孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

防犯防災意識を持つ。

2015年08月14日 | 日記
フィリピンに赴任した時に、日本は確かに安全な国なんだと実感したことに、彼らの防犯に対する対応を見たときでした。

田舎で良く見る雑貨屋さん、「サリサリ・ストア」。駄菓子から調味料まで小分けにした生活必需品がぶら下がっていて、タバコも1本ずつ買うことが可能です。



小さな掘っ立て小屋で、店の商品を全部合計しても多分10万円以下の価値だと思うのですが、商品や代金の受け渡しは、鉄格子の下にある小窓で行われ、後はすべて頑丈そうな鉄格子で囲ってあるのが一般的です。

雑貨屋さんがそんな具合ですから、民家も当然防犯対策は徹底しています。ブロック塀などはてっぺんにガラスの破片をセメントで固めて空き巣の侵入を防ぎ、入り口や窓は二階でも三階でも鉄格子や鉄板のシャッターで泥棒を防ぎます。



これは、フィリピンに限らず、台湾やインドネシアでも同じでした。日本でここまでやったら、珍百景だと近所の笑いものになります。

私が中学生くらいまでは、家の玄関に鍵をかけて外出するという習慣は、少なくとも我家にはありませんでした。ただ、夜だけはさすがに物騒だということだったのか、寝る前に玄関に鍵を掛けた上に、つっかい棒で念を入れました。



当然、その前に勝手場や窓の鍵の点検はやっていました。田舎はそもそも、近所付き合いが活発でしたので、昼間は相互監視ができていたこともあったのでしょうが、さすがに夜は各家庭で防犯対策を施していたんですね。



最近は、近所づきあいもほとんどなく、勤め先も夜勤があったり、休日も勤め先ごとに異なったりして、定期的な集会ですらなくなってしまい、連絡事項は回覧板を廻すのみとなっています。隣の家の家族構成などもよく把握できず、知らぬ間に住人が引っ越したかと思うと、どこかから転入してきた人が住んでいたりして、雰囲気も殺伐としてきたような気もします。

田んぼが埋め立てられて、何か電子部品の組み立て下請け工場が突然出来たかと思ったら、色の黒い女性たちが自転車に乗ってそこに通っているのを見かけ、「あの人達は、インドネシア人らしいよ。どこかのアパートに共同で住んでいるらしい・・」などという情報が伝わってきたりします。

また、週末などには鉄橋の下に南米系の人達が大勢集結して、ブロックで俄か作りのバーベキューパーティーをやったりしているのを見かけます。時には突然片言の日本語で、「ナニカ、テツクズ、ナイ? バッテリー、トカ・・」と言って家に来る男がいて、ギョッとすることがあったりします。

明らかに私が子供の頃より、田舎の風景が変わりつつあります。



我家も数年前、人の気配で自動的にスイッチが入り、あたりを一定時間照らし出す防犯灯を玄関付近に取り付けました。やはり、近年は物騒になってきたと感ずるようになったからです。

さらにある時インターネットの「ストリートビュー」というツールに、我家の住所を入力してみたら、何と我家の玄関が見れるではありませんか。これはショックでした。

子供やカミさんたちにも外出時の戸締りを徹底するように告げ、これまでほとんど無かった防犯意識に火がつきました。

考えて見れば、我家に空き巣に入ったとしても、宝石があるわけでも、現金があるわけでもないので、心配するには及ばないのでしょうが、それでも泥棒や空き巣に入られるのは気味が悪くて嫌なものだと感じます。

駐在所の警官が以前は戸別訪問をしてきて、家族構成などを教えたものですが、ここ数年はまったくご無沙汰です。これは自分で気をつけるしかないなと考えを改めました。



こじつけのようですが、今ホットな話題の安保法案に対するマスコミや野党、平和運動家たちの主張を見ていると、家に例えれば、戸締りなんてしなくてもいい、「安全、安全」と叫べば、防犯は十分。「寝る前は戸締りを点検して・・・」と言うと、「そんなことする必要ないでしょ、誰が空き巣に入るって言うの?そんな人いないですよ。」と言っているようなものに感じます。

それどころか、空き巣が入りやすいように、こっそりと窓の鍵を壊したり、お勝手場のドアの鍵をわざと掛け忘れたり、今のサッシのガラスを割れやすいガラスにこっそり交換したり、得体の知れない人物を同居人として連れ込もうとしたり・・・。

防犯防災のやり方を故意に、とことん邪魔しているような感じがするんです。台所や仏間にお札を貼っておけば災害や犯罪の心配などする必要なし、と言いたげではないか。

考えすぎでしょうか。

本屋というより、漫画屋。

2015年08月14日 | 日記
学生になってすぐのこと、東京に行く用事があったついでに、神田に行き古本屋を何件か見て歩いて、「広辞苑」を買い求めた。ずっしりと重い広辞苑は、当時の私にとっては高価な書物ではあったが、ようやくこれで大学生になったな、というわけの分からない満足感を味わった思い出がある。



神田の古本屋街をはしごして見るのは楽しいもので、それからも上京するたびに神田には立ち寄ったものだった。それほどの読書家でもないくせに、「何か掘り出し物はないかなあ・・」と見て廻るのはそれまで経験できなかった、「大人っぽい」行為だった。

地元の田舎町にも一軒の古本屋があって、数は少ないが、雑誌から文庫本までバラエティーに富んでいて、立ち読みするのもOKだった。その古本屋もいつの間にか店じまいして花屋に変身していた。

その頃だったと思うが、国道沿いにチェーン展開する古本屋がオープンした。本をお売り下さい、という看板が出ていたので、ある時小ぶりのダンボールに一杯の本を持ち込んだ事があった。本の査定をするから暫く待てというので、棚の本を眺めていると番号が呼ばれた。

合計で400円ほどだった。そんなものか・・と少し落胆させられたが、それよりもドイツ語の辞書とか、三島由紀夫の初版本が「買取できません」と言われ、驚いた。「なぜ?」と聞くと、ドイツ語の辞書は辞書の紙製ケースが茶色に変速しているから、三島由紀夫の本はページが黄ばんでいるからだ、ということだった。



今日、久しぶりに前を通りかかったので、何か面白そうな新書でもあったら飼おうかと思って立ち寄ってみた。「いらっしゃいませこんにちわ」という元気がいい挨拶、というより、騒々しくて投げやりな挨拶に迎えられて店内に入ったところ、ひんやりした冷気がたまらなく気持ちよかった。

前回来たのはいつのことだろう。店内の雰囲気がガラっと変わっていて、3分の2くらいは漫画が占めている様だった。新書の棚を探したのだがどうも見当たらない。文庫本は簡単に見つかったが、新書がない。

店員にきいたところ、並べ方をジャンル別にしたので、単行本と新書が混ざっているということだった。見ると、「経済」とか「健康」とか「資格」とか様々なジャンルに棚が区切られている。そして、間に挟まれるように新書も棚にあった。

しかし、これが便利なようで便利ではない。私は特にジャンルを決めてきたわけではない。値段が手頃で、バラエティーに富んだ新書を買い求めにきたわけだ。すべてのジャンルの棚を一通り見て廻ろうかとも考えたが、面倒なので帰ってきた。

この手のチェーン店がオープンすると、近隣の書店の万引き被害が急増すると言われたことがあったが、それはこの手の店が新古書といって、見た目が新しいほど高く買い取るからだった。本の希少価値とか書かれている中身ではなく、もちろん売れ筋の、しかも新しい本を高く買胃取るという方針で成長してきた店だからであった。

しかし、通常の書店にしろこの手の新古書販売店にしろ、漫画、漫画で満ちているようでは、これが世界に発信できる日本文化だ、などと喜んではいられない状況だと不安になる。

朴李化する日本(再考)

2015年08月14日 | 日記
東京五輪のロゴ朴李(パクリ)疑惑の渦中にある佐野研二郎氏の手がけた過去の作品が、やはり朴李(パクリ)ではないかと、大騒ぎになっていて、結局そのデザインを販売促進の商品に使っていた、サントリーが30種類の中で、まず8種類を取り下げる、と発表したそうだ。

そのデザインは、ノンアルコール飲料の販売促進キャンペーン商品である、トートバッグに使われていたそうだ。



当初は30種類の「佐野研二郎デザイン」トートバッグ・・・という威勢のいいキャンペーンだったが、とんだケチが付いてしまい、サントリーもここに来て、渋々対応した感じである。被害者といえば被害者だろうが、対応は随分のんびりしていた。




当の佐野氏側は、「ネット上などにおいて、著作権に関する問題があるのではないかとい指摘が出ている・・」ので、「・・現在、専門家を交えて事実関係などの調査・検討を開始している」と説明しているそうだ。




まあ、有体に言えば、言い訳できそうも無い8点は、こちらからサントリーに取り下げ依頼しておいて、他のデザインはどうやって言い逃れしようか・・と検討中ということだろう。

サントリー側も、「こっちから取り下げるとなると、後々こちらが非難の対象となる可能性もあるから、佐野氏の側から取り下げてくれと言って来たのでそれを了承した、という形にしようか・・」という打算が働いているのだろう。

佐野氏側は、あくまでも佐野氏は監修する立場であった、(佐野氏本人がパクッたワケではない・・)と言っているようだが、そんなことを言うこと自体がもう胡散臭さがプンプン漂ってくる。

おりしも、下の写真が同じ朝刊に掲載されていて、何だと思ったらインド出身の現代彫刻家アニッシュ・カプーア氏の「クラウド・ゲート(雲への扉)」というタイトルのオブジェだそうで、アメリカ、シカゴのミレニアム・パークにあるステンレス製の高さ10m幅20mもある大きなものだ。



水銀から着想されたデザインで、その豆のような形から「ザ・ビーン」という愛称で親しまれているそうだ。

そして、下が支那、新疆ウイグル自治区のカラマイ市にある今月公開予定の「巨大な石油の泡」をモチーフにしたステンレス製オブジェだそうだ。

本家のカプーア氏側は、「盗作」であるとして、中国人彫刻家を訴える意向を表明したそうだが、中国側は恬として恥じるどころか、「素材は似ていても、形状と意味合いは異なる。・・・盗作ではない。」と主張しているらしい。



そっちは水銀だろ?こっちは石油だ!とでも言いたいのだろうが、見たところ朴李(パクリ)そのものではないか。

先日もこのブログで話題にしたが、こういう場合、我々はこれまで、支那・朝鮮の連中だから・・無理もないよな、ああいう連中じゃあなあ・・と、嘲笑の対象にしてきた。今回のオブジェについても同じである。まったく、「笑って呆れる」話題であるが、このところ、日本にも似たような事象が起き始めて来ている。

やはり、この国は「朴李化」しているのだろうか・・?

常識を疑う志摩市の海女キャラ。

2015年08月14日 | 日記
志摩市といえば、確かサミット開催が決った処ではなかったか?世界の首脳に伴って報道関係者がワンサカ集まってきて、協議内容だけでなく周辺の情報を世界中に発信することになるだろう。

そんな折も折、三重県志摩市が観光PRのために公認した海女キャラクターの写真が今朝の朝刊に掲載されていた。「碧志摩(あおしま)メグ」というそうだ。



朝食の途中でみた記事だったが、これを見た途端不愉快になって食事を続ける気にはならなかった。こういう絵を好む人がいるのは仕方ないことだが、これを伝統ある海女文化のPRに使おうと決定した人達の常識を疑ってしまう。

私は、今流行っている、少女集団がパンツを見せながら舞台を飛び跳ねたり、下着だか水着だか分からないような衣装を着て、科(しな)を作って男に媚びるような演舞をする文化をとても「健全」だとは思わない。

禁止せよなどというつもりは無いが、長いこと「なんとも嘆かわしい」と感じている。

何かというと、経済効果がどうのこうのと騒ぎ立てるが、「少女」を使った金儲けが賞賛される世になったのかと思うと、絶対にああいう文化は誇れるものではないと思う。

今回の志摩市の海女キャラクターは、明らかにこういう風潮の延長線上にある。

幸い、常識ある現役の海女や市民たちが、「性的な部分を過剰に強調していて不快だ」と、公認撤回を求めているそうだが、提出した署名の数がわずか309人分だというから志摩市の人口53,000人からすれば心細い限りだ。

微力ながら、私は即刻志摩市ホームページを検索して、撤回要求の抗議メールを送信したところだ。

杞憂であればいいが、いわれなき「従軍慰安婦」の次は、こういった日本の「少女ポルノ」文化が標的になるのではないかと懸念される。