面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

「王様とボク」

2012年09月30日 | 映画
18歳の誕生日を盛大に祝ってもらったミキヒコ(松坂桃李)。
その夜、恋人のキエ(二階堂ふみ)とも初めて結ばれるが、そうして少しずつ「大人」になっていくことに、ためらいと不安を感じていた。
ミキヒコはふと、6歳のときに不慮の事故で昏睡状態になり、いまだにそのまま眠り続けるモリオ(菅田将暉)のことを思い起こして涙ぐむ。
モリオを助けたいというミキヒコをキエは励まし、応援するが、小さいころにはモリオと3人で遊んでいた幼馴染のトモナリ(相葉裕樹)は、そんなことは無理だと素っ気無い。

ある日、眠り続けていたモリオが目覚めたというニュースが飛び込んだ。
喜び勇んで病院へと駆けつけたミキヒコとキエの前に現れたのは、身体は18歳に成長したものの、心は6歳のままのモリオだった。
子供の心をそのままに、無邪気に振る舞うモリオの様子に、ミキヒコは自分達の子供の頃に思いを巡らせ、一緒に過ごせなかった時間を取り戻すようにモリオにのめり込んでいく。

そして、自分がモリオを守らねばならないという思いに駆られたミキヒコは行動に出て…


1992年に発刊されたやまだないとの人気コミックを、「ブタがいた教室」の前田哲監督が映画化。
原作に触れて以来、映画化を温めて続けてきた前田監督が、東日本大震災を機に製作を熱望して実現に至っている。
そして、原作者との共同脚本により、原作よりもファンタジーの色を濃くし、発刊以来20年が経った作品に新たな解釈による今現在に即した新たなエンディングを用意した。


「大人になる」ということに対する抵抗感は、大なり小なり誰もが経験すること。
子供のまま“止まっている”モリオにのめり込んでいくミキヒコを見ていると、友人をダシに現実逃避を強めているだけにしか見えず、
「エエ加減、しっかりせぇよ!」
と、年寄り面して説教のひとつも垂れたくなってくる。
しかし映画を観終わってからハタと考えた。
今の若者が抱く「大人になる」ことへの不安は、我々の世代が抱いていた不安よりも相当大きいものではないだろうか。
単純にミキヒコの姿を見て説教している場合ではないのではないかという思いが湧きあがる。

自分が「大人になる」階段を上っているとき、鈍化してきていたとはいえ、まだまだ日本は成長段階にあった。
社会に出る頃はバブル期と重なり、就職することに対して何の不安もなく、将来の生活を悲観する要素は何も無かった。
翻って今現在。
一向に上向く気配の無い長引く不況の中、就職もままならず、就職しても会社の先行きさえも不透明感が漂っていて、自分の将来設計など描けない若者は増え続けている。
学生という身分を終えて社会に出ることに対する不安は、我々の想像をはるかに超えた大きさがあるのではないだろうか。
「エエ加減、大人にならんかい!」という叱責は、自分が「大人への階段」を登ったときの経験との比較から来る、加齢臭の如き質の悪い“年寄り臭さ”を纏った繰り言でしかないように思えてくる。
そんなやりきれない不安な毎日を送っていたミキヒコに、「モリオを守る」という強い責任感が生まれたことで世の中へ踏み出していこうとしてもがく姿は切なく、やり切れない思いが込み上げる。

一方、モリオは6歳の子供そのままの意識で、「大人になる」ことで出会えるだろう楽しいことに対してワクワクしている。
小学生の子供たちと一緒になって遊び、大人になったら「王様になる!」と高らかに宣言する。
「無邪気さ」は、人間が成長するためのエネルギーなのか。
「大人になる」に従って「無邪気さ」のエネルギーが消費され、成長していくことになるのかもしれない。
とすれば、「無邪気さ」を失わずにいれば、まだまだ成長できるということか♪
まだまだ自分の中にある「無邪気さ」を大切にせねば!
勝手に自分の幼稚さを転換させる自分もまた、モリオをダシに現実逃避しているだけか!?


青春映画の永遠のテーマであるイノセンス、「無邪気さ」は、これまで若者を傷つける要因となるものとして描かれていたのではなかっただろうか。
「無邪気さ」が成長に欠かせないエネルギーとして描かれるのは、「無邪気さ」以外に若者を傷つける要因が増え過ぎている今を表しているのかもしれない。

2012年の「今」だからこそ描かれる、ニュータイプ・青春映画。


王様とボク
2012年/日本  監督:前田哲
出演:菅田将暉、松坂桃李、相葉裕樹、二階堂ふみ、中河内雅貴、松田美由紀