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桜さくらサクラ2008年4月

2011-03-09 07:04:00 | 日記
2008/04/05
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧>桜サクラ散歩・目の至福(1)桜さくらサクラ2008
 
 4月1日2日の「アート散歩」、テーマは「桜」
 桜と美術を求めて一日、歩きました。疲れたけれど、桜、堪能しました。

 4月1日の散歩
1)半蔵門前から半蔵堀に沿って、千鳥が渕公園を歩いて花見。
2)山種美術館で「桜さくらサクラ2008」展鑑賞。
3)代官山通りの土手上を歩いて、首都高越しに千鳥が渕の桜を見る
4)近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)「花と工芸展」鑑賞
5)北の丸公園南側、北桔橋門(きたはねばしもん)の向かい側の紅しだれ桜を見る
6)近代美術館常設展鑑賞
7)日本橋高島屋で中山忠良展鑑賞
8)日本橋三越で春の院展鑑賞

というハードスケジュールをこなして歩き回りました。
5時の閉館時間ぎりぎりで見た近代美術館、「閉館です」と言われて、あせってエレベーター前まで走ったら、「急がなくて結構です」と、笑われた。ほんとによく歩いた一日でした。

1)千鳥が渕公園の桜(千鳥が渕公園と千鳥が渕緑道は別。混みこみになるのは緑道のほう)
http://www.ne.jp/asahi/web/oki/hana/chidori_0104.html (私が撮影した写真をUPする方法がわからないので、ひとさまの写真をリンク 2007/03/30撮影されたもの)
 
2)山種美術館「桜さくらサクラ2008」展
 http://www.yamatane-museum.or.jp/exh_current.html

 千鳥が渕公園、千鳥が渕緑道の桜も見事な満開でしたが、石田武の「千鳥が渕」もお堀の水に映える満開の枝の美しさをよく描き出していました。

 吉野の桜、京都都の桜、それぞれに美しい。描かれた夜桜も、速水御舟、加山又造、千住博、画家の個性がよく出ていて、このような夜桜の前にひとりで立ったら、きっと桜の精に会えるだろうと思いました。

3)代官山通土手から見える桜。
 満開の桜が、千鳥が渕に枝を垂らしています。緑道側と北の丸公園側の両側から競うように寄り合う桜。お堀に映える美しさは、なんとも言えません。

 千鳥が渕緑道は、押すなおすなのラッシュ。そんなときでも、首都高を隔てた代官山通りは、人も少なくて、ゆったり花を見ることができます。東京の桜のなかでも、私のとっておきスポット。

 ことに、桜を手前に、旧近衛師団本部(現・近代美術館工芸館)のレンがの建物を背景にした写真スポットは、大のお気に入りです。

 でも「知る人ぞ知る」ですから、知ってる人は写真取りに来ていて、「ちょっとぉ、おっちゃん、そこ、私のお気に入りスポットなんですから、早くどいてよ」と、心の中で念じつつ、おっちゃんが私の撮影ポイントからどくまで、しらぬふりで桜を眺めていました。

 やっとおっちゃんがどいたので、私もデジカメでパチリ。うん、傑作です。
 って、いつから「私の撮影ポイント」と、自分のものであるかのごとく、、、、
 
 近代工芸館のレンガ建物は、以下のURLにhttp://www.momat.go.jp/CG/introduction.html

本日の徘徊俳諧
花ぞ知るや竹橋師団の反乱史

<つづく>
03:29 コメント(9) 編集 ページのトップへ
2008年04月06日


ぽかぽか春庭「花と人形」
2008/04/06
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧>桜さくら散歩・目の至福(2)花と人形

4月1日の散歩つづき

5)近代美術館工芸館「花と人形」展
 花をモチーフにした工芸作品、第一室には、染めと織りの着物。 
 私は、志村ふくみさんの紬、「梅の段」に心ひかれました。むかし、「いつか志村さんの着物を一枚でいいから手に入れて、着てみたい」と、日記に書いたことがあったのだけれど、とてもとても、買えるはずがない。こうやって、美術館で見ているだけでも満足です。
 芹沢介(せりざわけいすけ)の紅型風の型絵染も美しかった。

 また、私は、人形作品が好きです。堀柳女、鹿児島寿藏、四谷シモンの作品、どの人形も作者の個性を強く発揮して、存在感たっぷり。

 四谷シモンの『解剖学の少年』
 医療標本のようでいて、独自の世界観を示す。「球体間接人形」の傑作と思う。
http://www.simon-yotsuya.net/oeuvre/galerie07.htm

 浜いさをの『箱の男』も、よかったし、吉田良の『すぐり』も妖しい美しさが何とも言えない。

6)近代美術館常設展
 常設展といっても、年に何回か出品展示の入れ替えがあるので、来るたびに違う作品に会えるし、何度見てもいい「なじみの作品」も多い。
 今回は萬鉄五郎が、一室に特集されていました。 

7)中山忠彦展・日本橋タカシマヤ8階ギャラリー
 この人の作品を初めて見ました。
 中山さんは、1965年に良江夫人と結婚して以来、一貫して良江さんをモデルとし、アンティークのヨーロッパドレスとアクセサリーを身につけた夫人像」を繰り返し描き続けました。
 衣裳やアクセサリーの美しさ、そして永遠の若さと美貌に輝く良江夫人。

 モデルが着た衣裳やアクセサリーの一部も展示されていました。
 中山画伯は、若くて貧しい画家だった頃、イミテーションの真珠をつけたモデルを描いたところ、ニセモノのパールだと画商に見抜かれ、それ以来、本物のアンティークアクセサリーや衣裳を収集してきました。今ではアトリエ地下に300点が保存され、アンティーク衣裳コレクションでは、日本有数だそうです。

 これらの衣裳をつけた良江夫人、どのキャンバスの中でも非常に美しい。
 と、奥さんの美しさ若さに見とれていたのですが、制作風景をうつした写真パネルによると、奥さんは1965年から2008年までの40年以上の年月、少しも年をとらずにいたわけではなく、ちゃんと「老けてきている」のです。
 でも、中山画伯の筆にかかれば、良江夫人は永遠の美を保っている。
 幸せなご夫婦ですね。

 今回の展覧会のポスターではありませんが、作品がよくわかるのでリンク
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/bunka/bunkajinten/nakayama.htm
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/bunka/bunkajinten/nakayama.htm

8)春の院展
 日本橋三越の「春の院展」
 この前見たときも同じことを思ったのですが、300点以上並んだ日本画、「同人」とか「無鑑査」とかいう札を下げたエラソーな作品と、「初入選」の札を下げてある作品、どこがどう違うと、落選になったり、無鑑査になったりするのか、素人の私にはさっぱりわかりません。

 どの絵も、よいように見えるのです。そして、どの絵も、「これ一枚」と心惹かれるようなものには出会わなかった。どれも高い水準を保っている絵であり、どれも同じように見えた。たくさん並びすぎているせいかしら。

本日の徘徊俳諧
(平田郷陽制作の人形を見て)
「桜梅の少将」の舞う青海波(せいがいは)

4月1日のコース
地下鉄半蔵門駅11:00→千鳥が渕公園11:10~11:40→山種美術館11:40~12:40→トニーローマ三番町店ランチ1050円12:40~1:40→代官山通り1:50~2:20→近代美術館工芸館2:20~3:20→徒歩→近代美術館常設展3:30~5:00→地下鉄竹橋~日本橋5:10~5:25→高島屋(中山忠彦展)5:30~6:45→徒歩5分→日本橋三越(院展)6:50~8:00

<つづく>
20:06 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年04月07日


ぽかぽか春庭「花と富士見櫓」
2008/04/07
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧>桜さくら散歩・目の至福(3)花と富士見櫓

4月2日の散歩
1)三の丸尚蔵舘
2)皇居東御苑散歩

 三の丸尚蔵舘の展示は「富士」だったので、一回り富士の絵を鑑賞。
 花見時なので、いつもは人が少ない尚蔵舘も見学者が多い。 私は花時ではなくてもいつでも見に来ることができるのだから、花が終わってからまたくればいいや、と、じっくりと見ることはしないで、出る。
 尚蔵舘も東御苑も、入場無料です。

 私が美術館で絵をみるときは、さっと一回りしてから、気に入った一点の前で時間をとる、という見方。
 だから、気に入った絵があれば、長く館内に居るし、気に入った作品がなければ、さっと回っただけでおしまい。

 西洋美術館や近代美術館などの常設展では、見たいと心に決めた1点だけを見て出てくることもある。
 電車や地下鉄で2,30分で上野や竹橋に着くので、1時間でもちょっと時間があると美術館によって気軽に絵を楽しめる。

 キャンパスメンバーズ制度の利用大学が広がり、無料で入れる美術館が増えてきたおかげでもある。
 キャンパスメンバーズ制度というのは、大学が美術館と年間契約して、学生や職員のIDカード提示で、無料で博物館美術館を利用できる制度。

 東御苑散歩、富士見櫓へ行って、「桜と櫓」の写真を撮影。
 同じポイントからとっていた外国人に、シャッターをたのみ、一枚私の姿も写しておきました。あなたのもとろうか、とたずねたら、「いや、私のはいい」と、花の撮影に熱中。

 静かな「花見散歩」を求めて、皇居東御苑を歩きました。いつもなら平日はほとんど人もいない広い東御苑、今日はさすがに人がいますが、散歩花見の人々もここでは静かです。
 桜の木の数はそれほど多くないかわりに、よそよりはゆったり歩ける。

 東御苑の中は、桜だけでなく、さまざまな花が次々に楽しめます。
 宮内庁のHPより
http://www.kunaicho.go.jp/hanadayori/syasin.html

 東御苑の「武蔵野雑木林復元」のなか、植物を愛した昭和天皇の「ご発意」により、この雑木林が整備された、と、説明書きがある。

 きっと他の「武蔵野の自然を残そう」なんていう運動をしているグループが、「皇居東御苑の一角に雑木林を」と、運動しても雑木林はできあがらなかったろうから、昭和天皇の一言は、大いに役立ちました。
 武蔵野雑木林の中には、スミレの群落がありました。たちつぼすみれ。日本在来種です。

 今上天皇は魚類研究をしています。昨2007年、「第27回全国豊かな海づくり大会」で、天皇は「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰った」と、琵琶湖でブルーギルが繁殖し、固有種の魚類が激減したことに心を痛めている、という発言がありました。

 天皇の発言は必ず報道されるから、外来種の安易な移入が招く結果に、人々の関心が高まりました。
 チョウチョもメダカも、強い外来種におされて、在来種はどんどんへっています。絶滅危惧種も。

 ペットとして輸入された鳥が放鳥されて繁殖し、在来の鳥たちを駆逐している地域もあります。
 在来種保護のために活動しているグループ、地道に活動していてもなかなか報道されない。
 家禽鶏の研究者で、山階鳥類研究所の総裁でもある秋篠宮が、鳥の在来種保護についてもっと発言したら、広報効果は大きいかも。

 3月中旬、東大博物館で「鳥のビオソフィア――山階コレクションへの誘い」展をみたとき、「山階コレクション」にたくさんの種類の鶏の剥製があったので、「これって、秋篠宮の守備範囲だよね」と、思ったら、『鳥のビオソフィア 東京大学総合研究博物館2008 写真家上田義彦のマニエリスム博物誌 』という本の編集者は「秋篠宮文仁」。
 秋篠宮が東大博物館の特任研究員に就任されたことをきっかけとする「鳥の展覧会」でした。

本日の徘徊ミソヒト
木漏れ日の武蔵野林の菫草「なにやらゆかし」明日も歩かむ

<つづく>
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2008年04月08日


ぽかぽか春庭「桜・菫・蒲公英」
2008/04/08
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧>桜さくら散歩・目の至福(3)桜・菫・蒲公英

 桜散歩、上野も、外堀公園(四谷~飯田橋)も、千鳥が渕公園も人が多いのは、仕方がない。ふだんは散歩しない人も、桜の時期だけは、みな花を求めて歩く。

 見事な桜並木に、ワァーと歓声をあげ、デジカメやケータイで写真をとっている。
 美しい自然を喜ぶと同時に、この美しい景観や自然を守っていくことに関心を向けてくれたらいいのになあと思います。

 皇居和田倉門前に、黄色いたんぽぽがたくさん咲いていました。おや、日本たんぽぽです。
 都内、他の地域で咲いているタンポポ、ほとんどが西洋たんぽぽです。空気の汚れ雨の汚れにも強く、大ぶりの花が咲く。花の下のガクが外側にめくれているのが多い。
 日本たんぽぽの花はそれほど大きくなく、素朴な感じ。ガクがめくれていないのが多い。

 私が都内や東京近郊で見かけた「日本タンポポ」は、もうあまり多くはありません。小石川植物園の中、千葉大学校内、そしてこの皇居周縁。

 たまに道ばたや土手で咲く日本タンポポを発見すると、「おう、がんばってくれや」と、声をかけたくなります。

  3月28日は、鶯谷駅を降りて、科学博物館裏から西洋美術館へ。上野のにぎわいと違って、静かに眺める寛永寺境内の桜もいいものです。
 西洋美術館常設展をみてから、もう一度上野公園の桜並木の下を歩きました。
 
 日に照り映える桜、曇り空の桜、雨に濡れる桜、何度見ても飽きません。
 3月29日は、外堀公園を四谷から飯田橋まで歩きました。30日は文京区播磨坂のさくらまつりの中を歩きました。

 「桜狂い」のように、都内の桜を見続けました。去年は、桜が咲く前に中国へ出発して、日本の桜を見ることができなかったせいかもしれません。
 今年は去年の分も取り戻すくらい、たっぷり桜を楽しみました。

 東京、23区のうち、荒川区、北区、墨田区、台東区、千代田区、豊島区が、「区の木」を桜にしています。
 それぞれ、荒川土手、飛鳥山、隅田川土手、上野公園、千鳥が淵、ソメイヨシノ発祥地など、桜の名所がある区なので、なるほどと思います。
 
 4月6日。東京の桜は散ってしまったけれど、故郷でもう一度桜満開を楽しめました。
 ふるさとの町、川の土手、学校校庭や菩提寺境内のしだれ桜など、どこも見事な桜が堪能できました。

本日の徘徊俳諧&ミソヒト
和田倉門たんぽぽの黄もひそやかに
亡き母の好める乙女椿咲く故郷の家ふるさとの庭

<おわり>


2008/04/09
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>桜さくら音の至福(1)弦楽四重奏アンダンテカンタービレ

 3月27日木曜日、上野公園へ。
 娘といっしょに上野の桜を楽しみました。

 上野駅公園口を出て東京文化会館の前でチラシをもらいました。
 13時から、「東京都交響楽団メンバーによるティータイムコンサート」があるというお知らせです。

 春庭カフェコラム「いろいろあらーな2005年07月29日」に、東京の無料コンサート情報をいくつかリンクしてあります。
 http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200507#29

 これまで、庭園美術館や岩崎邸でのコンサートを楽しむことができましたが、東京文化会館の無料コンサートは、ほとんどが平日午後なので聞くチャンスがありませんでした。

 Jポップスファンの娘は「クラシック聞いても、好きな曲じゃなかったら寝ちゃうかも。寝たら、演奏している人に悪いでしょう」と言います。
 「のだめカンタービレ」のおかげで、ちょっとはクラシックにも興味をもってきたところだったので、「いっしょに聞こう」と、娘を説得しました。

 「本格的なクラシックファンは無料コンサートにこないの。
 無料コンサートに集まるジジババ&オジオバの半分はクラシック好きで聴いている人たちだけれど、半分は、ヒマだから集まっているだけで、聞いているうちに寝ちゃう人が多いから、眠くなったら寝ちゃってもいいから」
 いっしょに聞くことになりました。

 東京都交響楽団の弦楽パートの4人によるストリング・カルテット。
 第一バイオリンと司会:吉岡真貴子  第二バイオリン:横山和加子
 ビオラ:渡邉信一郎  チェロ:高橋純子

 曲目は
ドヴォルザーク:弦楽四重奏「糸杉」No.11, No.1
チャイコフスキー:弦楽四重奏第一番ニ長調

 チャイコフスキーの弦楽四重奏、第二楽章は有名な「アンダンテ・カンタービレ」です。
 全体を聞いたことのない人でも、アンダンテカンタービレのメロディだけはきいたことがあるんじゃないかしら。何かのCM曲でつかわれたような気がするのですが、何のCMだったか、思い出せません。

 アンダンテは、「歩くようにゆっくりと」という音楽用語(イタリア語から)
 アンダンテ・カンタービレとは「歌うようにゆったりと」の意味です。

 もともとは曲名ではなくて、チャイコフスキーが「歌うようにゆったりと演奏しなさい」という演奏者への指示として書き加えたことばであり、他の楽曲にも「アンダンテカンタービレ」という指示がついた曲は多数あるのに、現在では「アンダンテカンタービレ」といえば、チャイコフスキーのこの第二楽章を指すことになっているほど、有名な曲。

 ボロディンカルテットによる演奏YouTubeより
http://www.youtube.com/watch?v=HYqlTMigfng

 都響の無料コンサート、今後の予定のうち、授業がある日の火・木・金は聞けそうにないけれど、土曜日や夏休み中は聞けるかもしれないから、今後のためのメモ
08/04/08(火)フルート四重奏
08/05/20(火)ヴァイオリン二重奏
08/06/21(土)木管五重奏
08/07/08(火)チェロ二重奏
08/08/12(火)フルートとハープの二重奏
08/09/16(火)未定 

 花見の途中で足をとめたジジババたちは、クラシックコンサートに慣れていない人がほとんどだから、ひとつの楽章が終わるごとに拍手してほほえましかったけれど、そんなクラシック慣れしていない人にとっても、桜のひととき、心に染みる演奏だったと思います。

 クラシックは、「のだめカンタービレ」の漫画やテレビドラマのおかげで、若い人のファンも増えてきたといいますが、まだまだ「中高年愛好の古典音楽」ですから、無料コンサートで足を止めて聞いてみて、好きになったという人が増えればうれしいです。

本日の徘徊俳諧(娘といっしょに、歌うようにゆったりと歩いた花見の思い出)
アンダンテ・カンタービレ娘(こ)の花衣

<つづく>
23:26 コメント(0) 編集 ページのトップへ
2008年04月10日


ぽかぽか春庭「ペールギュント」
2008/04/10
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>桜さくら音の至福(2)文京シビックセンター・楽友協会交響楽団コンサート「ペールギュント」

 何百万円もする国宝級のオーディオ装置というのもあるという。
 でも、私が日頃つかっているような家電量販店バーゲン品のCDラジカセやらでは、生の迫力にまさるような音は望むべくもありません。

 音楽が大好きで、生の音をききたいですが、そうしょっちゅうコンサートに出かける機会はありません。コンサートのチケットが高いからです。

 しかし、有名演奏家、有名オーケストラの音楽ばかりが「よい音」ではない。
 東京に住んでいてよいと思うことは、無料コンサートが都内あちこちであること。
 特に、新人やプロでない演奏家の場合、たいへんすぐれた演奏を、無料や低料金で聴くことができます。

 東京楽友協会交響楽団は、各地にあるアマチュアオーケストラのなかで、屈指の音を誇る老舗アマオケです。
 1969年の創立。長い間活動してきた交響楽団ですが、私が聞くようになったのは、10年ほど前、1997年からです。

 チケットは一人千円という低料金。私は招待券応募でチケットゲット。だから無料。
 「ただで楽しむ東京徘徊俳諧生活」のコンセプトにぴったりのお楽しみです。

 3月30日、まず、茗荷谷駅から播磨坂へ。文京区さくら祭りが開かれていて、三列の桜並木が満開です。
 大勢の花見宴会。町内会ボランティアの焼きそばやおでんの店。
 消防音楽隊の演奏もありました。「マイフェアレディ踊り明かそう」などの吹奏楽演奏を聞きながら坂を下り、文京シビックセンターへ。

 友人と待ち合わせて、楽友協会交響楽団第84回定期演奏会を、文京シビックホール大ホールで聞きました。(3月30日14~16時)
 指揮:大友直人(東京文化会館芸術監督・京都市交響楽団桂冠指揮者)
 曲目:イベール:「バッカナール」
    グリーグ:「ペール・ギュント」第1、2組曲
    エルガー:交響曲第1番

 イベールは、日本ではあまりなじみのある作曲家とはいえませんが、彼の作曲したうちの1曲は、今でも国の式典などでは、頻繁に演奏されています。

 ジャック・イベール(Jacques François Antoine Ibert 1890~1962)が作曲した祝典序曲(しゅくてんじょきょくOuverture de Fête )は、演奏会用序曲。
 皇紀2600年奉祝曲の一曲として、1939年に日本からフランス政府を通じて依頼を受け、同年から翌1940年4月にかけて作曲しました。
 
 「バッカナール」とは、酒神バッカスの名にちなむ、大酒のみの大騒ぎのこと。
 強いリズムを刻みながら、酔いの楽しさばかばかしさを、楽しく心浮き立つ曲にしています。
 はじめて聞きましたが、飛び跳ねるようなリズム、力強いメロディ、とても楽しい曲でした。

 「ペールギュント」は、私の時代には、音楽教科書の「名曲鑑賞」の定番でした。
 中学校音楽部で練習したいくつかの曲、「いまでも自然に鼻歌で口ずさんでしまいます。
 朝の気分、オーゼの死、アニトラの踊り、山の魔王の宮殿にて、花嫁の略奪とイングリッドの嘆き、アラビアの踊り、ペール・ギュントの帰郷、ソルヴェイグの歌。

 期待にたがわず、楽友協会の演奏レベルはとても高かったです。私が聞き比べたいくつかのプロ交響楽団の音色に遜色ない、高い演奏技術をもっているし、指揮の大森直人さんもすばらしかった。

「ペールギュント」のYouTubeまとめサイト 
http://pvkiss.com/grieg/peer_gynt2.html

本日の徘徊俳諧
播磨坂 桜飲み干すバッカナール

播磨坂の桜並木(文京区のHPより)
http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_event_sakura.html

<つづく>

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2008年04月11日


ぽかぽか春庭「渋谷ルイードこころね」
2008/04/11
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>音の至福さくら桜(3)渋谷ルイードこころね

 楽友協会の演奏をいっしょに聞いたK子さんは、私が私立大学時代に出会った人の中で、今でも交友が続いている唯一の友人です。
 ドイツ語のクラスが同じで、演劇が趣味ということで仲良しになりました。
 卒業してからも行き来し、私の育った田舎の家に泊まりに来てくれた唯一の友人でもあります。

 K子さんは、趣味の演劇や合唱でもずっと自分のポリシーに合った楽しみかたをつらぬいており、ほんとうにすてきな人生をすごしています。
 貧困の泥田をはいずり回ってきた私から見ると、うらやましい「おひとり様ライフ」

 K子さんは、ぴか一のキャリアウーマン。国家公務員上級職として30余年のキャリアを築いてきた図書館専門職です。ドイツ語クラスメートのなかで、上級職試験に合格したのはK子さんただ一人でした。

 国立大学図書館がカード式からコンピュータ管理に切り替わるいちばんたいへんな時期、K子さんは、各地の大学図書館を転勤しながら、図書館の運営管理に携わってきました。

 閲覧システム構築、障害を持つ人への図書館サービス運営など、重要な仕事を成し遂げてきており、「新しい時代の生涯学習情報の利用」というK子さんの論文では、「女性及び家族に関する情報を中心とした文献情報、調査情報等をデータベース化」について述べています。

 お互いに忙しい日々を過ごして、なかなか直接会う時間がとれませんが、会えばすぐに学生時代にもどっておしゃべりが続きます。

 1970年からのおつきあいですから、出会ってから38年。
 家出をして冒険を重ねたペールギュントさながらに、ふたりとも波瀾万丈の人生をすごしてきました。私より少し年上のK子さんの姿、いつも颯爽としていて、私はその背中を追いかけて目標にしてきました。

 そのK子さんと久しぶりに会ったら「明日3月31日が最後の出勤。あさってから年金生活者」というので、びっくりしてしまいました。
 出会ったときから少しも年をとらず、相変わらず若々しいので、まだまだ定年なんて先のことと思っていましたから。
 そういえば、私だって還暦間近なんですから、クラスメートが停年を迎えても不思議じゃないのだけれど。

 K子さんが「近年はまっているもの」に、おつきあいしました。
 K子さんごひいきのデュオ「こころね」。渋谷ルイードK2でのライブです。
 K子さんも初めて入ったときは、おっかなびっくり若者のなかに混じったというライブハウス、渋谷ルイードK2。

 渋谷駅前からルイードのある桜丘側へ行くところの桜も満開。
 あいにくの雨模様のなか、渋谷の灯りに桜が照らされています。
 花散らしの雨。雨にじっと耐えて咲く桜もすてき。

 私は、演劇鑑賞ではアンダーグラウンド系も多かったので、ビルの地下にある穴ぐらのようなライブハウスでの上演も見てきました。
 でも、音楽はクラシックやエスニックミュージック以外のライブにはほとんど行かないので、音楽のライブハウスに入るのは、この渋谷ルイードK2が初めて。
 うれしはずかし、ライブハウスデビューです。

 「こころね」はボーカルのショウとギターのキヨのデュオ。
 キヨのギターテクニックはすごかったし、ショウの歌も「昨夜のお花見宴会、二日酔いの声」とはトークで言ってましたが、たいへん声量のあるのびやかな声でした。

 昔から「声にほれる」k子さんが、池袋の路上でストリートミュージシャンとしての「」こころね」に、偶然出会いました。路上ライブを何度か偶然に聞くうちにすっかりファンになり、それ以来「おっかけ」をしている、ということでした。
 「ファンのひとりとして支えてあげなければ、消えてしまうかもしれないから、おっかけをして応援している」と、熱い支援をおくる、あさってからの年金生活者K子さん。

 「生活できるような年金額じゃないから、『年金生活者』じゃなくて『年金じゃ生活できない者』、だよね」と、笑っていましたが、ま「乏しい年金額」とは言っても、ワーキングプアのハハのスネをまだ娘息子が囓っている我が家よりは遙かにリッチ。

 K子さん、楽しいひとときをありがとう。
 羽生清もこころねも、ゆったりと楽しんでね。

本日の徘徊俳諧
桜散らし雨に唄えば頬濡れる

<つづく>
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2008年04月12日


ぽかぽか春庭「滝野川会館トロンボーン・フェスティバル
2008/04/12
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>音の至福さくら桜(4)滝野川会館トロンボーン・フェスティバル

 トロンボーンという楽器は、そうメジャーではありません。
 オーケストラや吹奏楽で、片手でU字型の菅(スライド菅)を伸ばしたたり縮めたりしながら演奏する金管楽器。
 形は派手だが、じゃ、トロンボーンソロ曲、好きな曲は何?
 すぐに言えないでしょ?

 ピアノのソリスト、バイオリンのソリストは、ぱっと思い浮かぶ顔もあるし、贔屓の演奏者を何人かあげることができる。でも、トロンボーンソリスト、、、、さあ、誰?
 吹奏楽のなかでも、クラリネットやトランペットは派手なソロ部分があったりするが、トロンボーンが活躍するといえば、ジャズが一番思い当たるかな、という程度。

 私の世代にとっては、クレイジーキャッツの谷啓が演奏していた楽器として出会った人が多いと思います。
 谷啓は、日本トロンボーン協会の名誉会員です。

 そんな地味な楽器、トロンボーンにも、「日本トロンボーン協会」という演奏者教育者の団体があるってことをはじめて知りました。

 3月15日、友人に誘われて、第10回トロンボーン・アカデミー&フェスティバルというイベントの「スペシャルコンサート」後半を聞いた。なぜ後半かというと。
 池袋の会社から、仕事を終えて駆けつけてくる友達を、滝野川会館の入り口で待っているうちに前半は終了していました。「2名様入場可の招待券」を友人がもっていたので、私は入れなかったんです。

 ソリストは、トロンボーン協会副会長の西山健治。
 演奏した曲は、
「ミスティ」E・ガーナー作曲
「I'm gettin' sentimental over you」G・バスマン作曲
「パヴァーヌ」ラベル作曲
「デュークエリントンメドレー」

 トロンボーンが主役の曲の数々、とてもよかった。
 会場の観客は、フェスティバルコンサートや公開レッスンのために集まってきた「全国吹奏楽団、サークルのトロンボーン演奏者」が多いらしく、非常に難しいと思わるテクニックを駆使した見事な演奏に、思わずため息、という聞き入り具合でした。

 私は自分が習ったことのあるピアノやマリンバなら演奏テクニックの上手下手はわかるけれど、トロンボーンについては「演奏、むずかしいんだろうなあ」と思う程度でさっぱり分からない。
 でも、デュークエリントンメドレーはじめ、トロンボーンの表情豊かな音色を楽しめました。

 アンコールの曲は「サーカス・ビー」という曲。
 サーカステントの中をにぎやかに飛び回る蜂を描いた曲だそうで、速いテンポのリズムが心を浮き立たせるような曲。会場は手拍子で応援しました。

 私の席の近くにいた小学生は「浦・常磐小」というネームの入ったトロンボーンケースをかかえていました。
 きっと、さいたま市立常磐小学校の吹奏クラブでトロンボーンを担当しているのでしょう。

 楽器ケースは、浦和市時代からのものを大事に使い続けて、代々吹奏楽クラブ員が引き継いできたのでしょう。
 普段は吹奏楽クラブで演奏している子が、公開レッスンに参加したのでしょうか。
 かって常磐小の近所に住んでいたことがあったので、親しみがわきます。
 しっかり練習して上手になってね。

 滝野川会館の斜め向かいの旧古河庭園。門からのぞく桜は、まだつぼみの3月15日でした。
 つぼみのような小学生トロンボーン坊や、いつかきっと花開く日がくるよ。

本日の徘徊俳諧@
トロンボーン春半月(はんげつ)に吹きながす
金管のスライドする手や春疾風 

<おわり>

2008/04/13
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>さくら桜さんぽ(1)上野公園の考える人

 3月27日、お花見をかねて、久しぶりに娘と上野公園へいきました。
 上野公園では、いろんな催し物が行われていました。
 娘とまず、「西洋美術館ロダンの考える人といっしょに写真をとろう」というイベントに参加。

 「考える人」のブロンズ像の前で考える人のポーズをします。
 西洋美術館協力企業のエプソンの社員さんが写真をとって、パソコンでプリントしてくれます。
 私と娘、ならんで頬に手をあてて「考える」ポーズをとりました。

 プリントされた「ロダンといっしょに考える」の写真、親娘で同じ体型で、私は気に入ったので冷蔵庫に貼りました。

 「ふくよかな」二人連れが、手を頬に当てて考えている。
 どうみてもふたりで考えている中身は、「今夜のおかずは何にしようかな」です。
 食べることが大好きなおねえちゃん。

 娘は4月19日、同級生の結婚式に呼ばれているけれど、今まで持っていたよそ行きの服、着られる服が一枚もなくなってしまいました。
 どの服も「持ち主に相談もしないで縮んでしまった」結果なんですって。

 「それって、服の持ち主が太った、という言い方もできるよね」とつっこんでも、「いいえ、そうじゃないのよ。夜中に妖精さんがやってきて、服を小さくする魔法をかけてしまったようです」というのが、娘による「服が小さくなった」ことの説明。

 「お友達の結婚式までにまだ日にちがあるのだから、ちぢんでしまった服が着られるようにダイエットするって手もあるけれど」とは言ったのですが、ま、ちょっとしたおよばれ着を持っていてもいい年頃かなと思って、「とにかくデザインや色は二の次、このおなかがおさまる服が欲しい」ということになりました。

 上野の「クィーンズサイズ専門店」で、ワンピースとスカートを、私からの誕生日プレゼントということにして買いました。

 着る日までにさらに太ったらせっかく買ったのがムダになるので、およばれの日まで、これ以上「ふくよか」にならないよう気をつけなければ。

 おねえちゃん、誕生日、おめでとう!

 4月生まれはいいよね。桜が咲いて、それだけでもすてきな天からのプレゼント。
 桜さく、さくらサクラ。
 旧暦の4月8日、お釈迦様も誕生会(たんじょうえ)、花祭り。
 現代のお寺では、新暦4月8日に花祭りをするところが多いので、お釈迦様も桜のプレゼントをもらう。

 2歳年上の同窓生お姉さま。K子さん、4月18日、誕生日おめでとうございます。
 5歳年下の妹、モモは4月21日が誕生日。おめでとう。

本日の徘徊俳諧
誕生会(たんじょうえ)小さき幸を数えつつ
花御堂 我娘の小さき歩幅かな

本日の徘徊ミソヒト
考える。ロダンもいっしょに考えて、もいちど考え今夜はトン汁

<つづく>
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2008年04月14日


ぽかぽか春庭「上野動物園」
2008/04/14
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>さくら桜さんぽ(2)上野動物園

 3月27日の花見さんぽつづき。
 娘と東京文化会館の「響」というカフェで「ロースカツパオズ」を食べたあと、上野動物園へ。
 上野動物園の中の桜も9分咲きでした。

 お花見と動物見物の両方を楽しみながら歩きました。
 最初は西園をあるき、5時の閉園時間まで東園でライオンやシロクマを見ていて、終了の「蛍の光」を聞きながら退園。

 娘は、私が弦楽四重奏を聴いていたために、動物を見る時間が少なくなってしまったと、ちょっと不満です。
 「ハハがクラシック聴きたいっていうから、パンダや虎を見る時間がなくなっちゃったじゃないの」

 娘は、私を「ハハ」と呼びます。
 小学生中学生のころは、「お母さん」と呼んでいたけれど、反抗期に「お母さん」と呼びたくなかったのか「マミィ」になり、成人してからは「ハハ」になりました。

 娘は、小学校低学年のころから、弟の保育園おむかえや、子守、料理作りなどを私にかわって勤めることが多く、我が家では小さいママさん、チーママさんでした。
 ヤフーブログに1993年の日記「録画再生日記」を掲載していますが、15年前のチーママさんがあまりにもけなげに子守や料理をしているようす、自分で書いたのを自分で読んで涙がでてきました。

 息子は、小さいころは「チーちゃん」と呼んでいた姉のことを、今は「アネ」と呼んでおり、一度も「おねえちゃん」と呼んでいた時期はないのですけれど、私は娘を「おねえちゃん」と呼びます。末っ子の息子から見たら、「おねえちゃん」なので。

 家族のなかで一番年少の者からみた家族内呼称を、お互いの呼び名にするのが、日本の家族呼び名の基本です。若夫婦が子供が生まれると「パパママ」と互いを呼び合ったりするようになるのも、私が姑を「おばあちゃん」と呼んだりするのも、このルールによっています。

 娘と私、「おねえちゃんとハハ」の花見散歩です。
 上野公園の花の下、青いシートはすでに満杯。夕方の宴会まで場所確保をしている役の社員が、暇そうに座っています。

 人混みが嫌いな娘、花時の上野を訪れるのは、小学校の時以来。
 おばあちゃんといっしょに東京都立美術館で公募展に入選したおじいちゃんの絵を見て、あまりの人出にびっくりしたそうです。子供心に、花見宴会の人々のお酒の臭いや、辺り構わぬ高歌放吟に辟易してしまったのですって。

 娘が辟易した15年前の上野公園に比べると、大きな音が出るマイクやスピーカーを使うのは禁止。熱源を持ち込んでの調理禁止、前夜からの場所取り禁止など、さまざまなルールができあがっており、昔に比べれば大騒ぎしすぎる宴会も、酔って人にからむ人も少なくなったようです。

 娘は動物園も好きだし、「ダーウィンが来た」などの動物番組も好きです。そして、「石になった動物」も好き。化石です。
 化石を堀りに行くのは、もうしばらくいっしょに行っていませんが、恐竜展、何年ぶりかで3人そろって出かけてきました。

 4月9日、娘&息子と幕張メッセで「恐竜展」を見ました。
 恐竜展では、息子と娘、ふたりでミクロラプトルグイがどうだとか、タルボサウルスがこうだとか、楽しそうに会場を回っていました。
http://www.kyoryutairiku.jp/tokyo/index.html

本日の徘徊俳諧&ミソヒト
カピバラは天竺ねずみ、天国のジャングルの川の夢見て寝ている

恐竜の大口千万年を飲む


<つづく>
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ぽかぽか春庭「千葉市動物園・名残の桜」
2008/04/15 
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>さくら桜さんぽ(3)千葉市動物公園・名残の桜と青い鳥

 4月11日、千葉市動物公園を散歩しました。
 ソメイヨシノはほとんど散っていましたが、遅咲きの種類の桜などはまだきれいにさいており、けやきの若緑の美しさとともに、ぽかぽか陽気の中、楽しく歩きました。

 いっしょに歩いたのは、福岡にお住まいのウェブ友チルチルさん。
 チルチルさんと私の、はじめてのオフ会でした。

 チルチルさんの妹さん二人、ヒメッピィさんとグリーンさんもいっしょ。
 仲の良い三人姉妹とわたし、ゆっくり動物と桜を見ながら歩きました。
 グリーンさんだけ7歳若く、あとの3人はほぼいっしょ。

 チルチルさんは、カフェ日記「青い鳥」に、詩とコラムを書いています。
 プロフィールはこちら
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/chiruchiru77/profile

 チルチルさんがとても「おしゃれさん」なことは、これまで「青い鳥」サイトに載せられていた写真画像などで知っていましたが、11日もとてもすてきなブラウスと上着。「すてきね」とほめたら、あとで、妹さんから「これは、『春庭さんに会うための服』って選んだとっておきの服なのよ」と、うちあけ話がありました。

 チルチルさんから、「私を見てどう思った?」と質問がありました。
 そうね、写真で見ておもっていたよりも「かわいい人」、「たのしい人」。
 長い髪を三つ編みにして、にこにこしているチルチルさんは、チルチルミチルが探しにいく「青い鳥」のように、いっしょにいる人の心をハッピーにしてくれます。

 一番若いグリーンさんに、チルチルさんの車椅子をおまかせしました。
 仲良くしていたヘルパーさんが、事務所の都合でチルチルさんの介護ができなくなったあと、気の合いそうなヘルパーさんが見つかるまで妹さんの手助けを受けながら、ひとり暮らしを続けているチルチルさん。ヘルパーさんなしで、がんばっています。
 
 千葉にお住まいのヒメッピィさんは、「姉と妹は福岡で、近くに住んでいるけれど、私は離れているので、姉のためにしてやれることが少なくて」とおっしゃっていましたが、チルチルさんが東京の病院で診察を受けることができるのも、千葉のヒメッピィさんの家に泊まれるという安心感があるからこそ。
 三人姉妹、ほんとうに助け合い思いあっての暮らしと感じられました。

 ヒメッピィさんのお住まいのすぐ近くにある千葉市動物公園は、2006年放送のテレビドラマ「僕の歩く道」でロケに使われていたところです。
 私も子供たちと、草薙剛が演じる自閉症の青年の物語を見ていました。

 草薙演じる「輝明」が飼育係に採用され、周囲の人に障害を理解してもらいながら成長していく連続ドラマ。
 テレビ画面には、毎回この千葉市動物公園の正門や広い園内が映っていました。

 輝明はうそを言うことができません。他のひとのことばを字句どおりに受け止めます。
 ただひたむきに動物園舎を掃除したり、動物の説明をしたり。そんな中で、輝明はどんどん行動範囲をひろげ、心の広場も広げていきます。

 輝明の成長以上に、輝明を囲む人々は、輝明とふれあうことによって、自分を変え、人生をより豊かな気持ちで生きていくことができるようになるのです。

 駐車場から動物園へ上がる長くて急な坂、グリーンさんは、慣れたようすでチルチルさんの車椅子を押して登っていきます。
 坂の上は、こども動物園のエリア。千葉市動物公園随一のアイドル、「立ち上がる風太一家」のコーナーです。

 レッサーパンダは、周囲を警戒したりするときに一瞬立ち上がってまわりを見回す習性をもっています。
 風太は、特に長く立っていられます。30秒くらいたち続けることもできるので、「立ち上がるレッサーパンダ」として新聞テレビに取り上げられ、一躍アイドルになりました。

 風太の立つところは見られませんでした。私やチルチルさんの姿、特に警戒する気にならなかったのでしょう。
 お嫁さんのチィチィと元気に走り回っていました。

 風太とチィチィの子供たち、2006年生まれのお兄ちゃんのユータ、お姉ちゃんの風花。2007年7月生まれの双子、風見(フウミ)風鈴(フウリン)は、隣の別室にいます。

 フウミとフウリンはかわいい双子姉妹。
 チルチルさんとヒメッピィさんともすてきな双子姉妹です。

 ヒメッピィさんお勧めの熱帯コーナーでは、黄色い大きなくちばしのオオハシ、なまけものをみました。また、お猿コーナーでは、千葉市動物園が繁殖をめざしている絶滅危惧種のサルたちもみることができました。

 喫茶コーナーでは、コーヒーとホットケーキをいただきながらおしゃべり。
 チルチルさんの好きなテレビ番組「フレンドパーク」のことを聞いたり、花どろぼうの話を聞いたり。 チルチルさんが日記に書いていた花どろぼうのこと。グリーンさんがチルチルさんの家の庭に植えた花が、2度も引き抜かれてとられてしまったそうです。
 また、ヒメッピィさんと私の共通の趣味はジャズダンスってこともわかりました。

 脳性麻痺やそれに伴う二次障害を持ち、パソコンのキーボードを打つにも、ケータイの小さなボタンを押すにも、ちるちるさんの手はとても不自由です。

 でも、ちるちるさんが「パソコン、楽しい、カフェの人たちと出会えて嬉しい」とにこにこお話するのを聞いて、私の心のなかにも青い鳥が羽ばたくように感じられます。

 ちるちるさん、楽しい散歩をありがとう。
 ヒメッピィさんグリーンさんお世話になりました。
 たのしいひとときをすごして、6月の再会を約束しました。

本日の徘徊俳諧&ミソヒト
幸せを探してちるちるみちる春
りんりんと車いす押すみどりなる欅若葉はさやぎつつ照る
熱帯の光をうつしてオオハシの黄なる嘴「か、呵々」大笑

<つづく>
23:57 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2008年04月16日


ぽかぽか春庭「桜吹雪忌」
2008/04/16 
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>桜さくらさんぽ(4)桜吹雪忌

 4月10日の姉の命日「桜吹雪忌」を前に、4月6日、姉の七回忌法要を行いました。

 お寺へ行く前に、ひとりで、子供の頃お気に入りだった散歩道を歩きました。
 吾妻新橋から吾妻川沿いの桜並木を散歩。

 私が子供のころ、植えられた桜、今では樹齢50年を越え、吾妻川へ枝を伸ばしています。
 花のトンネルの下、昔は、歩く人もいないひっそりした川岸の小道でした。今は整備されてサイクリングロードになっており、ときどき自転車のグループやウォーキンググループが行き交います。

 桜が大好きだった姉。
 三春の滝桜も高遠の桜も見に出かけていた姉をしのんで、しみじみひとり散歩をつづけていると、「オーイ、おばちゃ~ん」と、声がする。
 姉の孫のリューくんが来ました。私がひとりで散歩していると聞いて、「ぼくもいっしょに歩く」と、やってきたのです。

 2002年、6年前の4月、リューくんは、小学校1年生に入学したところでした。
 晴れがましくうれしいはずの小学校入学も、大好きなおばあちゃんが54歳という若さで亡くなってしまい、大きな悲しみの中ですごさねばなりませんでした。
 そのリューくんがもう中学生です。

 「中学では演劇部に入って、音響係りを担当するつもり。劇に合った曲を選んだり、効果音をパソコンでつくったりしてみたい」など、リューくんが中学入学の豊富を話すのをききながら、ゆっくり土手の道を歩きました。 

 姉の眠る菩提寺、裏山のしだれ桜も、9分咲きできれいでした。
 お寺の裏山斜面一面が墓地。父と母と姉が眠る墓は裏山中腹に。
 故郷の町が一望にみわたせます。

 墓参りのあとは、妹・桃の一家、姪・蜜柑の一家と、若子持神社下の蕎麦屋さんへ。
 地元の人が看板もださずにやっている手打ち蕎麦の店です。
 看板もないので、屋号がわかりませんでした。きっと地元の人たちは「○○さんちの蕎麦屋」と呼んでいるのでしょう。

 突き出しに、ふきのとうの甘酢あえ。蕗のとうやお芋の天麩羅、こごみのおひたし。てんぷらや甘酢あえは、「おいしい」と言ったらおかわりもだしてくれて、天麩羅と蕎麦のセット一人前600円。良心的!

 蕎麦おたくにも絶対おすすめ。屋号がわからないので、下記の神社をめあてに歩いて、神社の南側にあるひっそりしたそば屋を探し当ててください。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/gunma/sibukawasi/wakakomochi/wakakomochi.html

 桃の長女・りんごは、お蕎麦を食べる時間もなく「今夜、中野のライブハウスに出演するから」と、バンド仲間の待つ東京へ出発しました。
 桃は、「今年30歳になるのに、いつまでバンドだとかやっているのやら」と嘆いていますが、好きなことがあるなら、納得できるまで続けたらいいさ。

本日の徘徊俳諧
五十路に吹く風よ散らすな遅桜
糸桜 姉妹仲良く老いにけり

<つづく>
05:02 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2008年04月17日


ぽかぽか春庭「千の風の花吹雪」
2008/04/17 
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>桜さくらさんぽ(5)千の風の花吹雪

 亡くなった姉の長女蜜柑は、介護施設で調理などの仕事をしながら4人の子を育てているシングルマザーです。
 蜜柑は4人の子をひきとって離婚してすぐ、母親を失いました。
 美容院経営のママを頼って離婚したのに、美容院も閉鎖し、従妹のりんごや叔母のモモに助けられながらひとりでがんばってきました。

 今ではすっかりママゆずりの肝っ玉おっかあになって、小学校4年生5年生中学校1年生2年生の子豚たちを叱りとばしています。

 私におとらず食べるのが大好きな蜜柑。
 姉が亡くなるまでは食べる専門でしたが、料理好きだった姉を見て育ったので、いつのまにか、とても料理上手になりました。いろいろ工夫しながら、お年寄りの食事を作っているようです。
 美味しいおそばを食べながらも、自分で開発した「簡単でおいしいレシピ」をいろいろ披露していました。

 1月のmixy日記に書いた「姉の誕生日」について
============

「千の風」 2008年01月31日17:59
今日は、姉の誕生日。生きていれば還暦だった。
とても寒い一日だった。

北風がびゅーびゅー吹き付けてきたので、「はいはい、わかったわかった、千の風になってるんだよね。強気、強気」と、姉に答えた。

北風にむかって、還暦~と叫んだので、誕生祝いのことばは、千の風とともに南へ去っていった。

蜜柑からのコメント 2008年01月31日 18:29
そぉだね、今日ゎばぁばの誕生日
昨日、りんごちゃんが花を買ってきてくれました
今から夕飯作ってお供えしときます

りんご 2008年02月01日 15:56
還暦~ なんてさけんだら、おばちゃんに逆ギレされちゃうわよ(笑)
うるさーい!ってね^ロ^;
===============

 料理が上手だった姉に比べ、「食べる方だけ好き」な私ですが、今日も明日も、楽しく美味しく食べ続けます。

 さくら桜のことしの散歩、上野も千鳥が渕も吾妻川土手も、どの花見あるきもたのしく歩きました。

本日の徘徊俳諧
花吹雪千の風なる姉の声

<おわり>

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ギリギリランチ2008年4月

2011-03-02 19:06:00 | 日記
2008/04/18
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>ギリギリランチ(1)愚痴入りお好み焼き

 トロンボーンコンサートに誘ってくれた友人のミサイルママは、ジャズダンス仲間。
 かれこれ20年来のつきあいになります。

 インテリア内装店につとめ、「宮内庁施設の某所のカーテンは、私が見立てたのよ」というインテリアアドバイザーです。記念にもらったカーテンの端切れは、つなぎ合わせて実家のテーブルクロスにしたのだって。

 シングルマザーで長男次男を成人させ、「あとは好きに老後ライフを楽しむぞ!」と言っているミサイルママ、ダンスや山歩き、コンサートなどを楽しんでいます。
 「子供が成人しちゃったら、シングルだと寂しいかと心配したり、ボーイフレンドなしの生活だとつまらないかと思っていたけれど、こんなに楽しい毎日になるとは思わなかった」と、「おひとり様ライフ」を謳歌しています。

 トロンボーンコンサートが終わって、滝野川会館近くの西ヶ原のお好み焼きやで、ミサイルママと2時間おしゃべり。

 ミサイルママの次男くんは、学生時代からコーヒー屋でアルバイトし、バリスタめざしてきました。
 おいしいコーヒーを美しい手際で入れてくれる専門家がバリスタ。茶道の「お茶の宗匠」のコーヒー版がバリスタです。

 バリスタ世界一になった横山千尋のカフェレストラン「バールデルソーレ」などで修行を重ね、2007年は、タリーズコーヒーのバリスタコンテストで、次男君のチームが優勝しました。
 がんばって自分の道を邁進している次男くんの話をきいて、よかったねぇ、と祝いました。

 売れない役者を続けている長男くん、いい役者さんなのですが、ぜんそく持ちなので舞台中心の役者生活が順調には運ばないこともあります。怪我のために降板した舞台もあった。
 現在も体調がよくないという愚痴を聞いて、たいへんねぇ、と言う。

 一昨年見た長男くん出演の舞台で共演していた「未映子」は、今や女優兼業作家・川上未映子として、一躍芥川賞受賞の大活躍。
 「同じ舞台に立ったのに、うちの息子はまだ、、、、」と愚痴をこぼすミサイルママに、「まだまだ、これからよ!舞台という目指すものがあるんだもの、支えていこうよ」と、言う。
 ママにとっては「支えていく」ってことは、「スネ囓られっぱなし」ってことなんだけれどね。

 私は、法事の準備で姑孝行をするのがたいへんだと愚痴をいい、夫の仕事、相変わらず儲からないと愚痴をいう。愚痴ばっかり。でも、しゃべっているうちには、互いに「ま、そのうちなんとかなるでしょ」というところで落ち着いてきます。

 トロンボーンの音色もいいけれど、お好み焼きもおいしい。
 ストレス解消には、愚痴こぼしと食べること!

 「食べ放題」も大好き。
 昭文社発行の『たべミニ 東京ハナマル!食べ放題』という新書サイズの「東京食べ放題店案内」は、夫の会社が校正をしています。ご利用ください。\840
 和洋中華エスニックの店も出ていて、インターナショナル食べ放題の本です。

本日のぎりぎり俳諧
花待ちて東京ハナマル食べ放題

<つづく>
06:09 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2008年04月19日


ぽかぽか春庭「嘆き節・春の卵」
2008/04/19
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>ギリギリランチ(2)嘆き節・春の卵」

 徘徊散歩も音楽も楽しいけれど、ストレス解消には、なんといっても食べることが楽しみな春庭、食べてばかり。

 今週の月曜、4月14日に、中国で教えた学生のひとりに会いました。2007年7月に別れて以来です。
 久しぶりに会った私を見て、彼女はズバリ直球で「先生、太りましたね」と、言いました。まあ、「やせましたね」とは、言われたことのない人生でしたけどね。

 去年の今頃、中国赴任中は、安くておいしい中華料理三昧だったのに比べると、いささかジャンクフード三昧にはなっているものの、高カロリー高脂肪の食べ物でストレス解消をはかる毎日はエスカレートするばかり。

 ストレス解消のために、食べる。当然太る。
 太ることがストレスになる。ストレス解消のためにまた食べる。
 どんなストレスかっていうと、、、、、
 一例をあげるなら。春庭bbs3/3より再録。

haruniwa
 悩みつつ、でも、食べる楽しみが唯一の?楽しみだから、私も、ドカ食いやめられない。
食欲依存症かとおもうくらいだよ。

 3月3日ひなまつりのストレス解消食欲は、

朝ご飯「どんぶりで生卵かけごはんと納豆」

昼:カップヌードル。
おやつ:マカダミアナッツチョコひと箱全部一気食い・醤油あげもち小袋3袋一気食い

夕食:娘が用意した手巻き寿司、うに、いくら、ほたて、サーモン、まぐろ、ネギトロ、卵焼き、これ以上は腹に入らんというまで食べた。

 本日のストレスのもとは、「姑から頼まれた法事招待状の文面を、姑の下書きの意図をずらさない程度に文章をかえる」という文体技術の勘案について。

 姑の機嫌をそこねない程度に文章をかえる、ってとこが難しい。
 なにがそれほど難しいかというと、施主である夫は「ぜったいに法事になんか出席しない」と、だだをこねているので、姑は「施主である長男欠席で法事をやる」って事態になっており、そんなややこしい法事を親戚の手前とりつくろってやらなくちゃなんない。

 私は「長男の妻」なので、それなりに姑孝行をして、「よい嫁」のふりをしなければならない。
 この「よい嫁のふり」ってところがストレスなのよ。私は本来「よい人」じゃないからね。
 底意地が悪い、いやなヤツなの、私。それを隠しながら生きていくのもかなりなストレスよ。(2008-03-04 06:01:50)

本日のギリギリ俳諧
どんぶり飯に春の卵を落としけり

<つづく>
06:15 コメント(6) 編集 ページのトップへ
2008年04月20日


ぽかぽか春庭「25階椿山荘弁当」
2008/04/20
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>ギリギリランチ(3)25階椿山荘弁当

 2002年の3月に舅が亡くなり、4月に姉が亡くなってから6年目になる2008年。
 今年の春休みは、7回忌の法事が続きました。

 36年前、母が亡くなったあと、私はただひたすら母の死が悲しかった。1周忌、3回忌と法事に集まった人たちが、親戚一同の近況報告を始めると、「今日はお母さんを偲ぶために集まったのに、なんで、どこそこの息子が建築科に合格してめでたい、とかって話を聞かせられなきゃならないの!」と、無性に腹が立った。

 今は、法事というのは、要するに、「故人を偲ぶ」という名目で親戚一同が顔寄せすることだと思っています。

 「法事とは、亡き人を偲ぶという名目でいっしょに飲み食いして、一族郎党の絆を確かめるための集まり」と、わかってきたから、舅の法事が、「改築披露を兼ねた食事会」になったのも、よしと思っています。

 舅7回忌を、なぜ「法事」とせずに「個人を偲ぶお食事会」と題してお客を招待することになったかというと。
 夫は「法事とか、結婚式とか、そういう儀式形式はいっさい無視」という「僕の方針」を頑固に主張し、「そこをなんとか妥協して」と、言いくるめようとする姑に従わなかったから。

 「おやじの葬式と一周忌と三回忌までは、妥協した。もう三回忌で十分だと思うので、これ以上は妥協するつもりはない。姪たちの結婚式に招待されても出席しないし、娘の結婚式があったところで出席しない」わがまま坊っちゃんの主張です。

 まあ、これまで子供に関わること、運動会も学芸会も入学式もいっさい関わらないで生きてきた夫なので、娘の結婚式も当然出席しないと思っていましたけれど、父親の法事にも出席しないというので、困りました。

 親戚一同との会食など「形式的な儀礼は、人生のムダ」と考える夫のために、3月20日は、家族だけで墓参して、3月22日に親戚との食事会という二部構成で行うことになりました。
 夫ぬきで、姑と私でなんとか話をまとめて、私が「改築披露兼故人を偲ぶ食事会」の招待状をワープロで作って、姑が宛名書きをしました。

 3月20日、家族だけで墓参したあと、文京シビックセンター24階椿山荘でランチ。
 椿山荘本店のお庭散歩も好きですが、シビックセンターの25階から眺めるのも、なかなか楽しいランチになります。

 ちなみに、椿山荘本店のお庭、ホテルフォーシーズンや結婚式場の利用者だけが散歩できるのかと思いこんでいて、たまにレストランを利用したときだけ庭園散歩を楽しんでいました。

 ところが、この3月、花時はだれでも庭を見てよい、見学自由・無料でお庭開放、ということを知りました。さっそく椿山荘庭園を楽しみました。お庭散歩のご報告は、またのちほど。

 シビックセンター椿山荘。窓際の眺めのいい席に案内されたのだけれど、東京はあいにくの雨もよい。
 東京ドームの白い屋根だけがど~んと目の下に広がっていて、景色は遠くまでは見渡せませんでした。
http://r.gnavi.co.jp/g062903/

 姑と夫が『松花堂弁当』を注文したので、私も右にならえ。\2000。娘はステーキランチ、息子は蕎麦ランチ。
 「よいヨメ」を演じつつ食べました。

 姑はとてもよい人なので、私もよいヨメのふりをしなければならない。ちと苦しい。私はよい人ではないから。
 よいヨメのふりを続けるていくのも、ストレスたまる。

本日のギリギリ俳諧
懐石にやや苦みある嫁菜和え

<つづく>
11:05 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2008年04月21日


ぽかぽか春庭「木曽路の慶弔セット」
2008/04/21
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>ギリギリランチ(4)木曽路の慶弔セット

 私がよい妻でないのは、少しも気にならない。だって、夫は「ショーモない夫」ですから。お互いに相手を「この世で最悪のショーモないヤツ」と思っています。
 お互いショーモないのではありますが、夫に言わせると、「法事にはちゃんと出席しようと思っている程度のマトモでつまらない女と結婚したのは、人生最大の誤算」だって。

 そういう「愚かなマトモ、つまらない社会常識」につきあっているヒマはないんだって。 貧乏ヒマなく仕事仕事で、あげくが「とーさんの会社はトーサンしそう」の毎日です。

 よいヨメ第二弾の、親戚との会食。
 姑の当初の予定では、目黒駅前の雅叙園で、古い建築の見学コースとセットになったのを希望していました。

 ですが、88歳になる姑の姉タケコさんは、足の具合が悪い。雅叙園名物の百段階段なんて、とても昇り降りして見学できない、ということなので、それなら近くの店でいいや、ということになりました。

 若くして戦争未亡人になったタケコさんは、60歳の停年までは小学校教師や中学校音楽教師をつづけ、ひとり息子を育てました。
 退職後、生まれ故郷の山形を出て、今は息子一家と横浜に住んでいます。東京の妹(私の姑)と、しょっちゅう行き来しています。

 83歳の姑と、88歳タケコ伯母は、仲よし老姉妹です。タケコさんは足が悪くなったほかは、シャンとして頭脳明晰、舌鋒も鋭い。

 タケコさんの「自慢の親孝行息子」に比べると、姑の「ショーモナイ息子」は、悩みのタネです。息子の出来では、姑はタケコさんにとてもかないません。
 が、ふたりの自慢し合いっこは「孫自慢」やら、「どちらのヨメがアタリか」につづく。

 私は、「ショーモないダメ嫁」でいたいのに、姑が、タケ伯母さんに張り合って「ヨメ自慢」に参戦できるようにするため、よいヨメを演じなければなりません。ああ、シンド。
 でもねぇ、出来の悪い息子を持ってしまった姑があまりに気の毒だから、せめてヨメは人並みには姑孝行をしなければ。

 タケコさんが「近所の料理屋のほうがいい」と、ひとこと言えば、姑は即、従います。私は雅叙園の百段階段見たかったのだけれど。

 「木曽路」という和食しゃぶしゃぶ屋での食事会。
 メニューは、「慶弔用懐石膳」という法事用のセットだから、見た目重視の和食膳。品数多けりゃ文句ないだろっ式。

 木曽路の慶弔メニュー。
 http://www.kisoji.co.jp/kisoji/keiji.html
 
 「息子のかわりに、施主あいさつをしてね」と、姑に言われて、四方丸くおさまるように挨拶文も作文し、食事の前にご挨拶いたしました。

 3月22日、店までのマイクロバスでの行き帰り、駐車場横のしだれ桜が、枝をしなわせ、ピンクの花をゆらしていました。
 ソメイヨシノも開花し始め、ここで一輪、あちらで数輪と、花を開いていました。
 
 マイクロバスで、姑自慢の改築なった自宅に戻って、せっせとお茶出しに励む嫁。
 なんとか、姑の顔がたつように、法事もすませることができました。
 親戚の前で、「ちょっと見には、よいヨメ」続けて、疲れました。
 ほんとは、私、よい嫁なんかじゃないんだったら。ぐうたらヨメ、していたいのに。

本日のギリギリ俳諧
初さくら遠き顔寄す法事かな
糸桜刺繍のハンカチ姑(はは)の手に

<おわり>
05:38 コメント(9) 編集 ページのトップへ
2008年04月22日


ぽかぽか春庭「桜ティ」
2008/04/22
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>自分にご褒美(1)桜ティ

 いつもは、安上がりな食生活を続けています。質より量。
 でも、仕事が一区切りついたときなど、自分にご褒美でちょっぴり贅沢もしてみます。たまにだから、ま、いいかなと。

 2007年度後期の授業も無事おわり、あとは講師会議をひとつ残すのみ、というときの自分にご褒美ティータイム。2008/03/10の外食記録。

朝10:00  於:家
バナナ2本 コーヒー

 昼ご飯、サンシャインビルの「多国籍料理食べ放題」という店に行こうということになり、朝ご飯はバナナだけ。

 最初は買い物。池袋ビックカメラのとなりに山田電気が大店舗を構えたので、両方の店を行ったり来たりする。
 結局、ビックカメラ東口総合舘へ移動して、娘はワンセグケータイを購入。「いくらくらいするの?」と、聞いてみたら「5万円くらい」というので、私は当分ワンセグなぞ買わん。

 私は、「ウィルスセキュリティゼロを購入」\4980。これまではノートンをつかっていたのだけれど、更新料が高いから、一度買えば更新料なしというゼロに乗り換え。

 前日に予約していた「クルーズクルーズ」に行ってみたら、ワイワイと、大団体の高校生が「食べ放題」の列に並んでいた。予約取り消し。
 こんな大団体を受け入れるなら、同時間帯を予約しようとした客には、「団体といっしょになります」と、その旨告げるのが「まともな店」の経営方針と思うけれど。

昼13:30 於:池袋サンシャインビルアルパ3階伊勢ろく
親子丼750円×3

月曜と火曜のランチは大盛りサービス無料というので、私と娘は大盛りにしました。小食の息子19歳は普通盛り。
地鶏専門店だけあって、美味しい親子丼でした。

おやつ16:00 於:西武百貨店3階紅茶専門店のケンジントン・ティールーム
 ケーキと紅茶セット。1200円。

 いつも出先で飲むコーヒーは、マック\150とか、ベローチェ\180なのだけれど、本日、紅茶専門店で、たまには「自分にご褒美」のティータイムです。

 紅茶はひとりひとりポットで運ばれ、途中差し湯もしてくれるので、2~3杯飲みました。

 私、桜ティーとフルーツババロア。
 娘、グランボアシェリ・バニラティーとフルーツババロア
 息子、アルグレイとチーズケーキ

 私が飲んだ「桜ティ」は、桜の葉を刻んだものと桜の花びらが紅茶の葉に混ぜ込まれています。八重桜の花びらをシロップ漬けにしたものがカップの中に入っていて、お茶をそそぐと花びらがぱっと広がって、桜の香りがしてきました。
 娘に「お味はどう」と、聞かれて、私「うん、桜餅の味」
 どうも、グルメ評論家にはなれそうにない。 

 紅茶専門店ケンジントンティルーム、次は、月に1度行われるイベント、ケーキ食べ放題紅茶のみ放題で1550円という日に来ることにしよう。
 お茶もケーキも、私には微妙な味のちがいは表現できないけれど、量で勝負じゃ。

夜21:00
 娘と息子が先に帰宅した後、私はひとりジュンク堂で本を買い、ジュンク堂前の大江戸という回転寿司へ。
 136円の皿5枚、210円の皿2枚。合計1100円

 さて、上記ジュンク堂での本購入を含めて、「今期いっしょうけんめい働いた自分へのご褒美大散財・新本古本買いまくり。
 購入記録をつけておきます。3月8日~29日に買った本
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/book0506.htm

本日の徘徊ミソヒト
『桜姫』『櫻史』『桜桃』古書彷徨 初版は買えず桜ティ飲む 

<つづく>
06:50 コメント(9) 編集 ページのトップへ
2008年04月23日


ぽかぽか春庭「雛祭プチ贅沢の散財おにぎり」
2008/04/23
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>自分にご褒美(2)雛祭プチ贅沢の散財・半額おにぎり1個\105円

 我が家、私も娘も大食いで、食べることが大好き。
 よく食べるのも事実だけれど、エンゲル係数が高いということは、収入が少ないということ。

 ギリギリ命をつなぐ分だけ稼いで、直結、口にまわる。ろくなもん食べていないんですけど、食費はかさむ。
 生協のものは、安くて品質安全と思って、ほとんどの食料品は生協宅配を利用していたのに、毒ギョーザ騒ぎがあったし。

 安くて品質安全ってのは、貧乏人には無理みたいね。
 お金つかい放題だったら、私だって無農薬手作り野菜とか、抗生物質漬けなんかにしてない健康な餌で育てた地鶏の卵、とか食べたいですよ。
 でも、大根1本500円、卵1個200円って言われると、そう毎日食べる気にはならない。

 散財は1年に1度くらいです。
 一日の食費として、我が家としては大散財したときの記録を、春庭bbsより。

haruniwa
 岡田 斗司夫(おかだ としお )が『いつまでもデブと思うなよ』というダイエット本を出して、1年間に50キロやせたというので、ベストセラーになりました。
 岡田のダイエット方法のひとつとして、一日に食べたものをすべて書き出して記録するという方法があります。

 毎日食べたものを書き続ける根気はないのですが、イベント時の分だけ書いておきます。(一日で、こんなに食費を使うことはめったにないことなので、特別に記録)

2008年3月4日
朝(10:00)家で 牛乳、コーヒー

昼(15:00)ひとりでランチ。
王子駅前のレストラン「White fox」で、ひとりランチ。これは、今期の仕事を終えた自分へのご褒美。

ランチコーヒー¥100
アボガドとサーモンマリネとイクラのせごはん¥850 
梅酒シャーベットとバナナクリーム¥500
珈琲コピルアック¥1400 
合計¥2850

夜(20:30)日本橋三越デパ地下半額セール品を買って、家で娘息子と分け合って食べた。閉店前の割引セール半額セールって好きよ。

横山町まぐろ寿司専門店・四季魚処 \1890→¥1200
笹巻き寿司本舗扇・松花堂弁当 \1680→¥1050
サーモンはらみおにぎりとろろ昆布巻き2個セット \420→¥210
合計¥3460÷3=¥1153
===============

 以上の寿司とおにぎりと松花堂弁当を3人でわけて、おかずは、娘が料理した玉葱とカルビ肉のいためもの。娘は、「お寿司買ってくるなら、電話してよ。カルビ炒めじゃ、おかずが合わないでしょ」と文句を言う。
 デザートは生協の冷凍モンブランを解凍して食べた。

 一人前にすれば千円ちょっとの半額セール品を買って「大散財」というなんて、涙がこぼれまするるるる、、、

本日の徘徊俳諧
デパ地下の半額セールの菜飯食う

<つづく>
00:43 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年04月24日


ぽかぽか春庭「ホワイトフォックスのコピ・ルアック」
2008/04/24
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>自分にご褒美(3)ホワイトフォックスのコピルアック

 3月4日、レストラン・ホワイトフォックスの食事の中で、いちばん高かったのは、コーヒーのコピルアック1杯1400円。
 コピ・ルアックは、インドネシア産の稀少豆のコーヒーです。話のタネに飲んでみた。がんばって仕事をした自分へのご褒美ってやつです。

 ルアックとは、インドネシアに住む動物ジャコウネコの一種。ジャコウネコの英名は、 Civetシベット。
 シベットは、元来ジャコウネコの分泌物から取れる香料のことをさします。

 麝香(じゃこう、ジャコウジカから採取される香料)に似た香りをもっており、マリリンモンロー愛好の香水であった「シャネルNo.5」にも、ルアックシベットがブレンドされています。 

 中国漢方では、ルアック(ジャコウネコ)のお香シベットは、霊猫香(れいびょうこう)と呼ばれました。脳を覚醒させ、気力を高める作用があるとされており、また、古来より制汗剤や媚薬としても珍重されてきました。

 インドネシアジャングルに住むルアックがコーヒー果実を食べ、核のコーヒー豆は消化されずに糞とともに排泄される。その豆がコピ・ルアックの豆です。
 ルアックの腸を通過して、半ば発酵した状態になっているそうで、独特の香りがつきます。ルアックの分泌物が香料になるくらいだから、体内の香りが強いのでしょう。

 インドネシアの森林開発が進み、野生のルアックが激減した今では、コピルアックの豆は稀少で、100グラムで¥5000。
 現在、世界でもっとも貴重なコーヒー豆として、高値で取り引きされています。
 ひとり分のコーヒーをいれるのに、豆15グラム使うとして、1杯¥1400もしかたがないかなと思ったのでした。

 まあ、話のタネとして日記に書いておこう。
 2008年03月04日、私は「コピ・ルアック」をはじめて飲みました!! (2008-03-04 23:52:50)

 でもね。ふだん、コーヒーのみながら、人や乗り物を待ち合わせるのには、ドトールの1杯¥200、ベローチェ\170でも十分だと思ってしまうほうです。

 これから先、自腹ではコピルアック、飲むことないと思うけれど、「お茶でも飲みませんか」と、だれかが誘ってくれたら、私は「じゃ、コーヒー、遠慮なくごちそうになります」と言って、「コピ・ルアック」と、注文するからね。
 お茶、さそって!

 コピ・ルアックを初めて飲んだ店「white fox」は、こんな店。
http://www.thewhitefox.jp/

本日の徘徊ミソヒト
麝香猫(シベット)が生み出す香りのコピルアック南の島の森奥神秘

 たぶん熱帯の森の奥深~い神秘テキな味なんだろうと思う。味音痴でようわからん。

 マクドナルドの¥150円のコーヒーとどちらがうまいかといわれれば、コピ・ルアックなのだろうが、じゃ、¥150の10倍うまいかといわれるとビミョー。

<つづく>
06:34 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2008年04月25日


ぽかぽか春庭「かもめ食堂のコピ・ルアック」
2008/04/25
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>自分にご褒美(4)かもめ食堂のコピルアック

 なぜ、コピルアックを飲んでみようと思ったかというと、映画『かもめ食堂』を見たとき、小林聡美が、コーヒーをおいしくするおまじないとして、コーヒー豆に「コピルアック」と言っていたからです。

 コーヒー豆。高いのも安いのもあります。
 でも、どんな安豆でも、「あんたはコピルアックなんだよ。コピルアックと同じくらい美味しいコーヒーを引き出せる素質をもっているんだよ」と、言ってきかせてやると「うん、ぼくって、安モカや安ジャマイカじゃなくて、正調インドネシア産コピルアックだったのかもしれない」と発憤して、美味しくなるんですって。

 映画『かもめ食堂』で「おまじない」になっている「コピ・ルアック」。
 映画を見て以来、世界一貴重だというコピ・ルアック豆をつかったコーヒー、どんな味かと思ってきて、やっと飲めました。味は、、、、、まあ、、、、、、普通。

 コピルアックをいれてくれたサブシェフさん、きっと「あんたは本物のコピルアックなんだからね、コピルアック!」と、おまじないをかけるのを忘れてしまったので、コピルアックは、自分がコピルアックだということを忘れてしまったのかも知れません。

 『かもめ食堂』(荻上直子監督作品)。
 サチエ(小林聡美)はフィンランドで食堂を経営しています。ヘルシンキの町の片隅にある食堂を居抜きで買い、おにぎり屋をはじめました。

 旅行者としてやってきたミドリ(片桐はいり)とマサエ(もたいまさこ)、最初は「かもめ食堂」のお客さんでしたが、やがて食堂を手伝うことになりました。
 店主サチエのほか、従業員がふたり増えても、相変わらず、お客さんは日本アニメおたくの青年(ヤルッコ・ニエミ)だけです。

 食堂の元の経営者、オーナーシェフだった男(マッティ)が現れて、コーヒーを美味しくするコツを教えてくれます。
 コーヒー豆に「コピルアック」というおまじないをかけると、どんな豆をつかっていても、たちまちコピルアックと同じくらいおいしいコーヒーに変身するというのです。

 コピルアックのおまじないがきいたのか、閑古鳥が鳴いていたかもめ食堂に、だんだんお客さんが増えていきます。

 とりたてていうほどの事件もおきないストーリーなのに、見おわると、にぎりたてのおにぎりのように、ほっこり優しい気持ちになれる映画でした。

 『かもめ食堂』のスタッフや出演者が、次作を完成しました。『めがね』
 『めがね』は、与論島がロケ地になっています。
 『めがね』も、ほっこり、ぽわわん、「たそがれたい」ときによい映画。


本日の徘徊俳諧
フィンランドかもめ食堂の花菜漬け

<つづく>
07:16 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2008年04月26日


ぽかぽか春庭「『めがね』のかき氷」
2008/04/26
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>自分にご褒美(4)「めがね」のかき氷

 映画『めがね』では、サクラさん(もたいまさこ)は、サクラ便りとともに南の島にやってきて、かき氷を皆に振る舞います。かき氷の代金は、小学生がいっしょうけんめい折った「折り紙」だったり、一夜のマンドリン演奏だったり。

 都会で忙しく暮らしているらしいタエコ(小林聡美)。
 最初は「かき氷苦手なんです」と言っていたけれど、ひとくちサクラさんのかき氷を味わってみると、「今まで食べたことのないかき氷」であることがわかります。
 民宿経営者のユージ(光石研)や、タエコを「センセー」と呼び、島まで追いかけてきたヨモギ(加瀬亮)が「人生最上のかき氷」と言ってこと、ほんとうでした。

 私も、こんな南の島の浜辺でほっこりとなごみながら、極上のあずきが入った甘くて冷たいかき氷を食べて、のどをうるおしてみたいなあ。

 一杯のかき氷で、赤道直下の南の島でぽわわんとしていた時間が思い出されるかもしれません。

 昔々。
 「こんなとき、かき氷があったら、おいしいだろうなあ」と思ってすごしたひとときがありました。

 30年前のケニアの東海岸。
 ラム島という、インド洋に浮かぶ小さな島ですごしたときのこと。
 沈む夕日をながめて、何をすることもなくすごした浜辺、あのほっこりした時間。

 この南の島の夕日を、いっしょにのんびりと眺めていた、あのときの、、、、、、夫は、30年たってみると、仕事仕事の毎日で、テレビも映画も、めったに見ません。
 まれに映画をみるとき、夫は必ずひとりで行きます。

 「たまには、女房を誘ってみたらどう?」なんて、言ってみるだけムダ。自分に妻がいることなど、とっくの昔に忘れているからです。
 いっしょに見たサバンナの夕日も、ラム島の夕日も、忘れ果てていることでしょう。

 私より先に『めがね』を見てきた夫が、新発見のように言いました。
 「『めがね』のなかに、あなたにそっくりな女優がでていたよ」

 「ははん、もたいまさこって、言うのだろう」と思ったら、、、、
 「小林聡美って知ってる?あの人、あなたに雰囲気がよく似てるなあ」

 小林聡美は、知ってるよ、もちろん。美人すぎないところがいい感じの三谷幸喜夫人。
 娘が小林聡美のファンなので、テレビドラマ『すいか』も『神はサイコロを振らない』も、楽しんで見てきました。

 「ええっ、私が?似てるかなあ、小林聡美、、、、、」
 「顔がそっくりってんじゃないけれど、雰囲気が若い頃のあなたにそっくりだった」

 あ、若い頃の私なのね。
 夫のメモリーのなか、「古女房」は削除されているので、ケニアで出会った頃の、若い頃の私しか記憶がないのでしょう。

 でもね、与論島の浜辺で「たそがれている」小林聡美を見て、夫の記憶のなかの「ラム島の浜辺でたそがれている私」が思い出されたのだとしたら、これって、私にとってはちょっとしたご褒美かも。
 日頃、夫からは「妻の存在は忘却のかなた」の扱いだったので。

本日の徘徊ミソヒト
茜さす君が寝そべるアフリカのラム島の浜はたそがれの中

<つづく>
05:39 コメント(6) 編集 ページのトップへ
2008年04月27日


ぽかぽか春庭「サバンナの甘露水」
2008/04/27
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>自分にご褒美(5)サバンナの甘露水

 30年も昔の、ケニアでの日々。
 ほっこりとたそがれているしか、時間の過ごしようがなかった。

 あるときは、ラム島の浜辺で、何を話すでもなく、海を眺めてすごしました。
 となりにすわってたそがれている人が、あとで夫になるとは思っていなかったけれど。
 ある日は、サバンナの夕日をぼうっとながめ、頂を雲の中にかくしているキリマンジャロ山をながめました。

 アンボセリ動物保護区ゲームパーク。サバンナの中をトラックの荷台にすわって、動物を追いかけました。
 観光ツアーの冷房つきバスならいざ知らず、私たちが乗せてもらったのは、ナマンガという町で知り合った現地の人のトラックの荷台。
 水筒ひとつしか水の準備もしていなかった。たちまち水筒は空に。のどがからからになりました。

 夕方にならないとライオンもチータも狩りをしないことを知っているから、昼うちの草食動物はのんびり草を食べています。
 サバンナの乾期。動物たちは、水を求めて移動します。極上のかき氷なんて贅沢は言わない。池の底にたまった泥水でも貴重な命の水です。

 乾期の乾燥したサバンナ・アンボセリ大地、道などありません。トラックの車輪からからは、砂ぼこりがもうもうとあがります。

 砂ぼこりで真っ白になった私の髪を見て、トラックの荷台、となりにすわっていた人は、「30年後は、こんな風に白髪になっているのかも知れないね、白髪のあなたを見ることがあったら、おもしろいだろうね」と、言いました。

 今では妻に白髪があるかどうか、皺があるのかないのかも、夫の関心の外。「アウト・オブ・アフリカ」

 私の年代の女性、「夫からは、まったく興味をもたれていない存在」になっていると嘆く人も多い。
 私のジャズダンス仲間が言うことに。

 美容院で髪を切ってきても気づかれない、どころか、1泊旅行に行って来ておみやげ渡したら、「えっ、ゆうべ、いなかったの?」と言われたって。
 「老夫婦の仲は空気のようなもの」とは、よく言われますけれど、空気が一晩なくても窒息することもないってことでしょうか。

 我がショーモなしの夫、妻の存在を完全に忘れ去り、空気なしで生きている。
 あの御仁は、硫化水素かなんかを呼吸しているエラ呼吸の宇宙人、と思っていたけれど、小林聡美を見て妻を思いだしたというのは、めでたいことである。
 宇宙人も、たまには空気の存在を思い出すとみえる。

 貧困の泥沼、乾期の泥水の中に暮らしていても、夫のたったひとことで、なんだか命の水でのどを潤したような気になる、単純なポカポカ頭白髪頭の私です。

 島の浜辺を重いスーツケースを引きずりながら歩いていた小林聡美タエコが、かき氷を食べて心もほっこり甘くなってきたように、くたびれきって引きずりながら歩く重たい私の足取りも、もうちょっと軽くなるかもしれません。

 どんな安豆でも「あんたはコピルアックだよ」とおまじないをかければ、おいしいコーヒーになるって。
 私も、どんなにしわしわ白髪になっても「夫の目でみると、私は小林聡美です」って、おまじないをかけるとよいのかも。

本日の徘徊ミソヒト
「コピルアック」と、魔法の呪文を唱えたら、このコーヒーはコピ・ルアックの味

<おわり>
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アフリカの日々2008年4月

2011-02-26 19:01:00 | 日記
2008/04/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(1)愛と悲しみの果て

 『アウト・オブ・アフリカ』は、デンマークの女流作家、ディネーセンの自伝的小説です。タイトルの日本語訳は『アフリカの日々』

 シドニー・ポラック監督で映画化され、カレン・ディネーセンをメリル・ストリープが、恋人デニスをロバート・レッドフォードが演じました。
 邦題は『愛と哀しみの果て』
 1985年公開。1986年のアカデミー賞、作品、監督賞ほか7部門で受賞した、評価の高い映画でした。

 この映画、ロードショウを姉とふたりで見にいったとき、冒頭シーンから、とめどなく涙が流れました。姉にかくれて涙をふきふき映画を見ました。
 数年前に私がすごしたアフリカの大地がなつかしくて、泣けたのです。

 サバンナの大地に広がるコーヒー畑も、ンゴング高原にふきわたるアフリカの風も、ライオンの咆哮さえ、私にとっては、青春の「アフリカの日々」でした。

 ナイロビに着いた初日に迷子になって、ある男に町を案内してもらったという出会いについては、毎年、留学生たちに話します。
 「 My first African day, I lost my way、、、、」と始まる「ケニアで夫に出会った話」は、毎年、大うけです。

 なぜ、この話を授業の最初にふるのかというと、私の英語がクィーンズイングリッシュでもなくワスプイングリッシュでもなく、完全に壊れている「broken completely」であるという言い訳をするため。

 ナイロビの上層家庭はクィーンズイングリッシュを話しますが、下町の英語はスワヒリ語とチャンポンのブロークンです。私は下町や田舎の人々とつきあってきたので、英語スワヒリ語チャンポンのブロークンイングリッシュが身につきました。

 下手な英語を上達させる努力を放棄し、そのかわり、「私の英語は、ナイロビ下町方言のブロークンイングリッシュです」と言いわけしておくのです。発音まちがえても、文法まちがえても、「This is Nirobi downtown English」。
 楽なほうをとる主義。

 「以上のようなわけで、すみません、私の英語は完全にブロークンです。This is the story of my African day. So, sorry, my English is broken completeley.
 さて、私の家族を紹介します。私はケニアで、親切な日本人男性と知り合って結婚しました。ケニアではとても親切でしたが、日本の悪しき伝統により、彼は結婚後は少しも親切じゃありませんでした」

 ここで学生はニヤニヤ。「私の国でもそうだ」とか言う人も。

 「私の家族は、娘がひとり、息子がひとり。義理の母ひとり。彼女は、私の法律上の夫の母親です。
 そして、義理の夫がひとり。彼は仕事と結婚しました。仕事依存症です。私は、日本の典型的なワーカホリック未亡人ですが、陽気な未亡人、なぜなら、今、すてきな学生たちといっしょだから。ようこそ、私の教室へ。よろしくね。スワヒリ語でごあいさつ。お目にかかれてうれしいです。
 And then, I introduce you, my family . I have a dauter, a san, a stepmather in low. She is a mother of my step husband in low And, I have a stephusband in low, he marry his work.he is a typical workaholic. I am a widow of Japanese workaholic man. But I'm a merrywidow. Because, I have nace students now. Welcome my class. Nice to meet you. In Swahili langwage , Ninafurahituona 」

 ワーカホリック未亡人とか、義理の夫の部分、笑ってほしい所なんだけれど、最近は、本気で「気の毒に」という顔をする留学生もいるので困ってしまうけれど。
 今年は、フィリピンの大学で教師をしているベルさんが大笑いしてくれて、よかったよかったウケた!

 毎年の「英語が下手ないいわけ」として、私は毎回、サバンナの日々について語り、毎回夫との出会いを反芻する。私の「法律上の夫」は、思い出すこともないかもしれない「アフリカの日々」を。

 私と夫の出会いキャッチコピー「ケニアで迷子になって愛を拾った。今では愛が迷子になってる」

 アフリカナイロビの町での出会いと、その後の悲惨な結婚生活について、愚痴のタネはさまざまなバリエーションで書いてきましたが、アフリカ話、まだまだあります。私の「愛と哀しみの果て」の物語。

 今回はナマンガでのホームステイの話。

<つづく>
05:18 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年04月29日


jぽかぽか春庭「ナマンガ郊外の夕日」
2008/04/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(2)ナマンガ郊外の夕日

 30年も前のこと。
 1979年~1980年、アフリカのケニアに滞在していました。

 1964年にケニアがイギリスから独立して15年。 1978年に大統領が初代のケニヤッタから二代目のモイに代わり、いよいよ草創期から発展期へ入るのだ、という意欲に輝く若い国家でした。

 政府やODA関係者のほかは、日本人観光客もあまりおらず、知り合ったバックパッカーたちは、お互いに情報交換をしながらケニア滞在を充実させていました。

 日本人バックパッカーたちは、ケニアの首都ナイロビを拠点とし、仲間たち何人かで相談がまとまると、地方へ出かけていきました。

 ナイロビの町ではそれぞれ勝手気ままに町歩きをしているバックパッカーたちも、地方へのひとり旅は無謀。
地方に電話のある家など少なくて、緊急の場合の連絡もとれません。交通手段もない地方では、ひとりではたちうちできない出来事もおこるからです。

 旅仲間のひとり、タカ氏。ケニアにいたころはJust friendで、のちのち結婚するとは思っていませんでした。
 旅仲間でいたころは、いい人だったんですけれど、、、、、。

 1979年9月。ケニアとタンザニア国境の町、ナマンガに半月ほど滞在しました。このときは、バックパッカー仲間のクニコさん、タカさんと。

 ナマンガの小学校や保育園を見学させてもらったり、キリマンジャロ山をながめたり、野生動物公園(ゲームパーク)で、キリンやシマウマを追いかけて走ったり。

 9月14日のこと。バスに乗って、ナマンガの近くの農村へタカ氏とふたりで出かけました。
 
 ヤギ農家の前で、ヤギの群をぼんやり眺めながら、ゆったりすぎる時間を楽しみ、タカさんととりとめもなく話し続けました。

 放牧から帰ってきた山羊の母親が、留守番していた子ヤギを捜し当てて乳を飲ませるようすが面白いのです。
 何十頭ものヤギの母子。それぞれの身体の模様がそっくりで、父親の遺伝子はまるで関係ないがごとく、黒ヤギの子の母は黒く、ブチの子の母はぶち。
 母ヤギを見て、ほら、あそこにいるのが子供でしょうね、と、推測すると、母ヤギのメェ~という声を聞き当てて、子ヤギはとことことおっぱい目がけていきます。

 ヤギをみながら話し込んでいたら、時間を忘れ、ナマンガへ向かうバスの時間に間に合わなくなってしまいました。

バス以外に交通手段はなく、ナマンガ町のゲストハウス(安宿)に戻るにもどれなくなってしまったのです。
 ヒッチハイクしようにも車も通らないし、野宿しかないか、と、困り果てていたら、近づいてきたオッサンがいました。 
 私のたどたどしいスワヒリ語でも、なんとか話が通じました。トラックがむこうのほうに止めてあるのだそうです。
 オッサンは、家に泊めてくれると、いいます。

 私一人だったら、初めて出会ったオッサンについていくことはできなかったでしょうが、ふたりだったので、ちょっとは心配しながらもついて行きました。

 タカ氏、見た目だけは「コワモテ」です。黙って立っているとジャパニーズ・マフィアかと思われて、スリもひったくりも寄ってこないので、バックパッキング旅行の連れには最適。

 うさんくさい怪しげな見た目なので、ナマンガの町に到着したばかりの日、「日本赤軍」の手配書のひとりに似ているといわれて、ナマンガ警察に一晩拘留されたほどです。
 このときは、警察署からナイロビの日本大使館までパスポート番号の照合をしてもらって、「逃亡中の日本赤軍の一味」という疑いは晴れました。

 この無骨な男といっしょだったら、そう野蛮な事件には巻き込まれずにすむのではないか、という根拠のない安心感から、オッサンのトラックに乗せてもらいました。

<つづく>
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2008年04月30日


ぽかぽか春庭「ニャマ・ヤ・ンブジ、ルオ族の家でオームステイ」
2008/04/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(3)ニャマ・ヤ・ンブジ

 トラックが着きました。
 トゲのあるソーントゥリーの枝で家のまわりを囲って、野生動物よけにしています。
 質素なつくりの家でしたが、庭も床もほうきできれいに掃き清められ、清潔です。

 泊めてもらったのは、ルオ族の一家でした。
 ルオ族の一家、おっさんの名前はルカス。

 家には子どもたちがワイワイと大騒ぎしていたので、安心しました。
 笑顔のかわいい子どもたちがいる家なら、いっしょに泊まっても大丈夫だよね、と、ジャパニーズ・マフィアもどきの連れと話しました。

 一家みな、日本人を見たのは初めてでした。オヤジさんが、なにやら色白の人を連れてきたので、あれは一体白人なのかと小さい子供たちがいぶかる。

 中学生のお姉さんが、「たぶんチャイニーズだよ」と、学校で教わった知識を自慢げに披露している。
でも、自分だってチャイニーズなど見るのは初めてのことで、珍しいから、小さい子たちのように、じろじろ見たい。でも、じろじろ見るのは失礼だということは、習っているお姉さんなので、ちょっと、はにかみながらのじろじろになる。

 せっかくの推察だけれど、チャイニーズではなくて、ジャパニーズなんだよ、私たち。
子供たちからの質問。「ジャパニってのは、チャイナのどのあたりの町なの?ナイロビから車で行くと、どのくらいでジャパニにつく?」
 「自動車のトヨタって知ってる?]
「うん、トヨタ、ニッサン」
「そうそう、トヨタとニッサンの会社はジャパニにあるんだよ。そうねぇ、車で行ったら、たぶん、一ヶ月か二ヶ月か、う~ん、わからないなあ」

 ルカス夫妻は、「夫婦ふたりだけで、こんな田舎まで来るなんて、珍しい人たちだ」と、歓迎してくれました。
 この時はジャストフレンドで、旅仲間にすぎなかったタカ氏と私ですが、説明はめんどうなので、夫婦ということにしておきました。

 タカ氏が、ジャストフレンドからステディに昇格したのは、これから2年後のことでしたが、今となっては、結婚前、ふたりでいっしょの時間をすごした貴重な思い出になりました。
 結婚後は、ほとんど家に帰らない夫になったので、朝から晩までいっしょにいた時間なんて、ケニアでの思い出くらいしかない。

 ルカスさんは、私たちを歓迎するために、山羊を一頭つぶして、「ニャマ ヤ ンブジ(山羊肉)」の煮込みを作ってくれました。たいへんなごちそうです。

 ルカスさんは、手広くタバコの葉を栽培していて、現金収入があるため、このあたりの農民の一家には珍しいことに、娘さんををセカンダリースクール(=ハイスクール中学高校)に通わせていました。
 セカンダリースクールの授業はすべて英語なので、娘さんとは英語も通じました。

 ケニアでは、スワヒリ語と英語が公用語になっていますが、各家庭では、キクユ語マサイ語ルオ語ソマリ語など、自分たちの部族のことばを話します。

 だから、たいていの人は「家庭の中のことば」と、「町の中でつかうことば=スワヒリ語」の両方が話せるバイリンガルです。
 スワヒリ語は町のなかの公用語ですが、中学高校では英語での教育が主で、中学校以上の教育を受けた人は、英語も話せます。マルチリンガルです。

<つづく>

2008/05/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(4)タバコ畑のツーショット

 ルカスの家に泊まった翌日、私たちは、ルカスのタバコ畑の見学に連れて行ってもらいました。
 「畑はすぐ近くにある」というので、いっしょに歩いてついていったら、1時間以上歩きました。徒歩1時間以内なら、「すぐ近く」。3時間くらい歩くのは「まあまあ近所」です。
 日帰りで歩いて帰れないときが「少し遠い」というのが、彼らの徒歩感覚。

 タバコ畑の中で、ルカスは写真を撮れとすすめてきました。
 ルカス自慢のタバコ畑を撮ってほしかったのです。タカ氏は、タバコ畑を背景にルカスの写真を撮影しました。

 ケニアにいたころ、タカ氏について感心したことは、現地の人を撮影したときは、必ず現像したプリントを届けていたことです。ナイロビ市内なら自分で届け、遠いときは郵送していました。

 気軽に現地の人を撮影する観光客は多いけれど、写した人に必ず写真をプレゼントする人はそう多くはない。この律儀さは、他のバックパッカーにはない態度でした。
 タカさんに言わせると「こうすれば、いろんな人とつながりができて、次に行ったとき、歓迎してもらえるでしょ」
 まだ、ケニアのふつうの暮らしの人にとって、カメラが高嶺の花だった30年前の話。

 次に行くと言っても、バスが通っているナマンガならまた来ることもできるけれど、サハラ砂漠外縁にあたるケニアトゥルカナ砂漠地帯のそのまた奥地なんて、次にいつ行けるかわからない。それでもタカさんは、郵便局留めで写真を郵送していました。(家まで郵便を届ける制度ではなかったので、郵便は局留め)

 カメラに興味しんしんのルカスは「記念に夫婦いっしょのを撮ってやるから」と、私と連れをはたけの前に並べました。
 シャッターをきるにも、「どこを押すのか」と、大騒ぎしながら、何回かシャッターをおしました。あとで現像してみると、頭が切れていたり、足だけ写っていたり。でも、一枚だけちょっと手ぶれでピンボケながら、ツーショット写真もありました。

 ちょっとピンボケの、このタバコ畑の一枚のほか、あとは、日本でもどこでも「ふたりで」写した写真がありません。
 グループで写したり、結婚後、子供たちと一緒の写真はありますが、「写す方は好きだけれど、写されるのは苦手」というタカ氏、自分が写っている写真はもともと数少ないのに、私といっしょなんて、この写真だけ。
 結婚式以外で、唯一ツーショットでふたりが映っている貴重な写真となりました。ルカスのおっちゃんありがとう。

 ルオ族一家でのホームステイ。
 タカ氏が私に日本語で何か言う。私が、ルカスの娘さんに、スワヒリ語、英語のチャンポンでそれを伝える。娘さんはお父さんにルオ語で尋ねる。答えを、私にスワヒリ語英語を交ぜながら伝える。私がタカさんに日本語で「さっきの質問の答えは、、、」と、回答する。

 ずいぶんと手間のかかる会話でしたが、だれも急がず、ゆったりと時間がながれ、とてもよい一日をすごせました。

 あの日から30年近くがすぎました。アウト・オブ・アフリカ。
 アフリカの日々は遠くなったけれど、ルカスのたばこ畑のツーショット写真一枚だけをながめていても、私には「アフリカの日々よ、ありがとう」という気持ちで毎日を過ごせるのです。

 タカ氏と私のテーマソング、「アフリカンシンフォニー」。
 結婚式のとき、バックミュージックとして流し、タカ氏がアフリカのスライドを上映しながら解説しました。

 「え~、これは、ぼくと、奥さんがふたりででかけたナマンガで撮った一枚です」 

アフリカンシンフォニーAfrican Symphony by バンマッコイVan McCoy
http://jp.youtube.com/watch?v=UZleC2GVNLs

<つづく>
00:50 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年05月02日


ぽかぽか春庭「アウト・オブ・アフリカ」
2008/05/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(5)アウト・オブ・アフリカ

 ルカスの家の、笑顔がかわいかったハイスクール生徒の娘さんも、今では40代でしょう。
 ナマンガあたりで、きちんとセカンダリー(ハイスクール)を卒業した女性の人材は数少ないと思うので、社会の中堅になっているのではないかと想像しています。

 ケニアのどの部族も、親切で優秀な人たちです。
 マサイ族のなかにも、ソマリ族の中にも優秀な人はいますが、ルカス家と同じルオ族の子孫をひとり紹介しましょう。 

 ケニアは 1964年に独立しました。
 独立の数年前、奨学金を得てアメリカに留学した、優秀なルオ族の若者がいました。
 彼はアメリカ人女性と結婚し、息子をもうけました。

 生地主義のアメリカでは、アメリカで生まれた子供はアメリカ国籍を持つアメリカ人です。
 のちに、彼は離婚してケニアに帰国しましたが、アメリカ人である息子は、妻がひきとりました。

 この息子、優秀な成績で大学を卒業し、議員になりました。今や民主党大統領候補選挙で忙しい。
 今、日本でもっとも有名なアメリカ人のひとり、バラック・オバマです。

 ケニアの初代大統領ケニヤッタの出身部族は、キクユ族。
 最大派閥キクユ族に対して、ルオ族は対抗部族です。

 1978年の選挙で選ばれた第二代目のモイ大統領はカレンジン族出身で、キクユ族など他部族との融和策をとっていたので、1979年当時、キクユもルオも仲が良かった。

 現在、ケニアでは、キクユ族出身のキバキ大統領派と、反対派閥の部族が争っています。
 最大の抗争があったエルドレッド。
 私は何度もエルドレッドに泊まりに行きました。従妹が青年協力隊員としてエルドレッドのハイスクール理科教師をしており、教員宿舎に泊まりに行っていたのです。
 当時のエルドレッドは、静かなよい町でした。

 ノーベル平和賞を受けたワンガリ・マータイさんは、初のナイロビ大学女性教授。
 マータイさん自身は有力部族のキクユ族出身ですが、彼女は、部族対立を憂い、抗争終結を望んで活動しています。

 どうぞ、部族対立を越えて、人々が仲良く暮らす国であるように。野生動物が生き生きと走り回る国であるように。

 ケニアで出会った人々。私がホームステイをした家族たち。
 ルオ族のルカス一家も、ギカンブラマーケットのキクユ族カヒンディ夫妻、ムゼーとニャンブラママ、ナイロビのワイナイナさん一家、ソマリ族のルルさん一家も、人々が平和に暮らしていけることを祈っています。
 みながあのころのように、希望に燃えた笑顔で暮らせる国であるように。

 私と夫は、年がら年中「部族対立」ですが、、、、、

<5/04 へ つづく>

2008/05/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(6)ニャマニャマ・ガーニ、ケニアのことば遊び

 1979年9月、ケニア・タンザニアとの国境の町ナマンガにでかけたときの話、もう少し続けます。

 友人と、ゲストハウス(現地の人向けの安宿)に半月ほど滞在していたた間、ナマンガの小学校や幼稚園を見学させてもらいました。
 ゲストハウスオーナーの娘さんが、幼稚園の先生をしているというので、幼稚園に見学に出かけたときのこと。

 子どもたちへのプレゼントに、キャンディやサッカーボールを買っておみやげにしました。サッカーボールは大歓迎のおみやげでした。

 ケニア・ナマンガの幼稚園。
 先生が園児に「チョレ 描いてて」と命じると、園児たちは、手に手に小さな枝を持ってしゃがみ、地面になにやら絵を描いている。先生たちは、それを見ながら若者同士のおしゃべりに専念。先生たち、気楽な稼業に見えます。

 しばらくして、園児たちがお絵かきに飽きた頃合いをみはからって、先生は子どもを呼び集めました。

 ことば遊びがはじまりました。
 東アフリカ、ケニアの幼稚園でのコトバ遊びを紹介しましょう。

 子どもたちが「ニャマニャマ ガーニ」と歌う。
 nyamaニャマはスワヒリ語で「肉」のこと。ganiは、「どんな?どのくらい?」という疑問詞。「ベイ ガニ?」は、「How muchいくら?」の意味になる。
 子どもたちは「肉、にく、どんな肉?」と、先生に歌いかけているのです。

 先生は「ニャマ、ニャマ、ニャマ ヤ クク(肉、肉、鶏の肉)」と歌う。子どもたちはジャンプして「Natakakula ナタカクラ(食べたい)」と言う。

 「ニャマ、ニャマ、ガーニ」と子どもたち。
 「ニャマ、ニャマ、ニャマ ヤ ンブジ(肉、肉、山羊の肉」と、先生が答える。
 「ナタカクラ」と、またジャンプ。

 「ニャマ、ニャマ、ガーニ」
 「ニャマ、ニャマ、ヤ、ンゴンベ(肉、肉、牛肉」
 ジャンプして「ナタカクラ」

 「ニャマ、ニャマ、ガーニ」
 「ニャマ、ニャマ、ヤ、フィシ(肉、肉、ハイエナの肉)」
 「ナタカクラ」と言ってジャンプしてしまった子は、「わ~い、ハイエナの肉なんか食べないよ」と、他の子にからかわれ、皆いっしょに大笑い。

<つづく>
06:14 コメント(6) 編集 ページのトップへ
2008年05月05日


ぽかぽか春庭「ナタカクラ食べたい!」
2008/05/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(7)ナタカクラ食べたい!

 2008年の現在、ウガリ(とうもろこし粉のパンケーキ)も食べられない人々が増えているというニュースがつたえられています。

 5月4日の新聞一面には、エルドレッドなどで、食料が不足しているというニュースがでていました。

 石油値上げ→主な輸送手段がトラックなので、アメリカ製を中心とする肥料値上げ→穀物価格高騰、という連鎖で、人々の食料事情が悪くなり、一家の食べ物が、学校給食を食べずに持ち帰るこどもの昼食分だけ、という家庭も出てきたというニュース。

 「ウガリ」は、私もよく食べたトウモロコシ粉の蒸しパン風食べ物。日本の米のご飯にあたる主食です。ごはんがないと、おかずだけだと何だか食べた気がしない人がいるように、カランガ(トマトシチュー・煮込み)にウガリをつけて食べるのが一般的なケニアの食事で、ウガリが高すぎて食べられないようだと、みな、畑仕事にも力が出ないことでしょう。

 ケニアをはじめ、アフリカの子供たちが、おなかいっぱい食べて、笑顔ですごせることを、祈っています。

 30年前のケニア、ナマンガの町の幼稚園では、子供たちがおいしい肉の煮込みを思い浮かべながら、ニャマニャマ(肉、肉)と、うたってコトバ遊びをしながら、楽しそうに幼稚園ですごしていました。

 Natakakuraナタカクラ=食べたい!と叫ぶ子供たちの顔は、お母さんが作ってくれる鶏肉やヤギ肉シチューを思い浮かべているように、「おいしい顔」になるのでした。
 肉のシチューはごちそうで、ふだんの日のカランガ(トマト煮込み)には、スクマウィキという葉野菜が入っているだけのことも多い。

 それでも、家族一緒におなかいっぱいスクマウィキカランガとウガリを食べるのが、子供たちの幸せでした。
 あの日の笑顔が、すべてのこどもたちに恵まれますように。

 今日、日本ではこどもの日。親子連れでおいしいごはんを食べた家庭も多かったでしょうね。
 エルドレッドのこどもたちも、ナマンガの子供たちも、ナイロビのスラム街キベラ地区の子供たちも、みんなが笑顔でナタカクラ!とお母さんにねだっておいしいウガリ・ナ・カランガを食べているといいな。

 1979年、ナマンガの幼稚園で。
 私たちがプレゼントしたサッカーボールのお礼に、子どもたちがケニアの歌を歌ってくれました。

 小さな子どもでも、歌声には自然にハーモニーがつきます。二重唱三重唱がごくあたりまえにできる。

<つづく>
00:04 コメント(6) 編集 ページのトップへ
2008年05月06日


ぽかぽか春庭「うさぎおいし in ケニア」
2008/05/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(8)うさぎおいし in ケニア

 幼稚園の子供たちの歌へのお返しに、私たちも「日本の伝統的な歌」を披露することになりました。
 日本の伝統的な歌、と言っても、どんな歌がいいのか。
 こどもたちにも内容がよく理解できて、私たちにも歌いやすい歌っていうと、、、

 一曲は、民謡を歌うことにしました。
 「日本の伝統的な漁師のうたです。ンデゲ(鳥)に、サマキ(魚)が来ているか、と聞く、という歌です」
 「♪やーれん、ソーランソーランソーランソーラン、にしんきたかとかもめに問えば♪~」と、歌いました。

 はじめて「日本人」を見た子どもたち、どんな歌を歌おうと「日本の歌」と思ってくれたことでしょうが、二曲目はの友人クニコさんと「ふるさと」の二重唱をしました。私は小学校中学校の合唱部でアルト担当だったので、二重唱が好きです。

 「ふるさとを忘れることはない、という歌です。ふるさとの山にスングラ(兎)います。川に小さなサマキ(魚)がいます。お父さんお母さん、友だちがいます。ナマンガの人たちがナイロビへ働きに行っても、みんなナマンガの家のことは忘れないよね、私たち日本人も、生まれ故郷を忘れません」と、曲の内容を紹介。
 ♪うさぎ追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今も巡りて 忘れがたきふるさと♪
 ♪いかにいます父母つつがなきや友がき 雨に風につけても思いいずるふるさと♪

 下手な歌でしたが、子どもたちにとって「国境の小さな町の幼稚園に、日本人がきて歌をうたった」というのは、最初で最後のことだったのではないかと思います。

 このとき「えーと、うさぎおいし、っていうのは、スングラ ンズーリだよね。うさぎは美味しいって、みんな歌うけれど、ボクは日本で兎食べたことなんかないけどな」と、言った男がいました。
 ギャグで言っているのだと思って聞いていたけれど、本気で「うさぎは美味しい」という歌だと思っていた男、タカ氏が、今やわたしの「法律上の夫」です。

 日本に帰ってきてからの「バックパッカー仲間の写真交換会パーティ」で、私が作る料理を「おいしいおいしい」と言って、もりもり食べてくれる男だったタカ氏。
 「料理下手な私の手料理を誉めてくれる優しい人」と、誤解してしまったがゆえの大誤算。

 ケニアから日本に帰国して、2年後に結婚したのですが、結婚後、「僕には、まずい料理なんて存在しない。どんな食べ物もおいしく食べられるんだ。世の中には、おいしい、とてもおいしい、ものすごくおいしいの、3種類の食べ物がある。まずい料理なんか、ぼくにはないんだ」と、言っていました。

 味音痴の男。うさぎを食べても、何をたべても、「おいしい」しかない男でした。
 コピ・ルアックを飲んでも、マックの150円コーヒーでもたいした違いはない、という味覚の持ち主であることが判明した女房とは、どっこいどっこいのカップルだったのだけれどね。

 以下のような投稿をいただきました。いじっていただき、うれしく存じます。こういうのをお笑いの世界では「いじられキャラで、おいしいポジション」と言います。

投稿者:nekomajiro
ぴょんぴょん飛び跳ねながら子供達、
「ニャマ、ニャマ、ガーニ!」
先生、にやりと笑い、
「ニャマ、ニャマ、ヤ、……」と、
春庭先生を指さした。
すると子供達、
手の親指を立てると逆さまにして、
「ブゥー!ブゥ-!ブゥ-!」といっせいに、
「ぶーいんぐ」。
2008-05-04 18:23

 ご想像のとおりと言いたいところですが、30年前の私は、決して今のような「ぶぅーぶぅー」な私ではありませんで、ケニアで出会った人、皆が、「なんてあなたは美味そうなんだ、ナタカクラ!」と、叫び出すのでした。
 福祉精神に富むわたくしは、食べたがる人々に、惜しげもなく、この美味なるニャマ・ヤ・ハルをふるまい、、、、
って、妄想にのってみました。

 福祉精神に富む私のボランティア活動を受けて試食した人、ひとりだけで、今のありさまになっているってわけです、、、涙
 試食のときは「ぼくにまずいものはない」と言っていたタカ氏、結婚後は、さっぱりと喰いつきませんです、はい。

 「割れ鍋に綴じ蓋アウト・オブ・アフリカ・バージョン」、これにて一席おわります。

<おわり>
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ゴールデンウィーク2008年5月

2011-02-20 18:32:00 | 日記
2008/05/07
ぽかぽか春庭東京俳諧徘徊日記>2008ゴールデンウィーク(1)ブロンズウィーク

 有給休暇とって飛び石部分を埋め、4月26日から5月6日まで11連休だったといううらやましい人もいた2008年ゴールデンウィーク。
 皆様の連休はいかがでしたか。

 私の場合、今年の5月連休、5月3日4日5日の三日間でしたから、あっという間におわってしまいました。ゴールデンとまではいかない、ブロンズウィークくらい。

 4月29日と5月6日、出講先のひとつである私立の大学暦では、「平日扱い」になり、私は授業日です。学生たちはそのかわり、4月30日から5月5日まで連続して休みになったのですが、、私は29日に授業をしたからといってかわりの休みはない。
 国立大学の暦はカレンダー通りのため、1日と2日は、国立で授業。結局3日間だけの連休になりました。

 連休初日の3日は、娘息子と池袋へ行って買い物。電気屋で、息子のノートパソコン用増設メモリーや、私のノート用無線ランスロットカードを買いました。

 娘息子といっしょに東急ハンズへ。
 娘は、手作りが大好きなので、昔は毎週のようにイベントをさがして、風鈴作りやら壁掛け作りやら、いろんな手工芸を楽しんできました。

 3日は、久しぶりに手作りをしたいというので、ハンズ7階へ。
 娘は、母の日のために、天然石ビーズでブレスレットを、父の日のために、革細工の小銭入れを作るといいます。
 息子もハンズに残るというので、私はひとりでジュンク堂へ。

 ジュンク堂で。2階から8階までめぐって、タイトルが気になった本、著者に惹かれた本、どんどんカートに放り込んでいきます。
 15冊ほどかかえて、すいていた7階フロアの「座り読み椅子」に腰掛けました。

 目次や、まえがき・あとがきを読む。春休みに買った本、まだまだ読み終わってないので、「本代は、合計1万円まで」と決め、取捨選択。
 結局買ったのは5冊。10460円。

 ジュンク堂で1万円買うと、4階喫茶店のドリンク券をもらえるのがうれしい。合計が9千円とかだと、もう一冊買い足してしまう。5冊のうち、一番高かったのは、酒井直樹『日本思想という問題・翻訳と主体』¥3570。10年以上も前に出ていた本ですが、高いと思って、今まで買わなかった。

 高い本は、まず図書館で借りて読んでみる。どうしても必要があれば、買うけれど、たいていは図書館で読めば間に合うので、千円以上の本を買うことはあまりないのですけれど。今回、ちょっと「主体・主格・主語」について調べることが出てきたので、買いました。

 私にとっては、小型のゴールデンウィークでしたが、この新規購入本で、気分はもちなおしました。日頃は、10個230円の卵を買うのをためらい、火曜日特売で120円になるときにだけ買っている生活で、1万円分の本は、とっても贅沢をした気分です。

本日の徘徊徘徊
サンシャイン乙女ロードも夏近し

執事喫茶とう店のあり春尽きぬ

<つづく>
00:35 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年05月08日


ぽかぽか春庭「カーネリアン・ブレスレット」
2008/05/08
ぽかぽか春庭東京俳諧徘徊日記>2008ゴールデンウィーク(2)カーネリアン・ブレスレット

 5月3日、6時すぎ、マンション6階にあるタナトス6というイベントスペースで行われた「一人芝居ミサイルの世界」を見ました。
 ミサイル君は、友人ミサイルママの息子です。

 「走れメロス」をひとり芝居に脚色したもの、大槻ケンヂの小説『ぐるぐる使い』を紙芝居に仕立てたものなど、一人で午後4時から10時すぎまで、5~6本の演目をやり抜くという企画。
 出入り自由。見料はおかえりの際に、お気持ち分だけティッシュの空き箱に入れる。

 私は最後の演目まで見ていてもよかったけれど、ミサイルママが「何か食べて帰ろう」というので、全部おわらないうちにタナトス6をでました。
 私は夕食を池袋ですませてからタナトス6に入ったので、生ビールだけ注文。アルコールを飲まないミサイルママは、サラダとマンゴーアイスクリーム。

 お花見の「愚痴入りお好み焼き」以来のおしゃべりタイム。踊りのこと、息子のこと、またまた話はつきませんでしたが、私は4日5日もお休みだけれど、ミサイルママは水曜の定休日まで休めないので、11時に切り上げました。

 家に帰ると、娘ができあがった手作りブレスレットを「早いけれど、母の日のプレゼント」と、渡してくれました。
 天然石ジェイドのカーネリアン、レッドアベンチュリン、イエロージェイド、瑪瑙(イエローボツワナアゲード)を組み合わせた、黄色、ベージュ、ブラウンの色合いです。

 「ハハが、この配色で気に入らなかったら、私のにしようと思ったから、私好みの配色なんだけれど」と娘が言いましたが、落ち着いたステキな色合いだし、私は「娘が手作りしてくれた」というだけで、もう十分です。ありがとう。

 皮の小銭入れも、とてもよくできあがっていて、「お母さん、こっちも欲しいよ」と、言ってみましたが、両方欲張りはダメみたい。小銭入れは父の日プレゼント用ですと。

 私は、家計費担当役も家事育児担当役も、両方つとめてきたんだゾ!
 と、不満にも思いますが、父親らしくない父へも、父の日に手作りプレゼントを渡そうとする心やさしい娘であることが、うれしくもあります。

 4日夜は、ひとりで映画館へ。映画館は、夫の事務所から徒歩3分のところにあります。夫は、会社の福利厚生用として、映画の「1年間見放題カード」を利用しています。
 映画を見るときは、夫の事務所に寄って映画カードを借ります。
 これは、夫が家族のためになることをしている唯一の福利厚生。

 「映画カードを貸す」だけしか家族のためにしていない父親なのに、娘の手作り小銭入れプレゼントされて、割がいいんじゃな~い、プンプン!
 父らしいことをしてこなかったタカ氏にも、娘の手作り品が渡されると思うと、割にあわない気分だったけれど、映画おもしろかったし、ま、いいか。

本日の俳諧徘徊
芝居する若者の声春惜しむ
寡婦同士八十八夜の愚痴を飲む

(ミサイルママは離婚のハハで、私は実質母子家庭のハハ)

<つづく>
06:23 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年05月09日


ぽかぽか春庭「西アジアのキリム 」
2008/05/09
ぽかぽか春庭やちまた日記>2008ゴールデンウィーク(3)西アジアのキリム 

 夫は「ヘアスプレーをひとりで見てきた」言いました。
 ふん、私も見たかった映画だったのに、4月後半、忙しくて見る時間がとれなっかたのよ!!プンプン!

 『めがね』の小林聡美を見て、若い頃の妻を思いだしたという夫ですが、「ペアスプレー」の超太めダンサー、リッキー・レイクを見ても、私を思い出さなかったらしく、何も言いませんでした。現在の「太めダンサー」である妻はどうでもよくて、思い出すこともないみたい。

 『Onceダブリンの街角で』と、『再会の街』を見ました。とてもいい映画でした。
 感想はここhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/eiga0801a.htm

 5日は、原宿から渋谷へ。
 途中、代々木公園を通り抜けました。

 アフリカンドラムのセッションをしているグループ。芝生の上で、フリスビーやバトミントンをしているふたりづれ。ソフトバットで野球をしている外国人の親子。輪になってトランプをしているグループ。思い思いにこどもの日を楽しんでいます。

 渋谷へ行くのに、渋谷でなく原宿で降りてわざわざ代々木公園のなかを通ったのは、かって私も娘や息子とここでぼんやり昼寝をしたり、サイクリングをしてすごした日々があったことをなつかしむため。

 今は、こどもの日といっても、「ハハ、出かけたいならさっさとでかければ。早くでないと途中で雨になっちゃうよ」と、じゃまにされて、一人で出てきたのです。

 渋谷公園通りの「塩とたばこの博物館へ」
 私は手仕事を見るのが好き。パッチワーク、刺繍、織物染め物、そんな糸仕事が特に好きです。

  塩とたばこの博物館、今回の企画は「西アジア遊牧民の染織」展。遊牧民が織り上げた絨毯、袋などが展示されており、貴重で有意義な展覧会でした。
 もはや現地では手に入れることもできなくなった貴重なアンティークの布が、コレクター丸山繁(ギャラリーササーン)によって収集されてきました。 

 遊牧民自身にとっては、「単なる日用品」にすぎない塩を入れて運ぶ袋(ナマクダン)や、食卓用の布(ソフレ)、平織り布はキリムと呼ばれています。

 西アジア、アフガニスタン、イラン、パキスタンなどのクルド族、カシュガイ族などが、それぞれの民族独特の模様を持っています。
 それぞれの織り手独特の美意識によって織り上げられた羊毛の布たち。
 「生活のなかの美」は、最初から観賞用として作り上げられた芸術品にはない、力強い魅力を持っています。

 しかも、国際博物館協賛の日、とかで、入館無料だったので、「タダで楽しむ東京徘徊俳諧生活」のコンセプトにもぴったり。
  短くて、遠出はできない連休だったけれど、楽しいゴールデンウィークをすごすことができました。

 西アジア遊牧の民の女たちが、糸一本一本に心をこめて、気の遠くなるような時間をかけて細かい模様を織り込んだキリムやソフレ。

 私も日常を織りなす糸の一筋を大切にしながら、人生模様を降り続けていきたいと思います。 
 
本日の徘徊ミソヒト
 遊牧の民の織りなす塩袋ラクダの背にてゆられし日の夢

<おわり>

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サクラ咲かそう2008年5月

2011-02-15 13:20:00 | 日記
2008/05/10
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(1)留学生から合格メール

 桜前線、北海道最北端までのぼり、全国の花見シーズンがおわりました。
 来年もまた花見が楽しめますように。

 桜さくのを待っているころ、仙台で学ぶリーエンさんから、うれしい「桜咲くメール」が届きました。
========== 
(リーエン より)
合格しました  Date: Fri, 21 Mar 2008 04:52:45 +0000

先生、お久しぶりですね。お元気ですか?
もうすぐ春が来ますね。東京の桜が咲いてくるそうですね。私達は四月13日に大河原で花見の計画があります。初めてなんですから、期待しています。

私やっと試験が終わって、四月から入学になります。来週は入学試験のためにスーツを買うに行くつもりです。
これから英語の論文や実験のことも山のようにきます。もっとがんばらなければなりません。

ご健康を祈るように。
リーエン
================

 昨2007年に、中国で受け持った教え子たち。中国全土の大学若手教師から選抜され、日本で博士号を取得すべく留学してきた留学生です。
 昨年10月に来日し、半年間、日本語の上達と研究準備、大学院博士課程入試準備に没頭してきました。ほとんどの人が、2月を中心に博士後期課程の試験を受け、4月入学を決めています。

 上記のリーエンさん、東北地方の大学でナノテクノロジーの研究をしています。
 まさに今、桜爛漫と咲いたようなメールをくれました。はじめての花見を楽しみにしているというメールでしたが、きっと楽しい春満開のお花見を堪能したことでしょう。
 博士課程に入学した教え子たち、よい研究が実るように祈っています。

 今年はダメでした、来年もう一度受験します、というメールも届いています。
 国立大学の博士後期課程の入学試験は、とても難しい。
 特に、文系の場合、大学内のポストが少なくて、オーバードクター(博士号を得ても就職先がない、フリーター状態の博士たち)がどんどん増えていることなどもあって、試験はいっそう厳しくなっています。

 全中国から選ばれて国費留学生となった教え子たち、それぞれの研究で博士号をとるため、博士後期課程の入試を受けても、全員が合格できるという保証はありませんでした。
 専門の研究と英語力が重視される理系に比べ、文系は日本語力が重視されます。日本語で博士論文を書く場合が多いからです。

<つづく>
04:38 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年05月11日


ぽかぽか春庭「再チャレンジ食事会」
2008/05/11
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(2)再チャレンジ食事会

 2006年の10月から日本語の初歩を学びはじめて、1年半ですばらしい上達をみせた教え子たちですが、日本語で博士論文を書く日本語力となると、そうは簡単に身につきません。やはり、文系の学生にとっては、試験は難関でした。

 ジュンさんは、教育学を専攻する留学生。
 私の受け持ちクラスではなく、隣のクラスだったのですが、何回か読解の授業を受け持った縁で、隣のクラスの学生たちとも知りあいました。
 ジュンさんは、日本語の文を朗読するのもじょうずで、いつもニコニコと愛らしい女性研究者でした。

 来日以来、半年間、日本語能力向上に切磋琢磨してすごしてきても、すんなり博士後期課程に入学するのは難しい。ジュンさんも、2008年4月の入学はかないませんでした。

 ジュンさんからのメール。
================
 先生  最近いかがでしょうか。お元気でしょうか。
 桜が咲いて、お花見しましたか。
 本当に申し訳ありませんでした。遅く先生に連絡しました。

 先生の手紙を見ると、私の心はとても暖かくなりました。
 そのとき、私は日本語の期末テストと博士の入学試験のために、頑張りました。
 私は先生から力をいただいて、何も言わずにけれども、腹から感謝の気持ちを持っています。本当に先生に直接にありがとうございますと言いたいです。

 ですから、もし先生はいつかご時間があったら、連絡していただけませんか。とても先生とお会いしたいです。
 楽しみにしています。
ジュンウェン(Mon, 7 Apr 2008 21:37:29 +0900)

 入学試験については、残念ながら、合格できなかった。これから、来年の試験のために、もっと頑張りたいと思います。先生は心配しないでください。
 私も困るとき、先生に連絡させていただきます。
 では、集まる日を楽しみにしますね。
ジュンウェン(Tue, 8 Apr 2008 23:11:32 +0900)

==============

 他の中国教え子の留学生たちは、ほとんどが医学工学などの理系で、同じ大学に友達がいる人も多く、ストレス発散のおしゃべりもできます。でも、ジュンさんは教育専攻なので、たった一人で教員養成系の大学に留学しました。

 4月、新学期が始まってから、吉祥寺のロシア料理店にジュンさんをおさそいしました。
 来日してから、今まで博士後期課程の試験勉強や、修士論文を日本語に翻訳する作業をつづけてきたのに、不合格になってしまったジュンさん、がっかりしているかも知れない、と心配しながら会ったのですが、ジュンさんは、「先生、私はだいじょうぶ、来年がんばります」と、明るかったです。

<つづく>

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2008年05月12日


ぽかぽか春庭「めざせ博士号」
2008/05/12
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(3)めざせ博士号

 博士後期課程の入試に落ちてしまったジュンさんが、「ひとりぼっちで、不合格のつらさに耐えているのではないか」という心配は、杞憂でした。

 昨年10月に来日したときから、先に日本に来てエンジニアとして働いているの恋人といっしょに住んでいたのです。
 「あらあ、恋人といっしょだったのなら、心配しなくてもよかったわね」と、わらいました。

 中国での教え子のうち、ほとんどの人がが結婚していましたが、80%は同じ大学で学んだ同窓生、あるいは大学同僚との結婚でした。
 クラス最年長、名古屋で大学経営論を研究するリューさんにいたっては、「妻は中学、高校、大学、ずっと同級生。今は銀行の副頭取をしています」といっていました。
 ジュンさんの恋人も、同じ大学の人。

 博士課程に合格したら結婚の届けを出すそうなので、結婚届の提出もちょっと延期になったけれど、希望をもってすごして、来年は博士課程合格と、結婚のふたつの花が咲くことでしょう。

 昨年、中国では、自分のクラスの学生コンパのほか、いつもジュンさんのクラスのコンパにも招いてもらい、カラオケでうたったり、おいしい中華料理を食べたりしてきました。全部学生たちのおごりでした。

 中国ではコンパに先生を呼ぶ場合、完全にご招待です。先生がお金を出したりしたら、失礼なことになるのです。
 日本では、学生と教師がいっしょに食事したら、教師がおごるんだよ、と、日本の習慣について説明し、「今日のロシア料理は、私のおごりだから、たくさん食べてね!」

 ジュンさんは、「グルジア式チーズパイ」を頬張りながら、「先生に教えていただいたのは、読解の授業を10回くらいでした。でも、わたしにとっては、この10回の授業は、人生のなかでとても大きいものになりました。いつも元気で、にこにこしていた先生の授業が大好きでした」と、言ってくれます。(そりゃ、おごられている時に、あなたの授業はつまらなかったとは言えないけれどね)
 
 ジュンさんの出身大学は、私の、若い友人ランリンが日本語講師をしている大学です。
 ランリンも準教授の試験をめざしてがんばっています。去年、はじめて挑戦した昇任試験に不合格だったときは、ずいぶん落ち込んでしまったようですが、娘さんシンシンちゃんに励まされて、再チャレンジを決意した、というメールをくれました。

 そう、一度うまくいかなかったからといって、あきらめることはない、何度でも夢にむかって挑戦を!

 ランリンが住む町は、ジュンさんのふるさと。一人っ子のジュンさんを日本へ送りだし、心配しながらも応援してくれる故郷の両親の顔を思い浮かべ、日本語を共に習った学友たちの顔を思い浮かべながら、ジュンさんは、来年へ向けてまた新しい一歩を踏み出しました。

 東京で忙しい留学生活を送っていると、中国で日本語学習に励んだ日々がなつかしい、とジュンさんは言います。日本語学習で切磋琢磨、助け合い競い合った1年間。
 クラスメートそれぞれ、自分の夢にむかってすすんでいます。ジュンさんも、しっかりと来年へ向けて歩んでいくことでしょう。

<つづく>
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2008年05月13日


ぽかぽか春庭「夢にむかって」
2008/05/13
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(4)夢にむかって

 ジュンさんのクラス「博士3斑」の15人、私が担任した「博士2班」の22人、北海道から九州まで、日本各地の大学へ留学しました。

 ジュンさんは、2006年10月から2007年9月まで、中国教育部直属の教育機関で日本語を学びました。
 中国人大学教授たちと、文科省より派遣された日本人講師が協力して日本語を教える、国家プロジェクト。私は2007年度の文科省派遣教師でした。

 毎年100人前後の学生が、このプログラムで日本国文部科学省国費留学生となり、日本に留学しています。
 100人は、20人ずつ5つのクラスに分かれて日本語を学んでいました。「博士一斑」から「博士五班」まで。

 日本に来てしまうと、なかなか、かって同じクラスだった友達にも、会うチャンスはありません。
 私のクラス「博士二斑」は、年末とお正月に、東京で「ミニ・クラス会」をして、餃子パーティや「日本の家見学会」をしました。

 これは、「博士二斑」の担任リー先生が、現在日本の大学で研究研修期間中で、いっしょに日本にいるおかげ。担任の先生と教え子が同時に日本へやってきた、めずらしいケースです。

 ジュンさんのクラス「博士三斑」の担任先生は大阪在住なので、まだ、東京に住むクラスメートたちのクラス会は行われていません。

 トンシャオさんは、ジュンさんのかってのクラスメートのひとり。
 私は、二人が在籍しているクラス博士三斑の読解授業を担当しました。
 日本のロボット工業の文章を読解するときはアトムやアシモの写真、鎌倉の歴史について読むときは、大仏や鶴岡八幡宮の写真など、さまざまな画像を読解の助けとして読んでいきました。

 今はインターネットから拾えるので、読解参考資料づくりが13年前に比べればずっと楽でしたが、それをパワーポイント教材にととのえるのに、一晩がかりだった。これも、1年たつ今では、なつかしい思い出。

 読解という名の授業なのに、文章を読みとることよりも、「日本文化紹介」の授業になってしまいましたが、ジュンさんもトンシャオさんも面白そうに、日本の生活のあれこれについて聞いてくれました。

 トンシャオさんは、私が出講している国立大学のひとつに留学しました。工学部大学院で工業デザインの研究をしています。
 理系の彼は、2月の入試に無事合格し、博士後期課程の大学院生になりました。

 大学院の研究と同時に、国際教育センターで日本語を学ぶトンシャオさん。
 彼と話をしていたら、ジュンさんが2007年後期に留学先の大学で日本語を習ったY先生と、4月からトンシャオさんが学ぶ日本語クラスのY先生は、同じ先生だということもわかりました。

 非常勤講師はあちこちの大学を掛け持ちするので、大学が異なっても、同じ先生に習うこともありえます。
 私も、国立大学2校と私立大学2校を掛け持ちで週5日授業をしています。
 以前から劣悪な条件で働いていた語学教師は、国立公立大学の法人化により、ますます過酷な条件であちこち掛け持ちしています。それでも食べていけません。

 ジュンさんとトンシャオさんが1年前、私の教え子だったことについて、偶然のことながら、「これもご縁ですね」と、Y先生と講師室で話しました。
 こんな偶然を知ると、100人の留学生が日本全国に散らばってすごしていても、どこかにつながりがあるもんだなあ、と思います。

<つづく>
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2008年05月14日


ぽかぽか春庭「加油!」
2008/05/14
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(5)加油!

 トンシャオさん、去年は、研究留学生だったから、朝お弁当をつくって持ってくる余裕もあったけれど、2月に博士後期課程に合格し、4月から博士後期課程大学院生になったら、本当に毎日忙しくて、あまりお弁当を作れなくなった、といいます。
 大学内の食堂で、お昼ご飯をいっしょに食べることにしました。

 5月2日、トンシャオさんとランチ。
 図書館近く、大学会館のレストランで。あまりおいしくはないけれど、ワイワイしている生協学食よりは落ち着いて食べることができます。

 トンシャオさんの悩みのタネは、やはり日本語。
 大学院の指導教官と話すときは、先生が気をつかって専門用語などを説明しながら言ってくれるので、大丈夫だけれど、問題は、大学院生同士のディスカッション。

 日本人院生たちの会話は、とても早いし若者言葉も混じるし、専門用語の解説なしに話がすすむので、ディスカッションなのに、自分の意見を言うこともできない、と、トンシャオさんは嘆いていました。
 だんだんに耳がなれてくるし、若者言葉も覚えていくから大丈夫、と励ましました。

 トンシャオさん、若者言葉の会話に悩みつつも、とても元気で、研究の抱負を語っていました。
 また、北京オリンピックに日本人を連れて行くボランティアスタッフに応募したので、運がよければ、スタッフに選ばれるかもしれない。そしたら、この夏にはボランティアとして日本人といっしょにオリンピック見物ができるんだけれど、、、と、言っていました。

 「北京オリンピックも見たいけれど、なにより、日本人といっしょに行動していれば、自分の日本語の勉強にもなると思うので」と、語るトンシャオさん。
 応募する中国人留学生はとても多いそうなので、「宝くじ」みたい、ということですが、うまく当たるといいね。

 「ジュンさんトンシャオさんのクラスもそのうち集まってコンパをすることがあるでしょう、そのときはまた、私やチュンツォン先生も呼んでね」と、トンシャオさんに話しました。

 14年前に中国で教えたときの教え子のひとりに、耐震構造の研究をしている女性がいました。
 自分が子供のころに経験した四川省の大地震を心にきざみ、地震に耐える建物を研究しようと志したのです。

 たぶん、政府の建物などには、耐震構造の研究成果が生されていることだろうと思います。
 でも、一般の人の家までは、まだ耐震構造がいきわたってはいない。
 彼女が望んだ「二度と地震のために人が死なないように、丈夫な家を研究する」という志が、かなうのはいつの日でしょうか。
 きっとその日をめざしていることでしょう。

 留学生たち、みな日本での研究生活、かんばっています。
 私も授業と研究、がんばるよ。
 加油!チャーヨゥ!

<おわり>
08:16 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年05月15日


ぽかぽか春庭「ホワイトフォックス」
2008/05/15
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>桜さいたランチ(1)ホワイトフォックス

 3月4日に、コピルアックを飲んだ店、ホワイトフォックス。
 ランチの「サーモンマリネとイクラとアボガドのどんぶり」、とてもおいしかったので、息子と娘にも食べさせようと思いました。
 ちょっとしたお祝い事があったので、3月14日、いっしょに「ホワイトフォックス」へ行きました。

 2006年10月にオープンしたレストラン&日本酒ワインバーは、洋食に和食を取り入れた創作メニューがウリの店。店名は、「王子の狐」に由来する「ホワイトフォックス」です。

 オーナーシェフ:トレバー・ブライスさん。HPに詳しい料理修行歴、コンテスト受賞歴があります。イギリスやフランスの三つ星レストランで修行をつんできました。
 サブシェフ:八木晴絵さん。笑顔が愛らしい美人シェフ。トレバーさんの兄弟弟子シェフのもとで修行をしてきました。 
 サービス:ひろみ・ブライスさん。天才シェフを支えるしっかり者の奥さん、こまやかな心づかいを見せてくれます。

 トレバーさんは欧州の数々の料理大会で優勝し、2000年に来日しました。
 長野や東京銀座のレストラン総料理長として活躍。著書『モダン・ブリティッシュの秘密レシピ』(日本放送出版協会2002)
 2007年には国際的な大会「Eat-Japan創作寿司第六回コンテスト」で優勝しました。
http://www.eat-japan.co/sushuaward/sushi_competiotion.html

 お昼ご飯と夕食の間の空いている時間をねらって行ったのですが、3月14日に予約しておいたら、ねらったように「東京大雨注意報」が出た。
 びしょぬれで店に入りました。さっと一筆書きしたような洒脱な狐が描かれている、ホワイトフォックスの看板も濡れています。

 食べ始めたときに隣のテーブルにいた二人連れの女性客は、私たちがスープを終える頃にはいなくなり、私たちが出ていくとき、男性ひとり客が入ってきました。
 テーブル3つに10脚、カウンター8脚の小さな店内ですが、私娘息子の3人、貸し切り状態でゆったり食べることができました。

 コース料理といっても、テーブルごとに盛り皿がおかれて、とり皿に各自が取り分ける、という気軽な居酒屋風コースです。和風と洋食のフュージョン料理だから、お箸も出してくれます。

 ホワイトフォックスでの食事。3人前、デザートとコーヒー含めて1万円の予算でアレンジをお願いしました。
 ひとり3千円ちょっとのコース、といえども、我が家の外食では、「高い方」なのです。ちょっと高いけれど、お祝いだから、奮発。

<つづく>
06:09 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2008年05月16日


ぽかぽか春庭「フルコースでおめでとう」
2008/05/16
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>桜さいたランチ(2)フルコースでおめでとう

 え~、ちょっとしたお祝いというのが、何のお祝いかというと、、、、「ダイエット成功祝い」じゃないことだけは確か。

 ホワイト・フォックスのメニュー
・本日のスープ・きのこと豆腐の和風コンソメスープ(わけぎとレモンジュースと醤油が隠し味)
・モツァレラチーズとトマト&バジルのブルスケッタ(フランスパンの上にチーズ&トマトのせ)
・新鮮野菜のサラダ 味噌ドレッシング
・クリームチーズムースと大根
・海老のグリル ニンニクとハーブ風味 マーシュとミズナ添え
・サーモンとアボカド、イクラのご飯物
・デザート 私ダークチョコレートとくるみのケーキとオレンジピールのスパイシー風味添え 娘ブラックライス部ディング、ライムとジンジャー風味のパイナップル添え 息子バナナと黒ごまのバヴォワーズ梅酒のグラニテ添え(バナナムースの上に梅酒シャーベットが乗っていた)
・紅茶と珈琲

 私は、グルメではなく、食事に関しては「おいしい」「とてもおいしい」というくらいしか表現力がないのですが、トレバーシェフの独特の味の世界は、味音痴の私にもよく分かりました。
 自分自身の味の世界を追求する姿勢がよくわかる個性ある味でした。ほんとにおいしかった。

 味にうるさい娘と、他の人が大勢いるなかで食事するのが苦手な息子、ともに満足のランチでした。
 ま、当分「フルコース」など食べる機会はないでしょう。
 「貧乏なうえに、さらに貧乏になるっていうお祝い」のフルコースだったのです。

 収入は減る一方ですが、支出は増える一方。
 去年、息子が大学生になって、私立だもんだから、学費がかかる、卒業までたいへんだなあと思っていました。
 それに加えて、もう一人分さらに私立大学の学費がかかることになりました。

 息子に加えてもう一人学生が増えたのはどうしてかというと、私自身が学生になったから。
 っていうのは、私の年来の夢の実現にむかってのプロジェクト、スタートしたのです。
 大学院の博士後期課程を受験し、合格しました。
 大学講師の仕事をつづけながら、博士課程で学び、博士号をめざすことになりました。

 私は、修士号を取得し日本語教育能力検定試験にも合格しているので、今の仕事を続ける上で不足はありません。
 でも、博士号をとりたいというのは、私の年来の夢なのです。

<つづく>
06:27 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2008年05月17日


ぽかぽか春庭「出発(たびだち)は何度あってもいい」
2008/05/17
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>桜さいたランチ(3)出発(たびだち)は何度あってもいい

 私の同僚には、コツコツと論文を書き上げ、大学に提出して審査をうける「論文博士」で博士号を取得した人もいます。でも、元来怠け者の私には「コツコツの努力」は不向きです。

 それで、指導教官を得て、「研究計画」のプログラムに沿って発表や学会論文をこなしていく「課程博士」で、博士号をめざすことにしました。
 指導教官から、ムチを入れられながら、叱咤激励を受ければ、なんとかゴールをめざせるかもしれません。
 「コツコツ」のかわりに「締め切りに追われるレポート」と「発表」を積み上げていく方式。3年間の課程で博士論文が書き上がるかどうかは、ちと不安ですが。

 英語の苦手な私、入試に一回で合格できないだろうから、今年は来年のための「お試し受験」と思い、受験願書受付締め切り日の夕方、願書を大学院事務所に提出しました。最後の応募者であろう私の受験番号は33番。9名合格というので、三倍強。こりゃダメだ、とあきらめて、英語の復習もせずに出たとこ勝負で試験に望みました。

 お試しのはずが、ラッキーなことに合格したのです。10名合格していたので、1人多い。たぶん、このオマケの一人がわたし。
 これで一生の運を使い果たしたのではないことを祈っています。宝くじ1億円もあてたいので。

 この挑戦は、去年受け持った教え子たちからの刺激によります。
 つぎつぎに「博士後期課程に合格」という知らせが入り、「ハカセ、いいなあ、私も博士号とりたいっていう夢、もう一度追いかけてみようかなあ」という気になってのチャレンジでした。

 15年前、私が修士号をとったとき、息子は4歳でした。
 子育てと大学院での研究と、日本語教師の仕事と夫の会社の手伝いと、4足のわらじを履き替えながら暮らしていた日々。
 今から思うと、よくもあんなサーカス綱渡りみたいな生活ができたと思います。

 なんとか修士号取得にたどり着けたのは、家族みなが大病にかからず、事件事故にあわなかったおかげと、運の強さに感謝しています。
 私が倒れても、姑に介護が必要になっても、どこかひとつ歯車がかけちがえば、達成できないめぐりあわせ。

 しかし、大学に再入学してから8年間続いた「主婦兼母兼日本語教師兼会社アシスタント兼大学院学生」という忙しすぎた日々に疲れ果てていて、博士後期課程への進学は断念しました。
 「娘と息子が成人するまでは、子育て優先。子供の食費をかせぐことが第一」と、博士号への夢を封印したのです。

 その息子が、今19歳、大学2年生。今年の秋には、20歳になります。
 夢への封印を解いてもいいころです。
 私もずいぶんと年をとってしまいました。でも、チャレンジに年齢は関係ない。
 「夢を実現しよう」と決意したときが、「そのとき!」です。

 息子と娘が合格祝いをしたいと言います。
 それで、コピルアックを飲んだ店ホワイトフォックスへ行って、「サクラさく、合格おめでとう!」の、楽しい食事になりました。
 あ、「ハハのためのお祝い」と言っても、支払い担当は私です。

 自分のために学費入学金を支払ったら、乏しい貯金は底をつき、息子の学費はまだ払っていません。学費未納による退学勧告が来る前に、ジャンボ宝くじあてなくちゃ。

本日の徘徊俳諧
博士望む女弟子いて山笑う


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裸足の1500マイル2008年7月

2011-02-11 08:20:00 | 日記
2008/07/14
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(1)アボリジニランナー

 オーストラリア・アボリジニの苦難の歴史を描いた『裸足の1500マイル』という映画があります。
 実話にもとずき、アボリジニの少女を描き、アボリジニが白人から受けた歴史を静かに告発しています。
 日本では、2002年の東京映画祭で上映され、私は一般公開を2003年に見ました。

 文化人類学や民族学を学んでいた私にとって、アボリジニは、1970年代から注目してきた、「すばらしい文化を持つ人々」、というイメージですが、世界中の人がアボリジニの存在に注目したのは、2000年、シドニーオリンピックのときです。
 
 オーストラリアを代表する陸上選手、キャシー・フリーマン。
 シドニーオリンピック開会式の聖火ラストランナーでもあり、400メートル金メダリストでもある。

 彼女が世界中に衝撃を与えたのは、彼女が「聖火ランナーかつ陸上金メダリストになった唯一の女性」というだけではありません。
 400mで優勝したウィニングランで、オーストラリア国旗だけでなく、アボリジニ民族旗をも身にまとって走ったからです。
 
 オーストラリア国内では、アボリジニというアイデンティティを「国威発揚」の場で表明した彼女に非難を浴びせる人もいました。しかし、アボリジニの存在を世界中の人に知らせるために、キャシーの行動は大きな力を発揮しました。

 アボリジニという先住民族が、オーストラリアにいたことを、キャシーによってはじめて知った人もいたのです。

 今年、6月6日、ついに「アイヌは先住民族である」と認める国会決議が採択されました。
 国会での「先住民」認定はまだまだ先になるかもしれないと、思っていたので、うれしい驚きでした。

 アイヌ文化に長く関心をもち続けてきた私には、画期的な決議に思えました。
 アイヌ文化は、金田一京助がユーカラ保存に関わって以来、日本語学者にとっても、縁が深いのです。

 私は、2007年10月20日に有楽町フォーラムで行われた「アイヌ文化フェスティバル」に参加し、佐々木高明(元国立民族学博物館長)の講演「アイヌ文化振興法10年-その意義と残された問題-」を感銘深く聞きました。
 アイヌのムックリ演奏指導などもあって、楽しい文化祭でした。今年も参加したい。

 2007年9月、国連総会で「国連先住民族権利宣言」が決議されました。
 国際法的な力はないものの、先住民族の自決権(3条)自治権(4条)伝統と慣習を維持する権利(11条・12条)資源に関する権利(27条・28条)環境に対する権利(29条)などを「先住民族」の固有の権利として保障するも宣言です。

 アイヌの問題を長い間放置してきたけれど、アメリカや国連のやることなら見習う日本政府は、ようやくアイヌの生きる権利を認めたのです。

<つづく>
06:14 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月15日


ぽかぽか春庭「兎よけのフェンス」
2008/07/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(2)兎よけのフェンス

 アメリカ合衆国のネイティブアメリカン(かってインディアンと呼ばれた人々)や、イヌイット(エスキモーと呼ばれていた人々)、ラテンアメリカのネイティブの人たち(今でもインディオと呼ばれている)、ニュージーランドのマオリ、オーストラリアのアボリジニ、北海道のアイヌ、、、、

 先住民族の生活権、生存権は、ようやく「人権」尊重の機運のなか、認められるようになってきました。

 先住民族の文化運動は各地で活発になっています。
 世界の先住民文化活動の中でも、ネィティブアメリカンやアイヌ、ラテンアメリカ民族芸術などと並んで、少数民族の存在を主張する流れをつくっているもののひとつに、アボリジニの文化があります。

 今回のシリーズでは、アボリジニを主人公にした映画『裸足の1500マイル』と、アボリジニ・アーティストのエミリー・ウングワレーをとりあげ、アボリジニの歴史と文化について考えたいと思います。

 オーストラリア出身の映画監督フィリップ・ノイスは、アボリジニの少女を主人公にした『裸足の1500マイル』を、アボリジニ側の視線で描きました。
 原作者のアボリジニ作家ドリス・ピルキングトンは、主人公モリーの娘です。母から聞いたアボリジニ苦難の歴史を本にしました。

 原題の「うさぎよけのフェンスRABBIT PROOF FENCE」とは、「うさぎが農地に穴を掘らないように設ける」という名目で設置された、アボリジニ隔離政策のためのフェンスです。

 映画は、モリーとデイジーの姉妹が親から無理矢理引き離され、ふるさとから1500マイル(約2400Km)も離れた収容所に入れられるところから始まります。

 白豪主義を標榜する豪州政府の政策により行われ、混血アボリジニの子どもたちは、誘拐同然のやり方で親から隔離されました。

 アボリジニの歴史を振り返ってみます。そもそも、なぜ混血アボリジニが生まれたのか。

 アボリジニの人々は10万年前の太古から、オーストラリアの大地に住み、狩猟採集によって生活し、美しい絵を岩や道具類に残してきました。
 大地のスピリットを敬い、自然と調和した暮らしを何万年も続けてきました。

 しかし、1788年以後、アボリジニの平和で満ち足りた生活は一変してしまいました。
 イギリスがオーストラリアを植民地とし、犯罪者流刑地としたからです。

 免疫を持たずに暮らしてきた人々は、イギリス人犯罪者ほかの人々が持ち込んだ病気にまったく抵抗力がありませんでした。多くの人が病にたおれました。
 また、カンガルー狩り、ウォンバット狩りなどの「スポーツ狩猟=紳士のための楽しみ」のひとつとして、「アボリジニ狩り」がまかり通り、「狩りの獲物」として殺される人もいました。

 1788年以前のアボリジニ人口のうち、90%が命を落としたといわれています。
 文字通りの「少数民族」にさせられてしまったのです。

<つづく>
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2008年07月16日


ぽかぽか春庭「ハーフアボリジニ」
2008/07/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(3)ハーフアボリジニ

 白人の持ち込んだ疫病や「アボリジニ狩り」に耐えて生き残ったアボリジニの女性は、髪を切られ「boy」として白人の召使いにされました。
 ボーイの多くが雇い主の陵辱を受けました。

 現在、アボリジニに白人とのハーフやクォーターがいることの理由のひとつは、この「ボーイ」を性の道具とする習慣があったためです。

 アボリジニ社会では、父親がだれであれ子供は大切にされ、一族の子として皆で育てるので、アボリジニ・コミュニティで育てば、子供が差別を受けることはありません。
 しかし、白人側で育つハーフアボリジニの子供は、さまざまな差別を受けました。
 ハーフやクォーターの子供たちは、「アボリジニより色が白く見える」ため、女性が極端に少なかった流刑地の「性処理」のために働かされることも多かったと言います。

 イギリス人宣教師などをはじめ「善意の人々」は、「混血児」には白人の血が入っているのだから、救わなければならないと考えました。「白人化政策」と呼ばれている、白豪主義の実践です。
 キリスト教の精神を知らない「野蛮な人々」を教化せんと、強制的収容政策がはじまったのです。ここからも多くの悲劇が生まれました。

 1910年ごろから1960年代まで50年もの間、この「アボリジニ混血児に教育を受けさせるために、親から強制的に引き離して、アボリジニ専用寄宿舎で教育する」というオーストラリア政府の活動が行われました。
 寄宿学校という名の収容所です。誘拐同然のやり方で、子供たちが集められました。

 政府や教会が主導し、アボリジニの子供を「進んだ文化」によって立派に教育しよう、という考え方に基いて、50年間にアボリジニの子供たちのうち約1割、10万人が親元から連れ去られました。

 少女たちは、「寄宿学校」である程度の読み書きを教えられます。
 寄宿学校長(収容所長)は、「就職先」として、白人入植者の家を選び、アボリジニ少女をメイドとして送り込みました。

 「教育を受けて、白人の家庭で生活するほうが、無教養なアボリジニの親と生活するよりはるかに幸福」と、所長は信じています。

 しかし、メイドとして雇われた少女は、雇い主の性奴隷とされる例がほとんどでした。
 かって「ボーイ」として白人家庭の雑用をさせられていたアボリジニの娘がそうであったように、「メイド」の生活は、悲惨さにおいて変わるところがありませんでした。

 雇い主の妻は、亭主が売春宿に出入りして性病をもらってくることをおそれ、より「安全な」メイドとの性処理を黙認していました。

<つづく>
08:56 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年07月17日


ぽかぽか春庭「盗まれた子どもたち」
2008/07/17
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(4)盗まれた子どもたち

 この「白人による強制的教育」を受けた子供たちは、「アボリジニは野蛮である」とたたき込まれ、「白人は優秀な指導者」と教えられました。
 自らのアボリジニとしての誇りを失い、しかも白人からは依然として「野蛮人の子孫」として扱われ続けたために、アイデンティティを喪失する子供が続出しました。

 教育にとって、アイデンティティの確立ということがどれほど大切か、を証明する「反面教師」となった事例です。

 いちど失われた心を取り戻すことは容易ではなく、多くの混血アボリジニが非人間的な精神状態のもとに生きる結果となりました。
 収容された10万人の子供たちのうち、どれほどの子供が収容所で命を落としたのかも、正確な調査は行き届いていません。

 白人から「アボリジニは遅れた野蛮人」と教え込まれ、アイデンティティを喪失した子供たちは、 "Stolen Children" (盗まれた子供達)と呼ばれています。親から盗み出された子供であり、本人は、精神のよりどころを盗まれてしまったからです。

 「盗まれた子供たち」の多くが、成人後、精神的に不調となり、アルコールや麻薬におぼれたり、働く意欲を失ったりしました。
 1970年代に強制収容は廃止されましたが、今でも、「混血アボリジニ」の中に、精神状態が安定しない人々が数多く残されています。

 映画『裸足の1500マイル』の原作者ドリス・ピルキングトンは、1937年、母親モリーの故郷ジガロングから60キロほど北西に進んだ集落に生まれました。
 ドリスは、3歳半で母モリーから引き離され、ムーア・リバー居留地に、強制収容されました。

 2002年東京映画祭記者会見でのドリーのことば。
 記者からの質問「北朝鮮拉致被害者また、被害者家族との再会についてについてどう思うか」
 『私は、3歳半の時に連れ去られて収容所に行かされたのですが、その時の収容所はひどい状況でした。だから(北朝鮮拉致被害者が)連れ去られるという気持ちはよくわかります。そして再会することも経験しているのでよくわかります。TVで(北朝鮮拉致家族の再会を)拝見したんですが、家族が再会して喜びにあふれる様子は私自身も24歳の時に経験しましたので非常によくわかります。私は3歳半から24歳まで両親から引き離されてたんです』

 2002.10.27 東京国際映画祭会見場での映画公開時に、ノイス監督とオルセン・プロデューサーの間で、記者会見するドリス。
http://www.minipara.com/movies2002-4th/hadashi/kaiken.shtml

 ドリスは、居留地出身者として初めて、パース王立病院の看護科に入学することができました。1955年、18歳のときのこと。

 居留地出身のアボリジニ女性の多くが、名前の読み書きができる程度の教育を受けて「メイド」になるしかなかった時代に、職業を持つ女性として自立できたことは、ドリスがいかに優秀な女性であったか、わかります。
 看護師として働いていたドリスは、結婚し、6人の子供を授かりました。

<つづく>
06:23 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2008年07月18日


ぽかぽか春庭「モリーとデイジー」
2008/07/18
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(5)モリーとデイジー

 ドリスは、結婚後、パースに戻り、大学に進学しました。
 結婚後、子どもを育てながら大学での勉学を続けたことは、私と同じなので、ドリスに親近感がわきます。

 ドリスは大学卒業後、西オーストラリア・フィルム・アンド・テレビジョン・インスティチューションで映像制作に関わるようになりました。

 ドリス・ピルキングトンの脚本作品『Caprice: A Stodkman’s Daughter』は、1990年、アボリジニライターのためのデイヴィッド・ウナイポン賞を受賞し、出版されました。
 現在は、29人の孫を持つ祖母として、アボリジニ文化を孫世代に伝える役割をはたしています。

 『うさぎよけのフェンス』は、母モリーの子供時代の強制収容所脱走経験の聞き書きとして、ドリスが執筆しました。
 映画脚本は、脱走逃亡劇をよりドラマチックにする脚色もなされていますが、原作は「母モリーの実体験」に基づくものです。
 少女モリーの、収容所からの脱走と逃亡の2400km。

 映画は、モリーとデイジーというアボリジニの姉妹が、混血であるが故に親から引き離され、寄宿学校=収容所へ入れられるところから始まります。

 寄宿学校では、色の白さによって子供を選別し、「より白いほう」を優秀と見なしました。
 モリーは、たいへん頭のよい、優れた資質をもった子です。しかし、教育を受ける選別に、モリーは入りませんでした。肌の色が黒かったから。

 色が白い子は、教育を受けさせてもらえるけれど、黒い子は、自分の名前さえ書けるようになれば、教育はおわり。仕事の契約書にサインできさえすれば、契約書の内容など読めなくていいのです。どんな仕事かなんて、詮索もできないまま、「メイド」として牧場へ行かされるのです。

 14歳のモリーは、幼い妹のデイジーと仲良しの少女グレイシーを連れて、母に会いたい一心で、収容所から逃げようと決意しました。

 母のいる故郷は、収容所から1500マイルも離れているとは、モリーにはわかりません。
 ただ、モリーが知っていたのは、収容所近くにあるのと同じ「兎よけフェンス」が、ふるさとにも張り巡らされていたことだけ。

 延々と続く兎よけのフェンス。
 でも、このフェンスをたどっていけば、母の待つ家へとつながる。

 モリーは、デイジーとグレイシーを連れて逃げだしました。
 1500マイル。2400km。
 日本にあてはめると、北海道稚内から沖縄那覇までの距離に相当します。この距離を、執拗な警察の追求をかわし食料を調達し、妹をかばいながら、モリーは逃げ切りました。

<つづく>
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2008年07月19日


ぽかぽか春庭「裸足の小さな逃亡者」
2008/07/19
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(6) 裸足の小さな逃亡者

 以下、春庭HP本宅の「ちえのわ日記」に書いた『裸足の1500マイル』を再録します。

 2003年「三色七味日記」http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0306c7mi.htm
============

2003年06年29日 曇り『裸足の1500マイル』
 午後、息子と映画『裸足の1500マイルーうさぎよけのフェンス』を見た。

 隔離政策によって母親と引き離された3人の少女が収容所を逃げ出し、母親のもとへ帰るまでの9週間の逃亡生活の話。そもそもアボリジニを主人公にした映画というのを初めて見た。実話によるストーリー。

 収容所長のネビルはデビルというあだ名を持ち、「野蛮なアボリジニの中でも白人の血を分け持ったハーフを教育してやり、文明の光を与えてやるのが正しい道」と信じ込んでいる。狭矮な白人キリスト教絶対主義が、世界中のマイノリティに果たした不正義を代表する男。

 収容所でおとなしく教育され、「白人家庭の忠実な召使い」として働くようになったメイビスは、オーストラリアの大地で暮らすより幸福になれたか。
 「旦那様」の蹂躙におびえ、人間の尊厳を失いながら生きるしかなかった。
 モリーは、妹たちを気遣いながら、独力で母のもとへ帰ろうと決意します。

 モリーは、頭のいい子だ。教育を受ければ、もしかしたらアボリジニ解放のために働ける人材になれたかもしれない。しかし、学校教育を受けさせるためにネビルたちが子供を選別する方法は「色がより白い方が優秀」という基準だった。
 モリーは西洋式の学校教育を受け損ねたが、アボリジニーの伝統的な生活の知恵を身につけ、人間らしい尊厳を忘れることなく生きることができた。

 映画の最後に、主人公のふたり、モリーとデイジー姉妹の本物が写される。年老いたモリーとデイジーが、オーストラリアの大地を歩く姿、涙がでた。

 モリーは結婚後も収容所に入れられ、再び逃亡する。モリーの生んだ娘は、3歳のとき収容所行きとなり、母娘は二度と会えなかった。

 収容所への隔離生活を余儀なくされたアボリジニの中には、現在、アイデンティティの不在のため心を病む人がいるのだという。
 オーストラリア政府は、彼らが人間としての尊厳を持って自分たちの文化を守って生きていける政策をきちんとつけるべきだろう。

 後からやってきて、勝手に入植し勝手にうさぎよけフェンスを張り巡らせたのは、白人なのだから。オーストラリアの大地は本来アボリジニのものだ。北海道が本来アイヌの大地であるのと同じように。
===========
 以上、『裸足の1500マイル』紹介。2003年06年29日「三色七味日記」より

<つづく>
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2008年07月20日


ぽかぽか春庭「アボリジニの大地」
2008/07/20
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(7)アボリジニの大地

 収容所を脱走したモリーは、最初に同じふるさと出身のメイビスが働く牧場をたずねました。
 「幸せに暮らしている先輩の例」として、学校長が話しているのを聞いていたからです。

 メイビスがメイドとして牧場で働いていることを、収容所のネビル所長は「おまえらのようなアボリジニが白人家庭で暮らせるなんて、ありがたいことだ」と言っていました。所長は、キリスト教徒の博愛精神にのっとってアボリジニを保護し、良心によって彼らの幸福を考えてやっていると心から信じています。

 収容所を逃げ出してきたモリーたちを、こっそりかくまって泊めてくれるかもしれないと期待して、メイビスを頼ったモリーたちでしたが、、、。
 メイビスの部屋に泊まることはできませんでした。
 夜、雇い主の牧場主が、メイビスの部屋へやってくるからです。

 メイビスは泣きながら蹂躙に耐えていますが、いっしょに逃げようというモリーには従いません。ネビル所長や雇い主が警察に連絡し、たちまち捕まってしまうことを知っているからです。逃げ出せば、雇い主からどんなひどい目にあわされるか、、、

 波瀾万丈の逃亡劇の末。モリーは、2400kmを逃げ通しついに母が待つ家までたどり着きます。
 
 モリーは故郷に戻ることができましたが、モリーの晩年にいたるまで、アボリジニ迫害の歴史は続きます。

『裸足の1500マイル』公式サイト
http://www.gaga.ne.jp/hadashi/intro.html

 色が黒かったモリーとデイジーは「白人から教育を受けられる子」にならなかった。
 しかし、結局のところ、白人が与える教育とは「白人は優秀であり、アボリジニは野蛮で劣っている」と教え込むための教育を受け損ねたほうがよかったのかもしれません。

 モリーはアルファベットを読み書きして「聖書を読める優秀なアボリジニ」にはならなかったけれど、「白人の教え」以上のことをしっかり身につけていました。
 14歳まで母の元にいたモリーは薬草や食べられる草の見分け方、火のおこし方、その他もろもろの「アボリジニの知恵」を持っていました。

 アボリジニは、先祖代々の「生き抜く知恵」を伝えてきました。白人流の教育とは異なりますが、アボリジニが、先祖の伝承や生活の知恵を代々伝えてきたことも、立派な教育です。

 モリーは母から先祖の伝統を教わり、大地に生きる知恵を身につけていたのです。
 執拗な警察の捜索をかいくぐり、妹のために食べ物を調達して、独力で1500マイル、約2400kmのオーストリア大地を逃げ切るには、さまざまな知恵を働かさなければ、達成できません。

<つづく>
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2008年07月21日


ぽかぽか春庭「アボリジニの家」
2008/07/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(8)アボリジニの家

 故郷にたどりついたモリーは母のもとへ帰りました。
 しかし、逃げ戻った故郷ジガロングも、けっして安全な世界ではありませんでした。
 すでに白人入植者たちが土地を切り取りし、アボリジニが平和に暮らす自由な大地ではなくなっていたのです。

 モリーは故郷で結婚し子供をもうけますが、子どもたちと引き離されてしまいます。
 ひとりの子は、3歳のときに収容所に奪われ、生涯2度と会うことができませんでした。
 もうひとりの娘とは、幸いにも再会できました。3歳半で親元から連れ去られたドリーは、再会したとき、24歳になっていました。

 ドリーは、母モリーと再会後、モリーからアボリジニスピリットを受け継ぐことができました。他の「盗まれた子供たち」のように、アイデンティティを失うことなく、アボリジニであることを誇りにして後半生を歩くことができたのです。

 「白人化政策」は1960年代まで続きました。
 今もなお精神的な苦しみをかかえた「盗まれた子どもたち」が、残されていることは、先に記したとおり。
 誇りを持って生きる心を奪われ、アルコールにおぼれたり無気力な生活をおくった人も少なくなかった。

 2008年2月13日の報道から。
 オーストラリアのラッド首相は2月13日、先住民であるアボリジニに対し、過去の政権が行った政策について、初めて公式に謝罪しました。
 この日、先住民であるアボリジニたちが所有していた土地に、首都キャンベラが建設されたことが公式に認められ、白人がアボリジニの土地を「盗んだ」ことがようやく正式に認定されました。
 白人がオーストラリアにやってきてから、220年目になる年の、謝罪でした。

 現在、アボリジニは、先住民としての権利を認められ、自分たちの独自の文化を守りつつ、現代社会に適応しようとしています。
 アボリジニ独自の文化のなかでも、アボリジニ・アートは、近年世界中の注目をあつめています。伝統のアートでありながら、最先端の感覚を持つ抽象絵画。

 古河市のアボリジニアートギャラリー「チャンガラカフェ」の所蔵品から。
http://www.tjangala-cafe.jp/gallery/index.html

 アボリジニ・アーティストの紹介もつぎつぎになされています。
 なかでも最大のアボリジニ・アーティスト、エミリー・ウングワレー、没後12年の回顧展が大阪と東京で開催されました。

 新国立美術館で、『エミリー・ウングワレー展』を見ました。5/28~7/28開催

 まだ、出来る限り歩かないようにと医者に止められているのに、どうしても見たかった。
 これで、治りがおそくなっても、しかたがないと覚悟して、新国立美術館に出かけました。
 会場でチケットを買うとき、はじめて、「学割」をつかいました。私、学生証を持っているのよね。学生証を使ってみたい毎日でしたが、これまで外出がままならなかった。

 新国立美術館は、ゆったりした設計で、エミリーの絵を見るのにふさわしい大きさのある会場でした。次回より、エミリー・ウングワレーの紹介です。

<つづく>
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エミリー・ウングワレー2008年7月

2011-02-09 20:19:00 | 日記
2008/07/22
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(1)カーメ・やむいもの魂

 仕事帰りの午後5時半すぎに新国立美術館に入館し、ゆったりよい時間をすごしました。
 毎週金曜日は午後8時まで開館しているのでありがたい。金曜日は毎週ジャズダンス練習の日でしたが、足の怪我で8月まで休むことにしたので、時間がとれました。って、ホントは歩いちゃいけないのだけれど。
http://www.nact.jp/

 5時半から、120点のエミリー・ウングワレーの絵を見ていき、あっというまに閉館時間になりました。

 1点見ては、フロア真ん中の椅子にすわって、足を休め、1点見て、ビデオ上映ブースですわってビデオによるエミリー紹介を見るという鑑賞の仕方だったので、時間がかかったのも事実ですが、エミリーの絵、1点1点が、じっくりと眺めていたい傑作ぞろいでした。

 画集でみたり絵葉書でみただけでも、好きになれる絵もありますが、エミリーの絵こそは、実物を見なければ、すばらしさの一部分にふれることにしかならない。
 いや、ほんとうは、オーストラリアの大地の中央で、砂の上に平らにキャンバスをおいて、キャンバスの四方から見るのが、もっともよい鑑賞方法なのでしょう。

 エミリー・ウングワレー展の日本側監修者である国立国際美術館館長・建畠晢(たてはたあきら)の解説を引用します。
 図録にある、建畠館長の「インポッシブル・モダニスト」というエミリーへのオマージュもとてもすばらしい文ですが、長いので、こちらを。
===============

 『 エミリー・カーメ・ウングワレーは、アボリジニを代表する画家であると同時に、20世紀が生んだもっとも偉大な抽象画家の一人であるというべきでしょう。オーストラリア中央部の砂漠で生涯を送った彼女の絵画が示す驚くべき近代性は、西洋美術との接点がまったくなかったことを考えるなら、奇跡的にさえ思われます。

 彼女は1970年代の後半にバティックの制作を始めますが、何といっても注目されるのは89年から96年に86歳で没するまでの8年間に描かれた3,4千点に及ぶアクリルの作品です。
 それらの画面はしばしばポロックらのアメリカ抽象表現主義との共通性を指摘されています。

 最晩年の長さ8メートルに及ぶ大作《ビッグ・ヤム・ドリーミング》(1995年)のネット状のイメージが自生するヤムイモをモティーフにしているように、実のところはいずれも画家が住む土地の動植物などから広がった夢でもあるのです。
 砂漠が生んだ天才、エミリーの世界は私たちに大いなる感動をもたらすに違いありません。 』
===============

<つづく>
07:55 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年07月23日


ぽかぽか春庭「ドリーミング」
2008/07/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(2)ドリーミング
 
 エミリー・カーメ・ウングワレーは、オーストリアを代表する画家です。
 ネットで検索すれば、エミリーの絵のモチーフを知ることができます。

 でも、そのモチーフがキャンバスに描かれた迫力はおそらくわからない。
 エミリーの絵は、2×5m、 3×8mなどという大きなサイズがほとんど。
 たぶん、図録やネットの中の紹介では、絵のすばらしさを伝えることは難しい。

 代表作の大きさを知るためのリンク。
http://www.enjoytokyo.jp/id/art_staff/149630.html

 エミリー・カーメ・ウングワレー。
 エミリーは、英語通称名です。

 ウングワレーは、地域に住むアボリジニの出自を表しており、ファミリーネームではなく、部族ネーム(スキンネーム)です。
 アボリジニ・コミュニティでは、地域の一族は全員で助け合う仲間であり、地域一帯の同部族を表す名前があります。スキンネーム=ファミリーネーム、と言っても同じでしょうが、英語的な「家族」とは異なるので、ファミリーネームという用語を使わない。

 カーメは、アボリジニのことばで、「やむ芋」を表し、エミリーの「ドリーミング」です。
 エミリーにとって、カーメとは、自分自身の存在と自然との交歓、宇宙観すべてを含めたものを表しています。
 エミリーはヤムイモを描くことで、自分が司るドリーミングを継承し伝えようとしています。

 「ドリーミング」といわれる儀礼は、先祖の時代の天地創造にまつわる神話や伝説を伝えるものです。神聖な儀式の中で伝えられることもあり、また大地に砂絵として示されることもあります。

 ネイティブアメリカンのトーテムに通じる部分もありますが、同じではありません。
 ドリーミングとはアボリジニが先祖代々受け継いできた宗教や掟、神話、伝説などと、それにまつわるすべての物事を包括した言葉です。
 エミリーの場合、自分の命、精神が「カーメ(ヤム芋)」と共鳴しながら存在する、というところでしょうか。

 アボリジニは、自分が守り後世に伝えるべきドリーミングを、一人一人持っています。
 エミリーにとっては、やむ芋がドリーミングアイテムですが、トカゲの人もいるし木の実の人もいる。

 アボリジニの絵は、点描や線で表現されています。
 何を描いたのか、外部の人々にはわかりません。モダンな抽象画に見えます。

 しかし、アボリジニの部族内部の人がみれば、それがどんな神話を伝え、どんな伝説を描いているのか、わかります。
 部族の秘密を守りつつ次の世代へと、儀礼や砂絵やボディペインティングで伝承が続くのです。
 
<つづく>
08:14 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2008年07月24日


ぽかぽか春庭「アルハルクラ」
2008/07/24
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(3)アルハルクラ

 これまでオーストラリアの大地で何万年もの間続けられてきた絵を描く行為を、エミリーは、自分の感性で続けました。

 エミリーは、いかなる西洋美術の影響も受けたことはなかった。
 美術教育を受けたことはおろか、西洋美術を見たことすら無かったのです。

 西洋美術に見慣れた目には、「最先端のモダンアート」「近代的抽象絵画」に見えるとしても、エミリーにとっては、先祖代々の「ドリーミング」、すなわち大地のすべての物語を描いた絵なのです。

 「エミリー・カーメ・ウングワレー」は、エミリーが「自分の作品に関しては、この名を用いる」と、決めた名前です。

 「エミリー・ウングワレー」というカタカナ表記は、できるかぎりアボリジニの原音に近いものとして表記されていますが、「エマリー・カーメ・ングウォリー 」「エマリー・カーメ・ングオリ」という表記も見かけました。

 また、死後一定期間は死者の名をよぶことをはばかる、というアボリジニの慣習により、わざとちがうつづり表記で名をあらわすこともあります。

 エミリー・ウングワレーは、1910年ごろ生まれました。正確な生年月日はわかりません。アボリジニ(Aborigine)の人々は、生まれた年や月日を記録する習慣を持たなかったからです。

 これは、現代でも同じで、パスポートがいる、という時に、はじめて、生年月日を書き込む必要ができ、さまざまな状況証拠から生まれ年をさぐって記載することになります。

 生まれ年がはっきりわかっている人を基準にして「Aさんがあの石くらいの背丈だったとき、あなたはどれくらいAさんより背が高かったの?」などの質問をして、生まれ年を探っていくのだそうです。

 誕生日がわからない人は、全部1月1日生まれとして処理されるから、アボリジニの人の多くは、誕生日が1月1日。
 まあ、これは戦前の日本の「数え年」の年齢制度では、全員が1月1日にいっせいに年齢をひとつ上げていたのだから、同じようなものと思えばいいでしょう。

アボリジニアートの例
http://www.arts.australia.or.jp/events/0706/aboriginalart/

 エミリーは、アボリジニの伝統に従って、砂の上に絵や模様を描き、アボリジニを守る聖なる存在に捧げてきました。
 また、女性の儀礼のために、周囲の女性たちに「儀礼のファッション」であるボディペインティングを描いてきました。

 60歳過ぎまでそうやって、エミリーはアボリジニの伝統生活の中で、静かに心豊かに暮らし続けました。

<つづく>
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2008年07月25日


ぽかぽか春庭「ろうけつ染めとアクリルペイント」
2008/07/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(4)ろうけつ染めとアクリルペイント

 ひとくちに「アボリジニ(原住民)」と、言っても広いオーストラリア大陸です。おおまかな系統分類では30系統の部族が、300ほどの言語に分かれて、それぞれの固有の地域で暮らしてきました。文化もこまかい差があり、ひとくくりにすることはできません。

 エミリーの話すアンマチャラ語は、中央のシンプソン砂漠のはしにあるアリススプリングという町からさらに奥地へ250km入った「ユートピア」と呼ばれる地域の言語です。

 ユートピアとは、イギリス人が命名した地域の名ですが、エミリーの土地の人たちは、自分たちの地域をアルハルクラと呼んでいます。
 アルハルクラは、大きなアーチ型の神聖な岩の名です。この岩が見える地域に住んでいる人にとって、その土地は「アルハルクラ」です。

 白人が来るまで、土地はアボリジニの大地としてそこにあり、だれのものでもなかった。
 しかし、白人がやってきたあと、土地には所有者が新しい名をつけました。
 アルハルクラのあたり一帯は「ユートピア牧場」と名付けられ、白人の持ち物となりました。法律的に正しく。
 
 この「法律」を決めたのは、あとからやってきた白人たちです。白人たちは「私たちは正当な法律のもと、正々堂々と正義によって土地を得たのだ」と、主張し、牧場開発を行いました。

 アボリジニが先祖代々の狩りを行うと「牧場主の土地に勝手に入り込んで、牧場主の所有物を盗んだ、アボリジニは法律も知らない野蛮人のどろぼうだ」と、されたのです。
 野蛮人はどっちだ、勝手に法律を定め、勝手に人の土地に入り込んだのはどっちだ、とアボリジニならずともおもいますが、、、、
 これは、北海道アイヌも、ネイティブアメリカンも、事情は同じ。

 1910年代から50年間も「アボリジニ隔離政策」を続けてきたオーストラリア政府は、1970年代以後、政策を変えました。

 隔離政策から保護政策へと方向転換をはかるようになり、「アボリジニが手仕事を身につけて自立できるように」という教育プロジェクトも始められました。
 その中に、染め物工芸教育プロジェクトがありました。

 エミリーは自分の言語、アンマチャラ語(アマチャラ語)だけを理解し、自分のドリーミングを大切にして生きてきました。
 ドリーミングによって大地に砂絵を描き、女性の儀礼のためにボディペインティングを行ってきました。

 アボリジニ政策の変化は、エミリーの生活にも変化をもたらしました。

 1977年、エミリーは「バティック(ろうけつ染め」の技法を習いました。67歳でした。
 それ以後、10年間、エミリーは伝統の砂絵のほかにバティックによって布にアボリジニの神聖な模様を描きました。エミリーにとっては、砂の上に描いても布に描いても、それは大自然への祈りに通じるものでした。

 1988年、78歳のエミリーは、「絵画教育プロジェクト」を受け、カラーアクリル絵の具によってキャンバスに描く方法を知りました。

 エミリーの絵は、第一作から大きな反響を呼び、またたくまにエミリーの名はアートシーンに広まりました。「奇跡の天才画家」として。
http://www.emily2008.jp/index.html

<つづく>
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2008年07月26日


ぽかぽか春庭「大地への祈りを描く」
2008/07/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(5)大地への祈りをえがく

 美術学校教育もいっさい受けず、西洋的な美術技法を知らなかった80歳のアボリジニ女性が初めて描いたアクリルペインティングの作品。

 エミリーにとっては「ヤムイモやトカゲ、草の実」などを、伝統にのっとり、感じるままに描く「自然の魂」そのものです。
 しかし、西欧美術を知るものには、「最先端抽象美術」の最良のものに見えました。

 「インポッシブル・モダニスト=不可能な近代芸術家」と呼ばれるのも、まったく近代西洋美術の考え方では「ありえない」ほど飛び抜けた「モダンな抽象表現」に思えるからです。

 エミリーは砂に描いていたのと同じように、毎日キャンバスに描きました。3m×8mという大作を2日がかりで仕上げたり、小さなキャンバスを何枚も並べて、一日中描き続けたり。

 亡くなるまでの8年間に、エミリーは3000~4000点もの絵画作品を残しました。
 3000点から4000点というキャンバス作品、正確な制作点数がわからないのは、描かれた絵の行く末など気にとめなかったからです。

 エミリーにとって、描くことは神聖な大地への祈りであって、描く行為こそが大切でした。砂に描いた絵は、風が吹けば神のもとへと行ってしまう。
 勝手に絵を持っていくコレクターもいたし、ほしいと言う人に分けてやりました。

 今、エミリーの絵は、コレクターの間で高値で取り引きされています。
 1点1億円以上の値段がついた、唯一のオーストラリア人アーティストでもあります。
 エミリーからタダ同然で絵を受け取り、「オークション長者」になった人もいることでしょう。

 かろうじてエミリーの部族アボリジニの仲間に残された絵は、アボリジニの福祉のために使われるよう設定されていますが、エミリーも知らない間に、白人コレクターの手に渡った作品も数多くあります。
http://www.emily2008.jp/viewpoint.html

 そもそも、アボリジニの人々には「個人所有」という考え方はありません。「ものは、必要な人のところへいく」という考え方。
 そこに食べ物があれば、おなかがすいた人たちが分け合って食べるのです。

 靴を履きたい人がいて、そこに靴がありサイズが合えば、だれの靴でも履いて帰る。
 はいてきた靴が見あたらなければ、また別の靴を履いて帰る。最終的に大足の人に子供サイズの靴しか残らなかったら、、、、裸足で帰ればよいだけ。

 エミリーのことば
「ペンシル・ヤム(細長のヤムイモ)、トゲトカゲ、草の種、ディンゴ(オーストラリアの在来犬)、エミュー、エミューの好きな小さな植物、緑豆、カーメ(ヤムイモの種)、これが私の描くもの、すべてのもの」

 エミリーは、故郷アルハルクラの大地に広がるカーメ(やむいも)の地下茎を描き、風にゆれる草の実を描き、女性たちのボディペインティングのストライプを描きました。

 トカゲを狩り、芋を掘って生きるアボリジニの生活は、大地の魂と響きあい、豊かな精神をはぐくんできたのです。
 アボリジニの人々は、大地と深く結びついて生きています。草もヤム芋も、トカゲも、豆も、すべてのものが、アボリジニの魂であり、ともに生きていくものたちです。

<つづく>
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2008年07月27日


ぽかぽか春庭「ミニーとバーバラ」
2008/07/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(6)ミニーとバーバラ

 今回のエミリー回顧展、オープニングゲストとして、オーストラリアや日本から、エミリー芸術に関わったたくさんの人が招かれました。
 その中のひとりがバーバラ・ウィア。エミリーの後継者と見なされている女性です。

 バーバラとその作品。
http://www.landofdreams.com.au/artists/barbara-weir.html

 「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組で、日本の女性タレントがアボリジニの家庭にホームステイをした回があります。そのホームステイ先がバーバラの家でした。

 どうしてバーバラがホームステイ先に選ばれたかというと、彼女は英語が話せるから。
 なぜ、英語を話せるかというと、彼女も「盗まれた子供」として、寄宿学校=収容所に入り、その後20年、白人家庭を転々としました。英語を使うしか生きるすべがなかった。
 
 バーバラの母、ミニー・プーラ(Minnie Pwerla1910~)。
 ミニーは、エミリーと同じ1910年ごろ、アリススプリングス北東のアルハルクラで生まれました。(白人側からみると、「ユートピア牧場の所有地域内」で生まれた)

 ミニーは6人兄弟の間に育ち、伝統のボディペインティングや砂絵を身につけました。
 ミニーは狩りや儀礼を采配する重要な役割を担い、中でも女性の儀礼において、部族間で長い間伝承しつづけてきたボディペイントの「語り部」でもありました。

 ボディペインティングは、ただ女性の肩・胸元・乳房・腕にかけて描かれるだけでなく、その図象に物語伝説を伴うものなのです。ボディペインターは、その物語の語り部でもあります。

 ミニーは7人の子供に恵まれました。そのひとりがバーバラ・ウイアです。
 バーバラは、1945年にアボリジニ女性ミニーと、アイルランド系白人男性との間に生まれ、1955年、10歳のとき、「混血児を収容して教育を与える」という白人化政策によって、母親と引き裂かれました。

 映画『裸足の1500マイル』の中の、モリーと同じ悲劇を、バーバラも経験したのです。
 モリーは逃亡に成功したけれど、バーバラは、モリーの娘ドリスと同じく、長い間母から引き離され、白人化教育を受けさせられました。

 バーバラは、白人から受けた教育で英語が話せるようになりましたが、そのかわり、アボリジニとしてのアイデンティティを奪われ、地域アボリジニの言語であるアンマチャラ語を忘れてしまいました。

 バーバラが故郷の砂漠地帯に戻れたのは、20年後です。白人化政策が廃止され、故郷にようやく帰ることができました。

<つづく>
07:02 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月28日


ぽかぽか春庭「インポッシブル・モダニスト」
2008/07/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(7)インポッシブル・モダニスト

 故郷に戻ってきたものの、バーバラは30歳ちかくになっており、地域のことばも話せず、故郷の人々になじめませんでした。孤独にひきこもるしかなかったバーバラ。
 そんなとき、幼い頃のバーバラをはっきり覚えており、受け入れてくれたのがエミリーです。

 10歳まで同じ地域で暮らしたバーバラを、子を持たなかったエミリーは「養女」のように受け入れました。
 エミリーは、周囲になじめないバーバラの庇護者となり、バーバラに語りかけました。バーバラがアボリジニアイデンティティを取り戻すために、さまざまなことを教えました。

 バーバラは、心の育ての親であるエミリーを、生みの親のミニーと同じように慕いました。そして、エミリーの影響のもと、バーバラもアボリジニペインティングを描くようになりました。

 1990年以後、バーバラは画家として自立し、現在は、エミリーの後継者としてアボリジニ・アートの普及につとめています。
 また、英語が話せるバーバラは、世界各地でのアボリジニ・アート展覧会に際しての、関係者との打ち合わせにもかり出されます。

 アボリジニの中で、英語が話せる人はアボリジニの伝統から切り離されてしまっており、アボリジニの伝統を受け継いだ人は、英語が話せない。バーバラは、アボリジニアーティストでありつつ英語も話せる、貴重な人材です。

 1996年にエミリーがなくなったあと、バーバラは実母ミニーにも絵を描くことをすすめました。
 1999年、ミニーは、はじめてアクリルカラーの絵筆を手にしてカンバスに向かいました。

 ミニーが、ボディペインティングをモチーフにした絵を描くようになったとき、89歳~90歳になっていました。(正確な年齢は本人にもわからないけれど)
 90歳の新人画家誕生です。
http://www.landofdreams.com.au/artists/minnie-pwerla.html

 ミニーの描く絵も、エミリーの絵と同じように、強いエネルギーにみちています。
 90歳の女性が初めて絵の具で描いた絵と思えない迫力に満ち、90歳までに身につけた、伝統のアボリジニアートの美しく力強いスピリットにあふれています。。

 ミニー、92歳のときの作品
http://www.landofdreams.com.au/artworks/56.html

 バーバラは、今回のエミリー・ウングワレー展の特別ゲストとして来日し、イベントに出席しました。
 英語をまったく解さないアボリジニ・アーティストやダンサーも同行しましたから、バーバラの気苦労もなかなかたいへんだったことでしょうが、おかげでエミリー回顧展は大きな反響を呼んでいます。

 エミリーは、終生、故郷であるアルハルクラを称え、作品にアルハルクラへの賞賛と感謝を表現しました。
 エミリーの作品のひとつ「マイ・カントリー」アボリジニアート・コレクター内田真弓さん所蔵作品
http://www.landofdreams.com.au/artworks/2.html

 儀礼や歌、踊り、絵画制作、これらを行うことが生活することであり、生きること。エミリーの描くすべては、土地に深く根ざしています。

 エミリー・ウングワレーはじめ、アボリジニの人々の絵は、「アボリジニの魂」の表現です。

<つづく>
07:17 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年07月29日


ぽかぽか春庭「ユートピア」
2008/07/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(8)ユートピア

 エミリーの故郷「アルハルクラ」と呼ばれる地域。
 一帯の赤い大地は、どこまでも広がり、豆や草を這わせています。
 アルハルクラは、アーチ型をなす赤い岩の名前でもあります。

 儀式を行うとき、エミリーは、鼻の中心部にあけてある穴に、10cmくらいの棒を差し込んだ姿をしています。
 穴があいたアーチ型の岩「アルハルクラ」に対して、エミリーが敬意を表す正装が、この鼻ピアスです。

 エミリーの写真。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/arts/080612/art0806120802000-p1.htm

 新国立美術館でのエミリー・ウングワレー点は、最初のブースに、故郷アルハルクラをイメージした作品を何点か代表作として展示し、あとは、年代順、テーマ順に沿って展示が為されています。

 ゆったりした空間に、エミリーの大作がならび、夜6時すぎの会場はあまり人も多くなくて、とてもいい時間が流れていました。

 1977年からはじまったバティックの布地ろうけつ染め作品。
 1988年からのカラーアクリルによるキャンバスの作品は、年代を追ってテーマが「点描」「ストライプ」などが並んでいます。

 1988年に描いた最初のカンヴァス作品「エミューの女」(1988-89、The Holmes à Court Collection蔵)は人々に大きな衝撃をもたらしました。

 最初の作品「エミューの女」
http://www.emily2008.jp/display.html

 「神聖な草」の章では、スピード感あふれるタッチで、すばらしい線がキャンバスを交差しつつ美しいハーモニーを奏でています。

 エミリーの最晩年にあたる1996年に制作された作品群。
 なくなる2週間前の3日間、エミリーは24点の作品を生み出しました。これがまたすばらしい。

 この3日の間、エミリーは幅広の刷毛を用いて、美しい色の面から成る作品を描きあげた。会場にはその中の5点が展示されています。
 79歳でカラーアクリルペインティングをはじめて、87歳までの8年間、あくなきエネルギーで描き続けたエミリーですが、もっと長生きしてくれたら、さらにさまざまな描写によって、より幅広い表現の世界を追求したことでしょう。

 エミリーは、キャンバスをそのまま大地の上におき、キャンバスの上に座り込んで、四方から描きました。
 「どの方向からながめてもいい」というのが、エミリーの主張です。神に捧げる砂絵、神はどの方向から見ているのかわからない。それと同じく、どの方向から見てもいいというので、作品の天地は、研究者やキュレーターが決定します。

 私も、ひとつの作品を横から見たりいろんな方法で見てみました。
 作品によっては、木の枠が額として取り付けられていたのですが、エミリーが「額装」ということをまったく考えていなかったことは確かだと思います。

 なぜなら、私がキャンバスにちかづいて横から眺めたとき、キャンバスは縁にまでしっかりペインティングされ、模様がつけられており、ときには、キャンバスの裏側にまで絵筆がのびているものもあったからです。
 エミリーは、縁に塗った色が額によって隠されてしまうとは予想していなかった。

<つづく>

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2008年07月31日


ぽかぽか春庭「軌跡の画家」
2008/07/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(9)奇跡の画家

 エミリーの絵が、世界のアートシーンに驚きを与えて以後、エミリーはオーストラリアを代表する画家となりました。

 1990-91年にはシドニー、メルボルン、ブリスベーンで個展が開催されました。
 1992年にオーストラリアン・アーティスツ・クリエイティヴ・フェローシップを受賞し、エミリーが亡くなったあと、1997年にはヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア代表に選出されました。
 1998年にはオーストラリア国内を巡回する大規模な回顧展が開催されました。
 
 エミリー・カーメ・ウングワレー(1910年頃~1996年)
 彼女の作品は、没後12年を経て、ますます評価が高まっています。
 100を越える展覧会に出品され、世界各地の美術館、コレクションに作品が納められてきました。

 また、ヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア館で特別出品されたほか、1998年にはオーストラリア国内の主要な美術館を巡回する大規模な個展が開催されました。

 日本での紹介は、1996年、エミリーが亡くなったころに、日曜美術館で紹介したということでしたが、私はまったく彼女の絵を知ることなく2008年まできました。

 2008年6月7日にテレビ東京の「美の巨人たち」、6月22日にNHKの「新日曜美術館」でエミリー・ウングワレーを特集したというのですが、私は見のがしました。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/0622/index.html

 今回、エミリー・ウングワレー展には、「ユートピア」というコーナーがありました。
 はからずも「ユートピア」と名付けられたアボリジニ、アンマチャラ語を話す人々の故郷。その故郷の生活すべての中に、エミリーたちの芸術が生きていました。

 エミリーや他のアボリジニアーティストによる、動物の彫刻や人形に伝統のペインティングをほどこした作品が出品されていて、キャンバスに描かれているモチーフが生活のなかにあることを感じることができました。
 ヤム芋を掘る農作業の棒にも、エミリーの祈りがこめられた点描があります。トカゲの丸焼きや芋煮をのせた器にも、伝統の模様がほどこされていました。

 ほんとうに、なんの予備知識もなくいきなり美術館でエミリーの絵にぶつかった、という鑑賞の出会いでした。

 アボリジニは、2000万人オーストラリア人口の2%強、46万人ほどだそうです。
 人々がおおらかに伝統と現代の生活を融合し、生き生きとした精神生活が送れるよう、オーストラリア政府は、しっかりとした政策をたててほしい。

 このすばらしい芸術の魂をもつ人々が、エミリーの残した芸術遺産とともに、未来へむかっていけますように。

<おわり>
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裸足の東京ウォーカー2008年7月

2011-02-01 05:37:00 | 日記
2008/07/11
ぽかぽか春庭やちまた日記>裸足の季節(2)裸足の東京ウォーカー

 それにしても、こんなふうに履き物がバラバラボロボロになるとは思わなかった。
 古いことは古いけれど、買ったまま、置き傘置き靴でひとくくりにして、学校のロッカーに何年も入れっぱなしにしておいたサンダル。何回も履いていないのに。
 ああ、足もとが崩れていく、、、、

 留学生教育センターにたどり着いたとき、サンダルは完全にバラバラ状態に壊れていた。もはや、履き物のていを為していない。
 事務室の人に、「スリッパがあったら貸していただけませんか」と、尋ねてみたけれど、ないって。

 ええい。1限目は、裸足で授業にでた。
 だれも私が靴履いてないことに気づきませんように。

 いつもは教室中動き回る春庭センセだけれど、足を怪我してから、机の前から動かないようにして授業することもあったので、本日も、椅子にすわって、机の前から動かないで授業しても、留学生たち、気づかない。午前中、中級文法のクラス、無事終了。

 昼休みに、大学生協の店へ行った。はだしで。
 私たちの世代にとって、裸足のランナーといえば、オリンピックマラソン2連覇、エチオピアのアベベですが、私は「裸足の東京ウォーカー」

 現代の東京の道路を裸足で歩く人は、たぶん、ゼロだろう。ホームレスの人でも、けっこうよい靴を履いている。

 大学生協で、「ビーチサンダルかスリッパ、おいてませんか。履き物ならなんでもいいんだけれど」と、言ってみたが、ない。品揃えの悪い生協じゃなあ。
 近くのコンビニまで行ったけれど、ない。

 夏だっていうのに、ビーチサンダルくらい揃えてもいいのに、、、、、そか、大学前のコンビニに、ビーチサンダルを買いにくる人いないよね。
 裸足で学外の歩道を歩く。雨が染みたあとの、濡れた歩道。

 午後の漢字のクラスにでるインドネシアの学生とすれ違い、「センセー」と、声をかけられた。ギクッ!
 う~ん、私の足、見ないでよ~。

 足には気づかれなかった。そういえば、私だって彼女のスカーフには目がいったけれど、足に何履いていたかなんて、見なかった。モスレム(イスラム教徒)の女性たちは、毎日すてきなスカーフでおしゃれをする。

 裸足で歩くこと、少数派だから恥ずかしいのか?
 人と同じ姿かっこうじゃないと、堂々と歩けないのか?
 裸足で歩いて悪いことは何もないのに。

<つづく>
06:17 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月12日


ぽかぽか春庭「裸足の女神」
2008/07/12
ぽかぽか春庭やちまた日記>裸足の季節(3)裸足の女神

♪OH MY 裸足の女神よ キズをかくさないでいいよ(足の傷はもう目立たないけどね)
痛みを知るまなざしは 深く澄んでもう萎れることはない(そうよ、痛みを知っている私、二ヶ月前に左足指骨折)
♪OH MY 裸足の女神よ キズをかくさないでいいよ
風に消されることのない 歓びさがそう
♪DON'T YOU CRY(ちょいと、泣きたい気分)
MY 裸足の女神よ ひとりで泣かないでもいいよ(泣いてるよ、私の足もとが崩壊して)
心から他人[だれか]にほほえむ 君の肩をひき寄せたいよ
(by B'z)

 裸足を自己表現というか、芸能活動のスタイルにしていた歌手のうち、私にとって「これは、ほんとに彼女の生きていく姿勢の表れ、と思って共感できたのはCoccoだけ。あとの人たちは、単なるファッションとしての裸足。裸足と言うより「素足の私がステキ」というスタイルだ。
 Coccoは、一度沖縄に帰って絵本を作ったりしたのち再登場したときはスニーカーを履いていたけれど、それでも彼女の歌うすがたには、ひりひりした心の奥底をさらす痛々しさ、ギリギリ裸足をさらさずにはいられない切実さがにじみでる。

 私は、普段、家のなかでは厳冬期以外は素足ですごすし、いつもの夏は5月から10月まで、素足にサンダル。
 最近は、管理の悪い砂浜や公園の芝生では、素足で歩いているとガラス破片がささったりする事故もおきるので、めったに屋外では裸足にならないけれど。

 生き方をファッションで示したいなら、私は腰箕に裸足が一番好きなスタイル。まあ、私のトップレスなんぞだれも見たがらないだろうから、腰箕だけじゃさすがにまずいかな、と思う程度。

 私だって渋谷のセンター街とか、秋葉原の歩行者天国を歩くのなら、裸足だっていっこう気にならない。みな、奇妙きてれつな衣装を競いあっている場所だから。

 都会の道路を裸足で歩くのは、特殊な健康法を実践しているか、変な宗教に凝っているか、と見なされる。つまり、私は「変わったカッコウして歩いている変わった思想信条の持ち主」と、斜めに見られるのがイヤなのだった。

 文化的衣装コードというのは、どの地域にもある。パプアニューギニアの「ペニスケース」だって、時と場合によって「このペニスケースをつけてこの儀式に参加するのはタブー」というような、コードがあるにちがいない。ペニスケースについてよく知らないで言っているのだけど。

 結婚式にパジャマででたら、何かの余興用の衣装と思われる程度ですむが、日本の衣装コードだと、葬式に「赤い靴」を履いて出席したら、確実に遺族からにらまれる。

<つづく>
00:59 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2008年07月13日


ぽかぽか春庭「裸足の400メートル」
2008/07/13
ぽかぽか春庭やちまた日記>裸足の季節(4)裸足の400メートル

 裸足で授業しても、誰にとがめられるということもないのもかかわらず、授業中落ち着かない気分でいたのは、やはり、私が「大学教師衣装コード」という、「無いようで、ある」ものに、しばられていたせいだ、ということが自分自身はっきりわかった。

 大学教師衣装コード、といっても、科目にもよるが、私立のほうが、「きちんとした格好」で授業することを求められる。
 しかし、最近の国立の若い男性講師には、ジーンズにTシャツで授業に出る人も増えた。
 芸術系の場合、スーツにネクタイなんて人のほうが少ない。

 国立で任期制ではないときの専任職の場合、けっこう自由度が高い。
 非合法な事件やセクハラ事件でも起こさない限り、服装の問題で首にされることなどないから。
 にもかかわらず、やはり、「シバリ」はあるのだ。

 私はいつもよれよれのシャツ&パンツスタイルで講義しているが、他の女性教師たち、みなそれなりにシャンとした服だし、特に年を取った女性たちは、勝負服としてスーツがお気に入り。カッチリ決めて仕事に臨む。

 「服なんて、気にしたことない。夏は裸でなければそれでよし、冬は寒くなればそれでOK」という服装ポリシー持ち主のつもりだったけれど、案外「服飾文化コード」に忠実な自分を発見した。

 私は、「他の人と同じ行動をとる」「社会常識からの逸脱をさけ、多勢に同化しようとする」という「日本社会のありかた」にいらだちを覚える方だ。

 それでも、服装に関しては、今後も、私は葬式に赤い服で出ることはしないだろうし、結婚式に招かれたら、花嫁花婿の親戚一同ににらまれないような服装は準備する。
 まあ、衣装にかんしては、社会生活上ごく平凡な、常識的衣装生活をおくるだろう。

 どんなポリシーがあろうと、服装コードごときにひっかかって悶着おこすほど、タフな精神を持ち合わせていない。

「男性はスーツかタキシード、女性はカクテルドレス以上の服装で」なんていう衣装コードを掲げるパーティやレストランなんぞには近寄らないし、学校の入学式卒業式にでるときは、それなりの見た目を準備するだろう。

 そう、私は、たかが「裸足で授業」程度でどきどきの気の弱い人間であるのだから。

 そんなことを考えながら、大学から最寄り駅まで歩いた。

 コンビニにもビーチサンダルやスリッパを売っていないとなると、次なる手段、隣の駅のイトーヨーカ堂までいって、履き物をなんでもいいから買わねば、と思って最寄り駅の前へ来た。

 コンビニから最寄り駅前までは400~500mほど。
 私が裸足で歩いていること、みんな気づかないみたい。うん、私の美しさにみとれるあまり、足には目がいかないのでは、、、、と信じて歩く。
 気分は「裸足の女神」、、、?

 駅前の冴えない洋品店に「大特価夏のサンダル」というのを売っていた。
 Lサイズのつっかけサンダル。う~ん、Lかあ。私の足、22センチ。

 特価サンダルの山の下のほうに、一足だけMサイズ。おお、これだ。色も形も、もはやカンケーない。Mでも、サンダルのかかとが1センチくらい大きいけれど、ま、いいか。
 大特価450円だった。

 とにかく、これで「はだしの日本語教師」からは脱却できる。
 駅前からの帰り道はサンダル履いて、堂々と歩く。

 「私の足を、だれも見ませんように」と、おそれることもない。
 だいたい、裸足で歩いたからといって、とがめられるわけでもない。

 無事「つっかけサンダル」を買えたからよかったものの、一日中裸足で動き、「隠れ特殊宗教信者」みたいな気持ちでいたら、よりいっそう疲れてしまったかも。

 現代において、「人前で何も履き物を足につけずに歩く」ということが、これほど「人目をはばかる」気分になるということに気づいた半日であった。

 次回から、シドニーオリンピック陸上400メートルの金メダリスト、キャシー・フリーマンやアボリジニアーティストのお話です。

 この「裸足の400メートル」は、次回の「裸足の1500マイル」のマクラとして書かれたのでして、「世界は足下から崩壊する」という大風呂敷タイトルには、ほど遠い話でした。すみません。

 次回からの「エミリー・ウングワレー」全15回連載は、30歳まで「文化人類学者になりたい」と思っていた春庭渾身の力作、と、また大風呂敷を広げまして、、、
 「エミリー・ウングワレー」シリーズは、『裸足の1500マイル』という映画の話からはじまります。

<おわり>

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ぐるめぐりエスニック2008年8月

2011-01-25 11:23:00 | 日記
2008/08/01
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(1)アボリジニ料理

 美術展の図録は高い。
 いつも、図録を眺めて「これを買って帰ろうかな。でも、そうすると、帰りの夕食は、300円の立ち食い蕎麦。夕食にちょっとおいしいもの食べて帰るのなら、図録はなし」と思案したあげく、気に入った絵の絵葉書数枚だけを買って帰ることになる。
 食べる方優先主義。高名な西洋画家の場合は、図書館にいけば、画集などを見られるので、図録を買わなくても、目指す絵に出会えます。

 「資料として後々必要」と思えば買いますが、たいていはガマン。
 エミリーの絵は、図書館などにはおいてないだろうと思ったので、いつもは買わない図録、「エミリーウングワレー展」を2500円払って買いました。

 エミリーの絵は、1点あるいは数点で見るより、100点まとめて見るほうがいい。絵葉書数枚では、彼女の世界観の全体がわからない、点描も、ストライプも、炸裂する色彩も、トータルでエミリー・カーメの世界だから。
 と、思って図録を買いましたが。
 新国立美術館の中にあるレストランでは美術展関連イベントとして「オーストラリア料理」のメニューがありましたが、図録を買ってしまえば食べる分にはまわらない。

 エミリーの絵の世界を丸ごと味わうためには、オーストラリアへ行って、アボリジニの大地の上に絵を置いて、カーメ=ヤム芋などを食べながら見たほうがいいのだろうなあ。

 テレビ番組「ウルルン滞在記」で紹介されたバーバラの家に行って、アボリジニスピリットを感じながら、トカゲの丸焼きなんかを食べたいなあという気がします。
 テレビの「ウルルン」でも、女性タレントが食べて見せていました。

 オーストラリアのシドニー、ブリスベンなどのレストランには、メニューにアボリジニ料理があるそうです。
 ブリスベンのアボリジニ料理(Aboriginal Food Source: Witjuti Grub)にあるメニュー、「芋虫」は、A$3.5(約220円)

 シドニー、ロックス地区にあるアボリジニ料理店。
 アボリジニダンスショウを見ながら、カンガルーや、エミュー、ワニ(クロコダイル)の肉を利用した料理が供されるそうです。
 たぶん、観光客向けに、なんとなく「オーストラリア」って感じがすればいいって程度の料理な気がする。

 ほんとうのアボリジニオリジナルの料理メニュー。
 トカゲの丸焼きの丸かじり、蜜蟻のデザートなど、、、。

 グルメ漫画『美味しんぼ』の原作者雁屋哲は、1988年にオーストラリアのシドニーに移住し、『美味しんぼ』37巻は、「激突アボリジニー料理」
 表紙は、「蜜蟻」の写真。裏表紙には「亀の丸焼き」の写真があります。

 主人公山岡士郎は、友人の和食料理人岡星とともに、オーストラリアのノーザンテリトリー(北部特別地域)にやってきました。山岡ら究極のメニュー一行と、海原雄山の至高のメニュー一行は、ダーウィン市に宿泊し、アボリジニ料理の食材を集めます。

 どうしてもノーザン・テリトリーでは手に入らないデザートの食材を求めて、山岡や岡星は、オーストラリア中央部、エアーズロックの東に広がる地域一帯のアリススプリングスにまで足を運びました。アリススプリングスは、エミリー・ウングワレーのふるさと、ユートピアの近くの町です。

 海原雄山が供するアボリジニ料理。
 クロコダイル肉のパイ包み焼き、オーストラリアの北部の川魚バラマンディーの蓮葉蒸し焼き。
 デザートは蟻。葉っぱを食べる蟻なので、緑色。生きたままの酸っぱい蟻の胴体を食べる。

 一方、「究極のメニュー」山岡士郎は、ゴアナ(大トカゲ)の焼き鳥風。海の幸は、海辺に住むアボリジニのごちそう、エイ。味付けは、エイのレバーペーストで。
 デザートは、「至高のメニュー」と同じく蟻。こちらは蜜蟻。働き蟻が花から蜜をあつめ、蜜蟻に食べさせて育てる。蜜蟻は、上品な甘さなんだって。
 この蜜蟻を求めて、山岡はアリススプリングスのアボリジニ居住区まで出かけたのでした。

 私は、アフリカで芋虫もワニの肉も食べたし、中国ではサソリの唐揚げも蚕のサナギも食べた。
 カンガルー肉やダチョウ肉は、今やちょっとした食材店にもおいてあるというのですが、緑蟻や蜜蟻って、どんな味なんだろうと、興味しんしんです。
 白魚は好きですけれど、白魚の躍り食いというのは、まだしたことないのです。蜜蟻を生きたまま口に入れるときって、どんなふうでしょうか。

 東京には、たいていの地域の料理店があります。
http://e-food.jp/rest/
 このページに、東京にある各国料理の店がのっています。世界一周グルメ旅行ができる。
 アジア20ヶ国、中東6ヶ国 、ヨーロッパ22ヶ国、ロシア&周辺国(NIS)4ヶ国、アフリカ14ヶ国、北中米&カリブ7ヶ国、南アメリカ6ヶ国、オセアニア2ヶ国。

 次回より、アフリカ料理の店を紹介します。

<つづく>


13:45 コメント(2) ページのトップへ
2008年08月02日


ぽかぽか春庭「ナイロビのウガリとカランガ」
2008/08/02
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(2)ナイロビのウガリとカランガ

 1978年、従妹が海外青年協力隊の一員としてケニアの高校理科教師になりました。
チャンス!1979年4月、私も、ケニアへ行ってみよう、と思いました。

 中学校国語教師を退職した私は、大学に出戻って演劇学や民俗芸能を学んでおり、ケニアダンスのフィールドワークをしようと思ったのです。

 当時、アフリカ個人旅行を取り扱う旅行会社は、そう多くなかった。
 私は、雑誌広告を見て、目黒駅前の「アフリカ旅行専門店」というオフィスをたずねました。
 DoDoWorldという小さな旅行会社。社長はクマさん。

 1979年のDoDoWorldは、オフィスのなかで、スワヒリ語講座を開き、個人旅行者へのサービスとしていました。
 私は、西江雅之先生の教え子にあたるセベさんにスワヒリ語基礎を教えてもらいました。

 1979年にDoDoWorldでいっしょにスワヒリ語を習った仲間たちとの、24年後の同窓会のようすは、以下のページに書きました。2003年7月の、ちえのわ「三色七味日記」
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0307b7mi.htm

 私がケニアに行く前、6月7月になると、スワヒリ語研修と称して、アフリカ好きの仲間たちと、クマ社長の家に何度か泊めてもらったことがありました。
 クマ社長もまだ若くて独身のころ。
 旅行会社の社長と顧客たち、というより「アフリカ好き仲間のサークル」というノリで、アフリカについて旅について、夜を徹して語り合ったものでした。

 私がDoDoWorldでスワヒリ語を学んでいた頃、タカ氏はすでにナイロビに行っていたので、東京で顔を合わせたことはありませんでした。

 タカ氏は1979年6月はじめに、私は7月末にケニアのナイロビに行きました。
 タカ氏は、私より2ヶ月「ナイロビ先輩」です。

 ナイロビに到着したその日に、私は迷子になりました。
 自分の宿泊先に帰れなくなった私は、たまたま出会ったタカ氏に、ナイロビの町を案内してもらった。これが、ナレソメちゅうか、腐れ縁のきっかけ。

 タカ氏を、当時は「よい人」と信じて、いっしょにナイロビ下町のごぎたない飯屋で、ウガリ(トウモロコシ粉の蒸しパン)やカランガ(牛肉のトマトシチュウ)を食べ歩きました。
 タカ氏は、なんでも「うまい!」と言って食べる人でした。

 なぜ、はじめて出会ったウサンクサイ男を信用して、町を案内してもらっのか、アブナイ男だとは思わなかったのか、と、娘がツッコミます。日本で出会っていれば、どう見ても「不審者」風の男です。

 なぜ信用したかというと、同じ旅行社を利用している人だとわかったからです。社長のクマさんを、お互いに信用していた。
 「クマ社長は信頼できる人だ」というこの人も、信頼できる人に違いない、と、思いこんで、ナイロビの案内をしてもらったのが、まちがいのはじまり。

<つづく>
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2008年08月03日


ぽかぽか春庭「アフリカンレストラン・カラバッシュ」
2008/08/03
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(3)アフリカンレストラン・カラバッシュ(瓢箪)

 確かにクマ社長はいい人ですが、「クマ社長は信頼できる」と、言っている人だから同じようにイイ人かっていうと、そうではない。

 タカ氏は、1980年の年があけた1月に、私より先に日本へ帰りました。
 お金を使い果たして帰国したタカ氏に比べて、私は、ちょっとだけナイロビに長居ができた。思いがけないアルバイトができたから。

 日本テレビのドラマ熱中時代特別編(主演水谷豊、共演浅野ゆう子)のナイロビロケに遭遇して、浅野ゆう子の留学生仲間という役でエキストラ出演したり、羽仁進監督の映画『アフリカ物語』に出演したキャティの写真集撮影クルーのガイドなどをして、アルバイト賃金を得ることができました。

 アルバイト代を払う側からみると、カタコトのスワヒリ語をつかってナイロビを歩き回っている変な日本女性を数日雇って、日本円でそこそこの謝礼を払うだけ。それが、私にとっては、ナイロビでの滞在日数を数週間のばすお金になりました。

 ナイロビ滞在は当初の予定より大幅にのびて、このままケニア居着いてもいいかな、とさえ思いました。

 バックパッカーとして流れてきて、ケニアにそのまま居着いた日本人も何人か知り合いになったので、不可能ではないと思えた。
 少なくとも、従妹が住んでいる教員宿舎に居候すれば、従妹の海外青年協力隊任期満了まではケニアで暮らしていけそう、と計算していました。

 一生分の「のんびり、ゆったり」をケニアで味わった。一日中、木陰で本を読んでいてもよし、昼は空ゆく雲を、夜は降るほどの星をぼうっと眺めていても、「なすべきこと」に追い立てられることもなく、自分がどこのだれでもなく、すごせた、貴重な時間でした。

 帰国のきっかけとなったのは、クマ社長。
 DoDoWorld社長のクマさんが、たまたまナイロビ事務所に出張で来ました。
 クマ社長が、4月に帰国するとき、ま、これも潮時かなと、友人タマさんといっしょに日本へ帰りました。

 帰途、飛行機エンジントラブルがあり、バンコックの空港で何も情報がないまま一晩すごしたのも、27年前のなつかしい思い出です。
 このときも、クマ社長がいっしょに空港の椅子に座っていたから、私もタマさんも心細い思いをせずに、すごせました。

 クマ社長は、小さな旅行会社を着々と大きく育て上げました。
 クマ社長はたいへん有能で、スタッフにも恵まれ、スタッフ数人ではじめたDoDoWorldを、27年間で「道祖神」という立派な旅行会社に成長させています。
http://www.dososhin.com/

 クマ社長は旅行会社を成功させただけでなく、アフリカ料理の店経営にも腕をふるっています。
 西アフリカ料理の店。カラバッシュ。カラバッシュとは、「瓢箪(ひょうたん)」という意味。

 カラバッシュは、クマ社長が「アフリカ料理で一番おいしい」と惚れ込んで立ち上げた、西アフリカの料理店です。セネガルやコートジボワール、マリなどの家庭料理がメニューに並んでいます。
http://www.calabash.co.jp/

<つづく>
00:05 コメント(3) ページのトップへ
2008年08月04日


ぽかぽか春庭「ヒョウタン坂の社長vsカラバッシュのクマ社長」
2008/08/04
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(5)ヒョウタン坂の社長vsカラバッシュのクマ社長

 1980年にケニアから帰国して1年ほど、「アフリカ同窓会」として写真の交換会&飲み会を仲間たちと続けました。わたしの部屋を飲み会会場にして手料理をふるまうと、タカ氏は、どんなへたな料理でも「うまい、うまい」と平らげました。

 このあたりの事情は、以下のカフェ日記(2008/05/06)に書きましたので、読んでくださった方もいるかも。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200805A

 帰国後、1年間のジャスト・フレンド期間を経て、タカ氏はステディ・フレンドに昇格。さらに1年後に結婚。
 アフリカの太陽をたっぷり浴びたおなかは温室効果を保ち、「アフリカ式促成栽培」により、結婚式の半年後には娘が生まれました。

 海外青年協力隊の理科教師だった従妹は、ケニアから帰国後、同じ協力隊の男性と結婚式をあげました。10月上旬のこと。
 私とタカ氏は、同じ月の下旬に結婚式、親戚からは同じ月に2度も結婚式列席でモノイリだと非難されたのですが、急がなきゃなんない理由があったので。

 従妹は、結婚式から10ヶ月後の夏、翌年の7月に息子が誕生し、「めでたいハネムーンベビィ」と祝福されました。
 一方、結婚式から6ヶ月後の4月に娘が誕生した我らは、親戚中から顰蹙を買いました。

 「あなたがそんなフシダラな娘とは思わなかった」と、言うオバ様もいたんです。3ヶ月の差が大きなちがい。
 今ドキは「おめでた婚」という言葉まで出来ていますが、25年前のことですからね。

 タカ氏は、いくつかの雑誌に写真を掲載して、「世界放浪のフォトジャーナリスト」になりかけていたのを、すっぱりあきらめて校正事務所を立ち上げました。
 地方新聞記者時代に、整理記者という部門にいたことがあり校正を覚えたので。

 タカ氏は、1990年代から十数年、瓢箪坂という坂を上ったところに校正事務所をかまえていました。
 瓢箪坂は、こんな坂
http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/shinjuku-hyotanzaka.html

 私はタカ氏を「ひょうたん坂の社長→ヒョウタンシャチョー」と、呼んでいます。
 5年前2003年に、シモミヤビ町に事務所を移転したのですが、「シモミヤビチョーのシャチョー」は言いにくいので、今でもヒョウタンシャチョーです。

 事務所の維持費をぎりぎりひねり出すだけのもうけしかない校正会社のシャチョー、毎月、「家族の生活費にまわす分は、今月もない!!」と言い続ける経営をしてます。
 私は、「ひょうたんシャチョウの、会社ごっこ道楽」と、言っています。

 夫の道楽をだまって許している妻。
 「女道楽やギャンブルよりはマシ」と、心鎮めるようにしていますが、外面ホトケ、内面夜叉で~す。
 アハッ、外面も夜叉そっくりって、それを言っちゃいけません。この顔は生まれつき。

 ひょうたんシャチョーの校正事務所は、いつまでたっても赤字会社から成長しないのに比べて、同じヒョウタンでも、大違いの人が、クマ社長のヒョウタン=カラバッシュ。
 レストラン・カラバッシュ(瓢箪)は、朝日新聞のエスニック料理欄にも取り上げられて、評判上々です。
http://www.asahi-mullion.com/column/aji/80624index.html

<つづく>
06:25 コメント(3) ページのトップへ
2008年08月05日


ぽかぽか春庭「カラバッシュのアフリカンコース」
2008/08/05
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(6)カラバッシュのアフリカンコース

 私が「クマさんの店に行ってみない?」と、ヒョータン社長を誘っても、「忙しくてコンビニおにぎり食べながら仕事しているのに、電車に乗って夕食を食べに行くなんて、できるわけないだろ」という、いつもの返事。
 いくら忙しく働いても、赤字つづきの会社なんだけど、、、、、

 校正というのがどんな仕事かということと、「なぜ儲からないか」については、以下のページを読んでいただくとわかります。
 「家業の校正」http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/iro0601.htm

 講師仲間手作りのおいしいイチゴジャムを事務所に持っていって、「2瓶あるから、会社の事務室用にひとつおいていこか」と、たずねたら、「パン食べることもあるけどさ、だれが、ジャム塗ってくれんの。ジャム塗ってくれる人がいるなら貰うけれど、この忙しいのに、自分でパンにジャムぬっている余裕なんて、ないから、いらない」と、ヒョータンシャチョーの弁。
 はぁ、すんごく忙しいんだね!って、ただ、めんどくさがりなだけじゃん。

 ひょうたんシャチョー、夕食のお誘いは断っておいて、そのくせ、後期高齢者医療保険の矛盾点について、30分も私に電話レクチャーしてくる。はぁ、拝聴いたしますです。でも、忙しいんじゃなかったの?

 ヒョータンシャチョーが忙しくて行けないというカラバッシュ。
 私がカラバッシュの料理を食べてみたのは、今学期もよく働いた「自分にごほうび」としてです。むろん、ひとりで。
 講師仲間の打ち上げ会下見をかねての、おひとり様夕食。

 カラバッシュでは、コックさんはじめ、西アフリカ出身のスタッフが、フランス料理の影響を受けたという地元の味を提供しています。

 私は東アフリカの料理しか知らないのだけれど、クマ社長が「これが一番おいしい」というのなら、全幅の信頼をもって信用する。クマ社長はいい人だから。

 カラバッシュのフードメニュー。
http://www.calabash.co.jp/food.htm

 今学期も、サンダル壊れて裸足で授業するワ、骨折するワおおわらワの授業でしたが、もうあとは復習と試験を残すのみという日、大奮発でコースを頼みました。

 タスカビール
 アボガドサラダ
 ペペスープ=コートジボアールのピリ辛スープ 
 アカラ=パンダ豆(白と黒なので)のマリ風揚げパン
 マフェ&ライス=マリ風ピーナツシチューとごはん
 コーヒー

というコースで、どの料理もおいしかったです。
 スープは夏ばて防止にききそうな辛さでしたが、干し魚のダシがきいていて、風味がよかった。

 ただ、アフリカの感覚でいうと、一人前の量が少ない。日本の人にはちょうどいいのだろうけれど。アフリカの人は、二人前ずつ注文しないと、満腹できないんじゃないだろうか。って、私が大食いなだけなのかも。

 私のエスニック料理についてのポリシー。その土地出身の留学生がなつかしがって集まってくる味、そして貧乏な留学生も満腹できる十分な量。&、安い!これも大事。
 カラバッシュ、味はOK。しかし、量と値段は留学生向きじゃない。

<つづく>
07:32 コメント(3) ページのトップへ
2008年08月06日


ぽかぽか春庭「カラバッシュのクマ社長夫人vsヒョータンシャチョー夫人」
2008/08/06
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>ぐるめぐりエスニック(7)カラバッシュのクマ社長夫人vsヒョータンシャチョー夫人

 留学生日本語教育コースの講師打ち上げ会をしようと決まった日は、カラバッシュ恒例のアフリカンミュージックイベントが入っているというので、残念ながら予約は出来ませんでした。

 店を切り盛りしていた女性、たぶんクマ社長の奥様だろうと見当をつけて、帰り際にレジの女性に「あの方は社長の奥様ですか」と、聞いたら、ぴんぽ~ん。

 すてきな奥様でした。
 さわやかにお客の応対をこなし、お料理をテーブルに並べてくれました。
 カラバッシュのクマ社長夫人は、「子育て卒業後」の仕事として、とてもいい形でご主人を助けているように思いました。

 私は結婚以来、10年以上、ヒョウタン坂の校正会社を手伝っていましたが、ヒョウタンシャチョーは、仕事させておいて文句を言い続けました。
 「あなたは緻密さがないから、校正にはまったく不向き。いつでもボロボロ誤字を見落として、まったく役に立たない。それに、何度言っても、あなたは、校正じゃなくて、リライトしてしまうから、校正者としては零点。校正はリライトじゃない。メッセンジャーやらせれば方向音痴で迷子になるし、まったく使い物にならん」と。

 だれが「方向音痴で使い物にならん」やネン。私が方向音痴だったおかげで、ヨメがもらえたのではないかっ。
 「うちのヨメはん百年の不作」やて、それはこっちのせりふ。ヒョウタンシャチョウ夫人になったせいで、ビルゲイツに求婚されるチャンスを失った。

 家事育児はいっさいしなかったし、現在は家庭を放棄している夫。
 歯がみしつつ、私は、日本語教師の仕事をしながら大学院に通い同時に夫の「もうからない会社」の仕事を手伝っては文句いわれ、ふたりの子を育て上げて、はっと気づいたら、去年、銀婚式はすぎさっていたのでした。

 結婚記念日から半年もすぎたころ、夫に「銀婚式、去年だったよね」と言ってみたら「知ってるよ、それがどうした」という返事。ふんっ!私だって、忘れていたさ!

 現在は、夫の会社の仕事から完全に手をひいて、大学講師の仕事に専念しています。方向音痴を責め立てられることはなくなったかわりに、夫からは、「よその会社では、奥さんはみんな経理の仕事手伝ったり、いろいろ夫を助けて働くのに、、、、」と、文句言われています。
 「いいヨメだ」と、ほめてくれるのは姑だけ。

 はい、すみませんね、内助の功からは、ほど遠い妻で。
 つうか、私は子どもの食費やら家賃光熱費やらを支払うために、外助をやってきたのよ。おひとり様打ち上げで、カラバッシュのアフリカンコースくらい食べても、バチあたらないっ。

 カラバッシュ(ひょうたん)の料理、ヒョータンシャチョーといっしょに食べにいく日はまだまだ遠いでしょうねぇ。

 では、恒例の春庭応援ソング、毎度おなじみ『インターナショナル食べ放題』

 演奏は、歌声喫茶のび
http://utagoekissa.music.coocan.jp/utagoe.php?title=inter

♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
食えよ我が腹へと 暁(あかつき)は来ぬ
忘却の鎖 断つ日 肌は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの

聞け我等が雄たけび 天地轟きて
脂肪越ゆる我が腹 行く手を守る
満腹の壁破りて 固き我が腕(かいな)
今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪

<おわり>
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トルストイ2008年9月

2011-01-22 11:49:00 | 日記
2008/09/15
ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>ロシア文化フェスティバル(1)トルストイ

 さまざまな国の文化。それぞれの国が持つ文化も、決して単独に発達してきたのではなく、交流をつうじて互いに影響し合い、融合しあっています。

 ロシア文学は、明治以後、日本文学の上に大きな影響を与えてきました。
 ドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『戦争と平和』など、「青年が一度は読んでみるべき書」の地位を長く保っていました。
 最近では新訳なったドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」が、ベストセラーになっています。

 また、外来語の面では、ロシア語の「イクラ」が、日本語でもそのまま「イクラ」として外来語になり、外来語とも意識されずに使われていること、1月2月に「てれすこ・外来語のお話」のなかで紹介しました。(2008/02/17)

 ロシア語の「весна света ベスナー・スベータ」という語が翻訳されて「光の春」という早春をあらわす美しいことばとして知られてきたことも紹介しました。(2008/02/27)
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200802A

 2003年1月に、プーチン大統領と小泉首相が日ロ首脳会談を行い、「日露行動計画」が締結されました。
 この計画により2003年には「ロシアにおける日本文化フェスティバル」が開催され、次にその返礼として、日露国交回復50周年を記念して「日本におけるロシア文化フェスティバル」が2006年に開催されました。

 2008年も、引き続き「ロシア文化フェスティバル」が行われ、多彩なプログラムが各地で展開されています。
http://www.russian-festival.net/festival2008.html

 私は、この「ロシア文化フェスティバル」のプログラムのうち、「ボリショイサーカス」と「ウラジミール・トルストイ講演会」を見ました。
http://www.chiba-u.ac.jp/event/pdf/20080624tolstoy.pdf

 レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイ(1828~1910年)は、ロシアの大文豪。
 大文豪の作品、どれほど読んだかというと、、、。
 小学生のとき「イワンの馬鹿」という子ども向けのお話を読みました。また、「少年少女世界名作全集」みたいなシリーズのなかの『戦争と平和』を読了。長~いお話が、1巻本に収まっていたのですから、「あらすじ集」のようなものだったのでしょう。

 トルストイは、どうもその名の偉大さばかり聴かされたせいか、本がぶ厚いのにひるんだか、読み通していません。

<つづく>
07:03 コメント(4) ページのトップへ
2008年09月16日


ぽかぽか春庭「ヤースナヤポリャーナ屋敷」
2008/09/16
ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>ロシア文化フェスティバル(2)ヤースナヤ・ポリーニャ屋敷

 トルストイ原作の映画は楽しみました。
 『戦争と平和』、ソ連制作の7時間超大作映画は、7時間連続がんばって映画館でみたし、オードリー・ヘプバーン主演ほうがメロドラマとしてはよくできているので、何度も繰り返して見てきた。
 オードリー主演の『戦争と平和』は、パブリックドメイン(著作権をだれも主張なしえないため、公共の利用ができる)作品なので、DVDも安いと思う。

 『アンナ・カレーニナ』は、ヴィヴィアン・リー主演の映画と、マイヤ・プリセツカヤがアンナを演じたバレエ映画などを見ただけで、こちらは「少年少女~」の名作集には入っていなかったので、小説としては読んでいない。
 さすがに不倫ドラマは、どう脚色しても子ども向けにはならなかったのでしょう。
 ソフィ・マルソーのアンナも見たいと思っているんですけど。

 で、あとのトルストイ作品、ちゃんと読み通したことないんです。私の時代には、「青年が必ず読むべき書」としては、トルストイ&ドストエフスキーの時代から、変わってきていました。1970年代の必読書は、高橋和己とか埴谷雄高、吉本隆明、あるいはサルトルやボーボワールになっていました。
 第一に、私には、あの長い名前のロシア人名が、途中で、だれが誰やら、、、となってしまって。

 ロシア人の名前、最初は自分のファーストネームで、二番目は父親の名前(父称)です。「ミスター」「ミズ」、「ムッシュ」とか「さん」などの敬称はロシア語にはなく、父称をつけて呼ぶのが敬意の表明です。

 お父さんの名前まで覚えているのが、その人を尊敬する証。
 「ミスター・トルストイ」にあたる呼び方はなく、「レフ・ニコラエーヴィチ(ニコライの息子のレフ)」と父称をつけて呼ぶのが、敬意を表すことになります。

 呼びかける相手のお父さんの名前を覚えていなければならないというのも、ちょっとたいへん。
 敬意を表すのに、「ミズ」「ムッシュ」とか「さん」ひとつで間に合うのは便利です。

 家族や親しい友人同士では、名前(多くは誕生日ごとに決まっている聖人の名や先祖の名)の愛称によって呼び合います。
 文豪レフの妻ソフィーヤだったら、ソーニャ。エカテリーナならカーチャ。男性名、アレクサンドルはサーシャ、ミハイルはミーシャ、など。日本の「みちお&みちこ」が「みっちゃん」になるのと似てるね。」

 ロシアの文豪レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイの父、ニコラーイ・イリイチ・トルストイ伯爵は、賭博に熱中して資産を蕩尽してしまった放蕩者でした。
 あわや破産かというところで、有力貴族の娘マリヤ・ヴォルコーンスカヤと結婚しました。
 マリヤは大貴族の称号継承者であり、800人の農奴とトゥーラ県のヤースナヤ・ポリャーナの領地を所有していました。トルストイ家は、かろうじて破産をまぬがれました。

 レフ・ニコラエーヴィチは、母親が所有していたヤースナヤ・ポリャーナの領地で生まれて、生涯、この地を愛しました。

 今回のシリーズは、トルストイの領地だったヤースナヤ・ポリャーナにあるトルストイ博物館の紹介です。

<つづく>
00:27 コメント(6) ページのトップへ
2008年09月17日


ぽかぽか春庭「トルストイ博物館」
2008/09/17
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(3)トルストイ博物館

 ヤースナヤ・ポリャーナの領地と屋敷は、レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイの死後、家族が相続しましたが、現在は、ロシア政府の所有物として管理されています。
 屋敷は、「トルストイ博物館」として、公開され、トルストイの思想や文学の研究センターとしても機能しています。

 この博物館の館長は、レフ・ニコラエーヴィチの玄孫(ひ孫の子、やしゃご)ウラジーミル・イリイチ・トルストイ氏が務めています。
 ウラジーミル館長は、2008年、ロシア文化フェスティバルの一環として、上智大学、東京大学などで講演を行いました。
 私が聞いたのは、7月25日午後の千葉大学での講演会。ロシア語の通訳つき。

 千葉大学22号館の会議室には、ロシア語ロシア文学を学ぶ学生のほか、トルストイ文学ファン(ほとんどが高齢者だった)が、集まっていました。
http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1217057102

 ウラジーミル・トルストイ館長は講演会の最初に、語りました。
 「文豪レフの子孫は、ソビエト連邦を嫌って外国に亡命した人を含めて、250人以上が世界中にいますが、私はその中でもっとも幸福な子孫です。なぜなら、こうしてレフ・ニコラエーヴィチが生まれその生涯をすごした屋敷で日々すごせるのですから」

 レフ・ニコラエーヴィチの13人の子どものうち、作家になったのはふたり。
 そのうちのひとり、ペンネーム「イリヤ・ドゥブロヴスキー」。イリヤの息子が、ウラジーミル・イリイチ・トルストイ。彼は、現ウラジーミル館長の祖父です。イリイチは「イリヤの息子」の意味。
 館長の父親のイリヤ・ウラジーミロヴィチ・トルストイは、モスクワ大学教授。

 ウラジーミル館長と同じ名前のお祖父さん、ウラジーミル・イリイチ・トルストイは、レフ・ニコラエーヴィチの孫であり農業技師をしていました。祖父レフ・トルストイの偉大な足跡を後世に伝えるため、ヤースナヤ・ポリーニャを博物館とすることに尽力しました。

 おじいさんの名を受け継いだウラジーミル館長は、もともとはジャーナリスト。45歳。
 1910年に亡くなった玄祖父(おじいさんのおじいさん)レフ・ニコラエーヴィチの没後100年記念事業を行うため、現在精力的に各国を回って講演しています。

 トルストイ博物館の館長ウラジーミルさんの講演での、館長と聴衆の質疑応答で。
 講演会聴衆からの質問
 「2001年に、ロシア正教会は、レフ・ニコラエーヴィチを正教会から破門したことを取り消さない、という決定を出しました。その後の進展は?」
 館長の回答。
 「私は何度も、正教会に対して、レフ・ニコラエーヴィチが破門されたことは、当時の混乱した社会情勢ゆえであり、破門は不当なことであったと訴えてきましたが、まだ、この問題についての正教会からの有効な返信はありません」

 レフ・ニコラエーヴィチは、当時のロシア正教会が腐敗していることを鋭く告発し、教会と対立しました。教会への批判をやめようとしないレフに対して、正教会は1901年に破門という措置をとり、これが100年たった現在でも取り消されていないのです。

<つづく>
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2008年09月18日


ぽかぽか春庭「トルストイと老子」
2008/09/18
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(4)トルストイと老子

 講演会聴衆からトルストイ博物館館長への質問つづき。
質問)革命時の混乱の中、多くの貴族屋敷が、反乱兵士や農民に荒らされたと聞き及んでいるけれど、「ヤースナヤ・ポリーニャ」が、往時の風格そのままに、たいへん美しい博物館となって残されたのは、なぜですか。

 館長の回答。
 「貴族の屋敷を破壊したりした人々もいたことは事実ですが、ヤースナヤ・ポリャーナ近隣の農民たちは、トルストイを深く尊敬しており、暴徒からもソ連軍兵士からも、屋敷を守り抜いたのです。屋敷が無傷で残されたことは、ロシア文化の誇りです」

 館長は、講演のはじめに、現トルストイ博物館(ヤースナヤ・ポリーニャ屋敷)の内部を撮影したビデオを映して、その説明をしてくれました。
 トルストイの先祖子孫の肖像画が掛けられている居間や食堂。

 トルストイが晩年を過ごした寝室は、とても質素簡素なものです。
 晩年には、私有財産を否定する思想に至り、農民アナキストに近い思想を表明していたトルストイですから、伯爵家当主のベッドといっても、豪華なものであるはずはないのですが。

 レフ・ニコラエヴィチは、全財産を公共のものにしようと考え、妻ソーフィヤと対立しました。ソーフィヤは、子どもたちの生活と教育のために財産を保存してほしいと考えていたからです。母親としては当然の願いでしょう。
 ソーフィヤは、レフより16歳年下で、相思相愛13人の子をなした妻であるけれども、最晩年のこの「全財産放棄」には、賛成しなかった。

 家族との意見の食い違いは、文豪の心を痛めました。
 結局、一部分の財産は、妻や子にも残されることとなったのですが、家族との対立に苦しんだ82歳の文豪は、秘書を務めていた娘ひとりだけを連れ、旅に出ます。

 旅の途上、小さな駅で倒れ、そのまま亡くなりました。
 遺体は遺言どおりにヤースナヤ・ポリーニャ屋敷に戻され、敷地内に埋葬されました。 残された屋敷は、現在ロシア国立博物館になっています。

 晩年のトルストイが私有財産否定の思想に至ったというと、1910年のトルストイの死後7年目、1917年のソビエト革命との関連がすぐに思い浮かびますが、トルストイはマルクスやレーニンの思想によって無産思想を形成したのではありません。
 晩年のトルストイの考え方は、老子の思想によって導かれ、非暴力主義無政府主義、へとつながるものでした。

 トルストイは、若い頃から東洋に心惹かれ、最初に入学した大学もカザン大学東洋語学科でした。結局大学を卒業することはなかったけれど、東洋にひかれる気持ちは最後まで文豪にあり、晩年の考え方は、東洋思想の研究によって深まっていきました。
 彼の思想は、両親亡き後、後見人となったおばのキリスト教信仰と東洋思想との融合したものとして形成されました。

<つづく>
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2008年09月19日


ぽかぽか春庭「トルストイと小西増太郎」
2008/09/19
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(5)トルストイと小西増太郎

 老子とトルストイ。
 ひとりの日本人との出会いが介在しています。

 『トルストイを語る』という著作を残しているロシア語学者小西増太郎(1862~1940(昭和15)年)
 増太郎は、一般にはあまり知られていないロシア語学者です。彼の名を知る人も少ない現在ですが、私ほどの年代の人になら、「野球解説者小西得郎の父親」といえば、ああ、あの小西節の、と、息子の名前に覚えがある人もいるでしょう。

 小西増太郎は、トルストイに最初に出会った日本人であり、徳富蘆花に紹介状を書いてやり、トルストイとの面会を可能にしてやった人です。
 蘆花はトルストイの日本紹介に、大いに力をふるった人で、日本でトルストイが聖人扱いされるようになったのも、蘆花の『順礼紀行』などの著作によるところが大きい。

 1892(明治25)年11月から1893年3月まで、小西はトルストイとともに、『老子』をロシア語へと共訳しました。
 この交流については太田健一の『小西増太郎トルストイ・野崎武吉郎-交情の軌跡』という著作がありますが、未読です。

 トルストイは、小西のロシア語訳や英語訳をもとに『老子の金言』を執筆し、老子の「無為自然」の思想に傾いた。
 作為を捨て、老子の言う「無為自然」の状態に至るには、所有する領地を農民に返し、伯爵という称号を返上することが必要と文豪は考えた。
 しかし、トルストイのこの「東洋思想への傾斜」は、ソフィーヤ夫人はじめ家族にとっては、理解しがたいものでした。

 財産の世襲をめぐって家族と対立した文豪が、寂しく旅にでて、旅の途上小さな駅でなくなったことは、先に記したとおり。このとき心痛めた文豪は82歳。

 この少し前、79歳のトルストイについて、画家レーピンが描写している文章があります。
 1907年、79歳のレフ・ニコラエヴィチを訪問した画家レーピンは、文豪が老いてなお健康で、訪問時にはいっしょに馬の遠乗りをしたことを記録しています。

 レーピンが描写した79歳のレフ・ニコラエーヴィチ。レーピンは「わが森の帝王」と、トルストイを描写しています。
=========
 わが森の帝王は、イギリス風のだく足で駆けだした。木漏れ日が、彼のひげを金色に照らしている。帝王はますます速度をはやめ、わたしはそれについて行く。
 すると前途に、白樺が道をさえぎって、遮断機のように折れているのが見えた。
 とまらなくては、、、。まったくどきんとするほどだった。横木が彼の胸にあたるではないか。馬は疾駆する。だがレフ・ニコラーエヴィチは瞬間、鞍に身をかがめ、アーチの下をくぐり去った。(イリヤ・レーピン回想録『ヴォルガの舟ひき』( 松下裕訳中公文庫,1991)
========

 レーピンの描写した79歳の文豪はまさに「帝王」の風格を見せていますが、相愛だった妻とのソフィアとの財産相続をめぐる争いは、文豪をすっかり老いさせてしまったのでしょう。

 82歳の文豪が、田舎の小さな駅で、老いた躰を縮めてベンチに横たわったとき、脳裏にどんな思いが駆けめぐったのでしょうか。美しいヤースナヤ・ポリャーナ屋敷のたたずまい、それとも、馬で駆けめぐった領地の森の小道、、、、

<つづく>
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2008年09月20日


ぽかぽか春庭「トルストイ没後百年の空中ブランコ」
2008/09/20
ぽかぽか春庭・言海漂流>ロシア文化フェスティバル(5)トルストイ没後百年の空中ブランコ

 2010年は、文豪レフ・ニコラエーヴィチ・トルストイの没後100年目。
 さまざまな行事が世界各地、ロシアのモスクワなどで開催される予定です。とりわけ生涯をすごした地にして墓所であるヤースナヤ・ポリャーナのトルストイ博物館では盛大なイベントが行われることと思います。

 ウラジーミル・トルストイ博物館長の講演の背景には、緑の中に立つ白いお屋敷がプロジェクターに映し出されており、トルストイファンなら、一生に一度は行ってみたいと思うでしょう。

 私のそばに座っていた70代くらいのオバサマ3人組は、博物館の中を映したヴィデオ上映の最中も、「あそこに行って来た」だの「いいわねぇ、私も行ってみたい」だのと、にぎやかにしていましたが、没後百年の記念イベントには、全世界からトルストイファンが押し寄せるのではないでしょうか。

 小説家、思想家として、ロシア文学ロシア文化にとって、トルストイは偉大な「文化遺産」です。晩年には「私有財産否定」に至った思想の軌跡、老子思想との関連を含めて、もう一度、作品をじっくり読んでみたいと思います。

 ウラジーミル館長は、講演まとめのあいさつのなかで、ロシア文化フェスティバルにふれ、「ボリショイサーカスの演技を見て、日本の人々が大歓声をあげているのを知り、ロシア文化が日本の人々の心に深く入っていることを感じた」と、述べていました。

 講演会が行われた7月25日の前々日23日水曜日に、私は、娘息子とボリショイサーカスを見ました。
 千駄ヶ谷の東京体育館。
 サーカスは、11頭のアムール虎が目玉の、2時間公演。
 A席は3階だったけれど、真正面の席で、見やすかった。

 サーカスは、2003年を最後に、ここ数年見ていませんでした。娘は、「子どもの頃は毎年見るのが楽しみだったし、今も見ればおもしろいし楽しめるけれど、大人になってみたら、そんなに毎年見なくても、数年に一度で十分」というのです。
 シーソーアクロバットもクマのサーカスも、どきどきしたり、ほのぼのしたり、楽しかったです。

 空中ブランコでは、「これより3回転宙返りに挑戦します」というアナウンスのあった目玉演技で、ブランコ乗り演技者は手をつなぐことに失敗し、ネット上に落下しました。ネットがあるから大丈夫と思っても、やはり手つなぎができずに落ちるとどっきりです。

 虎たちも、とても機嫌が悪くて、ガォ~と吠える声も勇ましく、虎使いの鞭に抵抗していました。たぶん、予定されていた目玉の演技ができなかったのだろうと思います。11頭並んでの行進も中途半端なまま、虎たちは檻に戻されました。虎使いが虎に噛まれないか、ヒヤヒヤしました。

 どきどきハラハラ興奮するけれど、集まっているどの子も、みな楽しそうにニコニコしています。
 虎がガォ~と吠える声にびくっとしても、それは、安全なガオォ~にすぎない。
 平和やなあ。
 歩いている足の下に地雷もない、空からクラスター爆弾もふってこない。
 
 レフ・ニコラエヴィッチが夢見た「みなが分け与えあい、暴力と武力のない平和な世界」に全世界がなるのには、まだまだ遠いかもしれません。
 ロシアには、まだまだ紛争の種がつきず、グルジアとの南オセチア紛争も火種がくすぶっています。
 世界中の子どもたちが平和な世に生きている、と、トルストイに報告できる日はいつになることでしょうか。

<おわり>
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ハートでアート2008年10月

2011-01-07 08:11:00 | 日記
2008/10/02
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(1)NHKハート展

 今春の3月4日、上村淳之(うえむらあつし)展を見に、日本橋三越へ行ったら、隣のフロアでNHKハート展を開催していました。

 ハート展は、心身に障害を持つ人から詩を募集し、入選した50編に、アーティスト、俳優など著名人がそれぞれに絵をつけたコラボレーション作品展です。

 私は三越で開催されていることなど少しも知らなかったので、こうして出会うのも、ご縁というものだろうと思い、ゆっくり会場をまわりました。もう買い物タイムはデパ地下の食料品あたりに集まる頃合いで、会場はそれほど人も多くなく、ゆったりと詩を読むことができました。

 カフェ友のchiruchiru77さん、すてきな詩をカフェ日記に掲載しています。去年ハート展に応募したのだけれど、結果は残念!でも、またの応募を励みにして、詩を書き続けています。

 chiruchiru77さん、車椅子生活です。今年は手術を受け、苦しくともリハビリを続け、自分自身の可能性にチャレンジしています。身体的には不自由な面が多いけれど、精神的な面では、一人息子の子育てを終えた今も、まだまだチャレンジをつづけています。

 ちるちるさんの詩を思い出しながら、会場に展示された50編の詩を読み、絵を見ていきました。
 どれも、こころの中のことばがすっと口にでてきたような、きらきらした言葉たちです。

 8歳の田上周弥さんは発達障害がありますが、外遊びが大好き。ビーズの作品をつくるのも好き。
 アーティストの山本昌美さんのコラボレート作品は、キルティング布の上に、布を切ったティアドロップスの形がたくさん貼ってありました。

「おさかなになろうねの話」(手書き文字の切れ目のとおりに改行してあります)
ママとぼくのなみだがたくさ
んたまって海になったら
いっしょにおさかなに
なって、おしりフリフリして
およごうね。
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work23.html


 俳優の緒方拳さんが描いた、ちょっとふとっちょの顔は三角のうなぎの絵。8歳の前田蓮さんの詩とのコラボレーションです。蓮さんは肢体障害がありますが、みんなと遊ぶのが大好きだそうです。

「うなぎちゃん」
うなぎはかわいいです。
口がにっこりしてかわいいです。
うなぎの顔は
とんがりです。
うなぎはめっちゃ
とんがりです。
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work39.html
 
 56歳の山本清年さんは、知的障害者。お母さんが大好きですって。
 絵描きさんの門秀彦さんの絵とのコラボレート作品です。

「くる・まいす」
おかあさん
ごはんをたべんけん
ちさくなった
いえのしたまでかいだん
ふー、おむたい
つきにいっかいのやくそく
おかあさんうえをみて
ねむる
くるまいすおす

 車椅子を、「くる・まいす」と、区切り方を変えてみると、くるくる車輪がまわっていく感じも出て、「来るmy isu」みたいにも思えて、とてもおもしろく感じました。
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work46.html

 詩はどれも素朴な味わいで、ひとりひとりの心のつぶやきがそのまま詩になっているように思います。
 chiruchiru77さんにプレゼントしたいと思って、普段は買わないカタログをかいました。5月に千葉でチルチルさんに会ったとき、お渡ししました。

 ハート展は、毎月各地を巡回展示しており、今月は静岡で、11月は福岡で展覧会があります。福岡での展覧会を、ちるちるさんは見に行けるかな?

ハート展の作品が見られるNHKのHP
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work26.html

<つづく>
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2008年10月04日


ぽかぽか春庭「ハートフル社員とイルアビリティ」
2008/10/04
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(2)ハートフル社員とイルアビリティ

 障害とアート表現について。
 障害をもつ人のアート作品の発表。たとえば、「アート村」の活動があります。

 パソナグループのHPより
 『 アート村プロジェクト”はパソナグループの「社会貢献」事業として、働く意欲がありながら就労が困難な障害を持った方々の“アート”(芸術活動)による就労支援を目的に、1992年に設立されました。
 以来、公募展・企画展・アート講座・及び作品展での作品販売を通して社会参加・就労支援をバックアップしています。』
http://www.art-mura.com/

 知的障害・身体障害・精神障害がある人など、さまざまな障害をもちつつアート制作に取り組んでいる人を援助する企業があることを知りました。

 「ハート展」で見たコラボレーション作品のうち、内部障害をもつ中曽根千夏さん(群馬県10歳)の「うさぎとぞう」に絵を描いたのは、アート村所属アーティストの佐竹未有希さん。知的障害をもつ、「パソナハートフル」の社員で、アート制作を仕事にしています。
http://www.nhk.or.jp/heart-pj/art/heart/work2008/work31.html

 すてきなことだなと思ったし、パソナという会社を見直しました。
 派遣会社というのは、どうしても「阿漕な女衒」に見えてしまうところでしたが、ハートフル社員を雇用する会社でもある、ということを知りました。
 メセナ(企業の社会貢献活動)として、成功事例だと思います。

 私はダンスが好きなので、障害を持つ人のダンスパフォーマンスに注目してきました。
 身体障害や聴覚視覚障害がある人でも、ダンスによる身体表現で、実に生き生きとした表現力をしめす。
 だから、障害があってもなくても、ダンス表現の場では同じ「表現者」であると思っています。

 2008/08/31午後、日本テレビ「24時間テレビ」の中で、身体や聴力に障害があるアメリカの若者4人のブレイクダンスユニットと、ジャニーズの「嵐」がコラボレートしたダンスがあり、とてもよかった。

 「障害を乗り越えて」「障害にめげずに」ではなく、「障害も表現のひとつにしてダンスする」という表現力がとても心地よいダンス空間を作っていたのです。
 一人は、足の障害のため、両手に杖を持って踊るのですが、杖は魔法の杖のように、生き生きとダンス表現に取り込まれていました。

 グループ名、「イル・アビリティ」は、リーダーのトミー・リーによる造語です。
 障害というネガティブなイメージのある"disability(ディスアビリティ身体障害、不能、無能)"という語を反転させたイル・アビリティーズ(ILL-Abilities)。

 障害(ハンディキャップ)を欠点として捉えるのではなく、障害をユニークな個性ととらえ、ユニークであるが故に、そこから創造性や利点が生まれてくるという考え方。
YouTubeよりイルアビリティズのダンス
http://jp.youtube.com/watch?v=SlzofJGOo8E

<つづく>
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2008年10月05日


ぽかぽか春庭「千手観音」
2008/10/05
ぽかぽか春庭>ハートでアート(3)千手観音

 北京パラリンピック、9月6日の開会式では、障害を持つ人たちによるさまざまなパフォーマンスのなか、聴覚視覚にハンディキャップがある人たちの舞踊集団も登場しました。美しく華麗な舞。

 300人の聴覚障害を持つ高校生大学生などの若い女性たちが、2年をかけて練習した成果の美しい動きでした。手話によって動きを伝えるリーダーが指示を出し、踊り手はリーダーの指示を見て、聞こえない音にぴったり合わせてダンスをしていました。

You Tubeより、パラリンピック開会式のダンスパフォーマンス
http://jp.youtube.com/watch?v=Wx-a7sYhtg0

 また、中国の聴覚障害者によるダンスグループ「千手観音」のパフォーマンスも、障害の有無など関係なく、見る者に感動を呼び起こす、すぐれた表現になっています。
 宗教的な荘厳さを感じさせる、千手観音のダンス。

 7月末に日本テレビの「汐留ジャンボリー」に出演し、テレビで紹介されたので、日本のファン層も広がり、秋の日本公演では、チケット入手が難しいそうで、姪の祖母は「苦労してチケットを手に入れた」と、言っていました。
http://www.senjukannon.jp/

YouTubeより千手観音のダンス 
http://jp.youtube.com/watch?v=slTqx_pxqVg
アテネパラリンピック閉会式に出演したときの千手観音のダンス
http://jp.youtube.com/watch?v=UHOYIx7BfXs&feature=related

 大江健三郎の息子大江光は知的障害を持っていますが、幼いときから音楽が好きで、現在は作曲家としてヒットCDもあります。とても美しい、ピアノ曲の数々。私も「癒し系ミュージック」としてCDを聞いてきました。
 障害をもつアーティスト、さまざまな分野で活躍しています。

 芸術を創作する側の障害者については、偏見が減ってきているのだと思います。では、モデルとしてはどうでしょうか。
 感じ方はそれぞれあってよいけれど、次のような「障害者モデル」についての考え方を見て、私とは異なる受け取り方だなあ、と思いました。

 ある日本画家さんは、歩いている脳性マヒの人の姿を彫刻作品にしたものを見て、「人間の病気を木彫にしたもの」に見えて、「不愉快だ」と、ブログに書き残しました。

 何がこの日本画家さんを不愉快にさせているのでしょう。
 ご自身が病気をなさってから絵を始めたということなので病気や障害に対して感じ方が、私とちがうのだろうか。
 以下、「泥のにおい」という副題がついた彫刻作品についてのブログ記事コピーです。

<つづく>
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2008年10月06日


ぽかぽか春庭「モデル」
2008/10/06
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(4)モデル

 脳性麻痺の人々の姿を「不愉快」と受け取るのも、それぞれの感じ方だと思うし、私が「ひとつの人間存在のあり方であり、人間の姿の表現のひとつ」と感じるのも、私なりの感じ方だと思います。

 脳性マヒの青年は、じっとモデルになっていたのではないかも知れない。
 立ち上がろうとするだけでも大変だったろう。

 私が外出ヘルプをしたことのある脳性マヒのご夫妻、「立ったりすわったりするだけでも、えらいこっちゃ」とおっしゃっていた。ご夫妻、奥様は車椅子生活、ご主人は杖をたよりに歩行が可能でした。

 「半人前同士だから、ふたりでいっしょになれば一人前かと思って結婚したんだけど、ふたり合わせても一人前にはならない」と笑って、ヘルパーさんの助けを借りて、ふたり仲良くお暮らしでした。

 脳性マヒは、たしかに身体的に不自由があるけれど、彫刻作品のモデルとなって悪いわけじゃない。
 脳性麻痺にはいろいろなタイプがあり、発達障害を伴う場合もあるし、すぐれた感受性や能力を発揮する人もいます。
 不自由はあっても、人間の生きているかたちのひとつにすぎない。

 竹橋の近代美術館にある、肖像画「エロシェンコ像」。盲目の亡命ロシア詩人をモデルにした、中村彝(つね)の傑作です。
 エロシェンコ像を見るたびに、私は詩人の感性と知性あふれる魂を感じます。中村彝の、人を見る目の確かさと、エロシェンコへの熱い共感を感じます。
 自称日本画家さんは、エロシェンコ像を見て、「目の不自由さを肖像にして、不愉快」と感じるのでしょうか。

 脳性マヒの方の姿を「人間の病気を木彫にした」と感じるのは、脳性マヒ者の姿を「本来の人間の姿でない、美しくない」と感じるから、不愉快にお思いになるのではないか。

 この「泥のにおい」の木彫作品を作り上げた人、モデルへの愛情、深い共感がなければ、決して作ったりしないだろう。健常者をモデルにする以上に、たいへんな制作となるのはわかっているから。
 それをあえて作品にしたのは、脳性マヒの人がもつ身体的なダイナミズムに共感したからに違いない。

 脳性マヒの人が木彫モデルになることで、このブログの画家さんが「不愉快」と感じるのは、「病気の人をさらしものにしている」という意識があるからではないだろうか。そして「病気を人目にさらして不愉快」と感じるのは、脳性マヒの人を「人目にさらしてはならない、かわいそうな人」と思っているのではないか。

<つづく>
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2008年10月07日


ぽかぽか春庭「泥のにおい」
2008/10/07
ぽかぽか春庭>ハートでアート(4)泥のにおい

 以下のコラムを書いた方は、自称「日本画家」です。プロフィールによると、ご自身が病気をされたことがきっかけで、絵を描きはじめたそうです。
 (2007年9月にコピペしたブログですが、現在閉鎖してしまったのか、サイトを呼び出すことができません。)

ある日本画家のブログより引用「2007年の日展で」
===========
 私は、少し驚いたことがある。
 彫刻の展示場で、特選に選ばれた作品についてである。
 ある青年の独特のポーズなのであるが、そのポーズは、ある意味脳性麻痺の人間が立って歩く時に自然に出てくる仕草を木彫にしたものである。

 一昔であれば、このような木彫は敬遠されたであろうが、今の時代は特選として評価されている。
 私にとっては、実は大変不愉快な思いなのである。
 人間の病気を木彫にしたものに見えてくるのである。

 ソレを芸術まで昇華した?はたして、そうなのであろうか?う~ん・・・・ 考えすぎか?(^^;)
 しかし、見て不愉快なものには変わりは無い。(2007-09-09 10:19:51 ) 

 上記ブログへの読者コメント
 はじめまして
 その作品、審査の際、うちの隣に立ってましたけど、一度見たら忘れられない表情をしてましたね。
 何を意図して・・・と思いましたけれど。

 このお話から、障害を持っても力強く生き抜く・・・ という事を表現したかったのかな?とも・・・。
 それにしては、あのサブタイトルの「泥のにおい」というのは、どういう意味なんだろう?と今だに判りません。(2007-09-10 09:48:30)
================

 私は当の作品を見ていないので詳細はわかりませんが、「泥のにおい」と題された彫刻作品、モデルになっている人が脳性マヒの方であるらしい。

 私は脳性麻痺生活者が木彫モデルになったとしても、「病気を作品にしたことが不愉快」とは思わない。

 不自由があるのはわかる。その不自由さはできる限り解消されるべきだが、不自由さとともに「脳性麻痺という個性」を生きている人と思っています。
 若い女性や青年がモデルになるのとおなじくらい、脳性マヒの青年はモデルになって当然だ」と、私は思う。

<つづく>
01:21 コメント(5) ページのトップへ
2008年10月08日


ぽかぽか春庭「ユニークフェイス」
2008/10/08
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(5)ユニークフェイス

 「ユニークフェイス」というNPOがある。遺伝、疾患、外傷等による「見た目の問題」を持つ人々を、サポートする活動を行っています。
 見た目が他の人とことなることで、外出をためらったり、人前にでることに苦痛に感じ生きづらさを感じている人たちにアドバイスし、さまざまなサポートをしています。

 顔の傷やアザを手術やメイクで目立たなくする方法を教えたり、自分自身のユニークフェイスを子供たちに見せて、子供たちに、外見が人と異なる人への接し方教えたり、ユニークフェイスの持ち主の心情を話したり、という啓蒙活動を行っています。
 NPO法人ユニークフェイスのHP
 http://www.uniqueface.org/

 6年前に亡くなった私の姉は、腕のいい美容師でした。ヘアカットや着付けが上手なだけでなく、「オリリー・カバーマーク」という特殊メイクの技術を習得していました。
 手術しても完全には直らないヤケドやアザを、メイクでうまくカバーする方法を身につけて施術し、感謝されていました。

 外来語「アート」は、日本語語彙としては、「芸術」「美術工芸」という意味で用いられていますが、英語「artアート」の語源となっているラテン語の ars (アルス)の本来の意味は、「芸術」というより、「自然」に対置される人間の「技」や「技術」を意味する言葉でした。「芸術・美術」というより「術」「ワザ」を意味していたのです。
 ラテン語「ars」は、そもそもギリシャ語「テクネー」に相当しています。テクネーはテクノロジー(技術)の語源でもあり、「技術・ワザ」を意味しています。
 古代ギリシャの「医術の祖」と呼ばれるヒポクラテスが「Art is long, life is short. 」と述べた言葉は、格言として日本語では「芸術は長しされど人生は短し」と訳されていますが、実は「医術を習得するには長い時間がかかるが、人生はあまりにも短い」というのが原意だそうです。

 姉は、芸術家ではなかったけれど、卓越した「ワザ」を持つ」美容師として、彼女の「アート」を発揮した人だった、と思います。

 姉は「顔のあざを目立たなくすることで、性格がすっかり変わったようになる人もいる。顔をじろじろ見られたり、子供から指さされてオバケの顔とまで言われたりして、人前に出たがらなかった人が、うれしそうに外出するようになる」と、仕事に誇りをもって話していました。
 
 そういう話を聞いたとき、私は、「外見がどうだろうと、堂々と歩けるほうが、ほんとうなんだけど」と、姉に言ったこともありました。
 「人と同じことをしたがり、いつも群れて行動する」のが好きな人々を、批判してきた私。
 と、信じて生きてきた。

 ド近眼&乱視&老眼の私がなんとか不自由なく仕事をこなせるのは、眼鏡の助けがあるから。
 眼鏡をかけるのは不自由なときもあるけれど、私にとって、それで「人目にさらされるのをさけたい」と思ったことはありません。なぜなら、日本では、メガネをかけることは少数派ではないから。会議などで、その場に居合わせる半数以上がメガネということも少なくはない。

 脳性麻痺の肢体をぶしつけに見られるのをいやがったり、顔の怪我などを人から見られるのがつらいという人へ、「悪いことしているんじゃないんだから、堂々と外に出ようよ」と言っていたにもかかわらず、我が身の上の出来事について、大いに考えさせられた出来事がありました。
 自分の姿形が人と異なって見え、しかも「大多数」の人たちから見ると「少数派」になったときの気持ちがよくわかった出来事に遭遇したのです。

<つづく>
07:25 コメント(3) ページのトップへ
2008年10月09日


ぽかぽか春庭「裸足で歩く」
2008/10/09
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(6)裸足で歩く

 7月に、「世界が足もとから崩壊する気分」を書きました。
 仕事先まで履いていったサンダルが壊れてしまい、半日を裸足ですごしたときの話。

 笑い話として書き、チルチルさんにも「笑えたよー」と言ってもらったのですが、実は、自分自身の「自己イメージ」が崩れて、「自己イメージの私的世界崩壊」を感じたのでした。
(春庭いろいろあらーなカルスタクラブより2008/07/10~13)
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200807A

 「靴をはいていない」というだけの「一般常識とはちがう姿」をして都会の道路を歩いてみて、人から見られとき、「ジロジロ見るんじゃネーヨ!」と感じてしまった。
 何も悪いことをしていないのに、「見られたらイヤだな」と感じてしまう。スティグマを負うて歩くような気分。
 「悪いコトしているんじゃないのだから、堂々と歩きましょう」なんて、建前にすぎなかった。人にうさんくさい目で見られること、ほんと、いい気分ではありませんでした。

 自分自身の問題として引きうければ、たかが「靴をはいていない」程度のことでも、「人から変な目で見られる」のがいやだという事実。
 衝撃!
 「顔にあざがあっても、堂々と外を歩ける社会にしなければ」という私は、ただの「建前」を述べていたのにすぎなかった。

 私が「外見で人を判断したり差別することは、まちがっている」と、思っていたことは、事実だけれど、自分自身が「差別される側」には立たないまま言っているだけなら、「アフリカの飢えた子供を救おう」と活動する一方で、飢えた子供を100人救える金額の高級グルメ料理を食べ残したりしている人の行動と変わらないではないか。

 「どのような顔や肢体でも、堂々と外を歩こう」と言っていながら、自分はじろじろ見られることがいやだ、なんて、「地球にやさしいエコ生活をしよう」と、割り箸や紙コップの使用禁止を訴えながら、エアコンかけている人と変わらないではないか。

 自分自身が、いかに「他の人と異なる様相を見せて、うさんくさい目で見られる」ことをすんなり受け入れられない人間であったか、と思い知った。

 自分が頭で思っていた「私は、見かけで人を判断したりする人間ではないし、みなと同じでないからといって偏見を持つ人間ではない」という自分自身のイメージは、「差別される側」からの視点ではなかった。

 実際に自分自身が他者と変わった姿をしたときには、「じろじろ見てんじゃネーヨ!」と叫びたい人間であったことを思い知りました。

 「みんなと同じでありたい」「他人と自分とが違う部分について、あれこれ言われたくないから、多勢に同化しようとする」という日本社会の中に、自分自身がどっぷりつかっていることを思い知った、裸足の400メートル道中でした。

 おのれの思想信条、肌の色、姿かたち、自己のいかなるありかたを示めしても、決してそのことによって人を差別することのない社会であってほしいと、私は、思っている。
 
 脳性麻痺によって、不自由があるなら、それを完全にとはいえなくても、できる限り不自由のない状態にまで援助することは、私たちのつとめだし、行きたいところに出かけていけるよう、手助けしたい。私はそうやって、視覚障害や身体障害の方ともおつきあいしてきた。

 外見が他の人とちがっていても、肌の色がちがっていても、靴を履いていなくても、自分は自分、と、堂々と歩ける人でありたいと思っており、そういう社会をめざす人になりたいと、もう一度確認した「裸足の400メートル」

<つづく>
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2008年10月10日


ぽかぽか春庭「裸足で泥田を!」
2008/10/10
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(7)裸足で泥田を

 障害を持つ人たちを「かわいそうな人」と一面的にとらえることはしない。不自由なことは多いだろうけれど、私にない可能性をたくさんもち、私にない感受性を持っている。

 視覚障害の方は、ド近眼で乱視の私以上に不自由はあるだろうけれど、その不自由さ以外の部分では、それぞれの個性をもって生きていく人間同士。
 脳性麻痺の方は、足を怪我した私以上に不自由であるだろうけれど、その人独自の個性感性をもっている。

 ある人の存在のしかた、ある生き方を、「美しい」とみるか、「不愉快」とみるか、人さまざまであるのだろう。
 「泥のにおい」という脳性麻痺者をモデルにした木彫作品をみて、「不愉快」と感じる人がいたら、それはそういう人であるのだから、反論しても意味はないのかもしれない。

 私の、大切な友人たち。
 ひとりは視覚障害のあこさん。私に「見えない世界」「音と匂いの世界」の感じ方の豊かな感覚をおしえてくれる。
 ひとりは、脳性麻痺のちるちるさん。詩とアートのすてきなハーモニーを見せてくれる。

 私自身が「人からジロジロみられるのはイヤだ」と感じてしまう弱い人間であることを自覚しつつ、それでも「いっしょに外を歩こう、裸足で散歩しよう」と、あこさんもちるちるさんも誘いたい。

 映画『裸足で散歩』の原作『裸足で公園を』は、ニール・サイモンの戯曲作品。
 私は、『裸足で泥田を』歩いていこうと思う。

 50年も昔のこと。子供同士であぜ道を歩いていた。
 私の家のまわりは、まだ畑と田圃が混在し、田圃に水を引く細い水路が住宅地化してきた地域のなかを通っていた。

 田植えの泥田を見下ろし、「あんな汚い仕事をする人になりたくない」と、言った子がいた。
 私の母の実家、元は農家で、母も田植えの手伝いをしてきたから、町かたの子が田植えを見て「泥んこのきたない仕事」と言ったことにびっくりした。

 それを聞いて、「泥の中に植えなければ稲は育たないよ」と反発したのだったか、「私は泥の中で生きるよ」と言い返したのだったか、もう反論の中身は忘れてしまった。子ども同士の幼い口げんかが印象に残った思い出。
 どちらにせよ、反論しても意味はなかったろう。泥の中で生きることが嫌いな人もいれば、泥の中でなにかをつかみ取ろうとする人もいる。それだけだ。

 私は、これまで泥んこ人生だった。不如意な人生の泥の中をはいずり回って生きてきた。
 泥のなかの私の姿をみて、「あんなドロンコの中で生きていたくない」と思った人もいるだろう。

 私は泥のにおいが好きだ。
 雨上がりのどろんこ道の匂いも、田植えの前の泥田の匂いも。私がはい回っている泥んこ人生のにおいも。

 実は、自分自身だって、人からジロジロうさんくさい目で見られるのは嫌いなのだ、という弱点を自覚しつつ、私は裸足で泥田を歩いていく。
 「ハートでアート」を制作するさまざまな「アーティスト」たちに励まされながら、彼らの感性によりそう者として歩いていきたい。

 まだ見たことがない「泥のにおい」という副題がつけられた木彫作品を、いつか見ることがあるだろうか。その彫刻に出会ったら、私は靴を脱ぎ、裸足で作品の周りをぐるぐる回ってみようと思います。
 その彫刻といっしょに歩いていけるような気分になれたら、私がこれから先歩いていく泥んこ道の一歩一歩が私にとって、いっそう深い一歩になれる気がするのです。

<おわり>

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障害と芸術2009年10月

2011-01-01 09:22:00 | 日記
2009/10/21
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>ホームレスとミリオネア(番外編)障害と芸術(1)ナサニエル・エアーズとグレン・グールドの障害

 映画『路上のソリスト』に、ナサニエルが自分自身について「スキゾフレニア(統合失調症)」と書いてある書類を読んでひどく混乱するシーンがありました。アメリカでも「統合失調症」と診断されることで周囲から排撃されるということが続いてきたから、ナサニエルにとってこの病名がショックだったのでしょう。ナサニエルは幻聴や幻視に苦しみますが、発症以来ホームレス生活になり、病院へは行っていません。ナサニエルにとって、「スキゾフレニア」という病名がつくこと自体が耐え難いことでした。

 統合失調症は、まだわかっていない部分もあるけれど、脳の研究が進むにつれ、やみくもに恐れたり忌み嫌ったりする病気ではないこともわかってきました。知らないから恐い。幻聴や幻視は精神を脅かす症状ですが、それを注射やロボトミーで「排除」するのではなく、「幻聴も幻視も含めて自分自身として受け入れよう」という対処の仕方を続けている統合失調者グループホームの活動もあります。スキゾフレニアもアスペルガーも、こちらが何も知らないから、「奇妙でフツーじゃない」と思える。

 私も、「学童保育室仲間」で娘と同学年だった発達障害のかっちゃんをよく知らなかったころ、かっちゃんが恐かったことを思い出します。かっちゃんをよく知らず、行動の予測がつかなかったから恐いように思えたのです。
 かっちゃんは小学校では「なかよし学級」という障害をもつ児童のクラスに通学していましたが、学童室ではみんなといっしょに放課後をすごします。娘は家で「弟のお世話係」だったので、学童でもかっちゃんの「お世話係」のようになりました。

 かっちゃんを知れば、純粋な魂を持つ子であることがわかってきます。周囲と折り合えないことが起きたりすると、ときにパニックになったりすることもあったけれど、娘は辛抱強くかっちゃんの相手をしていました。
 今思うと、娘がかっちゃんの世話をしているように見えて、私も娘もかっちゃんから多くのことをも教えられていたのだということがわかります。ロペスがナサニエルとの交流のなかで人生の大切なことがわかってきたように。
 必要なのは「排除による美化」ではなく、分かり合うこと、共に生きること。友達としてつきあううち、必ず彼らが「恐い存在」などではないことがわかってきます。

 ナサニエル・エアーズのヒーローはベートーベンでした。ベートーベンが耳の障害を抱えて苦しみながら曲を作ったこともナサニエルがベートーベンが好きだったことの理由のひとつでしょう。ナサニエルも幻聴や幻視などの脳の障害によるの症状に苦しみました。

 このところ、私のパソコンBGMは「路上のソリスト」検索からベートーベンへのユーチューブサーフィンを続けていました。バイオリンよりもピアノ曲が好き。
 若い頃、コンサートチケットを買うお金もなくラジオのFM放送を聞くしかなかったころは、流れてくる曲をそのまま聴くだけだったけれど、今はどの曲を聴きどの演奏家を選ぶのかもお好みしだい。同じ曲をルビンシュタイン、アルゲリッチ、リヒテル、ツィンマーマン、バレンボイム、ブーニン、と次々にサーフィンして聞き比べることもできます。

 あまたのピアニストの中、やはりグレン・グールドは独特です。私がクラシックを聞くようになったころにはすでに演奏会での姿は目にすることができなくなっていたグールドですが、ユーチューブのおかげで鼻歌まじりの演奏を見ることができました。

 グレングールドは独特の演奏で知られていましたが、1964年以後、公開の場で弾くことをやめ、引きこもり生活を続けました。
 精神科医師でグールドの友人だったピーター・オストワルド氏は、グールドがアスペルガー症候群であったのではないかと考えていました。(オストワルド『グレン・グールド:天才のエクスタシーと悲劇』(W.W.Norton,1997)。

<つづく>
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2009年10月22日


ぽかぽか春庭「カミーユ・クローデル」
2009/10/22
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(2)カミーユ・クローデル

 引きこもり生活となったグレン・グールド、演奏の録音は続けましたが、歌いながら弾くなど、完全に自分の世界に閉じこもっての演奏でした。
 演奏会拒否の演奏家として後半生を生き、1982年、50才で早世。亡くなった後もなおファンが多く、CDが売れています。
 他人との接触による感染症を恐れ、また、自分をだれかが毒殺しようと思いこんでいたと言われています。病気を恐れて多種類の薬剤を服用していたのも影響して早死にしました。

 アスペルガー症候群というのは、周囲とのコミュニケーションをとることが不得意な自閉症状のひとつですが、言語障害を持たず、特定分野に高い知能や技術を示します。他者の気持ちを推し量ることや円滑にコミュニケーションをとることができないので、学校の中でイジメにあったり職場で「変人」と扱われたりすることも多い。

 アスペルガー症候群やスキゾフレニアという脳の障害を持っていても、その他の能力をすべては失ってしまうのではありません。
 発達障害のなかでもアスペルガーやほかの自閉症状の場合、知的能力が高いために、病院へ行って診察を受けないままのケースも多い。本人も家族もアスペルガー症候群などの発達障害だとわからないままつらさを抱えて生きていくことになる。

 病名を知り、「ああ、自分が周囲となじめず、生きづらいのは、このためだったか」とわかって、生きづらさの原因を納得できるという人もいるし、「病気」のひとつと知らされて自分を病気と思いたくなくて拒否反応を起こす人の両方があります。
 病気を受け入れることのないまま生きていくより、「病気や障害を抱える自分」受け入れ適切な治療や指導を受けるほうが、QOLが向上すると私は思いますが、そうはいかない場合もあります。病名そのものを嫌って、病気を受け入れないことも多い。

 障害があっても、適切な指導を受ければ優秀な成績を生かすこともできます。たとえば発達障害のひとつ「注意欠陥多動性(ADHD:Attention Deficit / Hyperactivity Disorder)」と診断された双子兄弟が東大と早大に合格した例もあります。

 昔は、統合失調への治療が適切に行われなかったため、病名を診断されるとそのまま精神病院に閉じこめられて一生をすごすこともありました。たとえば、カミーユ・クローデル。
 ロダンの弟子にして愛人だったカミーユ・クローデル(1864~1943年)。すぐれた彫刻作品を残したのは、80年の人生の前半において。後半生は40年も精神病院に閉じこめられ、孤独にすごしました。

 カミーユ・クローデルは、18歳のとき、25歳年上の彫刻家に出会いました。43歳のロダンは油の乗り切った時代でした。カミーユはいさんで弟子入りします。芸術家同士の師と弟子はじきに愛人同士になります。
 ロダンの代表作のひとつ「パンセ(想い)」は、カミーユがモデルとなった作品。カミーユは、弟子であり愛人であり、ロダンの彫刻へ強い影響を与えた存在でもありました。カミーユはやがて師を圧倒するほどの作品を生み出すようになりました。

<つづく>
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2009年10月23日


ぽかぽか春庭「カミーユと高村智恵子」
2009/10/23
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(3)カミーユと高村智恵子

 ロダンの弟子カミーユ・クローデルは、女性であるがゆえに芸術家として認められないことへのストレスに加え、師匠にして愛人であるロダンに裏切られて、1905年41歳のころ、精神のバランスを崩してしまいます。
 カミーユの80年の生涯のうち、1905年以後、亡くなるまでの38年は、精神病院に閉じこめられてすごしたのでした。

 カミーユを案じていた母は、1920年に亡くなり、姉カミーユを支えていた弟、詩人のポール・クローデルは、1921年に日本駐在フランス大使として赴任し、遠く隔たってしまいました。
 精神病院ですごすカミーユを支える人はいなくなり、1943年、孤独のうちに亡くなりました。

 私のカミーユへの理解はイザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』の内容以外に多くを知らないので、勘違いな部分もあるかもしれませんが、彼女がロダンを師とせず、彫刻という表現を選ばなかったら、別の人生もあったかもしれない。ロダンと出会わなかったら、病院の庭で孤独に生きた後半生とは異なる一生もありえたかも知れない。あるいは、時代が違っていたなら、、、、でも、カミーユに言わせれば、ロダンと会い、愛し合い別れた、彫刻という表現媒体を選び、作品を残した、それこそがカミーユ自身の生だったのだとしか、言いようがないのでしょうけれど。

 明治の日本、カミーユ・クローデルと同じように、統合失調のために自分の芸術生活を貫くことができなかった女性がいます。「女だから」と、芸術へ向かうことを押さえ込まれ、自らの芸術への志向を押し曲げねばならなかった近代の女性たち。

 たとえば、高村光太郎の妻、智恵子(1886-1938年)。
 高村光太郎は「智恵子の半生」に、妻の姿を描いています。
 新婚の夫と妻がふたりして油絵に取り組んでいる。しかし、女中をおく余裕のない家で、腹が減ればどちらかがご飯を作らなければならない。

 妻はしだいに自分の絵をあきらめ、夫が制作に費やす時間を確保すること、夫を支えて家事いっさいを引き受けることに生活の満足を見いだすようになりました。
 光太郎は、それを智恵子の自発的な決断だった、と書いています。そうなのだろうか。智恵子の本心からの選択だったのでしょうか。

 夫を支えるのが良妻でありそれ以外の人生はないと教え込んだ明治の「良妻賢母養成教育」を受けた女性が、家事を優先させて欲しいという夫の要求を押しのけて芸術の道を走り続ける方法があったでしょうか。

 女性が自分の芸術活動を続けるには、1,独身を通す。(山下りん。樋口一葉のように)2,金を稼げない夫と結婚して妻が稼ぎ手となる(与謝野晶子、平塚雷鳥のように)3,夫の死後、芸術活動を再開する(ラグーザ玉のように)、などの方法がありました。

 明治大正時代、結婚した女性が自分なりの歩調、自分なりの歩幅で歩いて行ける自由を持つことは難しいことでした。智恵子は芸術へ向かいたい心を押さえ込むしかありませんでした。

<つづく>
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2009年10月24日


ぽかぽか春庭「高村智恵子と草間彌生」
2009/10/24
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(4)高村智恵子と草間彌生

 智恵子は高村光太郎とは「愛情のみで結ばれている」事実婚を続けており、夫への奉仕を求める光太郎に対し「尽くす」以外に夫の愛をつなぎ止める方法はない、という生活でした。
 高村光太郎と智恵子は、1911年に出会い、結婚披露宴は1914年に行っていますが、入籍したのはそれから22年後の1933年。智恵子に統合失調の症状があらわれはじめ、自殺未遂をおこした翌年のこと。実家の没落という心痛める出来事と芸術活動を続けられないということに苦悩し、智恵子は追いつめられていきました。

 入院中の智恵子は切り紙細工をするようになりました。結婚生活中、油絵に取り組むことができなかった代償のように切り紙の表現を続けました。夫光太郎はひたむきに紙を切る智恵子の姿を詩にしています。今の時代の目から見れば「なぜ、発症する前に智恵子に芸術活動を許してやらなかったのだ」と糾弾したくなりますが、智恵子が入院するまでは、光太郎にとって「妻とは家事をして夫に尽くすことに幸福を見いだすものだ」という考え方をつゆほども疑ったこともなかったのでしょう。それが当然の世の中でしたから。

 統合失調症を抱えていても、それを自身の芸術として表現した女性芸術家もいます。
 たとえば、草間彌生(くさまやよい)は、幼いころからスキゾフレニアを抱えて生きてきましたが、病との闘いをキャンバスに表現することができました。

 草間彌生(くさまやよい)は、カミーユ・クローデル生誕から60年後、1929年に生まれました。幼いころから幻覚症状があり、統合失調症と診断を受けました。
 自分の周囲を斑点が取り囲むという幻覚に悩みましたが、彼女はそれをキャンバスの上に表現することで、負の症状をネガティブから「自己表現」に反転させたのです。「斑点の反転」は、1957年、草間28歳での渡米後のことです。

 草間は自分の周りに増殖する斑点を「幻覚による強迫神経症的な恐怖」ではなく、ありのままの自分の表現と転化することでアメリカ美術史上、ポップアートの先駆者として知られるようになりました。斑点とともに草間の神経を脅かす幻覚であった男根のイメージも、机や椅子、あらゆる場所を男根的なオブジェで覆うという表現により、「増殖による消失」という逆説的な宇宙空間を現出せしめることに成功しました。彼女は一躍アメリカポップアートシーンの勝利者となりました。
 草間彌生公式HP http://www.yayoi-kusama.jp/

 統合失調もアスペルガーも脳の一部が損傷することによって引き起こされる障害のひとつですが、適切な診断と治療があれば、日常生活をすごすことも、芸術活動を続けることも、不可能ではありません。何か大きなショックを受ければパニックに陥ることもありますが、その症状を忌み嫌ったり排除したりすることではないのです。

<つづく>
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2009年10月25日


ぽかぽか春庭「アートセラピー」
2009/10/25
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>障害と芸術(4)アート・セラピー

 草間彌生が自己の幻覚を反転させて作品を生みだしたように、ナサニエル・エアーズがロペスというよき理解者を得て音楽活動をより深くしていったように、障害の有無にかかわらず、というより障害があればこそよりいっそう深い精神性を獲得できる、ということもあるのです。
 画家ゴッホは、群発頭痛、閃輝暗点、耳鳴りなどの症状に苦しみ、これらの症状から逃れたいとアルルの精神病院に入りましたが、この入院中に描いた作品中に彼の最高傑作が多い。

 苦しかったり辛かったりする症状は取り除く方がQOLのためにはいい。でも、他者を傷つけず、自分自身がそれを認めていけるのであるならば、幻覚幻聴その他脳障害の症状も、無理矢理排除するのではなく、周囲の人がそれら症状も含めてアスペルガーやスキゾフレニアの人を受け入れることが、今求められているように思います。
 ちょっとの「はみ出し」も許さず、少しでも規格からはずれていれば「不良品」として排除してしまうような現代の日本。「多様性の必要」が叫ばれながら「自分たちとは違うもの」を排除してしまう世の中に息苦しさを感じてしまうのは、私ばかりではないように思うのですが。

 今も「鬱病」「統合失調」などの病名で休職しようとすると、病気以外のあれこれを理由にして辞職させようとする会社が少なくない。ハンセン病の人を社会から隔絶し排除しようとしたことについて、国は正式に謝罪しましたが、さまざまな病気を理由とする排除は今もなくなっていません。

 「貧と病と老いと死」、生老病死、四苦八苦は生きていく上で決してなくならない悩みなのでしょうけれど、自分自身の四苦八苦と向き合うとともに、他者の生老病死を排除しない生き方を見つけていきたいです。

 スキゾフレニアや発達障害を抱えながら、発明や科学研究の才能を発揮した人もいる。芸術家など特別な才能がある場合は、「他の人とは変わっている」ことを認めてもらえることもある。でも、平凡な人だったら、病気すなわち落伍者と烙印を押されてしまう。何か特別の才能を持たない人でないと、障害を持ちながら心豊かな人生をおくることは認めてもらえないのでしょうか。どんな障害があっても、どのような人であっても、それぞれが自分自身の人生を生きていける社会であってほしいです。

 芸術活動をスキゾフレニアやその他の脳障害、アルツハイマーや鬱症状の治療に利用する方法の研究があり、心理療法のひとつとしてアートセラピーも行われています。アート(描画、ペインティング、コラージュ、彫塑、オブジェなど)を使って様々な問題を抱えた人々の回復を助けるという方法です。

 アートのほか、音楽や詩、ダンス、サイコドラマなどを使った療法もあります。これらのクリエイティブ・セラピーCreative Arts Therapy・Expressive Therapyは1930年代からアメリカを中心にして発展してきました。ことばを使って自己表現することが不得手な人にとって自分の心の中の葛藤やトラウマなどを表現しにくい人、言語表現では堪えられないほどの精神的苦痛の解放のために効果があるそうです。

 いろいろな作業療法や表現療法アートセラピーがあることを知るにつれ、田畑を耕し手仕事で生活に必要なものを作ることが生きていくことそのものだった時代の人は、生活がセラピーであり、生活しながら癒されていたのだなあと思います。現代は機械や人工の物の中に埋もれて暮らし、自然や物作りから切り離されて生きているから「○○セラピー」が必要になるのだろうと考えてしまいます。

 私も地下鉄での通勤、パソコンをつかっての仕事など、自然や物つくりとは遠い生活が続いています。エナジー・セラピーとかスピリチュアル・カウンセリングとかの療法を受けるには、1時間1万円の治療代が相場とかで、とても薄給の非常勤講師には払えません。無料のセルフ・セラピーを心がけたいと思います。

 私の場合、書くことが心の解放です。私がこうしてよしなし事を2003年以来6年間書き続けてきたのも、私の心のためにはよいセラピーだったなあと思います。ずっと明日暮らすお金がないことを心配する生活で、ときにはなぜ私ばかりこのような貧乏暮らしをし続けなければならないのか愚痴に終始する日記であり、他の人をねたみそねみひがみやっかみの記事ばかりでしたけれど、まあ、それもセルフセラピーということで、お許しください。



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2008年秋展覧会めぐり2008年10月

2010-12-30 11:08:00 | 日記
2008/10/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(1)千葉大学図書館展示ホールのディズニー原画展

 ここ1年に見た絵&アートをまとめて記録しておきます。

 ディズニー初期アニメーションの原画が千葉大学で発見され修復されたことについて、
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200609 (2006/09/18)
に書きました。

 初期ディズニーアニメの原画セル画は、千葉大学が譲り受けて保管していたのが忘れられ、タイムカプレセルのように、50年もたってから発見されました。
 高度な修復技術により、セル画についていたカビなどもとりのぞかれ、美しい絵がよみがえった。
 本家のディズニー社には、初期のセル画保存がないものが多く、千葉大学はディズニー本社にこれらの修復セル画を寄付しました。

 これら新発見のディズニーアニメ原画は、修復作業を経て、東京都現代美術館で「ディズニーアート展」(2006年7月15日~9月24日)として公開され、多くのアニメファン、ディズニーファンが観覧しました。

 しかし、私はこのとき、会期中に見に行くことができず残念な思いが残りました。
 2006年6月3日に、千葉大学で写真学会の講演会が行われたとき、講演会場のけやき会館別室に展示されていたアニメ原画やアニメーションを見たのだけれど、もう一度見ておきたかった。

 現代美術館の展示ほど大規模なものではありませんが、2007年10~12月に、千葉大学図書館展示ホールで「ディズニーアニメ原画」が展示されていたので、もう一度ディズニーアニメ原画を見ることができました。

 現代美術館には、千葉大学で発見された原画のほか、ディズニー本社から運ばれた貴重な原画もたくさん展示されたということですが、鑑賞するには難点がひとつあったそう。いつもの美術館の雰囲気に比べ「チビッコが大喜びで駆け回る」会場だったというので、「にぎやかし」が嫌いな人には、落ち着けなかったんだって。

 千葉大学図書館のホールは、狭い会場ですが、落ち着いてみるには、こちらのほうが静かでよかったかも。無料だし。
 シンデレラ、眠りの森の美女、わんわん物語などの背景画やコンセプトアートは、現代美術の作品として独立して鑑賞できる美しい絵でした。

 りんごの色についての豆知識。鈴木孝夫の『日本語と外国語』より
 「りんご色」というと、大多数の日本語話者は、「赤」をイメージする。しかしフランス語では「りんご色」は、緑をさす。

 グリム童話の原作(ドイツ語)では、白雪姫が食べるりんごは「半分は赤、半分は白」と書かれていた。これって、二つ割りにしたリンゴってことかしら。
 でも、ディズニーアニメが毒リンゴを「丸い赤りんご」に描いてから、世界中の白雪姫ファンは、「毒リンゴ」といえば「まっ赤」をイメージするようになった。
 以上、「色彩名称トリビア」でした。

<つづく>
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2008年10月27日


ぽかぽか春庭「アニメ専攻デジタルアート専攻」
2008/10/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(2)アニメ専攻デジタルアート専攻

 現代美術館で、ディズニーアニメを「はしゃぎまわりながら」見ていたというチビッコたちもいっぱいいた。この展覧会に触発され将来はアニメーターになりたいと思い立った子がいたかもしれない。

 東京芸大に「映像研究科修士課程アニメーション専攻」が開設される、というニュースを2007年末、読みました。
 2008年4月開校。アニメを芸術としてとらえ、高い表現力を持つリーダーを養成するための大学院教育なのだそうです。

 おお、今やアニメで修士号をとる時代になったのねぇ。私が子供の頃は、「漫画ばかり見ているとバカになる」と、有識者たちが顔をしかめていたのに。

 芸大教授陣のひとり山村浩二は、「頭山」というアニメ作品が高い評価を受け、また、「カフカ田舎医者」という作品でカナダのオタワ国際アニメーション映画祭短編グランプリ受賞しました。
 ほか、アニメ「ニャッキ」制作の伊藤有壱らが指導にあたります。

 16人の募集枠にどんな学生が選ばれるのでしょうか。
 一期生っていうのは、大事にしてもらえるのでいいよ。
 私も、母校の「日本語学科一期生」なので、先生方、手塩にかけて育成してくださった。
 私以外の一期生たちは、それぞれよき職場を得て、各界に活躍しています。まあ、手塩にかけても、ダメなやつはダメなままだった、という見本が、私。

 芸大大学院、映像研究科映画専攻の教授は、北野武、黒沢清。
 芸大も新分野の芸術に対し、意欲的にチャレンジが続きます。

 アートの進化。日本画も洋画も彫刻もアニメも、表現の世界は無限大です。
 現代美術館のディズニーアニメ展示を担当したスタジオジブリのスタッフも、芸大大学院でこれからアニメ制作に取り組む学生たちも、世界に飛び出す意欲的な作品を目指していくのでしょう。

 2008/08/24に、「アジアデジタルアート大賞東京展(2007年度)」を見ました。(於:東京ミッドタウン・タワー5Fデジタルバブ)
九州大学感性融合創造センターが、若い世代のクリエイターを育成する目的で行っているデジタルアートの賞で今年は7回目。

 コンピュータデジタルアートは、アニメとともに、世界へ向けて発信する次代の日本文化を担うものとなっています。
 文化庁メディア文化祭は1997年からはじまって、2008年は12回目となる老舗。私が展示会場まで出向いて見たのは2度だけだけれど、受賞作品には毎年注目してきました。

 この「アジアデジタルアート大賞」を見るのは、2008年が最初。去年まで7回も回を重ねていることすら知りませんでした。

 九州大学 先導的デジタルコンテンツ創成支援ユニット(略称:ADCDU)は、国際的に活躍できる次世代のデジタルコンテンツクリエーターを育成する目的で設立された。
 2005年度九州大学大学院芸術工学研究院に文部科学省科学技術振興調整費新興分野人材養成プログラムが創設されました。

 このような「先端的~」を見て、アナログ人間の私はただただ、「すごいなあ、よくこんなことをコンピューターでやれるなあ」と感嘆するのみ。
 デジタルアーティストたちの頭の中はどうなっているのだろうと思います。

 デジタルアート、静止画部門も動画部門も、おもしろく見た。若い才能がぴちぴち踊っていました。
 私は昔者のアナログ人間だから、時計も長針と短針がぐるぐる回るのが一番わかりやすいけれど、アートに関しては、昔ながらに絵の具や鉛筆で描くのもいいなあと思うのと同時に、デジタルアートに21世紀の可能性を感じています。

本日の徘徊ミソヒト
デジタルは1、2、1、2の二進法、いちにいちにとアートは進む

<つづく>
06:12 コメント(3) ページのトップへ
2008年10月28日


ぽかぽか春庭「ブリジストン美術館・近代絵画コレクション展 」
2008/10/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(3)ブリジストン美術館・近代絵画コレクション展

 ブリジストン美術館は、1952年に開館。2007年は55周年目のコレクション展がありました。会期2007年12月1日(土)~2008年1月27日(日)
 ブリジストンは、東京駅八重洲口から歩いていけるので、30年くらい前に、毎月のように通った美術館でした。

 最近は上野周辺や竹橋周辺、白金などを散歩がてら歩くほうが多くなり、東京駅からまっすぐ行くブリジストンにしばらく来ていませんでした。
 八重洲口は、大丸デパートが移転し、再開発の工事中。すっかり様子がかわっていました。外に出るまで、方向音痴なものだから、ぐるぐると駅のなかを回ってしまいました。
 
 ブリジストン美術館は昔通りの場所にありました。
 コレクションは、古代エジプトの神像から現代アートまで、いくつかの部屋に別れて展示されていましす。
 昔、ちょくちょく通っていたころのなじみの作品に出会うと、「おひさしぶりですね」と挨拶したくなる。

 ロダンやブールデル、ザッキン、ブランクーシなどの彫刻のギャラリーを通って、第一室の「伝統から近代へ」

 小さいけれど、目をひくのがレンブラント・ファン・レインの『聖書あるいは物語に取材した夜の情景』暗い画面ですが、ドラマチックな印象です。1626-28年に描かれた油彩。 第1室には、ほかに、ドーミエ、ミレー、クールベなど。

 第4室は印象派。コロー、ピサロ、マネ、ドガ、シスレー、ルノワール。
 第5室、セザンヌ、モネ、ゴーガン、ゴッホ。
 第6室。ルドン、ボナール、ルオー。

 20歳で東京へ出てきて、夢中で絵を見ていたころの、なつかしい作品たち。あのころ出会った画家たちの、これらの作品を見ることで、私が「ひとりで自立して東京の片隅で生きていく」という気概を失わずにすごせました。

 第9室、10室。ルソー、マティス、ピカソ、ローランサン、モディリアーニ、モンドリアン、クレー、キリコ、ミロ。

 第7室8室の日本の近代絵画の部屋。ここでは、第一番に青木繁の『天平時代』、藤島武二「黒扇」

 1970年代に、なじんだ作品群に、再び出会う。
 2007年冬の私は、作品を見ながら、35年前の私を見ていました。
 この作品に出会ったとき、どう感じたのか。どう好きだったのか。

 美術館めぐりは、あれから30年以上にわたって、私の「大切な自分の時間」を作るひとつのイベントになっています。
 絵を見ることが好きでよかった。
 絵と会話する楽しみがあってよかった。
 
本日の徘徊ミソヒト
マティスルオーローランサンミロモンドリアン、ピカソキリコも若き日の友
 
<つづく>
06:35 コメント(3) ページのトップへ
2008年10月29日


ぽかぽか春庭「北斎展」
2008/10/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(4)北斎展

 江戸東京博物館で開催された『北斎展』、2008年1月10日に見ました。
 英語タイトルは「Seibold & Hokusai and his Tradition」
 「シーボルトと北斎の画流」とでも題したらよいのでしょうか。

 シーボルトらがヨーロッパに持ち帰り、紹介した北斎の肉筆画と版画。特にオランダとフランスに渡った肉筆画と版画40点の、里帰り展覧会です。

 北斎は1760年生まれ1849年死去、89歳という長命を保った画家です。
 19歳で一本立ちしてから、晩年まで旺盛な制作欲を見せ、息の長い画家生活を送りました。

 娘の応為や弟子たちとの「北斎工房」で制作された、肉筆絵や版画。
 これらの日本絵画に強く触発された「長崎の異人さん」がいました。 長崎出島の歴代オランダ商館長。そして商館の医者だったシーボルトたちです。

 特にシーボルトは、膨大な「日本コレクション」を持ち帰りました。北斎工房の絵画多数がシーボルトコレクションとして残されました。
 北斎工房作品は、日本では散逸してしまったものも多く、まとまったコレクションとしては、このシーボルトコレクションが最大級のものになっています。

 シーボルトが書き表した「日本」に関する著作物のなかにも、北斎とその工房の作品をそのまま引き写したイラストが多数残されています。
 ヨーロッパが「これが日本の姿だ」と思っていた「日本」は、北斎の手による「日本」であった、と言うこともできます。

 ヨーロッパ絵画に深い影響を与えた日本美術のなかでも、北斎は特別な存在だといえるでしょう。
 江戸東京博物館の「北斎展」は、ヨーロッパに運ばれた北斎の肉筆画や版画の「里帰り」展です。

 絵を見るにも「招待券」が手に入ったときがほとんどで、グッズショップでも、一番気に入った絵の絵はがきを一枚100円か150円で買うのがやっとだった私。今回は、大部のカタログを2500円、はたいて買いました。
 オランダ国立民族学博物館、フランス国立図書館、山口県立美術館、名古屋市美術館の所蔵北斎を集めたキュレーターのセンスがとてもよかったからです。

 英国博物館所蔵の版画下書きを写真図版で並べて見せたり、関連絵画を参照としてそばにおいたり、素人でも楽しめる見せ方が工夫されていました。

 左手から被さってくる大波と、波のあいまに揺れる舟、中央とおくに富士山。世界でもっとも知られた三代絵画「モナリザ、富士山、ピカソの絵」という『富嶽三十六景神奈川沖波裏』
 ほんとにすごい構図だなあと、見るたびに関心してきましたが、他の三十五景も、それぞれにおもしろい構図です。

 『赤富士』や『神奈川沖浦波』のように、切手やうちわ手ぬぐいの図柄にまでなっている有名な絵はよく知られていますが、これまでそれほど注意して見てこなかった絵でも、ゆっくり見るととても面白い発見があります。

 『踊独稽古』という踊りのふりつけを絵にして売り出された「振り付け指南書」
 北斎の絵をみれば、力のいれ具合、手のふり足の上げ下ろし、実に細かく絵になっていて、これを見て練習すれば、ひととおり踊れるようになる、おもしろい「踊りが再現できる本」です。

 踊りの振り付けは、たいていの流派で、稽古場でお師匠さんの動きを見て覚えるのが主な指導法なので、流派がすたれてしまえば、どれほど名声を博した踊りでも、現代のようにビデオもない江戸時代の踊りは、想像の域をでません。

 それが、北斎の手によって、それこそ手に取るように、踊りの振り付けがわかるのです。
 踊り大好きな私には、とても興味深い絵でした。

本日の徘徊ミソヒト
北斎の江戸シーボルトのEdo、紫陽花に学名残す「滝さん」のえど

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/kikaku/page/2007/1204/200712.html

<つづく>

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2008年10月30日


ぽかぽか春庭「熊谷守一展」
2008/10/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(5)熊谷守一展

 2008年02月07日、ちょっとした感慨をもって美術館の入り口を通り抜けた。
 もう、この県立美術館から足が遠のくだろう、よほど好きな人の人の展覧会があるときでなければ、この公園の中をとおって、足繁く通うことはなくなるだろう。

 1974年から1977年まで、K駅を最寄り駅として中学校に通勤した。私は私は中学校国語科教師だった。1996年から2008年3月まで、12年間は、この美術館のある公園前のバス停から、勤務先の大学まで、けやき並木を通り抜けるバスに乗って通った。

 仕事の帰りに、閉館時刻までまだ時間があるときは、ちょっと足をとめて、美術館を覗いてみることができた。
 2008年3月いっぱいで、この町での仕事が終了。

 「来期の再任はありません」と、通告されたときは、「2007年前期、半年間も休んで中国に赴任したのだから、クビ通告もしかたがないな」と、思って黙って受け入れた。非常勤講師なんて、こうして使い捨てにされるのだ。

 もう4月からこのケヤキ並木をバスで走ることもないのだ、公園のなかを歩く機会も減るのだと思うと、足かけ12年間、この職場で私なりに一生懸命留学生教育に取り組んだことなど、何の評価もされず、ただ古くなったボロ雑巾のように放り出されるのだ、と、しみじみさびしくなった。

 これからこの美術館に立ち寄るのも「仕事のついで」じゃなく、わざわざ足を運ぶことになるのだなあ。
 何の気なしに立ち寄ったこの美術館で、思いがけず、奥原晴湖という幕末明治期の女流南画家を知ったりしてきた。
 こういう思いがけない出会いというのも、気楽に立ち寄れたからこそだった。
 
 「熊谷守一展」は、「仕事がえりにちょこっと立ち寄る」美術館散歩の最後の展覧会になった。

 守一は、1880年うまれ、1977年に97歳で没するまで絵を描き続け、守一様式と呼ばれる単純化されたフォルムと自在な色によって、油絵も日本画も書も描いた。
 97歳のときの絵には「97歳クマガイモリカズ」と、画面に大きく年齢と名前が入っている。

 会場で一番深く心に刻まれたのは、長女の萬が21歳で結核でなくなったときの娘の像と、葬儀がえりに次女の榧 、長男の黄とともに、白木の箱に入った萬を連れて帰る「ヤキバノカエリ」という絵。

 戦時下の勤労動員によって体をこわしてしまった長女の萬。ストレプトマイシンが出回る直前の1950年に、肺結核で娘を失ってしまった守一の慟哭が聞こえてくるような絵だった。

本日の徘徊ミソヒト
愛し娘の白き骨壺持つ父の下駄足袋の黒、ヤキバノカヘリ

<つづく>
03:22 コメント(4) ページのトップへ
2008年10月31日


ぽかぽか春庭「アリの足」
2008/10/31
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(6)アリの足
 
 熊谷守一は、自宅内と、雑草畑のような森のような庭から一歩も出ることなく、庭の花や昆虫を眺めて飽きない人だった。
 蟻を見つめ続け「アリというのは、どのアリも左側のまんなかの足から歩き出す」ということを発見した。これは、昆虫学者も知らなかった新発見、だそうです。

 庭に寝ころんで空を見上げれば、空の色の変化、雲の流れ、木々の葉の揺らぎ方、一瞬とて同じ光景はなく、いつまで見つめていても、一日が楽しい。
 乞われるままに描いた、花や昆虫の絵、裸婦、白ウサギ、黒猫。

 文化勲章も辞退、勲三等の内示を受けても辞退。地上の栄典も名誉も、守一には必要なかった。ただ、楽しく庭をながめ、絵を描いた。
 歯がすり減って草履のようになった下駄をはいて、日中は庭を歩きまわり、夜になると絵筆を持つ。

 豊島区千早に残された守一の旧居は、遺族の寄付により、現在は豊島区立の美術館になっている。次女の熊谷榧が館長さん。
 今回の熊谷守一展にも、豊島区立熊谷守一美術館からの出展がたくさんあった。

 とぼとぼとした足取りで入館した県立近代美術館。
 ひとまわり守一の絵を見、守一95歳の肖像写真を見て回るうちに、ちょっと元気になってきた。

 「生きていることが楽しくてたまらないのです。だからもうちょっと生きていたい」という守一。97歳まで生きて、いのちのかぎりをことばにし、絵にした守一。
 ああ、私も生きていよう、そう思えてくる絵の間を、閉館時間を知らせるチャイムが鳴るまで巡り歩いた。

本日の徘徊ミソヒト
ありんこも雲も蛙も守一が寝ころぶ庭にめぐるめぐるよ

<おわり>

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敬老ランチ2009年9月

2010-12-24 17:07:00 | 日記
ぽかぽか春庭「敬老ランチ」
2009/09/29
ぽかぽか春庭>くねんぼ日記09年9月(1)敬老ランチ

 27日、日曜日は、姑と食事。敬老の日のお祝いです。21日の敬老の日には「論文書き上がらないから、敬老どころじゃない」と叫んで、延期してもらったのです。
 後期高齢者(この名称廃止するそうですが)の姑は相変わらず、月曜、童謡の会、火曜お習字、水曜詩吟、木曜老人会と動きまわっています。9月中の集中講義と博士論文中間発表でへとへとの私よりよほど元気です。

 「老人会のランチ、あなたが一番元気だから、料理担当してくれって言われているんだけど、私だって84歳なんだから、食べるだけのほうに回りたいのよ」と、愚痴をこぼす姑。そう、私だって食べるだけのほうに回りたい。私は食べさせるために働きづめなんです、、、、、。
 掃除は好きだけれど元々料理はあまり好きじゃなかった姑、舅が亡くなってからはスーパーの出来合いの海苔巻き寿司などでお昼をすませるようにもなっています。

 和食をそれほど好まず、中華のほうがいいという姑のリクエストで、27日、舅の墓参後のランチは中華屋さんへ。夫はいつもの通り「金はない」といばっているので、ランチの支払いは私。誕生日、母の日、敬老の日と、節目ごとに祝い袋を用意するのも私。

 親孝行は女房こどもにまかせて、「したくないことはしない」と主張しつつ30年暮らしてきた夫。娘は父親を評して「ほんとに、お子ちゃまだから世話やける。ほんとの子供ならかわいげがあるけれど、自分が子供であることを自覚していなくて、いっちょ前だ思ってるから腹立つ」と、言っています。私はとっくにお子ちゃまの子守を放棄しているので、お子ちゃま保護者役はもっぱら娘です。

 ま、そんなこんなのデコボコ家族引き連れての敬老ランチ。後楽園ビルの後楽園飯店でランチコース、海老チリ、栗チャーハン、キノコの炒め物などおいしくいただきました。
 
 夫は事務所へ、娘と息子は家へ、食事したらさっさと戻りましたが、私と姑は、後楽園のお庭散歩することにしました。姑は東京に60年以上も暮らしてきたのに、一度は行ってみようと思いながら、後楽園庭園に入ったことがないからと言います。私は庭園ひとり散歩が好きなので、六義園、旧古川庭園、安田庭園など、都内の名園公園はだいたい歩いてきましたが、姑は住まいの近くの洗足池や等々力渓谷などには行っていますが、都心以北の公園には同じ都内でも縁が無かった。

 姑がはじめて来たという後楽園庭園。9月下旬は、彼岸花と稲穂が庭の彩り。ゆったりと園内を歩き、よい午後をすごしました。姑は歩く速度が前よりゆっくりになっていますが、口は以前と変わらず、しゃべるしゃべる。女学校の同級会に続けて参加しているけれど、参加者は皆、年をとってきたという話。そりゃ、姑が84歳なのだから、同級生も84歳でしょう。東京で行われる同級会に毎年故郷の山形県からかけつける人もいるという話。故郷の高畠町はよいところだけれど、車がないと不便な土地。病院通いも息子や嫁が車で送り迎えできる時間に合わせなければならず、不自由だというクラスメートの話を聞いて、年をとると故郷に戻りたがる人もいるけれど、姑は東京にずっと住みたいと言います。故郷はたまに帰るからありがたいのだそう。お友達のひとりから、今年も山形の名産のぶどうが届いたと、お裾分けを持たされました。

 後楽園の庭から、お隣の東京ドームの白い屋根が見えますが、ちょうどお庭を散歩しているときは、巨人広島戦が佳境に入ったころ。大歓声がドームの屋根を越えて、お庭まで響いてきましたが、巨人が1点先取しようと2点追加しようと、池の周りを歩きながら姑のおしゃべりは、「緑がいっぱいで良いところねぇ」と、果てしなく続きました。

<つづく>

2009/10/01
ぽかぽか春庭くねんぼ日記2009年10月>(1)惚け防止方法序説

 私の年齢では、友人知人の多くが、家族の介護をしています。私もいずれ姑の「老老介護」となるのかもしれませんが、どうやらこちらが先に介護される身になるのかも。
 健康診断のデータが出て「元気だけがとりえ」という私のこれまでの健康過信を裏切る結果となりました。寄る年波には勝てません。姑を見習って健康第一でいきたいところですが、健康オタクの姑に比べ、こちらは貧乏暇なしの働きづめ。おまけに、へたれの「学生」です。頭の体操をして惚け防止にもなるかと思った博士論文挑戦ですが、頭がぼける前に、体がボケボケになりそうです。

 9月26日土曜日は、博士論文中間発表会がありました。
 博士論文の全体の章立てをまとめよ、という課題が出ていたので、たいへんでしたが、なんとか「論文概要」の準備も整いました。1年後の提出締め切りまで、これから資料を精読しつつ自身の独自の見解を加えてまとめていきます。修士論文は土台のひとつですが、修論は日本語統語論として執筆し、博論は日本語言語文化論として書くので、まったく論点が異なり、どう広げ深めていくのか、ちと難しい。大風呂敷広げすぎたというところです。

 ネックは、英語力不足。日本語論文なら関係領域内容を読みこなしていけますが、英語で文学理論とか言語学論文を読むのが負担です。小説なら英語を英語のままに読むこともできますが、学術論文を読む能力がない。学術用語を知らないまま課題の論文を直訳していたら、用語どころか、デカルトの『Discourse on the Method』を「方法の叙述」と直訳してしまい、先生に添削で赤字訂正されました。先生は、『方法序説』も知らないのか!と、思ったことでしょう。
 
 そりゃあ『方法序説』は名前だけは知っていたけれど読んだこともなかったし。フランス語原題が『Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences(「理性を正しく導き、もろもろの知識の中に真理を探究するための方法序説)』だったなんてこと、この年になるまでまったく知らずに生きてきたけれど、知らぬからと言って、なんの不自由も無かったし、、、、

 英語できる人がうらやましいけれど、いまさら嘆いても遅いのだ、と、嘆きつつも、なんとか中間発表も終えて、あとは紀要論文の締め切りに追いかけられる毎日が続きます。10月末締め切りのと12月締め切り、、、、。

 そして29日から後期授業開始。火曜日、1時から6時まで、90分授業が3コマ。社会言語論、日本語学、日本語音声学を日本人学部学生に教えます。日本語学のほかは、専門外なのに、担当しています。

 29日、授業を終えてから、学生の授業コメントや翌週の準備などをしていたら7時。片道2時間かかる郊外の大学から、バス、私鉄地下鉄乗り継いで、帰宅は夜9時過ぎになりました。ああ、働き者です。

<つづく>
08:10 コメント(1) ページのトップへ
2009年10月02日


ぽかぽか春庭「時の流れに身をまかせ」
2009/10/02
ぽかぽか春庭くねんぼ日記2009年10月(2)時の流れに身をまかせ

 9月末、私立大学の後期授業が始まりました。
 日本語教授法の初回授業。単位取得の条件やシラバス説明など、ガイダンスを行いました。午後2コマの授業を「初日はガイダンスだから少し早めに終わりましょう」と、授業時間自主短縮。

 毎年、第1回目の授業は「学習集団形成・ラポール作り」という「クラスメートとして仲良しになりましょう」という時間をとっていたのですが、今回は夏の集中授業を受けた学生が「リピーター」になって、同じメンバーで集まったので、ラポール作りの時間が必要なかったのです。
 日本語教授法の学生には翌週からの課題をたっぷり出して、「残り時間は来週の課題発表準備にあててください」ということにしました。

 早じまいには理由がありました。雨の中、バスを待つ余裕がないので、タクシーで駅前へ。ダンス仲間のミサイルママが「日本作曲家協会音楽祭のチケットがあるので、いっしょに見ましょう」と誘ってくれたので、間に合うように早じまいにしたのですが、駆けつけたときには前半が終わっていました。

 作曲家協会という団体がどんな集まりなのか知らず、ミサイルママは「豊島区合唱団」や「北区第九合唱団」に入っているので、クラシックの作曲家かと思っていました。クラシックの現代音楽などだと、疲れているので聞いているうち眠っちゃうかしら、なんて思って会場に入ったのですが、日本作曲家協会は、会長が服部克久、常務理事として弦哲也、都倉俊一、平尾昌晃などを擁する歌謡曲作曲家の団体でした。
 
 作曲家協会音楽祭は、歌謡曲を競作して最優秀作品に「ソングコンテストグランプリ」を授けるというものでした。前半の「奨励賞」になった曲のお披露目が終わって、グランプリ作品「春は桜の夢が咲く」から、聞くことができました。後半のプログラムは「水森かおりのご当地ソングメドレー」と、「遠藤実・三木たかし永遠に」という物故作曲家の代表作のカバー競演。最後は遠藤実の「高校三年生」を歌手全員と会場がいっしょに歌う、という〆。

 三木たかしの「時の流れに身をまかせ」と遠藤実の「北国の春」は、半年間の中国赴任中、何度もカラオケで歌いました。なぜかというと、中国語の歌だけで日本語の曲をおいてない一般のカラオケ店でも、この二曲は必ず中国語の歌の中に入っていたからです。歌詞は中国語が表示されますが、メロディは同じですから、うろ覚えのまま「しらかば~あおぞら♪」とか「もしもあなたに逢えずにいたら~♪」とか歌いました。

 テレサテン(麗君)中国語版「我只在乎你(時の流れに身をまかせ)」
http://www.youtube.com/watch?v=N72dsXD2GdM
 テレサテンが歌う「我和你(中国語版「北国の春」)」は、女性が恋人を慕う歌に成っています。
http://www.youtube.com/watch?v=6P_ySy5XzFI
 台湾の歌手、余天が歌う、「北国の春」は、日本語の歌詞を直訳した中国語の歌「榕樹下」となっています。
http://www.youtube.com/watch?v=USEKw58dGhY&feature=related

 惚け防止には、Discourse on the Method誤訳で頭を悩ませているより、カラオケのほうが役にたちそうです。
 終演後、ミサイルママと夕食を取りながら「ダンスで体を鍛えていきましょうね」と約束し、生ビールで乾杯しました。この先、寄る年波の身体がダメになるのが先か、もともと半ぼけのおつむがダメになるのが先か、とにかく「時の流れに身をまかせ」で行くしかありません。
 
<おわり>

2008/11/21
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年11月>ファミリーオペラ(5)セバスチャン・サルガドのアフリカ

 11月19日、木曜日に出講している大学が文化祭のために休講となったので、娘息子を誘って恵比寿へ。冷たい雨のふる中、ガーデンプレイスの写真美術館に入りました。サルカドの写真展『アフリカ』(12月13日まで開催)

 セバスチャン・サルガド(Sebastião Salgado、1944~)は、ブラジル生まれ。サンパウロ大学で経済学を専攻し、パリ大学に留学。博士課程修了後、エコノミストとして国際コーヒー機関に就職し、世界各地のコーヒー農園で働く農民の現状を知る。この現状を世界に知らせる必要を感じ、ジャーナリストに転身。現在まで活発な写真報道を続けています。
 作品集『WORKERS(労働者たち)』は、1986年~96年に23カ国を取材して各地で働く民衆を撮影した記録、『MIGRATION(移民たち)』1994年~99年に43カ国を訪れ、戦争、紛争、飢餓などの理由で生まれた土地を離れて暮らす人々を記録したもの。

 2004年からサルガドは「地球環境と人間社会の関係を再考する」という趣旨のもと、プロジェクト「ジェネシスGENESIS(起源)」を開始し、今回の『アフリカ』は、このジェネシス・シリーズのひとつ。「生きとし生けるものの未来へ」と副題がつけられ、アフリカの現状を知らせ、アフリカの教育、植樹活動を通じて地球の恵みと人類の歴史を考える、という100点のモノクロ写真から構成されている。

 報道写真であり、1970年代からのアフリカを見つめた作品群であるのだけれど、なにより画面が非常に美しい。モノクロの表現力が力強く美しく描き出され、完璧な構図で迫ってくる。「報道」ではなく、計算しつくしてそこに人物や動物を並べたかのように思うくらい、美しい。

 サヘルの干ばつで飢える人々、がりがりにやせた子供、乳が出るのかどうか、皺しわになった乳房に吸い付く双子の赤ん坊、内戦を逃れて難民キャンプで配給の食事を求める人々。地雷で手足を失った人々の群れ。大量虐殺ののち、孤児院に集められた子供達。
 悲惨のきわみの報道でもあるのに、サルガドはすばらしく美しい画面を構成する。私は悲惨な事実の重みとともに「どんな状況であっても、人間の尊厳とは美しく尊いものだ」という真実を感じました。画面の中の人々はどんな悲惨の状況にいても、気高く美しい。100点の作品のどれもがきわめて高い芸術性を持っており、圧倒されました。

 悲惨な状況を撮影して「悲惨である」と伝えることができる力量をもつ報道写真家はいくらでもいる。デジカメやケータイ写真が発達した現在では素人でもチャンスがあれば、「決定的瞬間」が撮影できる。しかし、悲惨な光景を描いて人間の美しさと尊厳を表現できる写真家はそうはいない。私が今まで見てきた写真で思い出すのは、ロバート・キャパの「スペイン内戦時、撃たれて倒れる兵士」とか、ユージン・スミスの胎児性水俣病患者の子とか。

 ケニアのトゥルカナ湖やソマリア国境付近のマルサビッドで撮影された写真の前で、「お母さんとお父さん、30年前にここに行ったんだよ」と話したのですが、娘も息子も「フ~ン」で終わり。娘は「人物のは白黒でもいいけれど、動物や風景の写真はカラーのほうがいいなあ」という感想。

 作品のいくつかが見られるサイト
http://www.syabi.com/backnumber/schedule/details/salgado.html
 
 娘と息子は、恵比寿ガーデンプレイスのクリスマスイルミネーション、並木を飾る電飾やバカラクリスタルで構成されたシャンデリアの点灯を見て「わぁ、きれい」と喜んでいました。バカラもきれいでしたし、ガーデンプレイス38階の展望スペースから眺める雨上がりの東京の夜景もきれいでしたけどね。

<おわり>

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国民総幸福度

2010-12-19 22:15:00 | 日記
2009/10/30
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>幸福度ランキング(1)相対的貧困率

 厚生労働省は10月20日、国民の貧困層の割合を示す指標である「相対的貧困率」が、2007年度で15,7%だったと発表しました。
 厚労省のHPhttp://www.mhlw.go.jp/houdou/2009/10/h1020-3.html
の報道発表資料として、以下の文面が、大臣官房統計情報部国民生活基礎調査室室長補佐 鈴木知子、政策統括官付社会保障担当参事官室室長補佐 竹林悟史を代表として掲載されています。
=======
厚生労働大臣のご指示により、OECDが発表しているものと同様の計算方法で、我が国の相対的貧困率及び子どもの相対的貧困率を算出しました。
最新の相対的貧困率は、2007年の調査で15.7%、子どもの相対的貧困率は14.2%。
=======

 春庭コラム「いろいろあらーな」では、2005年9月にジニ係数の数値をとりあげ、日本の貧困率が高くなってきていることを書きました。ジニ係数がゼロなら国民所得の格差はなく、平等。係数が1なら、格差は大きい。1960~1970年代は、日本が「一億総中流」と思っていた時代でしたが、この頃のジニ係数は0,2で、平等性が高かった。2005年の時点で、日本のジニ係数は約0,3に上昇しており、格差が広がっている。
 1980年ごろまでは、最高所得階層と最低所得階層の所得格差は10倍以下だった。しかし、2002年の格差は168倍に広がっており、2009年はさらに格差がひどくなっているだろう。高所得を一部分の金持ちが独占すると、国民の大半は平均所得に達しない状態が続く。

 厚生労働省が実施している所得再分配調査によると、日本の格差は、アメリカやイギリスよりは小さいが、デンマークやフィンランドよりは高い。相対的貧困率、ジニ係数、どちらを見ても、日本がどんどん貧富格差が開いていることがわかります。

 相対的貧困率は、「全国民の年収の中央値の半分に満たない収入しかない国民の割合」がどれくらい存在するか、という割合です。国民の所得分布の中央値と比較して、半分に満たない国民の割合をいいますが、国によって、この中央値は異なってきます。国内の経済格差がわかります。
 2008年の国民生活基礎調査(上記の鈴木知子さんが室長代理をしているの部署が行った調査だろうと思います)では、日本の一世帯当たり年間所得の中央値は448万円でした。その半分224万円以下の世帯収入の家庭が、相対的貧困率の対象となります。また、2008年の同調査室の調査によると、年間所得が200万円未満の世帯の割合は全世帯の18.5%だそうです。数字に弱い春庭、この計算方法がよくわからない。世帯当たりの年収448万円というのは、ひとり当たりにするといくらなのだろうか。

 10月20日厚労省発表の日本の相対的貧困率は。全世帯の可処分所得を1人当たりに換算し、高い順に並べたときに真ん中の所得(中央値)は228万円。その半分114万円以下の可処分所得(税金などを支払ったあとの、使えるお金)で生活している人が「貧困者」です。こちらの計算では「可処分所得一人114万円」というので、わかりやすい。
 98年以降の3年ごとの数値も公表され、98年は14.6%、01年は15.3%、04年は14.9%が相対的貧困層にあたる。

 OECD加盟30ヶ国のうち日本は27位という貧困率。一番貧困率の高い30位がメキシコ、ついでトルコ、アメリカ。アメリカは貧富の差が大きい国なので、トップの金持ちと貧困層の差があることはよく知られていますが、日本も負けず劣らず、貧富の差が大きい国になったのです。貧困率が低い国はデンマーク、スエーデンなど、北欧の福祉充実国です。税金の高さでは世界でもトップだけれど、国民全体が豊かさを享受しています。

 金持ちだけがどんどん資産を増やす方針のアメリカ、そのアメリカをお手本に「自己責任」と言いつつ貧困率を上げてきた日本。「よかった、うちは貧困家庭じゃなくて」と、思った人が幸福感を得ているとは限らない。貧富の差が大きい国は、「国民全体の幸福度」も下がる。
 社会への信頼や安全、生活の満足感などの総合した感じ方が「幸福度」であるとしたら、いくらお金持ちでもいつも「財産を失うかもしれない」「盗まれるかもしれない」という不安の中に生きているなら幸福度は低い。

 幸福感の調査というのも、いろいろな部署でいろいろな計測方法が出されているが、世界の幸福度ランキングで、日本はどの調査でも低い。

<つづく>
05:36 コメント(3) ページのトップへ
2009年10月31日


ぽかぽか春庭「国民幸福度」
2009/10/31
ぽかぽか春庭くねんぼ日記09年10月>幸福度ランキング(2)国民幸福度

 2008年発表の調査結果ですが、アメリカ国立科学財団(NSF)は、世界の幸福度ランキングを発表したそうです。世界で最も幸せな国はデンマークでした。
 この調査は、1981年から定期的に実施されているもの。2008年の調査はミシガン大社会調査研究機関の政治学者、ロナルド・イングルハート氏が率いて実施され、52の国の35万人を対象に「すべてを総合的に見て、今自分が幸せかどうか」と「総合的に考えて、自分の最近の生活にどの程度満足しているか」という2つの質問をし、回答者の答えを集計したのだといいます。
 各国・地域の住民に対し、幸福度と生活全般についての満足度を尋ねた結果、幸福度が高かった上位10カ国・地域はデンマーク、プエルトリコ、コロンビア、アイスランド、北アイルランド、アイルランド、スイス、オランダ、カナダ、オーストリアの順。米国は16位。日本は43位。プエルトリコやコロンビアのように、日本よりGNPが低い国でも国民は「今、自分は幸せ」と感じる人が多いことが注目されます。幸福感とは、年収や「物をたくさんもっている割合」では計れないということでしょう。

幸福度は経済成長や民主化、社会的寛容度の高さに比例し、独裁政権下の国や貧困国は幸福度が低い傾向をみせる。「幸せでない」と感じる人が「幸せ」と感じる人を上回ったのはルワンダ、ロシア、イラクなど19カ国。最下位は政情不安が続くアフリカ南部のジンバブエ。ムガベ大統領による長期強権政治、超高率インフレなどで、住民が隣国の南アフリカへ脱出してしまう状態。

 舅の残した遺族年金で暮らし、「貧困家庭」ではない生活を一人で楽しんでいる姑、我が家が「(実質的)ひとり親貧困家庭」であることは知りません。「男は家族を養う存在」と信じている姑なので、「息子は自営業で苦しい経営だけれど、家族のために一生懸命働いている」と、思わせています。姑は「息子の家庭は、贅沢はできないまでも、世間並みの生活をしている」と信じているので「ひとり親貧困家庭」の実態を知り「エンゲル係数、超高い」生活を知ったら心配が高じて健康に悪いかもしれない。姑が介護が必要な状態になったら私は稼ぎに出ることもできなくなって一家全滅してしまうので、姑の前では「幸福」を演じなければなりません。

 「幸福感」とは必ずしもお金のあるなしで決まるのでないことは、GNPが高くなくても「国民幸福度」が高い国もあることからもわかります。私はひたすら「貧乏でも楽しんで生きる」工夫を続けています。「国民幸福度」の計算方法とは異なるでしょうが、我が家、貧困家庭の一員ではあっても、不幸ではない、、、と私は思っているんだけど、息子と娘にしてみれば、貧困家庭で育ったつらさをもう十分に味わった、とうところか。

 貧困家庭の「生活を楽しくする工夫」のひとつが、招待券集め。招待券を手に入れて絵画展写真展を楽しんだり、古本屋の百円均一本を買うのだけがショッピングの楽しみだったり、「安い、無料、ご招待、」を生活の楽しみにしています。
 招待券もらってタダで見る絵画展でも、絵を見て心ゆたかにすごす時間は同じです。
 百円本だとて、読む楽しみは同じ。百円本が簡単に買えるようになって、図書館で借りる率が減りました。図書館の本は返さなければならないので。少し待てば古本屋に出回ると推察できる本は、すぐ読みたくてもちょっとがまん。

 百円本にはいろいろな「思わぬ出会いの楽しみ」があります。先日百円本の中で見つけた池田亀鑑『平安朝の生活と文学』は、絶版にはなっていないけれど品切れ本で、復刊希望が出されている本です。百円本の棚で、新刊書店では買えないこんな品切れ本も見つけることができます。

 「幸福度調査」のアンケートが私のところにやってきたら、、、、。「貧乏ではあるけれど、一病息災であるし、雨露しのげる住まいがあるし、仕事も続けていられて粗食は食べられるし、不幸といったら罰当たりそうだから、一応幸福と言っておかなければならないかもしれないんでしょうけれど、、、」という歯切れの悪い返答ながら、「不幸ではない」ってほうの部類に自分を入れないと、戦下に暮らしている人や地震や津波の被害から立ち直れない人に申し訳ないから、、、、


<おわり>
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