孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

沖縄サヨクの実態・・

2015年08月01日 | 政治ネタ
テレビを見るのは楽しいし、天気予報や最新のニュースがわかって便利なことは十分理解できるが、人に影響を与える道具としてのテレビは、恐ろしいくらい重宝な道具なのである。影響というのは、もちろん良し悪し両方ある。

新聞や週刊誌もそれなりに、重宝な情報源となるが、やはり即時性のあるテレビにはかなわない。しかも、動画で目に訴えるので、強烈な印象を瞬時に見る側に深く考える余裕を与えることなく、植えつけることが可能となる。

ひとつ例を示そう。

ちょっと前、作家の百田氏がオフレコで話したことを、(恐らく取材能力のない)能無しの記者が大げさに取り上げ、それを好機と例の反日・外国人記者クラブが名指しされた沖縄の新聞社2社を招き、会見の場を設定した。

招かれた方も、「これはなかなか無いチャンス!」とばかりに、ベラベラ言いたい事を喋っていた。



沖縄には報道の不自由はあっても、報道の自由は無いに等しい。正しい考えを主張しようとしても、これら沖縄のマスメディアにはその意思はまるでなさそうだし、極少数だがまともな新聞社も存在するようだが、それは比較にならないくらい小さな存在のようだ。

週刊誌のグラビアなどで、たまに紹介される沖縄の平和活動家のことなど、関心がある方ならインターネットなどで検索する労を惜しまないが、そうでない人には別世界の出来事なのである。

  

米軍基地のフェンスにせっせと粘着力の強いガムテープを貼って、その景観を汚す「平和活動家」と称するアルバイトシニア集団が存在したり、基地のゲート周辺でえげつない案山子を立てたり、訳の分からない看板を立てて行き交う米軍関係者の車に向かって罵声を浴びせる日当稼ぎのおじさん・おばさんたちが存在する。片や、無報酬のボランティアたちが見るに見かねて立ち上がり、汚されたフェンスを清掃している「フェンス・クリーン」という活動があるが、沖縄の大手新聞も両論併記などする気も無いらしい。



  ←フェンス・クリーン実施中!

これらを百万言費やして説明するより、動画を見ればその実態がたやすく理解できてしまう。

例えば、ここ↓ を見れば、彼らがどうやって米軍基地を汚しているか・・・

https://www.youtube.com/watch?v=NkxVTIhkxdI

例えば、このお爺さんはこうした動画撮影を阻止することで日当を得ているらしい。↓

https://www.youtube.com/watch?v=-SANg73TJJQ


例えば、こうしたまともな地元住民の声を報道することは、地元の新聞ではありえないようだ。フェンスを手間をかけてきれいにすると、翌日にはまたガムテープがベタベタ貼られているそうだ。 ↓

https://www.youtube.com/watch?v=2Tu8y2IKkOg


米軍基地の外でこういう恥ずべき行為を続けることを、「基地外活動」と呼ぶそうだ。 ↓
https://www.youtube.com/watch?v=b-wQWc1l8TE


正に、百聞は一見に如かず である。



安らかに眠ってください。 (その二)

2015年08月01日 | 日記
私は、この歳になるまでまだ広島にしろ長崎にしろ、原爆に関連する施設を訪れたことはない。別に行きたくないわけではないが、何となくああいう所は、「平和愛好家たち」「反戦・反核」を訴える団体がウヨウヨ出没する場所のような、イメージがあって、そういう感覚がどうも行く気を薄めてきたように思う。



特に広島については、以前からそういう思想を刷り込む教育に熱心な教師が多い土地柄で、校長先生が思い悩んで首吊り自殺をしたり、高校の修学旅行で反日色が強い隣国にわざわざ出向いて、「日帝侵略と植民地蛮行を土下座して謝罪」(1999年3月5日、韓国日報の記事)させられたりした報道を、見聞きしていて、その異常さを強く感じていた。



しかし、当時の広島市長の浜井氏にしても、碑文を作った広島大学の雑賀氏にしても、生まれながらにして、そういう「左翼思想」に染まっていたわけではない。

実際、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃を聞いた際、雑賀教授は飛び上がって廊下に飛び出し、「万歳!」と大声で叫んだそうだ。彼は、誰に強制されたわけでもなかったろう。

ではなぜ、戦後になって浜井氏や雑賀氏のような「平和愛好家たち」が日本中に増殖したのだろうか。

そこを考えることは非常に重要なことで、単に彼らを蔑んだところで、状況が変化することは期待できない。つまり、当時の事実に基いた歴史を冷静な目で見て、しっかり理解することで、偏った歴史観、いわゆる「自虐思考」を矯正することも可能となる。

むやみやたらと、自分たちや自分たちに繋がる先祖を非難したり、貶めたりすることは、恐らく瞬間的に快感を感じてしまい、その虜になってはまり込んで行き、やがてはそれが生業(なりわい)になってしまうのだろう。

最近、結構目にするようになってきた、WGIPという占領軍(GHQ)の日本人洗脳工作のことを我々はもっともっと知るべきだ。当時のアメリカ人以下の西洋人たちは、当時の日本人を我々が想像する以上に、本当に脅威に感じていたようだ。日本人の凶暴性を脅威に感ずるのではなく、それまで日本のように、真っ当に白人たちに対抗するアジア人が存在しなかったからだ。

その証拠に占領軍は、徹底的に日本を弱体化して、もう二度と白人に歯向かうことが出来ないようにと知恵を絞ったのだった。ゼロ戦を見てその性能に目を見張ったアメリカ軍は、日本人から飛行機に関する知識・技術を払拭した。紙飛行機すら作らせないという感覚だったようだ。

 ←将棋指し・升田幸三 日本男児のお手本だ

赤穂浪士などの復讐劇はもちろんご法度で、将棋というゲームですら「捕虜を虐待する野蛮なゲーム」と言う理由で禁じようとした。当時の将棋指しの升田幸三がGHQに乗り込んで行き、「貴様らのやるチェスとは違って、将棋は取った駒も生かそうとする合理的なものだ!チェスはキングが危なくなるとクィーンを盾に逃げるそうだが、レディーファーストと言えるのか!」と一喝して禁止を解いたというエピソードがあったそうだ。

WGIP,ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム。最近その一次資料といわれるGHQの関連資料も発見され、今後ますます具体性を増して、一体どういう洗脳工作だったのか、より理解されやすくなると思う。

今騒いでいる「日本国憲法」がどういう経緯で、誰が作ったのか。インターネットを利用すれば、事実を基にしたその流れが理解できる。また、それに伴う数々のエピソードも知ることができてなかなか興味深い。

憲法作成の中心はGHQ民生局で、当時そこに所属する主要人物は多くが左翼主義者だった。局長のホイットニーや次長のチャールズ・ケーディスなどである。ケーディスなどは、日本国憲法作成でも奔走したが、日本人女性と浮名を流していたことでもよく知られる。お相手は、鳥尾鶴代、別名・鳥尾多江という良家の婦人だったようだが、言い換えれば、体のいい「パン助」だったのではないかと察する。

  

彼ら、GHQ民生局の行ったことに「公職追放」と呼ばれる指令があって、どうもこの残滓が今でも死滅せずにこの国にはしぶとく行き続けているようだ。GHQどころか当時の米国大統領ルーズベルトの周りには、左翼、つまり共産主義者が沢山いたという事実が公開される文書から明らかになっている。

従って、GHQは、戦前から押さえられていた日本の左翼を解放することと、同時に戦前それを押さえる側にいた人間たちを追放する「公職追放令」発布をすぐさま実施したのだった。

戦前、少しでもそういう機関の重要ポストにいた者は、戦後二度と公職に就いてはまかりならぬ、というものだった。

この影響は想像以上に大きなもので、空いたポストに就いた者は、占領軍の言うことなら何でもいう通りにする、渡辺昇一氏命名するところの「敗戦」で「得した者」、つまり「敗戦利得者」に変身し、アメリカ人が言えば靴の裏でもペロペロ舐める人間を一挙に増やしたのだった。

当時の、浜井広島市長や雑賀広島大学教授が原爆を投下して、無辜の市民を大量虐殺した事実からは目をそむけ、地球市民がすべったとか、世界平和がころんだとかを好んで口にする生き物に変身したのも、こういう時代背景が作用していたようだ。

「公職追放」という言葉だけでは、その影響の大きさは分かりかねるが、今日の偏向報道に専念する報道界や言論界、日本が大嫌いな憲法学者たちを見ると、より理解しやすくなる。

安らかに眠ってください。 (その一)

2015年08月01日 | 日記
8月に入った。

蝉の鳴き声が、それっ!とばかりに激しくなってきて、これからひと月は暑がりの私にとっては地獄のような毎日が続く。

8月に入ると必ず話題になるのが、広島・長崎に落とされた原爆による虐殺である。そして、私はこの時期になると決って、広島の平和公園の碑文がまだ改められないのかと気になるのだ。



「安らかに眠ってください  過ちは繰り返しませぬから」という碑文のことを初めて知ったのは、多分学生の頃だったと思う。

今でもその時抱いた「なんで??」、という不可解な疑問は、その後どんな説明や解説を聞いてもまったく拭われず、もう還暦を迎えた。



何もインドのパール博士に指摘されるまでもない。原爆の犠牲者を祀った慰霊碑である。原爆を落として10万人の民間人がたった一発の爆弾で虐殺されたのである。

  

どこの誰が爆弾を作って落としたのか。なぜ、兵隊ではなく、婦女子や戦地にいけない年寄りしかいないことが分かっていながら、殺傷能力の極めて高い新型爆弾を広島に落としたのか。


戦争の所為だというなら、そうなった真の原因はどこにあるのだ。西欧列強が東洋の国々を侵略し搾取し続けてきたことに微塵の責任も反省もないというのか。

それなのに、『過ちは二度と繰り返しませぬから』と犠牲者が言うのは、どう考えてもまともではないだろう。

 ←雑賀忠義という当時広島大学の先生

当時の広島の市長だった浜井信三氏が、「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」という自分の想いを伝えて、碑文を作らせたと後に話していたそうだ。

その考えに共感した当時の広島大学の先生が、市長の意を酌んで作文したそうだ。

英語の教授だったのか、わざわざ碑文を英文でも残している。

「 Let all the souls here rest in peace; For we shall not repeat the eil 」

『過ちをくりかえさない』のは「We」「我々」であるということだ。最初この英文を拝見したときは、随分格調のある、日本人離れした英文だなあ、と感じた。

しかしそれもそのはず、雑賀先生は英訳するに当たって、日本文を彼の長男が当時留学していた米国のイリノイ大学に送り、意見を求めていたとの事だった。意見を求めたのは彼の長男なのか、あるいは長男の知り合いかどうかは、明確ではないが、長男とて日本の父親からこういう文の意見を求められれば、現地の米国人に助けを求めるのが成り行きと言うものだろう。

私は、これを知って、「ハハァーン・・・」と納得したのだった。  

(続く・・)

フェードアウトする「矜持」・・

2015年08月01日 | 日記
もう2年近く前になるのだと思うと、人は歳を重ねるごとに時の流れが速くなってゆく、というのを実感として感ずる。

何のことかと言うと、今世間を騒がせている「2020東京五輪」のことだ。

IOC会長が、間を置かず「TOKYO」と言って印刷された紙を見せたのは、2年前の9月のことだった。

その前の、五輪招致の売り込みプレゼンの練習が実を結んだのか、昨今の日本ブームが後押ししたのか、決定の瞬間は関係者が狂喜乱舞して、それを見ていた日本中の五輪ファンも大喜びしたのだった。

その後の日曜の朝の反日報道番組が、まるで御通夜のように重苦しい雰囲気だったのを、なぜかよく覚えているが、私は一点を除き、当時あの時の喜びを共感できた。





一点、というのは流暢なフランス語と英語でプレゼンしたときの、あのハイセンスな日本人離れした国際人然とした風貌の女性のとった所作だった。

今更、ケチをつけるつもりは毛頭ないが、両手を合わせて祈るようなしぐさを見た瞬間、私は「これはないよ、タイ人かよ。変だよ、このしぐさ・・」と感じたものだった。何だか外国人向けに、東洋的なイメージを強調するようなしぐさをすることで、媚を売っているような、ささやかな嫌悪感を感じさせた。

彼女が、フランス人を父に持つフランス生まれのハーフだから云々、と言うことではなく、恐らく何度も練習に立ち会ったであろう、他の多くの日本人関係者たちは、変だとは思わなかったのだろうか、不思議だった。

このときの違和感が尾を引いて今のようなゴタゴタに繋がって、正直言って私の抱いていた東京五輪に対する「思い入れ」が、徐々に弱まってきた。

まずは、東京都知事がつまらぬ不祥事で変わった。新しい都知事は、どうも前任者やその前の知事とは一風変わった思想の持ち主らしく、何かとイチャモンをつけてくる隣国に思い入れがありそうな人物だとわかってきた。



彼が推した東京五輪のボランティアのコスチュームが、何とその隣国の昔の門番の着ていた衣装と配色や帽子のデザインがそっくりだと判明した。それより何より、最初発表された時点で、日本の多くの人がピエロのようなその衣装に、ドン引きしたのではなかろうか。あれこそ白紙撤回すべきだと思うが。

さらに、例の国立競技場の騒ぎである。



存分にゴリ押ししてきたくせに、総理から白紙撤回の再検討を申し渡された途端、「生牡蠣を垂らしたようなデザインが嫌だった・・」と平然とのたまう始末。



この二人に、今のゴタゴタの責任を押し付ける意図などまったくないが、どうも私はこいつらが、疫病神みたいな存在だと感じて、最初から冷や冷やしていたのだった。



さらに、東京五輪のエンブレムのパクリ疑惑である。コメントをせずに逃げ回っていた製作者は、「海外作品は知らない・・」と弁解しているようだが、どう見てもパクリだろう。

少し前。三島由紀夫の小説をパクッたパクリ本家のあの国の女性小説家は、「いくら記憶を検索してみても、『憂国』を読んだ記憶はないけれど、もう私も私の記憶を信じることは出来ない状況になった。」という、精一杯強がった「白状」をしたものだった。

過ちを犯しても簡単に認めない国民性をよく見せた言葉だ、と皮肉った新聞があったが、日本人にも似たようなのが、最近よく出てくるようになった。それとも日本人から、その「らしさ」が消えつつあるのだろうか?

赤穂の浪士、杉野十兵次に槍の師範だった俵星玄蕃が諭した「命惜しむな、名をこそ惜しめ」とは、当時の武士がいかに「矜持」を大切に考えていたかを示している。

何かと言えば、実利を取るとか、WIN/WIN だとか、経済効果が何億円だとか、日本中が小判が大好きな「あきんど」だらけになっていくようで気が重くなる。

日本人の矜持とは、商売を第一優先に考える「商人」の対極に位置していた、大和「武士」の背骨となる精神であったはずだ。