孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

少年、毅然と立つ。

2015年08月02日 | 日記
子供の頃、昔は人が亡くなるとそこの河原近くの焼き場までリアカーで運んで、火葬したものだ、と親父や近所の人から聞いた事がある。

今そこは畑になっているが、昭和20年代初めくらいまではそうやって火葬してきたらしい。今なら火葬場に運べばガスや重油で短時間で骨になるが、当時は一晩中火を絶やさなかったそうだ。

それだけに、今の日本人とは違った、「人の死」に際しての感覚が当時の人には存在していたのではないかと思う。死んだら埋めればいい、焼けばいいという単純なものではなかったはずだ。

お盆のこの時期は、終戦の日ともオーバーラップして、いつも漠然とこんなことを感ずる。

ここに終戦時に撮られた一枚の写真がある。

  ←「焼き場に立つ少年」 photo by Joe O'Donnell

アメリカ人報道写真家のジョー・オドネル氏が被爆後の長崎で撮影した中の一枚である。オドネル氏は23歳のとき、アメリカ軍の指示を受けて来日し、7ヶ月間滞在して主に西日本の被害状況を撮影した。

あまりにも悲惨な写真が多く、彼は43年間現像せず封印してきたが、ある時やはりアメリカ人はこの事実を知るべきだと、公開して写真展示会を開いた、予想通り賛否両論が出て話題になった。特に退役軍人たちからは大変強硬な反発があり、「アメリカから出て行け」という脅迫状も届いたという。

彼の考えを理解できなかった妻とは離婚することになったが、彼はどうしてもこの写真の少年のことが忘れられず、何度となく来日して少年を探し続けた。しかし、願いは叶わず、2007年に85歳で他界した。それは、奇しくも長崎に原爆が落とされた8月9日だった。

写真の少年は、背中に弟らしき赤子を背負って、直立した姿勢で立っている。背中の赤子は首を後ろに倒していて明らかに死亡していた。その場は、臨時に作られた火葬場で、少年は死んだ弟を火葬するため、裸足のままで歩いて来て、直立して火葬の順番を待っていたのだった。

やがて、弟の順番となり、弟の遺体は荼毘に付されるのだが、その間も少年は唇をかみ締めながらジッと見つめていたという。オドネル氏は少年の唇を見ると、少年が噛み締めた唇から血が滲んでいるのが見えたそうだ。

この少年の、下された運命を凛とした態度で、ひたすら耐えようとする力強い姿に、痛く心打たれたに違いない。

開いた写真展示会でも、多くのアメリカ人がこの写真の前に来ると涙して見つめていたそうだ。

上手く言えないが、この頃多くの日本人はこの少年が持っていたような、気骨を胸に秘めていたのだと思う。この頃の・・というのは、今ではそうではないような人がやたら目立ってきた気がするからである。

以前見たテレビ番組で、日本に長く滞在するアメリカ人たちを10数人集めて、色々彼らの考え方や日本に対する印象などを聞く、というコーナーがあった。ほとんどが日本が大好きな親日派だったのだが、その中に「アメリカはなぜ原爆を落とし他のですか?」という質問があった。

私は、彼らの回答に大変興味があったので、注意して見ていると、全員共通して、「それは戦争を早く終わらせるタメだったからダヨ。」「あのまま続けたら沢山のアメリカ兵や日本人が死んだでしょ?」という判で押したような答えだった、

今のアメリカの教育の現状は定かではないが、少なくともこれまではアメリカでは徹底して彼らの答えのような教え方を押し通してきたようだ。

これからの日本人は、アメリカ人を恨むとか謝罪させるとかそういうことではなく、彼らとそのようなことを話す機会があったら、原爆をあの時期落として、民間人を大量に虐殺したのは紛れもない事実だという考えを絶対に曲げてはならない、と強調したい。

我々は、過ちを二度と繰り返さない・・・などと、写真の少年が聞いたらショックで息が出来なくなるのではないか。

中国人の正社員

2015年08月02日 | 日記
昨日は初孫なっちゃんの5歳のお誕生会を祝いにカミさんと二人で、次男の家に行って屋上でのバーベキューを味わってきた。

夕方気温が下がるのを待って、始めたバーベキューは外で食べる所為か、なかなかおいしくて、久しぶりに満腹になるまで飲み食いした。

そのとき聞いた、次男の話の中で、彼らが職場に配属された中国人社員に困っているという内容は、なかなか興味深いものだった。

何でも、会社としては初めて中国現地にて正社員採用したそうで、日本語検定2級合格がその時の条件だったそうだ。名前は忘れたが、中国でも名門の大学を卒業していて、日本語検定の成績も極めて優秀だったという人事部の担当者のお墨付きで配属されてきたそうだ。

次男の部署ではなかったが、それまで何人もの日本人派遣社員の指導担当を勤めてきたので、新しく来た中国人には関心があったそうだった。

ところが、正社員はその中国人社員の指導担当を嫌がったため、会社側は何と日本人の派遣社員に指導担当を任せたということだった。

ところが、物覚えは良くなく、言われたことだけをモタモタするタイプで、その指導担当の派遣社員は堪忍袋の緒が切れて、つい強い口調で注意し、ヘルメットの上からコツンとやったそうだ。

すると、その中国人はその後、何と110番通報して、日本人に勤め先で暴力を受けたと訴えたそうだ。やがて工場に警察官たちが乗り込んできて、大騒ぎになったと言う。

片や、暴力を受けたと譲らず、片やヘルメットをコツンと軽く叩いただけだと主張したが、派遣会社の担当者を交えて話し合った結果、派遣社員は解雇。代わりの派遣社員を至急探して引き続きそこの業務を担当させる。中国人はお咎めなし、というものだったそうだ。次男は、その経緯に納得出来ず、やりきれない気分であることを私に話してくれたのだった。

私も10年以上海外の工場勤務の経験があるので、その手の話はよく見聞きしたし、自分でも似たような体験があって、よく次男の心境が理解できた。

ただ、私は中国人のことはほとんど分からないし、一緒に仕事した経験も無いし、したいとも思わなかった。

あるのは、あの連中はとんでもない連中だという先入観しかない。



例えば、岩肌に緑のペンキを塗って、「山の緑化」と言ってみたり、、、



上海を流れる飲み水の水源でもある、黄浦江という川に豚の死骸が大量に不法投棄されたり、、、



高速鉄道の脱線事故では、ろくな調査もせずに高架橋の下に車両を落として切り刻み、地面を掘って埋めようとした。世間の非難を受けて、掘り返したら、、、



何と女の子の生存者が中から見つかったというではないか・・・。


それから、道路上でトラックの横転事故があって、積荷が散乱すれば、決って近くの住民が群がってきて、積荷を略奪するという、日本ではまず起こりえない事件が極普通に起きるお国柄だ。積荷が魚だったり、みかんだったり、ジャガイモだったりして、様々だが、大抵警察官が中止を呼びかけるが、制止できず、拳銃の威嚇発砲をするはめになるのである。



小さなときから、騙されるな、騙される方が悪いと言われて育てられ、嘘をついたり、人を騙してチョロまかすことなど普通の民族性を持つ国だから、私は次男の話を聞きながら、本当に有名大学を卒業しているのか。漢字検定の結果は信用できるのか、等等突っ込み所満載の話だなと感じていたのだった。

今、この国は経済力を増して、観光客も右肩上がりに増加中だが、あまり依存度が増えると、今度は困った状況になっても相手の言いなりになる嵌めに陥ることになる。

儲けのことしか考えない我欲に満ちた「商人(あきんど)」たちの言いなりになりることは、大変危険なことだと、私は強く思うのだが。



東京五輪の思い出を味わう

2015年08月02日 | 日記
まあ次から次へとケチが付き、元々日本が世界で活躍することを善しとしない、反日マスコミがそれを混ぜっ返すような報道をして、何だか2020年の東京五輪への期待が萎んでいくようである。

1964年開催の東京五輪は、日本が見事に一つになった大会だったようだ。当時私は小学校3年生だったが、理科の授業のとき、テレビのある教室に移動して、何の競技だったか記憶は無いが、みんなで応援したことを覚えている。



今でもよく覚えているのは重量挙げで日本人の金メダル第一号となった、三宅義信選手だ。当時は、スナッチ・ジャーク・プレスの三種類の異なった挙げ方で競う競技であった。特にジャークは首元まで挙げて呼吸を整え、足を前後に出して、「エイッ!」と頭上に持ち上げるスタイルで、そうじの時間など、モップを持ち出して、その格好を真似しあったものだった。



また、三宅選手の名前が私自身の名前とよく似ていて、彼の成績は始めから特に思い入れ強く、金メダルが決ったときはとても嬉しかった。



80mハードルという陸上競技は、当時の小学生はほとんど知らなかったのではないだろうか。しかし、私はこの競技と出場した依田郁子選手のことはなぜか覚えている。それは、多分当時二人掛けの席の私の隣だった女の子が、「いくこちゃん」だった所為だと思う。「よだいくこ」選手は、惜しくも5位に終わってメダルは取れなかったが、スタートラインに付くまでの儀式のような、様々な所作が話題になった選手だった。

両手に唾を吐いて、体中に塗ったり、とんぼ返りしたりすることは、彼女自身が集中力を高めるための手順だったそうだ。

体操は日本のお家芸で、何となく安心して見ていられた気がする。私の記憶には、女子選手のチャスラフスカさんの見事な演技が鮮明に蘇る。女子の体操選手は徐々に若年化、軽量化してきて、次第に曲芸的になってきているようだが、当時の女子体操選手はチャスラフスカ選手のような、肉感的な体型の選手が主流だった。



彼女はチェコスロバキアの選手で、平均台と跳馬で金メダルを獲得し、その美貌もあってか、「オリンピックの名花」と形容されていた。その後。国が分裂して、チェコとスロバキアになったが、あれから40年くらい経って仕事の関係でチェコから来客があり、私は通訳を兼ねて歓迎食事会に同席をさせてもらう機会があった。その際、それまでメールでは何度もやり取りのあったチェコ担当者から、高さ6~7cmの小さな箱をお土産だと戴いた。

同席していた他の日本人上司や同僚たちを差し置いて、私だけがもらったので、そそくさとお礼を言ってポケットに入れたのだが、帰宅して中を見ると、細かい加工を施されたボヘミアンガラスの花瓶のようなものだった。今でも我が家の食卓テーブルに、爪楊枝入れとして、鎮座ましましている。

さらに、チェコといえば、スメタナとドボルザークが有名で、私にはドボルザークの交響曲第9番第3楽章が元気の源になる秘密の音楽であり、ここぞというときはいつも聴いている。

あの黒澤明も、「七人の侍」を製作する際に、この曲のレコードを擦り切れるほど聴いて、映画の構想を練ったという逸話がある、アドレナリンの分泌を強烈に促す作用のある名曲だ。

チェコから勤め先に来客を迎えたとき、丁度打ち合わせが終わって玄関に出た際、5時の業務終了を知らせるチャイムが流れてきた。それは、ドボルザークの交響曲第9番第2楽章の「家路」のメロディーだった。

私は、「聞えますか?私たちは毎日この時間にドボルザークを聴いてます。」と言うと、この「ドボルザーク」の発音が悪かったのか、なかなか伝わらず、実にバツの悪い思いをしたものだった。事前にもう少しチェコ語を勉強しておくべきだったとしきりに後悔したものだった。



映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でも東京五輪の女子バレーボールを応援する場面があったが、やはり「東洋の魔女(The Oriental Witches)」のソ連との決勝戦は盛り上がった。子供ながら、感動に胸が痛むほどだった記憶がある。表彰台で胸に金メダルをかけられた河西昌枝主将は、右手にメダルをかざし、誇らしげに胸を張って見せてくれた。あのシーンほどすばらしい表彰式は私の中には無い。

当時の私には、「ニチボーカイズカ」が何の意味かはよく理解できなかったが、「回転レシーブ」とか、「鬼の大松」という言葉は耳に残っている。

その寡黙な大松監督は表彰式のあと、「表彰式で河西の胸に金メダルが掛けられ、日章旗が揚がった時は、涙で日の丸がはっっきり見えなかった。」と語っていたそうだ。

当時も、日の丸や君が代を忌み嫌う左翼主義者はいたと思うが、あの場面を彼らはどういう心持で見ていたのだろうか、是非聞いてみたいものだ。

きっと、忌々しい気分で眺めていたのだろうなあ。