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金本引退

2012年09月14日 | 野球
虎・金本引退、南社長から進退勧告受け決断(サンケイスポーツ) - goo ニュース



1985年の日本一の際、
「優勝するのは、なんと簡単なことか」
と思ったという久万オーナーの、素人考えというのはあまりにも稚拙な勘違いから始まった、その後の大低迷期。
優勝から遠ざかったばかりか、Aクラスさえ程遠い万年Bクラスの成績が続きに続いて、さすがに業を煮やした(遅いわ!)久万オーナーが、「監督はOBから」という根強い“内部昇格”の因習を打ち壊し、“外様”の、それも“劇薬”だったノムさんを監督に招いて始まったチーム改革。
3年連続最下位の後、自らの目で選んだ選手たちを獲得してそろえて、「さあ、これから!」というところで、妻のスキャンダルで球団を去ることになったノムさんの意見を入れて、星野監督を招聘したことでチームの変革に拍車がかかった。
2002年を経て、当時の若手が頭角を現し始めた中で星野流の大型補強を導入し、星野の“男気”で金本を獲得すると、チーム改革はイッキに実を結び、18年ぶりの優勝を勝ち取った。
体調不良をきっかけに星野が監督を岡田に禅譲すると、岡田は金本をチームの中心に位置付けて4番を任せ、2005年の優勝へと突き進んだ。

その後も、もはやカープにいたことなど記憶の彼方へと消え去ってしまうような活躍と存在感で、金本がチームを引っ張り続けたことで、常に優勝争いに絡むAクラスチームへと変貌を遂げることができたタイガース。
しかし2008年、“まさかの大逆転”で優勝を逃した岡田が去ってから、暗雲が立ち込め始める。
そして、今となっては大きなターニングポイントとなった、2010年の開幕前のオープン戦。
試合前の練習で若手選手とぶつかった金本は、後に肩の筋肉が断裂していたことが分かる程の重傷を負ってしまう。
そして忘れもしない4月18日の横浜スタジアム、ついに連続フルイニング出場が途絶えた。
ここからの金本の苦悩は、記者会見で彼自身が語った通りである。

公の場で決して涙を見せることのない金本が流した涙について、広島時代にまだ若手だった金本を徹底的に鍛えた大下氏は凡そこう語った。
「本人は来年に勝負をかけるつもりだったのに、タイガース成績不振の詰め腹を切らされた。よほど無念の思いがあったのだろう。」
まだまだやるつもりだった金本に対して、球団フロントから「辞めろ」と無理やり辞めさせられたかのようなニュアンスで、何やら不穏な空気が感じられた。
しかし、他紙を読みこんでいくと、決して昔のタイガースに見られたような“オドロオドロしい”ものではなかった。
南球団社長は金本と話し合いをもったという。
「自分の進退を含めて、しっかり考えてみたらどうか。」
社長からの投げかけに、来年も続行を決めていたという金本は抵抗したとか。
若手にはまだまだ負けないという金本に対して、
「今の若手と比較してどうする。そんなレベルの選手ではない。」
と言ったとも。
球団社長は、讀賣における王や長島と同等の選手として金本を評価しているが、同時に彼らのような引き際を望んでいたのではないだろうか。
金本自身も「惨めだった」と語っていたこの3年間、南社長はそんな姿を見ることに耐えられなかったのだろう。
代打での出場しか機会が与えられない、あるいは2軍落ちすることも覚悟しておいてもらいたいが、長島や王が2軍に行くだろうか?と金本に説いたという南社長の思いは、Aクラスのチームに返り咲いたタイガースにおける最大の功労者である金本には、現役にしがみつくような姿を見せてほしくなかったに違いない。
ただ、あくまでも本人の意思を尊重したかった南社長は、急ぐことはないのでじっくり考えるよう促した。
そして10日間にわたる熟考の末、金本は引退の結論を導き出したのである。

南社長は、金本に引導を渡すという、誰もがやりたがらないであろう、しかし非情な重責を全うしたようだ。
過去のタイガースのフロント陣には決して見られなかった、「責任」を持った対応をしたという点において評価したい。
これ以上現役を続けても、チームは若手中心へとシフトしていくのであり、さすがに力の衰えは隠せない金本に対して、例え金本といえども優先的に活躍の場を与えることはできないという、これからのチーム運営に臨む態度を明確にした宣言であると解釈する。
そこに一縷の望みを託し、タイガースのこれからのために「泣いて馬謖を斬」ったと理解して、金本の引退を受け入れることにする…