人種差別を受けた経験のある人はなかなかいないのではないかと思うが如何だろうか?私は自慢ではないが、20歳のとき、この経験をした。学生のときで、場所はパプア・ニューギニアだった。当時はまだ独立した国家ではなくて、国連がオーストラリアに委託して、統治していた。
なぜそんなところに行ったかというと、話が長くなるが、簡単に言うと、探検部のようなサークル仲間4名と、食料生産の可能性を探りに調査に出かけた訳である。資金不足だったので、小さな客船の一番安い客室を利用した。
横浜港を出てグアム島に立ち寄り、一泊して、確か一週間くらい掛けてパプあ・ニューギニア本島に寄り、ラバウル島を廻って大阪港に帰るという観光クルーズ船だった。私と先輩の二人は、本島で下船し、他の三名はラバウル島で下船して、後から本島で合流するという計画だった。
確か、下船した港はラエという名前の街にあったと思う。登山靴にテント持参という山登りスタイルで行ったので、当初はどこか野宿できる場所を探す計画だったが、港の近くにはそういう場所がなくて、やむを得ず安宿に泊まることにした。
安宿と言っても、オーストラリア人が経営する、朝食つきのユースホステルのような感じの宿泊施設で、25mくらいのプールもついていた。私と先輩は、荷物を置いて街を散策し、食料を買出し、宿に戻って一休みした後、ひと泳ぎすることにした。
何せ赤道直下なので、暑くてたまらなかった。海水パンツに着替え、バスタオルを肩にかけてプールに出向いた。オーストラリア人らしき大人と子供達が二家族ほどにぎやかに泳いでいた。私はバスタオルを金網フェンスに掛け、準備運動を始めた。
その時である。プールサイドにいたお父さんらしき男が、プールの中にいる子供たちに片手で何か合図した。すると、子供達は全員がプールから出て、体を拭くこともせず、慌てるように家族全員でプールを後にした。残された我々二人は最初何が起きたんだろう。何か彼らには急用ができたんだろうか、と思った程度だった。
しかし、その一連の様子を眺めていたガードマンらしきニューギニア人が我々を見て、ニタニタ笑っていたのを見て、待てよ、彼らは我々と一緒にプールに入るのを嫌がって帰ったのではないかと直感した。現地人ガードマンの笑いは意味ありげだったが、どうも私の予感は図星だったと確信したのは、その夜だった。
私は先輩を誘って、映画を観に街へ出た。映画館に貼られたポスターから、西部劇が上映中のようだった。窓口でチケットを買い、中に入っていくと、うす暗くてよく見えなかったが、目を凝らすと映画館の上半分と下半分に座席を区分けする鉄格子があった。係員のような体格の良い人が我々を上に行くように指図したので従った。
映画が始まり、インディアンとアメリカ人の戦闘シーンはクライマックスに達するところだった。インディアンが白人をやっつけるところでは、観客が熱狂的になって大騒ぎした。現地の観客はみんなインディアンの味方だった。口笛や叫び声が鳴り響き、館内は異常な雰囲気になった。
その時、スクリーンから館内に目を移すと、スクリーンに近い下半分は、みんな白人の席で、我々が座っていた上半分の観客は全員がニューギニア現地人だった。それは鉄格子で明確に分けられていた。
オーストラリアは当時人種差別禁止法が制定されたばかりであった。白豪主義国家としても有名で、有色人種の移住を禁止していた国だった。その程度の知識は勉強していたが、まさか自分たちが差別されるとは、予想だにしていなかったわけだ。
なぜそんなところに行ったかというと、話が長くなるが、簡単に言うと、探検部のようなサークル仲間4名と、食料生産の可能性を探りに調査に出かけた訳である。資金不足だったので、小さな客船の一番安い客室を利用した。
横浜港を出てグアム島に立ち寄り、一泊して、確か一週間くらい掛けてパプあ・ニューギニア本島に寄り、ラバウル島を廻って大阪港に帰るという観光クルーズ船だった。私と先輩の二人は、本島で下船し、他の三名はラバウル島で下船して、後から本島で合流するという計画だった。
確か、下船した港はラエという名前の街にあったと思う。登山靴にテント持参という山登りスタイルで行ったので、当初はどこか野宿できる場所を探す計画だったが、港の近くにはそういう場所がなくて、やむを得ず安宿に泊まることにした。
安宿と言っても、オーストラリア人が経営する、朝食つきのユースホステルのような感じの宿泊施設で、25mくらいのプールもついていた。私と先輩は、荷物を置いて街を散策し、食料を買出し、宿に戻って一休みした後、ひと泳ぎすることにした。
何せ赤道直下なので、暑くてたまらなかった。海水パンツに着替え、バスタオルを肩にかけてプールに出向いた。オーストラリア人らしき大人と子供達が二家族ほどにぎやかに泳いでいた。私はバスタオルを金網フェンスに掛け、準備運動を始めた。
その時である。プールサイドにいたお父さんらしき男が、プールの中にいる子供たちに片手で何か合図した。すると、子供達は全員がプールから出て、体を拭くこともせず、慌てるように家族全員でプールを後にした。残された我々二人は最初何が起きたんだろう。何か彼らには急用ができたんだろうか、と思った程度だった。
しかし、その一連の様子を眺めていたガードマンらしきニューギニア人が我々を見て、ニタニタ笑っていたのを見て、待てよ、彼らは我々と一緒にプールに入るのを嫌がって帰ったのではないかと直感した。現地人ガードマンの笑いは意味ありげだったが、どうも私の予感は図星だったと確信したのは、その夜だった。
私は先輩を誘って、映画を観に街へ出た。映画館に貼られたポスターから、西部劇が上映中のようだった。窓口でチケットを買い、中に入っていくと、うす暗くてよく見えなかったが、目を凝らすと映画館の上半分と下半分に座席を区分けする鉄格子があった。係員のような体格の良い人が我々を上に行くように指図したので従った。
映画が始まり、インディアンとアメリカ人の戦闘シーンはクライマックスに達するところだった。インディアンが白人をやっつけるところでは、観客が熱狂的になって大騒ぎした。現地の観客はみんなインディアンの味方だった。口笛や叫び声が鳴り響き、館内は異常な雰囲気になった。
その時、スクリーンから館内に目を移すと、スクリーンに近い下半分は、みんな白人の席で、我々が座っていた上半分の観客は全員がニューギニア現地人だった。それは鉄格子で明確に分けられていた。
オーストラリアは当時人種差別禁止法が制定されたばかりであった。白豪主義国家としても有名で、有色人種の移住を禁止していた国だった。その程度の知識は勉強していたが、まさか自分たちが差別されるとは、予想だにしていなかったわけだ。
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