したイヤホンがあり、「未来の精霊が上手から登場し、声を出さずにスクルージの前に立つ」などの説明が入ります。

 阿子さんは、劇団昴が20年間年末の『クリスマスキャロル』を上演してきたうちの後半10年間は連続で毎年舞台を見ています。もう台詞も劇中歌もすっかり覚えているくらいですが、今年も楽しかったと言っていました。スクルージ役の金子由之はこの役を演じて4年目。他の役者もアンサンブルは抜群でした。
 終演後、役者と演出家によるトークショウがあり、観客からの質問に答えたり、稽古中のうちわ話も披露されました。アウルスポットでのクリスマスキャロルは今年で最後ということですが、毎年見ているという観客も多く、劇場を他に移しても来年も上演して欲しいという希望が観客から伝えられました。

今日26日の公演が千秋楽。
 昴の公演案内サイト
http://www.theatercompany-subaru.com/public.html

<つづく>
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2010年12月27日


ぽかぽか春庭「夢の国で年忘れ」
2010/12/27
ぽかぽか春庭十人十色日記>歳末忙中ほっこり(2)夢の国で年忘れ

 21日で年内の授業を終えました。12月22日、久しぶりに娘息子といっしょに東京ディズニーランドへ出かけました。
 子供たちが小さい頃、バブル真っ盛りの時代で「一家で海外旅行へ行った」とか派手な家族サービスの話が飛び交うなか、自営業のわが家は貧乏続きでした。明日食べるごはんも定かでない生活で、親子4人での家族旅行というのは、1度もしたことがありませんでした。2年に1度くらいの割合で東京ディズニーランドに行くことが、家族ですごす最大の贅沢でした。娘と息子にとって、ディズニーランドは最高に楽しい場所となり、ディズニーリゾート大好きっ子になりました。
 
 息子が中学生になったくらいから、親抜きで娘と息子ふたりで、毎年春休み夏休み冬休みごとにディズニーランドやシーに出かけるようになり、「ディズニーファンクラブ」というのにも入会しました。「ディズニーファン」という雑誌が届けられ、年末にはキャラクター満載のカレンダーが届きます。ディズニーランドやシーの情報をせっせと集めて、グッズもいろいろ集めました。わが家のカップやハンドタオル類はほとんどがディズニーキャラクターの絵がついているものです。

 しかし今年は、息子の卒論執筆が終わるまでディズニーランドも「おあずけ」ということで、一度も出かけていませんでした。22日は、私も授業を終えたし、息子も卒論やレポートも提出できてほっとしたところでした。
 「母もディズニーランドへ行く?」と聞かれたので、「冬は一度出かけて寒くてふるえたので、いやだ」と言ってきたのを撤回して出かけました。幸い、22日は「11月並みの気温」という予報が出て、予報通り暖かな一日でした。零下20度にもなる中国東北地方にも着ていったダウンコートを着込み、毛糸帽子に手袋の完全冬装備で出かけたのですが、途中コートは脱いで過ごしたくらい日中は暖かでした。

 園内はさまざまなクリスマスデコレーションで飾られていました。入り口アーケードには巨大なクリスマスツリー。シンデレラ城にも大きなクリスマスリースが飾られています。一度真冬に出かけて、あまりの寒さに閉口して以来、私は冬には出かけたことがなく、ディズニーランドのクリスマスを見るのは初めてです。
 昼のパレード、午後のクリスマスパレード、夜のエレクトリカルパレード、ミニーのラテンダンスショウ、カントリーベアのクリスマスショウなどを楽しみました。復活したキャプテンEOも見て、若いマイケル・ジャクソンに再会。なつかしかった。

 久しぶりの私には、アトラクションもいろいろ新しいものがありました。シューティングライドゲームの「バズライトイヤー」というのをやってみました。トイ・ストーリーのキャラクターになって、乗り物に乗って移動しながら光線銃で的を撃つ、流鏑馬(やぶさめ)現代版みたいなゲームです。私は7500点獲得。レベル2でした。いっしょに乗り物に座っていた娘は何度もやっているので78000点もヒットしました。私はただ見えた的を撃っていたのですが、点数の高い的と低い的があるので、娘は一度に5000点も出る高い点数の的を狙った結果の高得点でした。

 あと、モンスターズインクのかくれんぼ、というニューアトラクション、これは娘と息子も初体験。ぐるぐる回る椅子にのって移動しながら、隠れているモンスターをライトで照らして捜し出すゲーム。

 最後におみやげ。私は紅茶缶。息子はマグカップ、娘はミニーのハート型マウスパッドを買いました。マウスパッドは、母へのプレゼント。ディズニーファンクラブ会員に用意されたスペシャルカードもゲットして、お昼ころに入園して、閉園近くまで楽しい一日をすごすことができました。シンデレラ城の前で待っていた夜の花火が「風のため中止」となってしまったのは残念でしたが、午後2時すぎの遅いお昼ご飯となったイーストサイドカフェでのクリスマスランチもおいしかったし、幼かった子供たちとすごした日々を思い返しながら、「夢の国」での年忘れ。大人になった娘息子と老親とですごすディズニーランドもいいものです。

<つづく>
08:27 コメント(4) ページのトップへ
2010年12月28日


ぽかぽか春庭「ダンスィング忘年会」
2010/12/28
ぽかぽか春庭十人十色日記>歳末忙中ほっこり(3)ダンスィング忘年会

 私が参加した忘年会、今年はひとつだけ。17日、所属しているジャズダンスサークルの忘年会でした。毎週金曜日の夜にダンスの練習をしている文化センターの向かい側に焼き鳥屋ができたので、今年はいつものチェーン居酒屋ではなく、ここを「お試し」してみよう、ということで、メンバー10人ほどで入店。

 飲めない人のほうが多いサークルの忘年会、3人はビールや日本酒を頼み、あとの人はウーロン茶で「今年一年お疲れ様」と乾杯しました。私、飲める方のひとりとして「生搾り柚サワー」を注文。生搾りというので、生の柚を自分で絞ったりするのかと思いきや、「生搾りゆず」という瓶ジュースをチャッチャと混ぜて作った酎ハイでした。

 忘年会の前に、文化センター学習室で、来年の活動案を審議しました。サークル会費を値上げするかどうか、発表会で踊る曲目は、どうするか、係の入れ替えで誰が何を担当するかの話し合い。

 一番たいへんなのは会計係。皆から集めた会費をまとめ、センターの会場費を払ったり、先生への謝金を渡したり。私はこの係、絶対に無理。計算ができず、整理整頓ができないので、必ずお金の帳尻が合わなくなる。
 私は今まで書記係として、スケジュール表を書いたり、サークル通信を書いたりしてきました。そろそろ他の係もやらなければということで、私は来年は発表会係をすることにしました。書記はK子さんに頼みました。ミサイルママは、副会長。

 来年の発表曲候補は、
・美空ひばり歌唱の「ペーパームーン」
http://www.youtube.com/watch?v=NDHnTRp-Ta8
・美空ひばり映像付き(ミュージックフェア録画)
http://www.youtube.com/watch?v=R35mt-kDDtU&feature=related

・アンスクエアダンス(デイブ・ブルーベック)
http://www.youtube.com/watch?v=iFqoPfP1KHc
・コパカバーナ(バリー・マニロー)
http://www.youtube.com/watch?v=b2f7281slDE&feature=related

 狭い店内でしたが、私たちのグループのほかは女性4人だけで、「昨今はやりの女子会だねぇ」と乾杯しました。今年もよく、踊った!
 来年早々には、私たちのジャズダンスサークルのメンバーのひとりが出演するミュージカル公演が赤坂区民ホールで行われます。私は土曜日の公演を見るのですが、ミサイルママは土曜日は仕事があるので金曜日夜に行くことにした、などの話で盛り上がりました。
 
 私はなぜかこの公演チケットを2枚注文したということで、2枚分の料金を支払いました。体調悪く忘年会に参加せずに帰宅したK子さんに、「私はなぜか2枚注文したことになっていたので、1枚K子さんにプレゼントします。1月15日のご都合良ければごいっしょにいかがですか」とメールをしたら「その1枚は私が注文した分です。11月3日に江東区バレエフェスを見たとき、いっしょにまとめて2枚申し込んだじゃないの」という折り返しのメールが。
 あはは、何でもかんでも忘れてしまう私の脳細胞。忘年会はその年の悪い出来事を忘れ、来る年に希望を託す会なのですが、私はいいも悪いも全部忘れてしまう。注文したのだから料金は払うというK子さんに、エジプト旅行のおみやげをいただいたり、いろいろしていただいたお礼だからとプレゼントを強要しました。

 去る年のあれもこれも、辛かったこと悲しかったこと苦しかったこと、踊って忘れてリセット。来る年はきっとよい年です。

<つづく>
05:11 コメント(2) ページのトップへ
2010年12月29日


ぽかぽか春庭「オペラおでん」
2010/12/29
ぽかぽか春庭十人十色日記>歳末忙中ほっこり(4)オペラおでん

 忙しい1年、忙しい12月でした。とはいえ、気分をほっこりさせたいときは、ジャズダンス踊るもよし、歌を聞くもよし。
 12月8日に、ダンス仲間のミサイルママに誘われて、「二期会オペラ研修所コンサート」に行きました。音楽大学や大学院を卒業した新人が二期会のオペラ研修所で研鑽を積み、3年間の研修の締めくくりとしてコンサートが開かれるのです。2010年のコンサートでは、54、55、56期の研修生が歌声を披露しました。

 皆、朗々とすばらしい歌声でした。男性はテノールが4人。女性はメゾソプラノが2人、14人のソプラノ。それぞれの得意のオペラアリアを2時間にわたって聞きました。オペラといえばよく知られたポピュラーなものしか聞いたことがない私には、はじめて聞く曲ばかりでした。合唱団に入っているミサイルママは、「あ、この曲練習したことがある」って曲もありましたが。
 フィナーレの出演者全員合唱のレハール「メリーウイドーワルツ」を観客もいっしょに歌いました。鼻歌ではなく、腹式呼吸で久しぶりに歌って楽しかった。
 
 オペラアリアを楽しんだあと、駅裏のおでん屋へ。「とにかく安いから」と、ミサイルママを誘ってみました。「オペラのあとは、ワインとイタリアン」などと発想しないところがミサイルママと私。
 先日yokoさんと初めて入って、穴蔵のようなスペースでおでんを食べるのが気に入ったので、また行ってみようと思っていたのです。

 ミサイルママも私も、牛丼屋でも蕎麦屋でも「おひとり様」で食べるのは平気なのですが、立ち飲み屋におっさんが居並ぶ中で、ひとりおでんを食べる勇気はないのです。中途半端に強いふたり。でも二人いっしょなら立ち飲み屋も平気!と、入って行きました。

 立ち飲みのオッサンたちが壁側とカウンター側に背中合わせに並んでいます。1メートルの幅もないところに背中と背中をくっつけて飲んでいる中、「すみませ~ん、太いのが通りま~す」と声をあげながら通り抜け、奥の狭くて小汚いスペースへ。この小汚さが平気な人、女性にはあまりいないけれど、大丈夫という人なら私と気が合うはず。
 おでん定食ふたつのほか、おでんの盛り合わせを一皿。私は生ビール、ミサイルママは燗をつけたコップ酒でよもやま話を楽しみました。

 ミサイルママの息子、演劇を続けている長男くん、「東京ディスティニーランド」という芸名を変え、「幸せの靴」という名にするのだという話。「36歳になっても演劇を諦めようとも定職をさがそうとも思わずに、続けていくって言うんだから、私もそういう息子を持ったんだから仕方ないと思って、普通のおばあちゃんになって孫のお守りとかするのは諦めるしかない」と言います。

 私も「大学4年の息子が大学院に合格して、来年4月には進学することになったんだ。博士号まで頑張るとしても、昨今のオーバードクター(ハカセ余り)で、たぶん就職はできないだろうね。でも、そういう息子を持ったんだから、仕方ないと思って研究を続けたいというのを応援するしかない」といい、互いに「フツーに孫の世話でもして暮らす老後」にはなれそうにない仲間同士、時には愚痴こぼし合って、ときにはダンスや歌を楽しんで生き抜きましょうと、励まし合いました。

 とにかく「安い!」ここなら、いつでも懐を気にせずに飲めるから、小汚い穴蔵が平気な人はごいっしょしましょう。

<つづく>
07:04 コメント(2) ページのトップへ
2010年12月30日


ぽかぽか春庭「あたたかい年の暮れ」
2010/12/30
ぽかぽか春庭十人十色日記>歳末忙中ほっこり(5)あたたかい年の暮れ

 去年から火が付くときに「ボ~ボッ」と大きな声をだし、不完全燃焼しているのではないかと恐くなった石油ストーブ。「不完全燃焼して酸欠死する前に買い換えよう」と12月早々に新しい石油ファンヒーターを買ってきました。
 自治会販売の灯油購入チケットも買ってきたのに、12日日曜日の朝、石油販売車が回ってきたのに気づかず、19日、ようやく石油ゲット。暖をとる初日が12月19日になりました。年末年始、あたたかい夜を過ごすことができます。

 ボーナスもないわが家ですが、石油ストーブのほかにも年末の買い物がありました。プリンターがないと仕事にならないので、新しいプリンターを買うことにしたのです。
 夏からプリンターの調子が悪く、コピー機能が壊れてしまっていたのをだましだまし使っていましたが、インク切れになったところで買い換えると決めていたのです。

 数年前に型落ちのヒューレットパッカードを買いました。本体が安いことは安かったのですが、インク代が高くて、結局新しい機種を買ったのより、割高な買い物になってしまった。安物買いの銭失いはいつものことですけれど。
 28日、池袋東口のビックカメラとヤマダ電機を往復して、どちらが安いか、インク代はどれがお得か、店員さんの説明をよ~く聞きました。どちらの店も店員さんの応対は丁寧です。悩んだ末にエプソンの型オチを選びました。最新機種は写真の印刷がきれいに出来るというのですが、わが家に必要なのは、白黒印刷の文書が早く大量に印刷できること、という息子の意見に従い、写真はきれいでなくてもよいからと、安いほうを買ったのです。これまた安物買いの銭失いになるかどうか。

 買い物を終えて、遅い昼ご飯というか早い夕ご飯かという中途半端な時間でしたが、ヤマダ電機(元池袋三越)の7階にあるレストラン街で中華を食べました。いつもなら中華屋ではラーメンに餃子くらいの注文ですが、息子の「延期していた誕生日&卒論提出祝い」なのでいつもよりはちょっと豪華に、といってもたいしたことのない「年末お得コース」というのを3人で食べました。

 全10品。前菜三種盛合せ、エビマヨネーズ炒め、白身魚の唐揚げ葱油ソースかけ、ブロッコリー入り四川風ホイコーロー、若鶏の唐揚げ葱油ソースかけ、肉団子中華海鮮鍋、自家製焼餃子、五目炒飯、野菜玉子スープ、杏仁豆腐。辛いものが食べられない娘は四川風回鍋肉はパス、息子は杏仁豆腐が嫌い、炭水化物を避けている私は炒飯を一口だけにしてと言う具合でそれぞれ食べられないメニューはあったものの、「フカヒレとかアワビとか北京ダックなどはないけれどまあまあおいしいね」と言いながら、大食いの娘も少食の息子も満足して食べました。

 家族一同雨露寒さを逃れて過ごすことができ、贅沢はできなくても飢えることはなく、病院通いしつつも寝付くほどの大病はしない。姑も85歳の日々を、耳が遠くなった足がおぼつかなくなったと言いながらも無事すごしている。ほんとうにありがたいことと思いながら2010年をすごすことができました。

 カフェ友の身の上に思いが及ぶと、ご家族の介護を続けていらっしゃる方、年末に交通事故にあって、持病の上にさらにつらい身体症状が加わった方、身体状況の改善を願って手術を受けたあと、逆に首から下がまったく動かなくなってしまい24時間介護の寝たきり生活を余儀なくされている方、それぞれのつらい状況に心が沈みますが、どうか、来る年がよい方へ向かうよう、祈らずにはいられません。

<つづく>
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2010年12月31日


ぽかぽか春庭「よいお年を」
2010/12/31
ぽかぽか春庭十人十色日記>歳末雑感(6)よいお年を

 2010年、持病悪化やら漏水事故やら悪いこともいろいろあったけれど、きっとそれは塞翁が馬、禍福糾える縄のごとしだと思うし、姑を連れての箱根温泉旅行など、楽しい思い出もたくさん残すことができました。

 春庭コラムを読んでくださった方々、ありがとうございました。拙い論考や雑文にあたたかいコメントをくださった皆様、ありがとうございました。

 みなさまの来る年も、すばらしい1年になることをお祈り申し上げます。
 皆様、よいお年を!



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夏の食べまくり2010年7月

2010-10-19 09:52:00 | 日記
2010/07/28
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>夏の食べまくり(1)ホテルニューオータニの庭

 7月中旬に、老朋友(ラオポンヨウ古い友人)が中国から訪日しました。老朋友といっても、私よりずっと若い。1994年に私が最初に中国へ赴任したときに出会ったカンさんは、当時、日本語学科の3年生でした。5月から7月までは私の中国語家庭教師、7月下旬から8月末まで娘と息子の家庭教師&ベビーシッターとして働いてくれました。その後文通を続け、カンさんが来日して日本の企業で働いたときは、家にホームステイしてもらったり、いっしょにディズニーランドへ遊びにいったり交流を続けました。

 今では、カンさんは中国国家重点大学(国によって100~200の大学に与えられている重要大学)の准教授になっています。理工系ではトップ5に入る大学の「軟件学院(ソフトウェア学部)」で、日本企業に就職したい学生や日本に留学したい学生たちに日本語を教えています。

 2009年に私が中国に赴任し、カンさんの家を訪問したときに「来年は日本へ研修訪問する計画があるので、夏に訪日するかもしれません」と言っていました。今回の来日は、その研修旅行が実現したものです。研修は彼女の所属する学部「軟件学院」の日本語教師9名が、「交換留学先として提携している大学を訪問する」という名目で「交換留学先の大学での日本語教育視察」と「日本語教師として必要な現代日本語文化を知る」という研修を行う25日間の旅行です。

 1週間は東京を中心とする関東、1週間は徳島と京都をめぐる関西の旅行。忙しいスケジュールですから、私が計画していた「姑の家でカンさんといっしょに夕食を食べる」「群馬の妹の家にいってドライブする」などはできませんでしたが、半日だけある自由行動の時間に会うことができました。

 私は自分が庭園散歩が好きなので、「日本文化研修」の一環として日本庭園を見てから食事する、という計画を立てたのですが、六義園、後楽園、浜離宮などは、入園リミット4時30分ということで、5時半の約束時間には閉園してしまいます。
 そこで、ホテルニューオタニの日本庭園を見てから17階にある回転式展望レストラン「ザ・スカイ」で食事をすることにしました。ホテルのレストランというと、ちょっと気取っていて、ニューオータニの他のレストランでは「ジーンズなどでのご来店はご遠慮願っております」なんて服装コードが書いてあったりして気詰まりですが、ザ・スカイはビュッフェ式つまり食べ放題バイキングの店ですから、それほど形式張っていません。

 気軽とはいえ、都内でも一番高いビュッフェ料金が設定されていて、食べ放題大好きの私も、今まで入ったことのないエリアです。私には高値の花のビュッフェ料理でしたが、ほかならぬカンさんへのもてなし。カンさんは私が中国に滞在している間、2007年も2009年も、サクランボ狩り、満州宮廷料理レストラン、海岸めぐりツアーなど、いろいろなところに案内してくれました。はりきっておもてなしをして、日本の研修旅行を楽しんでもらえるようにしなければなりません。

 7月15日のカンさんの研修は、「浅草界隈、浅草寺などを見学、浅草演芸館で落語鑑賞」というスケジュールでした。現地解散で浅草からニューオータニ最寄り駅の麹町駅まで来る途中、複雑な東京の地下鉄にとまどい、乗換駅を間違えてしまったとカンさんから電話があり、午後6時すぎに会えました。2年ほど日本の企業で働いたことのあるカンさんですが、東京ではなく地方の会社だったし、地下鉄の路線も変わっているので、乗換駅で迷うのも「日本の変化」を知るひとつの研修になったかもしれません。

 6時半ごろニューオータニに行き、日本庭園を散歩しました。それほど広くはない庭ですが、滝があったり池の太鼓橋を渡ったり、「外国人宿泊者向けの日本庭園」の典型のような造りの庭を見ることができました。この土地の由緒来歴を書いた説明書によると、江戸時代には彦根藩中屋敷(幕末の大老井伊直弼の藩)だったところが明治時代に伏見宮邸となり、戦後、大谷米太郎が買い取ってホテルにしたということです。庭に大谷米太郎の銅像が建っていました。極貧農家の出身の米太郎は力士として立身をはかりましたが、指の障害のため十両に上がれず、実業に転身して一代で巨財を築いたという人物です。

 7時過ぎ17階にあるザ・スカイに移動しました。17階のレストランがフロアごとぐるりと一周するという「観光名物」レストランです。1964年のホテル開業当時にオープンした「日本最古の回転展望レストラン」で、17階という高さも東京オリンピック当時には驚異的で、「てっぺんめざせ」的な人気がありました。成金的発想というか、いかにも「高度成長期」っぽくて、今となってはむしろレトロ?

<つづく>
10:53 コメント(3) ページのトップへ
2010年07月29日


ぽかぽか春庭「ザ・スカイ」
2010/07/29
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>夏の食べまくり(2)ザ・スカイ

 レストラン「ザ・スカイ」の特徴は、ビルの17階にある円形のレストランが70分に一回回転し、東京の夜景を360度見ることができるっていうところ。最初に座ったときは赤坂迎賓館が見える位置。新宿副都心の高層ビル街の夜景がきれいで、しばしカンさんと話ながら見とれていました。カンさんはいっしょに研修を受けている同僚がお台場へ行ってきて「夜景がきれいだった」と話しているのを聞いてカンさんも「東京の夜景を見たい」と思ったそうで言い、彼女の希望ぴったりのおもてなしができて私も満足。

 この回転レストランができた当初は「ブルースカイ」の名で知られ、東京タワーと並んで「東京観光名所」のひとつでした。話には聞いてきましたが、一度も来たことはありません。夜景を見るだけなら、東京都庁、文京区役所などの展望スポットはいろいろ知っているし、バイキング料理としては、ザ・スカイは、私には「コストパフォーマンス的にちょっと」というところ。つまり高すぎる。

 さて、食べ放題スタート。和洋中華の料理がいろいろ並んでいます。私が普段利用する洋食ランチなどに比べれば高級料理なのでしょうけれど、ビュッフェ(料理は自分で取りに行く)ですから、気取らずパクパク食べられます。
 最初はオードブルコーナー。レストランのオードブルは、大きなお皿に品良く2,3の冷製料理が載っているものですけれど、私は、もうこれだけでおなかいっぱいになるくらい、お皿に山盛りにいろいろな種類を盛り込みました。まったく、お里が知れるというものです。

 生ビールは別料金なので、一杯だけ。
 目の前で鉄板焼きをしてくれるコーナーに行って、サーロンインとヒレを焼いてもらい、シーフードは海老、サーモン、ホタテを焼いてもらいました。次は天ぷらを揚げている和食コーナーで、野菜や海老を揚げてもらいました。和食コーナーで焼き魚や煮物なども少しずつお皿に盛り、完食。

 ここまででおなかいっぱいになってしまい、主食の「寿司」コーナーはパス。食後のコーヒー(別料金)を飲んでカンさんと話し込んでいたら、デザートを食べるのを忘れてしまいました。フルーツや各種ケーキが並んでいたのに、おなかいっぱいだったので、食べ忘れてしまったのです。おなかがいっぱいなのに無理に食べることないのに、デザートがあることに思い至らなくて「食べ放題は全種類制覇をめざすべし」というポリシーに反したので、ちょっぴり悔しい

 カンさんは、浅草演芸場で玉川スミが「芸歴87年90歳の俗曲漫談芸人の一代記」を語るのを聞き、女性の一代記として感銘を受けたと話していました。90歳で現役を続け寄席の舞台に出演する玉川スミの話、私も聞いてみたいと思いました。
 カンさん日本研修中の留守、一人娘のシンシンちゃんは、姑さんが世話をしているから安心なのですが、カンさんの旅行中にピアノの試験があるので、ちゃんと練習をしているかどうか心配だなどと、母親らしい気遣いも話していました。おばあちゃんは孫娘に大甘なので、ピアノの練習をさぼっても、母親のように叱ったりしないだろうから、と案じているのは、日本の母親たちの悩みといっしょです。シンシンちゃんに、私の娘が手作りした壁飾りをプレゼントしました。

 料理は、高級バイキングだけあっておいしかったですけれど、自分で料理を取りに行くセルフサービスなのに、サービス料はきっかり1割分とられており、サービス料が2000円。まあ、当分くることはないレストランでしょうから、たまの贅沢としていいでしょう。食べ物のほうが回る回転寿司ならよく行きますが、レストラン自体が360度回転するなんて、ほかにはないサービスですから、サービス料は席が一周した料金と思うことにします。

 なにより、カンさんが東京の夜景を喜んでくれたことが一番の満足でした。7月16日には研修先の提携大学学長の前で研修成果の発表をし、発表が終わった夜には夜行バスで徳島へ移動するというハードスケジュールだというので、レストランが一周半したところでおひらきにしました。

<つづく>
07:33 コメント(4) ページのトップへ
2010年07月30日


ぽかぽか春庭「地中海料理カルタゴ」
2010/07/30
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>夏の食べまくり(3)地中海料理カルタゴ

 出講先の講師室仲間の打ち上げ。留学生とすごす日本語講師たちはエスニック料理が大好き。東京にはさまざまなエスニック料理のレストランがあるので、これまでも世界各地の料理を楽しんできました。今回の打ち上げは、地中海料理(アラブ、チュニジア、トルコ料理)の店、中野駅前の「カルタゴ」にて。
http://carthago.a.la9.jp/index.htm

 30席ほどの店なので、土曜日のディナータイム、店内は満席でした。1990年の開店以来、今年は20周年記念ということで、おなじみさんやらガイド本を見てやってくる人やらで週末はいっぱいのようです。
 私は地図で場所を確認して、駅前から徒歩3分なら、地図を印刷することもないかと思って出かけたのですが、その3分の間に道を間違え、5分ほど遅刻しました。私が最後の到着者でした。すまん。いつもの方向音痴。

 お任せコース。最初の大皿は野菜や挽肉、豆などをそれぞれペーストにしたディップ。ディップをスプーンですくって、丸いピタパンに載せたり挟んだりして、食べるのですが、私は一番最初にディップ何種類かを自分のお皿にぶんどっておきました。フムス(ひよこ豆のペースト)とクリームヨーグルトのディップは多めに、ハリッサ(チュニジアの超辛い唐辛子の入ったペースト)はほんの味見程度に。タコサラダももらいました。
料理写真はこちら。
http://carthago.a.la9.jp/newpage4.html

 シェフ一人に店内を仕切るマダム一人の店なので、マダムは走り回ってお皿を配るやらお茶を運ぶやらしていました。なので、料理と料理の間、しばし「食休めタイム」が入ります。次は「焼き茄子のムサカ」ムサカとは、ギリシャを中心に地中海全般で食べられているオーブン焼きのこと。それぞれの家や店の秘伝のソースをかけて野菜や魚介類をグラタンのようにオーブンで焼きます。次は三角形のサモサ。春巻きのようなものです。エンドウ豆ペーストを平丸にして揚げたパテフライ。

 メイン料理は深めの大皿にクスクスを盛り、その上にケバブ(マトンと野菜の串焼き、ラム挽肉団子の串焼き)を載せた料理。クスクスは、小麦粉を挽いて水で練り、1ミリくらいの小さな粒にして煮込むもので、マグレブ地方やエチオピアなどの主食です。
 日本では米を炊いたものを「ご飯」といい、「ごはん」はそのまま「食事全般」の意味になります。アルジェリアの言葉ではクスクスを表す「タアム(طعام、ta`aam、」と言う語がそのまま「食事」の意味になるというのが、日本語のご飯と共通しています。

 デザートはライスプディングと小さなもっちりしたケーキ。ケーキのお供に飲んだミントティは、小さなコップにミントの葉を入れ、緑茶とミントと砂糖をいっしょに煮立てたお茶をアラジンの魔法のランプのような形のティーポットを1メートルくらいの高さからコップめがけて注ぎ込みます。ちょっとしたパフォーマンスですが、お客は大喜び。「アラビアンティーにもいろいろな淹れ方がありますが、うちは、チュニジア風の淹れ方です」とマダムの説明。

 料理が出てくる間の食休めタイム、ワインやビールを飲みながら、今期の授業や学生の話題、それぞれの習い事や趣味の話など。私はモロッコビールのカサブランカというのと、トルコの黒ビールを飲んでみました。
 日頃は講師室の隅のほうで小さくなっている私ですが、あいづち係として気軽なおしゃべりを聞いて、楽しくすごすことができました。「小さくなっている」というのはあくまでも主観。客観的にはやたらにデカイ声と太い身体のため、小さくなっているようには見えないのが、つらいところ。講師料は90分の授業分しかもらえないのに、1コマの授業の準備や授業後の処理で何時間も費やして働く、報われない「非常勤講師」の仕事に、しばし皆それぞれが「今期もよく働いた、自分にご褒美」をして帰りました。

<つづく>
07:53 コメント(1) ページのトップへ
2010年07月31日


ぽかぽか春庭「踊ってパスタ」
2010/07/31
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>夏の食べまくり(4)踊ってパスタ

 春庭の所属しているジャズダンスサークル、毎週金曜日の練習のメインタイムは7:30~9:00です。6:00~7:00と9:00~10:00は自主練習。サークル参加者募集中。
 ときどきは、練習後、「仕事が終わらないので、夕食食べずに練習にきた、ああ、おなかがすいた」というメンバーといっしょに駅前の店で夕食をとることもあります。また、懇親会として、1月下旬か2月初旬に「総会&役員決めの食事会」7月に「発表会に向けた打ち合わせ納涼食事会」9月に「発表会打ち上げ食事会」と、年に3回か4回、親睦食事会があります。

 金曜日30日の夕食は、9月の発表会打ち合わせを兼ねて、手打ち生麺というのがウリのパスタ屋さんに皆で行きました。照明や衣装の担当者、誰がどの曲で踊るかなどを決めます。4月からメンバーに加わったK子さんは初めて食事会に加わり、「ダンサーとしては発表会に加わることはしないけれど、スタッフがんばります」と宣言。

 春庭のダンサーネームは、e-Na(イーナ)です。9月の出演曲は、「イン・ザ・ムード」と「ララドゥム」。インザムードは何回か発表会でも踊った曲なのですが、ララドゥムは初めて踊る曲。振り付けの覚えが悪いのは毎度のことなのですが、後ろの隅っこで「前の人の動きを見て、半拍遅れで踊る」のがコツ。一拍遅れるといかにも「振り付け覚えていないので遅れている」と、バレバレなので、半拍の遅れにとどめるところがウデです。って、振り付け覚えなさいよ。と、セルフつっこみ。

 インザムードはおなじみのグレンミラーの名曲です。
http://www.youtube.com/watch?v=bR3K5uB-wMA&feature=related
 ララドゥムは、「踊るマハラジャ」系というか、インド映画の中のダンス曲。
http://www.youtube.com/watch?v=6nJGNbj8hZA

 去年、中国赴任中にベリーダンス(東方肚皮舞トンファントゥピィウー)を習いました。帰国するとき、サークルへのお土産として、東方肚皮舞の衣装(コインがジャラジャラ付いているヒップスカーフ)を買いました。今回、そのヒップスカーフをつけて踊ります。レオタード&スラックスの上につけるので、おへそは見せないですけれど、あまりにおなかがポッコリなので、夏の間、ダイエットに励みます。
 去年、東方肚皮舞を習ったときの話は、ちょうど1年前、2009/07/28の春庭コラムに書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1927#comment

 発表会では、「ちょこっとストレッチ」という観覧者参加プログラムを担当することになりました。ダンサーが衣装替えをする時間をとるための「時間稼ぎ」です。イスにすわったまま手を上に上げたり首回しなどの簡単ストレッチをして、着替えの間見ている人が退屈しないように、帰ってしまわないようにするのです。
 ダンサーたち、30代から60代のメンバーは、一所懸命練習をしてきたとはいっても、なにせ身体も硬く、リズムに乗り損ねたりするおばさんたちですから、見ていただけるだけでもありがたい。着替えの時間のロスタイムに、観客が帰ってしまうと困るから、見てくれている人が、身体をほぐして、「来てよかった」と思ってもらうようにしたい、というプログラムです。

 30日の夜は、練習が終わったあと、パスタを食べながら、音響や衣装の担当者、出演曲目なども決まりました。私は、酸辣湯スパゲッティというのを頼みました。酸辣湯ラーメンは食べたことがあるけれど、スパゲッティでどういう味に仕上げてあるのかという好奇心で。他のイタリアンの店で見たことなかったから、食べてみました。中華とイタリアンの不思議な出会い。あとは、夏の間の練習&ダイエットあるのみ。ダイエットは明日から頑張ります。

<おわり>
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春庭の夏のおでかけ日記2010年8月

2010-10-14 05:46:00 | 日記
2010/08/17
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(1)東京湾大華火大会

 8月14日に行われた東京湾大華火大会は、中央区の主催で、今年23回目。毎年、見たいなあと思ってきたのですが、人出の多さを考えると躊躇が先に立ち、手近な地元の荒川で花火大会を楽しんできました。晴海の見物会場は抽選で、めったに当たらないそうだし、応募の往復ハガキを書くのもめんどうくさい。10枚ハガキを書いてやっと1枚あたった、なんてのを聞くと、文字を手書きするのが大嫌いな私、ああ、めんど、と思ってしまっていた。

 今年はじめて、ネットで応募する方法に気づきました。これなら少しも面倒でない。キーボードを打つのは、しゃべるのと同じ早さでできるので。家族全員の名で応募して、娘の1通分が当たりました。娘は福引きだと、最下等ティッシュではなく、そのひとつ上の「石けん1個」とかが当たる「プチラッキー」の運の持ち主なのです。

 当選ハガキ1通で、ふたり入れます。
 娘と息子二人とも行きたいならどうしようかというところですが、息子は、半月間の学芸員資格取得のための博物館研修最終日が8月15日。「8月14日土曜日なんて、疲れ切っているから、花火どころじゃない」というので、娘と私とふたりでお出かけしました。

 「東京湾大華火大会完全攻略」というサイトをながめて、当たった整理券で入場できる晴海第一会場のどこらへんで見るのがいいか、開場のどれくらい前から待つべきか、などの情報を仕入れ、いざ出発。

 開場は5時ですが、オープンを待つ人の列が多くなると開場時間が早まることもあるというので、トリトンスクエアでランチを済ませるとさっそく行列に並びました。すでに大勢の人が警察官やガイドボランティアの人の指示で道路沿いに並んでいます。私は並木の脇に並び、木にもたれかかって本を読んだりいねむりしたりして待ちました。

 「東京湾大華火大会完全攻略」が「待っている間の必需品」と書いていた日焼け止めは1回塗っただけ。曇り空でそれほど暑くならないのと、海風が吹き抜ける通りだったので、思ったほどつらくもなく、待っていることができました。

 次に観覧スペースの晴海第一会場の前に移動して、また待ちました。この場所は後方にホットプラザはるみという中央区のゴミ焼却場&焼却熱利用の温水プールジャグジーなどの施設があるので、海風の通りが悪く、暑かった。

 30分早めの4時半に観覧エリアの開場となりました。一番打ち上げ場所に近いエリアに行きたい人は、警官がハンドマイクで「走らないでください」と言っているのに、観覧場所めがけて走っています。

 私と娘は、「走るのもたいへんだし、一番近いところでなくてもいいよね」と、晴海運動公園の駐車場スペースの中程に、二人が寝て過ごせる場所を確保しました。花火スタートまで2時間半もあるので、昼寝してすごす作戦です。花火を盛り上げようとするアナウンスや連絡などの音量が大きくてうるさかったですが、そんな中でも「どこでもいつでも寝られる」特技を発揮できました。

 私と娘が陣取ったところは、打ち上げ場所の晴海埠頭公園から200メートルほど離れた場所です。打ち上げ地点に一番近い場所ではないのですが、それでも「風が強いので、花火の燃えカスや火薬の粉が会場にふってきます」と、アナウンスがありました。「東京湾大華火完全攻略」にも、「打ち上げ場所に近いので、黒い火薬カスなどが落ちてくるので、食事は花火開始前にしたほうがよい」と、書いてあったので、私と娘は、会場の売店で買ってきたかき氷やビール缶と、持参のシュウマイなどを、6時半までには全部食べてしまいました。トリトンスクエアでのランチでけっこうおなかいっぱいになっていたのに、食べようと思えばいくらでも詰め込めるおなか。

 さて、いよいよ打ち上げです。

<つづく>
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2010年08月18日


ぽかぽか春庭「大江戸銘華競演」
2010/08/18
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(2)大江戸銘華競演

 「東京湾大華火大会完全攻略」には、花火スタートの7時近くになると、入場整理券を持っていても、満員だと入れないこともある、という注意書きがあったので、早めに列に並んだのですが、実際に7時近くになると、5万人入れるという「整理券が必要なエリア」の晴海第一会場は満員になりました。この一番打ち上げ場所に近いエリアの外側には、晴海第二会場などの「早い者勝ちのエリア」があります。そちらだと、朝から場所取りしている人もあるみたい。徹夜の場所取りは禁止されているそうで、早朝からOKといってもいったい何時から場所取りしているのやら。周辺地域に集まった花火観客はおよそ70万人にもなったと、新聞にありました。

 7時に打ち上げスタート。カウントダウンが終わると明るく華やかな花火が打ち上げられました。花火は、目の前いっぱいに広がり大迫力。ドンという打ち上げの音がおなかに響いてくる感じがします。配布されたパンフレットに、スターマイン、虎の尾、牡丹、柳、千輪菊などの花火の名前と写真が掲載されていたので、花火の名前を娘とあてっこしながら、「ああ、きれいね」とさまざまな花火を楽しみました。

 スタートの第1部から第6部のグランドフィナーレまで、1時間20分。12000発。
 第4部は、各地の花火師の名前と作品名がアナウンスされる「大江戸銘華競演」という時間。花火師が腕によりをかけた自信作が次々にうちあがりました。三重芯散花、八重芯錦牡丹紫光露などと名付けられた作品。「八重芯菊」という同心円で色が変わる打ち上げの難しい花火が中心で、どれもすばらしい色と光でした。

 打ち上げ方にも花火師の工夫がこらされ、東京周辺では一番大きいという尺五寸玉(直径45センチの筒を使ってあげる玉)という大型が上がると、周囲の人、皆いっせいに「大きい!」と歓声をあげていました。新潟などの地方で打ち上げられる世界最大という4尺玉(120センチの筒を使ってあげる玉)は、上空で直径800メートルの大きさに広がるとのことですが、東京都内にはさまざまな規制があって、規制内で最大なのが、尺五寸玉になるのだそうです。上空では直径400~500メートルの大きさに広がり、晴海第一会場の観覧場所で見ていると、空いっぱいに広がる感じ。

 大きさももちろんですが、花火の組み合わせや打ち上げ時間の調整が花火師の腕の見せ所。現在ではコンピュータによる打ち上げ構成管理ができるということですが、最後は現場の花火師のカンも必要なようです。さまざまな花火が次々に花開く演出はとても見事でした。

 花火師さんの修行には長い修練が必要と聞きます。絵画や彫刻のように後世にモノとして残る芸術と異なり、花火は美しく花開いた次の瞬間には消えてしまうものです。一瞬の美のために日夜工夫をこらす花火師の技に感謝しつつ夜空を見上げました。

 帰りは大混雑になると「東京湾大華火完全攻略」に書いてあったのですが、想像以上の大混雑。最寄り駅の勝どき橋駅まで来ると、駅入り口のはるか手前から入場規制が行われていました。駅の中に入るまで1時間待ちというので、警察官の指示に従って、月島西仲通りのもんじゃ焼きストリートを通って月島駅へ向かいました。

 もんじゃ屋はどの店にも行列が出来ていました。待たずに入れそうな店があれば、休憩がてらちょっと寄って見たくもあったのですが、入店まで外で待っていたらさらに疲れてしまいそうなので、行列を横目で眺めるだけで観覧会場から1時間も歩いて月島駅に着きました。普段なら歩いて30分なのだそうですが、人混みの上、帰りの足は重い。帰りの地下鉄もぎゅーぎゅー詰め。来年も晴海で見たいなら、帰りの対策をもっと練っておかなければ、という結論に達しました。

 次回おでかけリポートは「海の哺乳類展」

<つづく>
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2010年08月20日


ぽかぽか春庭「海の哺乳類展」
2010/08/20
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(3)海の哺乳類展

 今年は夏休み中の8月に息子の「学芸員資格取得のための博物館研修」が入り、9月の頭には英語の試験もあるというので、息子といっしょにお出かけするなら7月中に、というので、7月28日に上野の科学博物館で開催されている「海の哺乳類展」を見学してきました。

 科博は、子供たちが小さい頃は「ファミリー会員」になり、足繁く通った所です。今も貧乏ですが、今よりもっと貧乏暮らし、喰うや食わずの赤貧だったころのことで、値段が高いテーマパークにはそうしょっちゅう連れて行けないし、遠出は電車賃がかかるし、電車15分で行けて、いろいろなイベントが楽しめる科博は、一番お金をかけずに子供を遊ばせることのできる施設でした。夏休みに「小学生縄文土器作り」などのイベントに参加して、宿題の自由研究に提出したりしました。

 春の「陸の哺乳類展」のとき娘息子と「招待券」で見学し「あ、夏休みには海の哺乳類展やるんだね。次も招待券3枚手に入れてね」とリクエストされたのですが、招待券は2枚のみ入手。息子の分は、「キャンパスメンバーズ」という大学生博物館利用制度で、1400円のチケットが800円になる割引入場券を買いました。800円の出費だったから3人で来たけれど、これが1400×3=4200円の出費をするのであれば、来られないという程度の、今の貧乏具合。
 館内は夏休みの子供たち家族連れで大賑わい。「陸の哺乳類展」よりずっと混んでいます。

 科博の展示「海の哺乳類展」は、巨大な鯨の実物骨格標本などがメインの展示です。花火も直径が大きいほど歓声が大きくなりましたが、人類は、大きなものに対して畏怖と尊敬を感じるように脳ができているのでしょう。恐竜の大きさや鯨の大きさに魅力を感じる本能のようなものが人の心に存在していると思います。

 科博の外には、シロナガスクジラの実物大模型が常設展示されているのですが、外にあると30メートルの哺乳類最大の巨体もビルの横にあって「ああ、大きいな」くらいの感じです。しかし、屋内に展示されている骨格標本は、すぐ近くまで寄って見ることができるせいか非常に大きく感じ、迫力満点でした。鯨は哺乳類だから骨盤があるのですが、それが巨体に比べて極小に退化しているのが、よくわかりました。

 陸の哺乳類展も海の哺乳類展も、生物多様性が地球にとって大切なことを伝えようとしていました。海が豊かさとは、海の生物が多様であること。海が汚れれば海の生態系が変わってしまう。鯨の餌になるプランクトンが減れば、大量のプランクトンを餌にしている鯨も減ってしまう。温暖化によって海水温が変化しても、生態系が乱れる。

 わが家は、揚げ物の油の残りをぼろ布に吸わせる、皿のよごれも布や紙で拭き取ってから洗うようにする、という「海へ流れる水を汚さない工夫」をしているつもりなのですが、どのように川や海を守り、海の生物を守ることになるのか、一人一人の意識が問われる時代になっていると思います。

<つづく>
04:54 コメント(3) ページのトップへ
2010年08月21日


ぽかぽか春庭「夏休み自由研究in博物館」
2010/08/21
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(4)夏休み自由研究in博物館

 上映中止騒動など大騒ぎになったドキュメンタリー映画『コーブ』。
 日本のイルカ漁や鯨捕りの漁師たちは、鯨を取り尽くすようなことをせず、生態系にあった海の哺乳類利用をしてきたことは、歴史を学べばわかること。真に海の哺乳類を追い詰めているのは何か、という事実を追求している作品なら評価したいですが、どうもそうではない映像のようなので、アカデミー賞をとったといっても『コーブ』を見にいく気持ちになりません。
 捕鯨が鯨の数を減らすのではない。タンカー事故原油流出や生活汚水工業廃水の垂れ流しが海を汚し、鯨やイルカを追い詰めている、というドキュメンタリーを『コーブ』の監督の次回作にお願いしたいです。

 出口近くの展示に「ストランディング」の報告がありました。鯨やイルカが数頭ときには何十頭も浜に打ち上げられて身動きできなくなり、死んでしまう現象をストランディングといい、今、世界各地の海岸で起きている、というレポートです。泳ぎの達人のはずの鯨がなぜ海辺に打ち上げられてしまうのか、磁力の乱れのためとか、温暖化による海流の乱れのためとか、原因探求がなされていますが、理由はまだわかっていないそうです。なんらかの地球の異変が生態系に影響しているのでしょうか。

 夏休み自由研究の親子も、身の回りの環境を守ることが地球の生物を守ることになるってことに気づいてくれたでしょうか。

 春休みの「陸の哺乳類展」は、ハワイの日系人コレクターが寄贈した動物剥製展示が中心になっていました。それと比べると、海の哺乳類展は生態学的な解説が多く、やや専門的な展示になっていたので、小学生には難しいのではないかと思えました。しかし、自由研究の宿題を科博レポートですませようともくろむ親子が大勢いて、母親のほうが熱心にメモをとっていたり、小学生はケータイで展示や説明を写真撮影したりしています。

 科学博物館で夏休み自由研究に励む親子連れを見て、「うちらもあんなふうに親子で自由研究ネタ探しをやってきたんだなあ」と往時をなつかしみました。
 夏休みの宿題の自由研究っていうのは、子供の好奇心を広げるチャンスでもあるけれど、親子して「自由研究、何を提出するの?」という悩みのタネだという話はよく聞きます。最近は「自由研究提出用、子供の手作りであるかのように見える工作作品」まで売っているそうですが。

 私は小学校1年生の夏休み工作があまりに下手だったので、9月新学期の「夏休み作品展覧会」でクラスメートの出品作に見劣りがしました。
 そこで2年生の夏休みは父に手伝ってもらいました。そしたら父がはりきってほとんど一人で作ってしまって、あまりに立派な工作になりすぎました。親の作品であることがバレバレ。3年生からは自分で何とか仕上げました。

 3年生の夏は、菓子折の空き箱の中を水色に塗って水族館にして、魚のモビールを上からつるし、下には海で拾った砂と貝を並べるという定番お手軽工作を出品。以来、海岸にでると、どこの海岸であれ必ず砂と貝を拾っておくのが、私の習い性となっています。去年の夏は、中国の渤海湾でも貝拾いに励みました。お手軽工作でも水族館を作った縁で、今でも水族館大好き。子供にとって、毎年の夏休みの経験は、一生の宝です。

<つづく>
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2010年08月22日


ぽかぽか春庭「自由研究の勾玉作り」
2010/08/22
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(5)自由研究の勾玉作り

 息子の学芸員研修、地元の博物館実習では「夏休み子供自由研究」の「勾玉作りの手伝い」を担当することがスケジュールに入っていて、2週間の研修の最後の2日間がこのイベント手伝いに当てられていました。博物館側も、学生の手伝いを当てにして夏休み中の研修計画を立てているみたい。

 子供が苦手の息子、やんちゃ坊主たち相手に「勾玉作り指導」ができるのかしら、私は科博での勾玉作りのイベントに参加したことがあるので、「小学生を指導する息子の指導係」として、ついていきたい気分でした。あ、こういうのを「いつまでも子供離れできない母」と言うのでしょう。

 4人の研修学生が20人の小学生を分担して、館内のご案内やら勾玉作り指導やらやって、お子様苦手の息子は疲れ果てましたが、2週間の研修はなんとか8月15日に終了。
 息子は「もう、当分人間と関わりたくない」と、すっかりくたびれた様子ですが、勾玉作りが子供たちの思い出に残り、自由研究の成果として夏休み作品展などに展示されたなら、今までできるだけ世の中と関わらないように生きてきた息子にとって、初めての「少しは世の中の役に立った経験」になったのかも。

 息子の「人間関係苦手」は、伯母や私と共通する遺伝子なので、仕方がありません。高いところが平気な私が「何で高いと言うだけで恐いのだろう。落ちちゃうわけでなし」と言ってやっても、高所恐怖症の人の「高いところが恐い」という気持ちが消えることはないのと同じく、人間関係形成不全症の私や息子に向かって、誰とでもつきあえる人が「仲良くなってしまえばいいんですよ」なんて説教してくれたとしても、人間関係苦手意識がなくなることはない。ただ、高所恐怖症の人は高いところに近づかなければいいだけなのに対して、人間として生きて行くには、人間に近づかないではいられないところが不自由です。生きづらい。リアルでヒトとまじわれない私なので、ネットで愚痴こぼしてストレス解消しているってわけです。

 科博「海の哺乳類展」の「自由研究」組のお子様たちは、巨大鯨が巨大な大王烏賊を飲み込もうとしているところの模型とか、イルカが丸い泡を吹き出す様子などの展示に群がっていました。
 私もお子様方に負けじと「触ってみよう」コーナーに手を出し、ヒゲ鯨のヒゲ標本に触ってヒゲがたいへん固いこと、歯鯨の歯にタッチできるコーナーでは、歯先がするどいことなどを実感しました。鯨の皮下脂肪がどれほど分厚いのかという展示もありました。昔、イギリスやアメリカが捕鯨大国であったころ、この良質な脂肪だけを目当てに乱獲し、肉は食べることなく鯨を捕りまくりました。当時、鯨油はもっもと熱効率のよい燃料だったのです。

 私が今、小学生の子を持っていたなら、夏休み自由研究は科博の展示の中の目玉のひとつ、「龍涎香(りゅうぜんこう)」をテーマにしたいと思います。雄のマッコウクジラの分泌物である龍涎香。ガラス箱の中に本物の龍涎香展示のほか、合成龍涎香が置いてあり、蓋を開けて香りをかぐことができます。
 「王様だけが使用できた香り」という説明があったのですが、それほどいい匂いとは思いませんでした。

 なぜ王者の香りかというと、これを身につければ、必ずや女性を虜(とりこ)にして、王者になにより必要な世継ぎがわんさかと作れる、というのが理由であったよし。
 おお、そういうことなら、研究してみなければ。

 そろそろ8月も残り少なくなり、夏休みの宿題が親の手にも余る時期。小学生自由研究に何をさせたらよいか、お困りのご両親&じいちゃんばあちゃんに贈る、春庭の「夏休み大研究・龍涎香」。

 3回シリーズで掲載しますから、春庭の蘊蓄をそのままコピペして、そこらにある龍の絵や鯨の絵でもへたくそに写しておけば、「絵は下手だけど、文章はまあまあな」夏休み研究の出来上がりです。あら、お宅のお孫ちゃん、絵が上手なの?まあ、それでもいいけれど、ちょっとくらいヘタなほうが、文章コピペがバレなくていいんですけど。あは、コピペの元文章がへただから、小学生の自由研究にちょうどいいかもしれないって?ま、そうでしょう。お役に立てるといいんだけれど。次回から「自由研究・龍涎香」

<つづく>
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2010年08月24日


ぽかぽか春庭「アラビアンナイトのアンバル」
2010/08/24
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏休み自由研究(1)アラビアンナイトのアンバル

 夏休み自由研究「龍涎香りゅうぜんこう」、3回連続の1回目です。

 龍涎香は、マッコウクジラの腸の分泌物が結石し、大理石状になったものです。香料の「保存剤・保香剤」として用いられています。「保香剤」とは、色々な香料と混ぜると香り全体を引き立て、長く香りを保つ性質をもつ物資のことです。

 古くから珍重された稀少な品で、中国語では「龍涎香ロン・エン・シャン」、フランス語はアンブル・グリ(ambre gris)、英語はフランス語がアングロ語風に訛ってアンバーグリス(Ambergris)。アンバーAmberは琥珀(こはく=原始の樹液が化石化した宝玉)のことで、アンバーグリスは灰白色の琥珀という意味です。「灰色の琥珀」という名ですが、琥珀とは関係ない海の産物。

 Amberの語源はアラビア語のアンバル[a m ber]です。アンバルとはアラビア語で「匂いの王者The King of Perfumery」の意味で、アラビアでは早く7世紀にはアンバルの採取利用が始まっていたそうです。
 
 アラビヤ人は、海岸に漂着したアンバルを見て、樹液が固まった琥珀と同じように、海岸に生えている木の樹脂が海中にまで長くのびた根から分泌して固まったものと考えました。この他、海底から噴出する泡が固まったもの、海底の海綿状の植物などの樹液が固まったもの、海中に生息する「サラ」という牛の糞が固まったものとされました。

 (仏教説話に沙渇羅(サラ)龍王という神が出てくる。その娘をめとったのが牛頭天王(ごずてんのう)ですが、このアラビア海中のサラと沙渇羅龍王牛頭天王が関わりがあるのかどうか、追求すればそれはそれで面白い自由研究になると思いますが、今回は省略)

 そのほか、山中の蜂が作った蜂蜜が海中に流れ込んで蜜蝋が固まったもの、など諸説が流布していました。貴重なアンバルがどのように作られているのか、わからないまま珍重されてきました。

 アラビアでは香炉に「龍涎香」や「乳香」、「没薬(もつやく)」を入れて焚き、その香りを衣服に移すのがハーレムでの最高のおもてなしであり、おしゃれとされ、アラビアン・ナイトの世界は、アンバル香る中、シェヘラザートの語りとともに更けていきました。

 アンバルはコーヒーに入れたりシャーベットの香りつけ、肉の匂いつけにも使われ、古代中世各地の人々はこの香りに夢中になり、アラビア商人から高値で買い入れました。商人の取引記録によると、時代によっても異なりますが、龍涎香の高級品は、金と同じ値段で取引されたといいます。

 アラビアのアンバルはシルクロードを経由して中国へも伝えられました。アラビアの商人にも何からできている品かわからないのですから、中国では、よくわからない貴重なものはなんでも「龍」の賜(たまもの)とみなされました。架空の動物である龍の涎(よだれ)が海の中で固まったものと思われ「龍涎香ロンエンシャン」と名付けられました。

 中国の皇帝は「後宮3千人」の美女を相手に夜な夜な励まなければなりません。貴重な「龍涎香」は皇帝の専用品とされ、「媚薬」として後宮で用いられました。さらには「不老長寿の薬効」もあると期待され、元王朝時代、13世紀にはアフリカ沿岸にまで「龍涎香」を買い求める使節を出しています。アラビア産として輸入された「龍涎香」の実際の産地は、アラビヤ海だけでなくベンガル湾からアフリカ東海岸まで。皇帝の専用品といっても、そこは腹黒い宮廷廷吏や宦官が跋扈していた中国の後宮、ずいぶんと横流しもあったことでしょう。

 海に漂う「龍涎香」を偶然に採取するだけでなく、捕鯨が行われるようになるとクジラから採取する「アジアの龍涎香」も使われました。元朝皇帝につかえたマルコポーロは、「アジアの龍涎香」についてヨーロッパへ伝えています。夏休み自由研究「龍涎香」は次回へ続く。

<つづく>
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2010年08月25日


ぽかぽか春庭「龍涎香」
2010/08/25
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏休み自由研究(2)龍涎香

 「龍涎香」は「催淫効果」があると信じられ、「性的不能」、「精液の漏れ」、「淋病」、「失禁」、「陰嚢の湿疹」などの男性の性的な能力増加、生殖器の疾患をなおすためにもちいられる漢方薬の貴重な材料でした。
 漢方薬のほか、伝統印度医療でも「龍涎香」は薬効がうたわれ、性欲を刺激する「催淫剤」の効き目があるとされました。20世紀前半出版の印度伝統医薬品目には、刺激性の薬物で「けいれん止め」のほか、「虚弱体質」、「てんかん」、「ひきつけ」、「神経衰弱」などに効くと書かれており、西洋医学が伝わったのちにも珍重されていたことがわかります。

 さて、日本では、博物学が盛んになった江戸後期に、動物学書として『鯨史稿』が出版されました。全6巻。大槻平泉(清準)が、文化・文政年間(1804〜1830)に表した博物学の書です。鯨に関しても図解入りで具体的な記述が残されています。鯨の名義・種類や、捕鯨業の実情などを論じました。

 「龍涎香」の説明もあります。西のはるかかなたのアラビヤに龍涎島があり、春になると龍が交尾して、その時に滴りおちた「よだれ」が固まったものと記述されています。薬効高いものと評価され、「てんかん」や「チフス」の特効薬、「腸閉塞」や「下痢」、さらに「寄生虫」や「悪霊払い」にも効能有りとされています。

 では、マッコウクジラの体内でどのようにして龍涎香ができあがるのか。実は最先端の動物学でもまだ解明できていないのです。龍涎香の中には、カラストンビ(タコやイカの硬い嘴=顎板)が含まれていることが多いことから、消化できなかった硬いエサを消化分泌物により結石化させ、排泄したもの、というのが、最も信頼できる説と考えられます。

 これまでに出された説はたくさんあります。
1)糞石のような結石が腸内にできたもの。
2)排泄物、不消化物が科学的な変化によって固まったもの。
3)寄生虫が引き起こした病気の産物。
4)小腸後端部にあるクチクラの内層から特殊な分泌によって出来たもの。
などの説がありました。

 ではなぜ、鯨の腸の結石が芳香を放つようになるのかなど、決定的なことはわかっていません。結石が海を漂ううち、日光や海のミネラルなどのさまざまな物の影響で化学反応を起こし、変化が起きるのだろうというのですが。

 龍涎香の構成成分の大部分はステロイドの一種であるコプロスタノールとトリテルペンの一種であるアンブレイン。このうちアンブレインの含量が高いものほど品質が高く、高値となる。 このアンブレインが龍涎香が海上を浮遊する間に日光と酸素によって酸化分解をうけ、各種の香りを持つ化合物を生成すると考えられています。

 今まで世界最大の「龍涎香」は、イギリスがインドを統治していた植民地時代、東インド会社が1880年に扱った421.3kgの塊です。次いで旧ソ連が南極海で採取した200kgの「龍涎香」。フットボールくらいの大きさで水より軽く、海面に浮いているところを採取されました。龍涎香は、見かけは大理石のようですが、水より比重が軽いので、浮きます。

 現在、天然龍涎香を手に入れるのは難しい。龍涎香はオスのマッコウクジラにしかなく、しかも捕獲された鯨のうち、体内に龍涎香を持つのは、100頭に一頭か二頭。1%程度しか発見できない上、現在ではマッコウクジラは捕獲禁止。海面に浮遊していたり、浜に流れ着いた物を利用するという偶然に頼るしかない。

<つづく>
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2010年08月27日


ぽかぽか春庭「)「龍涎香を拾うコツ」
2010/08/27
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏休み自由研究(3)「龍涎香を拾うコツ」

 万が一、海岸で拾うかも知れないときのための、龍涎香の見分けかた講座。
1)形は、やや乾燥した牛馬の糞の固まったような物。表面はアバタ状の凸凹で蝋分に富んでギラギラ光っている。「汚ッタネェ!何の糞だ」と思って捨ててしまっていはいけない。
2)匂いは最初は悪臭がして、次第に青臭くなり、やがてかび臭い匂いに変わり、この後は表現しようもない海の香り、麝香(じゃこう)に似たかぐわしい香りに変わる。
 最初に、「わぁ、臭い、なんだこりゃ」と思って捨ててしまってはいけない。
3)色は、黒から灰白色までさまざま。上質なものほど色が薄い。

 現在は、合成の「龍涎香」が開発されており、春庭が科博で嗅いだガラス箱の中の龍涎香も、この合成品でした。
 本物の「龍涎香」の香りが欲しい人は、今日から海岸をうろつきましょう。ほら、見た目に牛や馬の糞のような形を探して、ウンがよければ手に入るかも。おっと、あなたが拾ったそれ、ただの「犬のウン○」ですよ。お間違いなく。

 なお、お子さんお孫さんから「龍涎香に催淫効果があるってどういうこと?」「性的不能の治療薬って何?」などの質問が出た場合、春庭には説明いたしかねますので、それぞれよしなにお答え下さい。

 以上の龍涎香蘊蓄をさらに極めたい方、以下の本をご参照ください。本気で夏休み自由研究に提出したい方、参考書名をあげておくと、自分で調べたっぽく見えますが、小学生には難しい本なので、「私が読んでわからないところは親に解説してもらった」なんて但し書きなどつけておくと、先生も感心すること請け合い。夏休み作品展の自由研究努力賞くらいはもらえるはずです。「催淫効果」など、きちんと解説してあげた努力賞。

<参考書>
・秋道智弥1994『クジラと人の民族誌』東京大学出版局
・加藤秀弘1995『マッコウクジラの自然誌』平凡社
・山田憲太郎2002『香談 東と西』法政大学出版局

・大槻平泉1830『鯨史稿』(1976年に復刻出版された、江戸科学古典叢書のうちの第二巻。恒和出版 ただし絶版。古書は¥ 84,500もするので、どうしても見たい人は、国会図書館へ行ってください。国立文書館に行けば、原本が展示されているかもしれない。「鯨史稿」の中の鯨の図版などをコピーした1枚を添えれば、上等な夏休み自由研究となりましょう。『鯨史稿』がコピー可能な本かどうかは、直接お問い合わせ下さい。国会図書館の本は国民みんなの財産です。(ついでながら、大槻平泉(おおつきへいせん)は大槻玄沢の従兄弟の子。辞書『言海』の編者大槻文彦の親戚)

<つづく>
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2010年08月28日


ぽかぽか春庭「科博が好きなわけ」
2010/08/28
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏の自由研究(4)科博が好きなわけ

 なぜ私が龍涎香に興味を持ったか。理由があります。日頃香水などには縁がない春庭ですが、「香り研究」にはかって縁があったのです。
 およそ理系はすべて苦手だった私なのに、高校時代、友達に誘われて「科学部」に所属していました。

 高校2年生の夏休み、秋の文化祭の準備「香料の研究」というのをやりました。香料の化学式を模造紙に書いたり、香水の製造過程などを調べたり、発表時のパフォーマンスなどを考えたのですが、どうも地味です。酢酸ゲラニル 英名geranylacetate 化学式C12H20O2 、安息香酸メチル 英名methylbenzoate 化学式C8H8O2、、、、これだけじゃ、観客が興味を持ってくれそうにない。

 そこで、香料を扱っていそうな会社に「文化祭で香料の研究をやります。資料があったら、ください」というおねだりの手紙をだしました。化粧品や香水の会社などからは無視されましたが、ただ一社、お菓子メーカーが「食品香料のサンプル」というのを女子高校あてに届けてくれました。ロッテさんありがとう!あれ?グリコだったっけな。

 小さなサンプル瓶のふたを開けると、合成バニラとかいろいろな香料が香りました。私ともう一人の「香料担当」ハヤシセッちゃんは、文化祭でサンプルの香料を見学者に嗅がせて、何の食品に使われているのか当てさせるという企画をたて、たいへん好評でした。他のグループは汗水たらしてさまざまな実験を続けて得た結果を、模造紙に書いて貼りだしていました。それらの地道で地味な発表より、食品香料サンプルもらっただけの私と節ちゃんは、たいした実験もしていなかったのに、大活躍のように見えたのでした。手紙は私が書いたのだけれど、資料をどこかの会社からもらっちゃえ、と思いついたのは節ちゃん。節ちゃんの実家は山間の町の駅前食堂でした。いつも愛想良くにぎやかな楽しい人でした。

 節ちゃんは、私が中学校国語教師になったのと同じ県で小学校の先生になりました。寿司屋の板前さんと結婚。お寿司屋さんは大繁盛で、自社ビルを建てるほどになりましたが、小学校の教師はずっと続けていました。私がただ一度参加した女子高校クラス会で、彼女の話を聞きました。「うちの市の教育委員会や学校関係の宴会は、全部うちの寿司懐石店でやらせてもらっているの。教師の給料なんてたかが知れてるけど、学校関係の宴会シェアを確保するために教育委員会に食い込んでおくと便利だから教師続けているんよ」と自慢していたっけ。
 というエピソードは何回か書いたことなのだけれど、やっかみひがみ春庭は、何度でも繰り返して言う。自社ビル、、、、うらやまし。
 私ときたら、その「たかが知れてる」教師の給料さえもらえずに、非常勤講師パート仕事でウン十年。

 龍涎香を拾うようなウンのいい結婚をする節ちゃんもいれば、犬のウン○拾ったごとしの、、、、と、何を思いだしても、あいかわらずの妬みヒガミそねみやっかみに終わるのが、私の夏休みです。

 まあ、そんなこんなで、もともとは理系人間じゃなかった私ですが、今でも新聞の科学関係記事や、ニュートンなどの一般向け科学雑誌を熱心に読むサイエンスファンになりました。龍涎香に興味を持つとあれこれ科学記事をさがして読みたくなります。

 子供をつれて、科博に通った日々も遠くなりましたが、科学博物館、大好きです。
 以上、夏休み龍涎香蘊蓄でした。ほんとは、龍涎香どころじゃないのに、ほんとに書かなくちゃならないことが遅々として進まないことからのしばしの逃避でした。

<おわり>
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2010年08月29日


ぽかぽか春庭「箱根」
2010/08/29
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(6)箱根

 娘と息子が企画した「みんなで温泉旅行」に行ってきました。姑の年齢85歳を考え東京から一泊で無理なく行ける温泉ということで、伊豆、熱海、箱根、房総などが候補にあがった中、ワーキングプア一家でも支払えそうなコストパフォーマンス重視で、区の保養所利用箱根一泊ということになりました。8月25、26日の一泊二日のプチ旅行。

 今年の夏、息子は博物館学芸員研修がありました。半月のあいだ地元の博物館に実習に通って、苦手な「慣れていない人と接触すること」も一生懸命やってきたので、息子の「実習お疲れさん会」を兼ねて、姑孝行のための家族旅行です。家族旅行と言っても、夫はいつもの「父さんは倒産しそう。忙しくて旅行どころではない」といういいわけで、いち抜けしています。春庭が「あなたの母親でしょう。自分の親なんだから親孝行自分でしなさいよ」とぼやいても、聞く耳持たず。ふつつかながらヨメが姑孝行を相務めることになりました。

 8月25日朝、娘、息子、姑と、新宿から小田急線で箱根へ。姑は何度も箱根へ行っており、珍しくともない温泉地なのですが、私は箱根には行ったことがありませんでした。温泉に行きたいなら、故郷の群馬に帰省して入ったほうがいい。新しいのは故郷創生資金で掘られた温泉もあるし、古くは万葉集に詠われた温泉もある。
 熱海と箱根は、東京在住者にとって、あまりにもありきたりすぎる観光地という気持ちがあったことも確かなのですが、まあ、一度は行ってみるべきだろうとも思っていました。

 それぞれの箱根への思い入れは、各人各様。
 私は「箱根の杉並木で♪箱根の山は天下の険、と唄う」のが今回の旅の目標です。姑は「孫とすごす時間が持てれば、それでよし」。草食系の息子は「温泉地の宿でまったりすごす」。って、21歳男子としてドーヨ、というところですが、そもそもおとなしく家族旅行について来るってところが、ガールフレンドなし歴21年のわけで。娘「ガラス制作体験をする。芦ノ湖で海賊船に乗る」
 観光地の俗化の象徴がガラス美術館とオルゴール館。このふたつが建ったらその観光地は「大人」の行くところではなく、お子ちゃま&アンノン族ミーハー(という表現も古いが)の喜ぶ程度のものに成り下がる、というのが「通の温泉ガイド」なのだそうなので、娘は逆に、「どこかに出かけたらガラス制作やオルゴール制作をする」ということにしたのだって。

 「箱根に行ったら、ロープウェイに乗って大涌谷の火山噴煙見物をして、芦ノ湖で海賊船に乗って遊覧っていうのをするのが、正しいミーハー観光だ!」というわけで、25日は、ロマンスカーで10時半に箱根湯本到着、強羅公園クラフトハウスで吹きガラス制作がメインイベント、26日は大涌谷見物と芦ノ湖遊覧がメインイベント。

 25日午後、強羅公園クラフトハウスで、娘と息子は吹きガラス制作に挑戦。娘はピンクの色ガラスを散らしたケーキ皿、息子は水色と泡模様のグラスを作りました。指導員の言う通りにガラスが先に付いている吹き棒を咥えて吹いたり棒をぐるぐるまわして形を整えたり。私もテレビでガラス工芸のいろいろを見たことはありますが、間近で見るのは初めてです。ガラスを溶かす炉の熱気以上の指導員さんの熱血指導で、しだいにガラスは形を見せていき、それぞれグラスと皿が完成しました。ふたりは「おもしろかった」と、喜んでいました。
 指導の松本大督さん、完成品は27日に宅配便で届きました。きれいな色に仕上がっていて、娘も息子も大満足です。ありがとうございました。

<つづく>
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2010年08月30日


ぽかぽか春庭「強羅」
2010/08/30
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(7)強羅

 強羅公園には、益田鈍翁(三井物産を設立した益田孝の茶人名)の茶室「白雲洞」が移築公開されています。娘息子が吹きガラス制作の順番を待っている間、私と姑は白雲洞の見学をしました。白雲洞の縁側で姑のおしゃべりを聞く。何度も聞いた話もあるけれど、何度も聞いた話にウンウンと相づちを打つのも姑孝行。
 姑が小原流華道師範の免状を持っているのは知っていましたが、お茶についてはこれまで聞いたことなかった。姑の「お茶も習ったけれど、師範をとるのに家元に納めるお金が華道の比ではなくかかるので、師範とるまではいかなかった」という話を初めて聞きました。坊主丸儲けと言いますが、坊主はお経くらい読むのに比べ、家元ってのは免状与えるだけでホント丸儲けの仕組み。落語に「欠伸指南」というのもありますが、私も「愚痴こぼし指南家元」くらいになりたい。

 茶道具も稽古用のものを揃えたけれど、今は稽古にも行かなくなったから、物置にしまいっぱなしで、どうなってるかしら、と姑。「茶碗なんか、たいしたものは買わなかったけれど、茶釜はね、稽古用の安物でも15万したのよ。邪魔だけれど、売るなら15000円で引き取りますって言われて、そんな値段じゃ売っても何にもならないから、そのままとってあるの」

 あらら、姑が茶釜持っているなんて、知らなかった。私は若い頃、ふくさの畳み方ってのを教わっただけで足がしびれてしまい、二度と茶の湯の稽古なんかするものかと思った、というお作法知らずだから、茶釜ちょうだいなんて言えないけれど、しまいっぱなしになっているなら、留学生の「茶道体験用」に借りだしたいなあと思いました。
 「家具とか電気製品とか、不要品は区内の大学の留学生バザーに寄付するの。こっちも処分できるし留学生にも喜ばれる」と言う姑なので、そのうち茶釜もお伺いたててみましょう。

 箱根一泊。泊まったところは区民保養所です。区民のための施設、26年も区民税払い続けてきたのに、利用したことがなかった。これまで区民保養所というと、くすんだ宿をイメージして、もしも宿泊してわびしい気持ちになったりしたら、保養のはずが気持ちも晴れないだろう、というワーキングプアらしい感想を持っていたのですが、娘と息子がインターネットチェックして、意外によさそうな施設だということで申し込みました。箱根ケーブルカー駅のすぐ目の前に保養所がありました。部屋からは箱根大文字焼きの「大」の字が正面に見えるロケーション。リゾートホテルのようないたせりつくせりというわけにはいきませんが、2ヶ所の源泉から引いたという大小の浴室からの眺めもよく、部屋もきれいだし、夕食朝食もおいしかった。 私には区民保養所でも十分満足でした。

 これまで箱根に来ることがなかったことの言い分のひとつ、「箱根に泊まるなら、富士屋ホテルのスイートくらい泊まりたいけど、スイート泊まるほどのお金がない」ちなみに富士屋ホテルのスイート「菊」に二人で泊まって30万。都心の有名ホテルスイートよりは安いけど、非常勤講師の時給に換算すると何時間授業することになるかと思えば、お湯につかる気も萎える。

 たった一晩の宿泊で30万も使うなんて、ほとんど犯罪である、30万あれば、バングラディシュのストリートチルドレンが100人学校にいけるぞ、なんぞとつぶやきながら、今回、富士屋ホテルは見学だけ。その計算で行けば、区民保養所だってストリートチルドレンの学費ひとりや二人分にはなるんですけれど、そこはオミット。庶民なんてそーいうもんです。

 第一日、25日昼ご飯前に宮ノ下富士屋ホテルへ。1891(明治24)年に建った本館、1906(明治39)年に建った西洋館など、登録有形文化財に指定されている建物の外観だけでも見ておこうと寄ったのです。泊まりはしないけど、玄関前で写真撮りました。

 「宿泊客でもないのに写真撮るなんて恥ずかしい」という気もありますが、ホテルって、宿泊していない場合でも、ロビーを待ち合わせ場所として利用したり、散歩の途中の休憩地点として利用できるのがいい所と思っています。宿泊しない客、お金をおとさない人にも居心地のよさを感じさせてこそ、ホテルのホスピタリティです。ホテルのクォリティというのは、この居心地よさをどう発揮するか、という点にある、というのが私のホテル評価基準。って、これは石ノ森章太郎の漫画『ホテル』を読んで思ったことであって、あちこちのホテルを泊まり歩いての評価ってことじゃありません。私のホテル利用は、もっぱら散歩途中の休憩か、ロビーでの待ち合わせ。

 富士屋ホテルのフロントでは、パトリックさんが流暢な日本語でホテル前のバス停から出るバスについて私の質問に答えてくれました。
 客商売の基本だから、ホテルの従業員教育はきちんとしたところが多いけれど、どんな丁寧な応対をされても、あ、今、このホテルマンは客の値踏みをして、「この客、金ないなあ」と思われた、と僻むのが私の貧乏性。つーか、お金持ちは路線バスなんかに乗らないのだろう。ヒガむくらいならホテル見物しようなんて思わなけりゃいいのに、物見高いのもやめられない。近代建築を見て歩くのが趣味のひとつです。
 富士屋ホテルの建物写真リンク
http://maskweb.jp/b_fujiyamain_1_1.html

<つづく>
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2010年08月31日


ぽかぽか春庭「大涌谷と芦ノ湖」
2010/08/31
ぽかぽか春庭十人十色日記>夏のおでかけリポート(8)大涌谷と芦ノ湖

 26日は、10時に区民保養所をチェックアウトして、ロープウエイで大涌谷へ。硫黄の匂うなか、黒いゆで卵を作っているところを見たり、地面から煙が吹き出しているのを見たり。もとは地獄谷という地名だったのに、明治天皇を迎えるのに「地獄」では恐れ多いと「大涌谷」に改名したのだという説明が書いてありました。へぇ!そうだったんだ。

 芦ノ湖では黒い海賊船で遊覧。娘は「私は青いのに乗りたかった」と言っていましたが、特別船室にゆったり座れて湖の眺めもよかったので満足。息子は、おばあちゃんのおしゃべり相手をしながらまったりすごしていました。残念ながら、山沿いに雲が多くて芦ノ湖から富士山は見えず。九頭龍神社の鳥居が水の中に建っているのが、湖畔の緑に映えてきれいでした。

 船を下りて、復元された箱根関所の建物と関所資料館を見物。歴史大好きの息子はとても興味深そうにゆっくり回って、古地図複製をおみやげに買っていました。私は建築に興味があるので、復元建築のビデオを見ていました。チョウナで削った柱とか、数本の木材を組み合わせて柱を立てて行くようすとか、復元作業が記録されていました。これまでも唐招提寺解体再建の模様や、奈良大極殿復元の記録などをテレビで見て、建築技術の継承に興味がわきました。箱根関所の復元にも石工、板葺き屋根、渋墨塗という塗装の方法まで、さまざまな古来の技術伝承が生かされていました。屋根は栩葺(とちぶき)で、竹釘で打ち付けていきます。渋墨塗というのは、柿渋と煤を混ぜたもので板壁を塗装すること。
 箱根関所復元工事の記録
http://www.hakonesekisyo.jp/db/data_inc/inc_frame/fr_data_04.html

 姑が疲れてしまったようなので、お世話係に息子と娘を残して休憩タイムをとってもらい、私は一人で旧街道の箱根杉並木へ行きました。杉並木の一部分が保存されているのです。夏の日盛りでも、うっそうとした並木道はそれほど暑さを感じません。前後に誰もいないのを見計らって、♪箱根の山は天下の険♪を唄いました。
 ♪昼なお暗き杉野並木 ヨーチョーのショーケイわ、こーけーなめらか。いっぷかんにあーたるや、ばんぷもひらくなし♪これで今回の旅の目標達成です。

 若い男性外国人観光客二人連れがかわりばんこに写真をとっているのを見つけて、「二人をいっしょに写してあげるから、次に私を撮って」と頼みました。なかなかイケメンの二人連れなので、いろいろ話して見たかったのですが、姑を待たせているので、すぐにバイバイしました。
 
 歌詞を調べてみて、「箱根八里」作詞者が鳥居忱(とりいまこと1855~1917)という人だと初めて知りました。この歌を習ったころの音楽のテストに「箱根八里、荒城の月などの作曲者は誰か」なんぞの出題があって滝廉太郎の名は覚えましたが、作詞者についてはテストにも出ず気にも止めていなかった。音楽の時間、歌詞の意味がわからないまま歌っていたのだし。皆さん、♪ヨーチョーノショーケイワーとかって、意味わかってました?

 歌詞、♪前に聳えしりえにさそう♪は「後えに誘う」だと思い込んでいましたが、「後えに支う」だったってのも、ようやくわかりました。♪いっぷかんにあーたるや、ばんぷもひらくなし♪は、「ひとりの武士が関所を守れば、万人といえど、この関を開いて通れはしない」という意味なんだって。知らなかった。
 杉並木近くの恩賜箱根公園の駐車場に箱根八里の歌碑があります。
=========
箱根の山は 天下の険
函谷関(かんこくかん)も 物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳え(そびえ) 後に(しりえに)支う(さそう)
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼なお暗き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は 苔(こけ)滑らか
一夫関(いっぷかん)に当るや 万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する 剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に 足駄(あしだ)がけ
八里の岩ね踏み鳴す(ならす)
斯く(かく)こそありしか 往時(おうじ)の武士(もののふ)
========
 芦ノ湖からも強羅からも見えなかった富士山。小田原も過ぎたあたりで、帰りのロマンスカーの中から、夕日を背負うシルエットの富士をようやく見ることができました。
 箱根旅行、楽しかったです。娘息子も「また行こう」と言ってくれるので、次はどこにしようかと思案中、、、、ええ、家族ダンラン、(without亭主、姑つき)です。

<おわり>
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春庭の秋のおでかけ日記2010年9月10月

2010-10-10 06:31:00 | 日記
2010/09/20
ぽかぽか春庭十人十色日記>2010年9月(1)9月の日曜日

 第三日曜日。敬老の日が移動祝祭日第3月曜日となって今年は9月20日だというので、19日に娘と敬老の日祝いに姑のもとへ顔をだしました。
 息子からは、夏に出かけた箱根旅行の写真をプリントして、撮影地などをパソコンで書き加えた画像を付け加えたアルバムをプレゼント。娘からは、手作りフォトフレームに大涌谷で撮った写真を入れてプレゼント。私からはいつもの祝金熨斗袋。

 姑は「この夏暑くて身体が弱ったせいか、目が弱くなって新聞が読みにくいし、耳が遠くなったので、人の話が聞きにくい。でも補聴器は嫌いだから使いたくないし」と、愚痴をこぼしながら、お茶をいれたり最近お気に入りの「特製焼き芋鍋」で焼き芋を作ってくれたり、娘が「おばあちゃんが作ったのが一番おいしい」と言う煮物をテーブルに並べたりしてくれました。

 姑は、舅の残した油絵などをしまってある押し入れから、息子(我が法律上の夫)がまだ自慢の息子だった小学生のころのお習字を引っ張り出して、「これ、書き初め大会で金賞になったのよ」と見せてくれました。おっと、私にとってはダメ夫だとしても、姑にとっては、今でも自慢の息子なのかも。

 スケッチや油絵が趣味だった舅の趣味に合わせようかと、姑がひととき練習に通ったデッサン教室で描いた石こう像の習作などもとってあって、「あら、私の名前が書いてある。じゃ、これは私が描いたのねぇ」と、すっかり忘れていた自分の絵を見て「先生がだいぶ手を入れたので、ほとんど先生の作品」と、そっけないのだけれど、ちゃんとしまってあったということは、描いた当時は「記念の作品」だったのでしょう。

 地区の自治会が配ったという敬老祝いのカステラを「私は医者に甘い物は控えるように言われているから、持って帰って食べて」と、姑から渡され、もらって帰りました。健康のためなら何でもする姑に比べて、甘い物もビールも節制できない私、反省しながらカステラをたくさんいだたきました。

 1週間前の第二日曜日。9月12日は、ジャズダンスサークルの日頃の活動をお披露目する、年に一度の発表会。文化センターを利用するグループとして「文化センター祭」に参加しました。

 春庭の所属するダンスサークル、働く女性や退職女性が集まって自主サークルを立ち上げました。区の社会教育団体に登録して、週に一度身体をほぐしています。ストレッチ、ヨガなどで身体を柔軟にして筋肉を強くする。腰痛に効く動きとか、二の腕の筋肉を引き締める動きなども先生におそわっていますが、「毎日練習しなさい」という先生の申しつけにはなかなか従えず、週に一度の文化センターでの練習がせいいっぱい。仕事が忙しくて練習を休んだりすると、翌週はなんとなく全身の動きが鈍くなるような気がします。ちょっとは家でも身体を動かせるようならいいのですが、なかなか一人で練習というのは難しい。へたくそ仲間が集まって、わいわい言い合いながら身体を動かす機会がもてること、貴重だと思っています。

 退職してから運動不足を自覚した旧友のK子さん、この4月からサークルに参加し、身体ほぐしを始めました。今回の発表会でいちばん嬉しかったことは、K子さんがセンター祭のためにサークルスタッフとして活躍してくれたこと。そして、最初は「今回はスタッフだけで出演はしない」と言っていたのだけれど最後は「夢見るプラネット」の曲で、みんなといっしょにウエーブをしたりダンスにも参加し、楽しくフィナーレを盛り上げたこと。

 1970年代には演劇公演をいっしょに見にいったり、田舎のわが家に遊びに来てくれたりして仲良くしていましたが、80年代90年代、互いに仕事も忙しくて、K子さんの転勤先の雪国へも南国へも、遊びに行きたいと願うだけでなかなか訪問することもできませんでした。今ふたたび毎週いっしょに活動できることが嬉しいです。なんだかんだで40年のおつきあいになります。

 春庭は、グレンミラーのジャズスタンダード「イン・ザ・ムード」とインド映画ダンスナンバー「ララドゥム」を踊ったほか、「ちょこっとストレッチ」というコーナーを担当しました。ダンサーの着替えの間の時間稼ぎに「観客のためのイスに座ったままできるストレッチ」の紹介実演です。

 2週間前の第一日曜日は誕生日でした。1~3日、6~8日と6日間の集中授業の中間地点ということだったし、暑いさなかでお出かけもせず、じっと家にこもってすごした一日でしたが、一病息災の日々を大切にしていこうと確認しつつ、静かに自分の年齢をかみしめました。

<おわり>
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