孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

独創とは・・

2015年08月28日 | 日記
世界陸上が真っ盛りで、連日テレビでも放映されていて、織田裕二も徐々に声が裏返り始めてきたようだ。

走り高跳びを中継していたが、アレを見ると自分が中学生だったとき味わったショックを思い出す。

1968年の夏、メキシコシティーで開催されたオリンピックだった。

朝、登校すると同級生たちが走り高跳びの話題で持ちきりだった。私は当時も今も水泳は得意だったが、陸上競技はまったくダメで、鈍足に生まれたことで両親を恨んだりもしたほどだった。

「見たか?背面跳び。」と誰かが言ったのが聞えた。「何?背面跳びって・・」誰かが聞いていた。テレビの衛星中継を見た一人が、跳び方を興奮気味に解説していたが、まったくイメージできなくて、何をそんなに興奮しているのか理解できなかった。



「背中から跳ぶんだよ。」などと言われても後ろ向きでどうやって踏み切るのか。高く飛べるわけがないだろうと思うのが普通だった。「理論上は、だれでも自分の身長と同じ高さが跳べるんだって。」恐らくテレビの解説で言ってたのだろう。講釈を披露していた。

その後、私もテレビで映像を見て、信じられないくらいのショックを受けたものだった。一度見ただけでは、よく理解できなかったがアメリカのフォズベリーは五輪記録の2m24cmを跳んで金メダルを獲得したのだった。



オレゴン州ポートランド生まれのディック・フォズベリーは、高校生のとき走り高跳びを始めたが、当時の正面跳びでは上手く跳べず、当時の標準記録1.5mもクリアできずに行き詰っていた。空中で体をひねったりして色々な跳び方を試しているうちに、何となく会得していき、あの跳び方に集約されていったという。

記録も達成したのだが、当時の高跳び関係者の支持は得られず、奇妙な跳び方をする選手がいる・・程度の話題にしかならなかった。

背中からドスンと着地するのも危なかった事もあったようだ。しかし、当時の着地側には砂とか木片とかだったのが、ゴムやスポンジが登場し始めたこともあり、徐々に彼の跳び方は認知されていった。

メキシコ五輪では決勝に3人が2.2mを跳んで残った。二人は当時主流のベリーロールという跳び方だった。同僚のエド・カルサーとフォスベリーの2名が2.22mを跳び決戦となった。

当時の五輪記録となる2.24mにバーは上げられた。エドは3度とも失敗。フォスベリーは最初こそ失敗したが、2度目で成功して優勝した。バーを一気に当時の世界記録2.28mを越える2.29mに上げてトライしたが、3度とも失敗した。

確か、当時はその斬新な跳び方を「背面跳び」とか「フォズベリー・ジャンプ」と呼んでいたと思うが、本場アメリカでは、「フォズベリー・フロップ (Fosbury Flop) ]
と呼んでいたようだ。 Flop とは、「ドスンと落ちる」といった意味で、背中から着地する感じが表現されている。同時にFlop には「大転換」という米語独特の意味も有する。

彼自身が当時語っているように、彼の予想を超えて瞬く間にフォズベリー・フロップは世界中に広まった。その要因は記録の向上もあるが、当時の衛星中継が大きく貢献していた。



それはそうだろう。彼の跳躍の映像を一目見れば、かなりのショックを受けるはずだ。4年後のミュンヘン五輪では、高跳び選手のうち40名がフォズベリー・フロップで跳んだ。金メダルを取った選手こそ正面跳びだったが、その普及のスピードは凄まじいものがあった。

そして、今やどうだろう。ベリー・ロールや正面跳びなどと言っても今の選手は理解できないだろう。

ちょっと前、イノベーションという言葉を企業経営者たちは呪文のように繰り返していた。そして昨今は五輪のロゴのパクリや論文のコピペなどが話題となった。

アメリカの、フォズベリーに見るような、進取の精神、独創性を重んじる風土、そのチャレンジ魂。これには尊敬の念を禁じえない。

こういう精神性は、朴李(パクリ)がお得意の隣国に住む人達のそれとは、対極にあると思う。

私は、元来昔から日本にもあるその精神性、猿真似を恥とするその精神性が、近頃何となく薄れ始めていると何度も言っているのだが、そうは思わないか?

イモトに続け!

2015年08月28日 | 日記
番組のタイトルは定かではないが、ついつい彼女が出ていると見入ってしまう。いつも桁外れな行動力で地球を駆け回っているイメージが定着してしまった感じがする。しかも、「無理してるなあ・・」といった風ではない、「自分でも十分楽しんでる」感を醸し出しているところがいい。



世界中を飛び回って、文字通り体当たりの体験を茶の間に提供してくれるのだが、私が彼女に非常に好感を抱くのは、言葉などそっちのけで、自分をさらけ出して海外の人達に接し、何よりその態度に臆したところがまったく見られない。



『よく食べる』とか、『体型が太っている』とか、『英語を巧みに使いこなす』といった特技がまったく無い極普通の、どこにでもいそうなお嬢さんなのが、一層親近感を抱かせる。

   

最初テレビで彼女を見たときは、何も芸が無いからあんな風に眉毛を太く描いて、受けを狙ってるんだろうな、と少しバカにしていたが、彼女の桁外れの体力と行動力はあの太い眉毛以上に強烈なインパクトがある。



本格的な登山をこなし、普通の女の子なら黄色い悲鳴を上げて逃げ回るであろう珍獣たちにも、勇敢に立ち向かう姿が面白い。



時には全速力で逃げ回るときもあるが、それはそれで必死さに躍動感がみなぎって、笑いながらも眼が離せない。



世界の各地を毎週紹介してくれた「兼高かおる」さんのような上品さは微塵も感じさせないが、土にまみれた掘り立てのサツマイモのような素朴さと庶民性が茶の間に受けるのかもしれない。うん??受けているのは私だけか?



日本人の若者でも、外国人、特に欧米人と接するとなぜか態度が卑屈になってしまって、どこか媚びるような表情になってしまうのを見ることがあるが、イモトにはそれがまったく無い。それどころか、白人だろうが黒人だろうが、インディオだろうが、いつも相手を食ってしまう感じだ。

最近の若者は昔と比べて、海外に出たがらなくなってきているという。内に閉じこもってデモに参加したりするより、しばらく国を離れることで、視点を何百キロメートルも高いところに置き換えて、世間を鳥瞰で見ることができるようになると思う。

若者よ、地球は広いぞ!!