子供の頃、昔は人が亡くなるとそこの河原近くの焼き場までリアカーで運んで、火葬したものだ、と親父や近所の人から聞いた事がある。
今そこは畑になっているが、昭和20年代初めくらいまではそうやって火葬してきたらしい。今なら火葬場に運べばガスや重油で短時間で骨になるが、当時は一晩中火を絶やさなかったそうだ。
それだけに、今の日本人とは違った、「人の死」に際しての感覚が当時の人には存在していたのではないかと思う。死んだら埋めればいい、焼けばいいという単純なものではなかったはずだ。
お盆のこの時期は、終戦の日ともオーバーラップして、いつも漠然とこんなことを感ずる。
ここに終戦時に撮られた一枚の写真がある。
←「焼き場に立つ少年」 photo by Joe O'Donnell
アメリカ人報道写真家のジョー・オドネル氏が被爆後の長崎で撮影した中の一枚である。オドネル氏は23歳のとき、アメリカ軍の指示を受けて来日し、7ヶ月間滞在して主に西日本の被害状況を撮影した。
あまりにも悲惨な写真が多く、彼は43年間現像せず封印してきたが、ある時やはりアメリカ人はこの事実を知るべきだと、公開して写真展示会を開いた、予想通り賛否両論が出て話題になった。特に退役軍人たちからは大変強硬な反発があり、「アメリカから出て行け」という脅迫状も届いたという。
彼の考えを理解できなかった妻とは離婚することになったが、彼はどうしてもこの写真の少年のことが忘れられず、何度となく来日して少年を探し続けた。しかし、願いは叶わず、2007年に85歳で他界した。それは、奇しくも長崎に原爆が落とされた8月9日だった。
写真の少年は、背中に弟らしき赤子を背負って、直立した姿勢で立っている。背中の赤子は首を後ろに倒していて明らかに死亡していた。その場は、臨時に作られた火葬場で、少年は死んだ弟を火葬するため、裸足のままで歩いて来て、直立して火葬の順番を待っていたのだった。
やがて、弟の順番となり、弟の遺体は荼毘に付されるのだが、その間も少年は唇をかみ締めながらジッと見つめていたという。オドネル氏は少年の唇を見ると、少年が噛み締めた唇から血が滲んでいるのが見えたそうだ。
この少年の、下された運命を凛とした態度で、ひたすら耐えようとする力強い姿に、痛く心打たれたに違いない。
開いた写真展示会でも、多くのアメリカ人がこの写真の前に来ると涙して見つめていたそうだ。
上手く言えないが、この頃多くの日本人はこの少年が持っていたような、気骨を胸に秘めていたのだと思う。この頃の・・というのは、今ではそうではないような人がやたら目立ってきた気がするからである。
以前見たテレビ番組で、日本に長く滞在するアメリカ人たちを10数人集めて、色々彼らの考え方や日本に対する印象などを聞く、というコーナーがあった。ほとんどが日本が大好きな親日派だったのだが、その中に「アメリカはなぜ原爆を落とし他のですか?」という質問があった。
私は、彼らの回答に大変興味があったので、注意して見ていると、全員共通して、「それは戦争を早く終わらせるタメだったからダヨ。」「あのまま続けたら沢山のアメリカ兵や日本人が死んだでしょ?」という判で押したような答えだった、
今のアメリカの教育の現状は定かではないが、少なくともこれまではアメリカでは徹底して彼らの答えのような教え方を押し通してきたようだ。
これからの日本人は、アメリカ人を恨むとか謝罪させるとかそういうことではなく、彼らとそのようなことを話す機会があったら、原爆をあの時期落として、民間人を大量に虐殺したのは紛れもない事実だという考えを絶対に曲げてはならない、と強調したい。
我々は、過ちを二度と繰り返さない・・・などと、写真の少年が聞いたらショックで息が出来なくなるのではないか。
今そこは畑になっているが、昭和20年代初めくらいまではそうやって火葬してきたらしい。今なら火葬場に運べばガスや重油で短時間で骨になるが、当時は一晩中火を絶やさなかったそうだ。
それだけに、今の日本人とは違った、「人の死」に際しての感覚が当時の人には存在していたのではないかと思う。死んだら埋めればいい、焼けばいいという単純なものではなかったはずだ。
お盆のこの時期は、終戦の日ともオーバーラップして、いつも漠然とこんなことを感ずる。
ここに終戦時に撮られた一枚の写真がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/22/806059c6414a3ed636d6244a2dee3907.jpg)
アメリカ人報道写真家のジョー・オドネル氏が被爆後の長崎で撮影した中の一枚である。オドネル氏は23歳のとき、アメリカ軍の指示を受けて来日し、7ヶ月間滞在して主に西日本の被害状況を撮影した。
あまりにも悲惨な写真が多く、彼は43年間現像せず封印してきたが、ある時やはりアメリカ人はこの事実を知るべきだと、公開して写真展示会を開いた、予想通り賛否両論が出て話題になった。特に退役軍人たちからは大変強硬な反発があり、「アメリカから出て行け」という脅迫状も届いたという。
彼の考えを理解できなかった妻とは離婚することになったが、彼はどうしてもこの写真の少年のことが忘れられず、何度となく来日して少年を探し続けた。しかし、願いは叶わず、2007年に85歳で他界した。それは、奇しくも長崎に原爆が落とされた8月9日だった。
写真の少年は、背中に弟らしき赤子を背負って、直立した姿勢で立っている。背中の赤子は首を後ろに倒していて明らかに死亡していた。その場は、臨時に作られた火葬場で、少年は死んだ弟を火葬するため、裸足のままで歩いて来て、直立して火葬の順番を待っていたのだった。
やがて、弟の順番となり、弟の遺体は荼毘に付されるのだが、その間も少年は唇をかみ締めながらジッと見つめていたという。オドネル氏は少年の唇を見ると、少年が噛み締めた唇から血が滲んでいるのが見えたそうだ。
この少年の、下された運命を凛とした態度で、ひたすら耐えようとする力強い姿に、痛く心打たれたに違いない。
開いた写真展示会でも、多くのアメリカ人がこの写真の前に来ると涙して見つめていたそうだ。
上手く言えないが、この頃多くの日本人はこの少年が持っていたような、気骨を胸に秘めていたのだと思う。この頃の・・というのは、今ではそうではないような人がやたら目立ってきた気がするからである。
以前見たテレビ番組で、日本に長く滞在するアメリカ人たちを10数人集めて、色々彼らの考え方や日本に対する印象などを聞く、というコーナーがあった。ほとんどが日本が大好きな親日派だったのだが、その中に「アメリカはなぜ原爆を落とし他のですか?」という質問があった。
私は、彼らの回答に大変興味があったので、注意して見ていると、全員共通して、「それは戦争を早く終わらせるタメだったからダヨ。」「あのまま続けたら沢山のアメリカ兵や日本人が死んだでしょ?」という判で押したような答えだった、
今のアメリカの教育の現状は定かではないが、少なくともこれまではアメリカでは徹底して彼らの答えのような教え方を押し通してきたようだ。
これからの日本人は、アメリカ人を恨むとか謝罪させるとかそういうことではなく、彼らとそのようなことを話す機会があったら、原爆をあの時期落として、民間人を大量に虐殺したのは紛れもない事実だという考えを絶対に曲げてはならない、と強調したい。
我々は、過ちを二度と繰り返さない・・・などと、写真の少年が聞いたらショックで息が出来なくなるのではないか。