孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

女もしてみんとてするなり

2016年03月06日 | 趣味の世界
インターネットで気になったことを検索すると、次から次へと疑問が湧いてきて、時間を経つのを忘れることがある。

今日も、どういう切っ掛けだったか忘れたが、「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとて、するなり」ってのは、何と言う古典の始まりだったかなと思って調べていると、思いがけない情報に突き当たって、何か得した気分になった。

問題の一文は、紀貫之の「土佐日記」の冒頭の文で、「男も書くと聞いている日記というものを女である私もしてみようと書く。」といった意味で、男の紀貫之が女性のフリをして書いたという解釈で、私も高校の古典の授業でそう習った気がする。

ところが、今から9年ほど前、筑波大学名誉教授の小松英雄という研究者が新しい解釈を自著の中で発表したのだそうだ。

その新解釈というのは、紀貫之が女性のフリをして書いているにしては、理解に苦しむ箇所が多いという疑問から始ったようで、「をとこもすなる・・」の「をとこもす」は「男文字」のことで、すなわち漢字を意味している。

そして、「をんなもしてみんとて・・」の「をんなもし」とは「女文字」、すなわち「仮名文字」のこと意味しているという解釈だった。

すると、冒頭の一文の意味は、「一般的には漢字で書く日記というものを、仮名文字でやってみようと書く。」となるわけだ。

紀貫之が女性のフリをして日記を書いた、という解釈が、いやそうではなくて、本来漢字で書くものだが、ひらがなで書いてみる、女性が日記を書こうとするのではない、という新解釈であったが、当時の他の古典研究者たちには受け入れられず、ほとんど無視されたようだった。

しかし、当時の言葉遊びとして、そういう掛け言葉的な意図がなかったと言えなくもないという学者も中にはいるようで、なかなか面白い研究もあるものだなと思った。



最近は、よく男なのに女言葉を話す、性別不詳の方がテレビに出ているが、こういう人は、体は男でも心は女の状態で生まれたそうで、世の中には結構存在するようである。



大金を積んで性転換手術までするそうで、彼らが悩んできた心情は、私には到底理解できない。理解したくもないが、この手の人たちもテレビ局の指図なのか知らないが、あれやこれや評論家まがいのことを喋り始めると、私は少し不愉快になる。

今の高校ではどのくらい古典を勉強するのか知らないが、習っているのだろうか。古文の授業で習った文章がいまだに口から出てくることがあって、自分でも驚くことがあるが、授業中指されて読んだときは、しどろもどろでほとんどまともに読めなかったものだった。

先生の朗読に合わせて読んでいるうちに、だんだん慣れてきて、なんとなく意味まで分かってくるのが面白かった。

「方丈記」など、今でもスラスラ出てくるのだが、当時暗記しようと取っ組んだ記憶がもうないのである。きっと、意味が気に入ったので忘れないでいるのだと思う。

古典から、学ぶことはたくさんある。何より、時代背景や当時の人の心情などは、授業で学ぶには、奥が深すぎるくらい深いものだ。







無責任の報い

2016年03月06日 | テレビ・ラジオ
私が小学生のときワクワクしながらテレビで応援した、重量挙げの三宅、東洋の魔女、体操の遠藤、マラソンの円谷・・・東京オリンピックは実に感動したイベントだった。



確か坂井さんという方だったと記憶するが、聖火を右手に持って、軽やかに聖火台まで駆け上り、着火した瞬間は見事な白黒テレビでも見事な絵柄であった。



あの時味わった感動を2020年に再び味わえるかと思ったのもつかの間、出だしからズッコけてしまい、またそのズッコけ方が何とも不愉快なもので、一気に関心の火が消えてしまったようだった。



しかし、あの時キチッとした対応を取っておけば、まだ国民の関心を引きとめておけたのに、あの不祥事をなんとかよきに計ろうと下手な取り繕い方をしたために、最低の事態になり、今に繋がっているのではなかろうか。



誰の目にも、胡散臭いと感じた選考の仕方は、何と言い訳しようが納得しようもなく、益々組織の失態が浮き彫りになった。

「長」と付く肩書きを得た者は、その責任の重大さをまず認識しなければならないのに、まるで名誉職のようにふんぞり返るだけで、事の重大さと組織の統率の難しさを任していないことは火を見るより明らかであった。



とるべき人がとるべき時に、しっかりと責任をとらなかったがために、プロジェクトに参画した者全員が、その態度を学習してしまい、こんなものかという認識で物事にあたることになったのだ。



組織委員会のトップ、あの「蚤の心臓、サメの脳、ゴリラの体・・・」でお馴染みのモリキロウ氏が、「生牡蠣がドロッと垂れたみたいだから、嫌いだった。」と口走ってみても、再選考した結果決った2案も、「生牡蠣」が少しシンプルになったみたいだ、と思ったのは私だけだろうか。



もっとも、私は当時まったく関心は失せていたので、競技場のデザインなどどうでもいいことだったが、今回聖火台がどこに設置されるかが考慮されていなかったという見事な体たらくぶりを知って、「ああ、やっぱり、みんな注意力は失せちゃってたんだなあ。」と痛感した。

デザインを考える人も、設計する人も、組織委員会関係者も、お役所の役人もオリンピックのことを知らないわけではないだろう。全部で一体何人の関係者がいるのかは知らないが、誰も気が付かなかったなどということがあるのだろうか。

家を建てるのに、予算と間取りは一生懸命考えたが、土地の地ならしをするときになって、玄関の位置を決めてなかったことがわかったようなものだ。

今からでも遅くない。組織委員会は即刻解散し、会長ほか委員全員は責任をとって腹を切るべきだ。

笑いの種になっただけ?www

2016年03月06日 | マスゴミ関連
まるで、出来の悪い学生さんのデモ行進みたいだった、自称「ジャーナリスト」の方たちの『私たちは怒っています』の記者会見は、見事にお笑いの種にされてしまった。



それも当然だろう。

『放送法に違反した場合は、電波を止めることがありうる』という高市総務相の発言のどこが間違っているというのだ?

放送法第4条は、放送局に次の要件を求めている。

1.公安及び善良な風俗を害しないこと。

2.政治的に公平であること。

3.報道は事実をまげないですること。

4.意見が対立している問題については、
 できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

このうち2の要件について、高市氏は国会で「放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性がある」と答弁した。



世界の知性こと、あの元NHKの池上ナンタラというタレントさんも、「高市発言は、欧米なら政権がひっくり返る・・」と仰ったそうだが、そうだろうか?



こんなことでは、いつまでたっても「マスコミ」とは呼ばれず、「マスゴミ」のままである。しかし、放送局側も姑息に軌道修正をしつつあるようで、チョビヒゲ白髪爺さんや元プロレス司会者などは、持ち番組を降ろされるようだ。



お騒がせアイドルグループの騒ぎほど盛り上がりはなかったので、多分当事者たちは期待はずれだったと思うが、日本人の常識はまだ見捨てたものではないと感ずる。



それにしても、こういう横断幕や、紙に印刷したプラカードモドキを手にかざすのが、反日議員や反日左翼文化人と呼ばれる「売国奴」たちのブームなんですかね?

何だか、子供じみていて、知性の欠けらも見えません。