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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 422 男達の人生劇場 ①

2016年04月13日 | 1984 年 



昭和38年、古葉毅(現在は竹識)はデッドヒートの末に長嶋茂雄に首位打者を明け渡した。それは無念なるかな死球が原因だった。しかし古葉はこれにより甦り、後には監督として長嶋に打ち勝つのだった

昭和38年のペナントレースは川上監督率いる巨人が独走し興味は個人タイトルのみとなっていた。王が一本足打法で打撃開眼し初の本塁打王をほぼ確実にしていた一方で首位打者争いは長嶋と古葉の一騎打ちとなっていて古葉の首位打者挑戦が広島ファンの最大の関心事となっていた。10月12日に広島は地元の広島市民球場で大洋と対戦、長嶋がいる巨人は中日と戦っていた。前日時点で古葉は3割3分9厘、長嶋は3割4分5厘だった。6回裏、古葉が打席に入った。対するは大洋・島田源太郎投手。初球は内角にシュート、続く2球目もシュート。球は踏み込んで打ちにいった古葉の左下顎を直撃した。古葉はその場に昏倒し一塁側ベンチから白石監督はじめフィーバー平山コーチや長谷川コーチらが一斉に飛び出して来た。投げた島田投手や大洋・三原監督も心配そうに駆け寄った。

「古葉、俺が分かるか?」「動くなジッとしていろ」周りからの問いかけに古葉は黙って頷いた。一塁側スタンドからも「頑張れ」「大丈夫か?」とファンも絶叫していた。古葉を乗せた救急車は広島市内の日赤病院に横付けされた。直ちに口腔外科部長である栗田亨氏による診断が始まった。結果は左顎下骨折で全治1ヶ月と診断された。自宅から玲子夫人が駆けつけ、その日の夜に手術が行われた。これによって激しく争っていた首位打者レースは終わった。古葉は3割3分9厘のまま病院のベットの上でシーズン終了を迎え、長嶋が3割4分1厘でタイトルを獲得した。手術を前にして玲子夫人は報道陣に「主人は『千載一遇の好機だから死に物狂いで頑張る』と言っていたので本当に悔しがっていると思います。出来る事なら私が代わってあげたい…」と涙ながらに語った。

『古葉、死球で負傷退場』の知らせは長嶋の元にも届いた。ライバルのアクシデントに長嶋は困惑した表情で「終盤での怪我で古葉君がリタイアしたのは残念だ。古葉君に追い上げられて焦りを感じていた半面、非常な励みにもなっていた。実に寂しい」とコメントを出した。その日の翌日、病床の古葉のもとに一通の電報が届いた。「キミノキモチハワカル イチニチモハヤク ゲンキニナルコトヲイノルノミ キヨジングン ナガシマシゲオ」・・長嶋からのものだった。この事を契機に古葉は長嶋を生涯のライバルに見立てたようである。阪神の村山投手が天覧試合でサヨナラ本塁打を浴びてから長嶋を野球人生の宿敵に定めたように古葉もまた打倒長嶋を目標にした。「最高のバットマンと真剣勝負が出来た。今回の経験を生かしていつの日か恩返しをする時が来るまで頑張る」と心に誓った。

年が明けた昭和39年、古葉は名前を「竹識」に改名した。同時に玲子夫人も「久美子」と改めた。なぜ改名したのか、古葉は多くを語らないが恐らくはあの死球を契機に新しい自分を作りたかったのではと推察される。その願いは直ぐに叶えられ古葉は大怪我から不死鳥のように甦った。打率こそ前年を下回り悲願の首位打者のタイトルは嘗ての日鉄二瀬で同僚だった江藤慎一(中日)に譲ったが盗塁王に輝いた。昭和33年にプロ入りして以来、初の個人タイトルを獲得した。親交のある画家の成瀬数富氏は「彼は実に芯の強い人間。熊本生まれで肥後もっこすらしく頑固で信念を絶対に曲げない。長嶋さんに負けた悔しさを糧にして盗塁王になれたのでは」と語る。そう言えば古葉の座右の銘は『耐えて勝つ』だ。いかにも古葉らしい言葉ではないか。

その古葉が選手から監督へと立場を変えて再び長嶋と対峙する時が来た。昭和50年に川上監督の後継者として巨人を率いる長嶋、球団初の外人監督となったルーツ監督がシーズン途中に退団し急遽監督に就任した古葉。共に1年生監督で長嶋は昭和11年2月生まれ、古葉は同年4月生まれ。学年こそ長嶋が1つ上だが「僕と長嶋さんは同世代。どんな事があっても負けられない」と打倒長嶋を露わにした。結果は長嶋率いる巨人が開幕6試合目に最下位に落ちて以降一度も浮上する事無く低迷したのに対して広島は昭和25年の球団創設以来初のリーグ優勝を成し遂げ日本中に赤ヘルブームを巻き起こした。昭和50年10月15日、後楽園球場で古葉は長嶋の目の前で宙に舞った。「キモチハワカル…」あれから12年、古葉は見事に恩返しを果たした。「古葉は逆境に立てば立つほど強くなる。生まれ育った環境が今の彼を育てたのかもしれない」と地元の評論家は言う。

古葉は熊本市内でも目立った洋館3階建てのお屋敷で生まれた。父が経営する鋳物会社は大変繁盛し裕福な生活を送っていた。ところが戦後になると生活は一変する。会社は倒産し一家は豪華な洋館から六畳一間のあばら家に住む羽目になり、間もなく父が白血病で倒れ亡くなる。しかし降って湧いたような悲劇にも古葉は屈せず生き抜いた。「私はね辛い事、苦しい事を肥料にするのが上手いのかもしれんね。男の人生は一度や二度は死ぬような思いをしなければ一人前ではないという話を聞いた事があるが確かにそうだと思う。私は諦めるのが大嫌い。子供の頃からナニクソ、ナニクソと辛い事に耐えてきたんだ。それが血となり肉にとなっているように思うね」これは初優勝した後に古葉自身が語った言葉である。滅多に自分の幼少期の話をしない古葉が珍しく吐露した。苦しい事、辛い事を明日の糧に出来る男だからこそ現在の地位にいるとも言える。
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