指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

完全試合を見た人

2022年04月11日 | 野球

ロッテの佐々木投手が完全試合をしたそうだ。

昨日は、用があって東京に行っていたので、阪神の試合を見なかったが、家にいれば阪神ではなく、ロッテの試合を見たと思い、実に残念なことだ。

完全試合など、そうあるものではなく、また私の記憶では、完全試合を食らったチームは優勝していないと思う。

その意味では、オリックスの今年の優勝はないことになる。

 

                     

さて、日本のプロ野球での最初の完全試合は、藤本英雄投手である。

1950年6月で、巨人と西日本戦で、青森市営球場で行なわれた。

ただ、これの写真はなく、誰も当時は問題とされた記録ではなかったのだ。

これを見た人に、寺山修司がいて、本に書いてあった。

ただ、寺山は野球が好きではなく、その理由は「野球はホームに帰るスポーツだから」とのこと。

家出の勧めを書いた詩人の言葉である。

この次は、阪神との交流戦でもう一度完全試合かノーヒット・ノーランをやってほしいと思う。

因みに、藤本は、晩年は日本テレビの解説をやっていたが、中上英雄の名だった。


住友倉庫のすごさ

2022年04月11日 | 横浜

西武の悪口を書いたので、同様に住友倉庫のすごさについても書くことにする。

YCCがあった新山下の土地は埋立てられて。本牧A埠頭と一緒になって、そこに小さいが住友倉庫のコンテナヤードがあった。

そして、その用地の中に首都高のベイブリッジの橋脚が立つことになり、本来なら首都高がやるべきだが、これもなぜか港湾局が住友と交渉することになっていた。

要は、柱が立つのだが、それにつれてゲートの場所の変更、塀の新設などいろいろあった。

 

                                                         

それを交渉するのだが、いちいち大阪の本社に聞くと言うのだ。

こっちは、担当と係長の私だけで大体決めていて、結局最後に課長の了解を得るようになっていた。

交渉の途中で、本社の了解を取ると言うので、非常に驚いた。

「100万円を超える交渉は、全部本社決済なのですから」と言っていた。

さすがにケチで知られる住友と思ったものだ。

 


『時計屋さんの昭和日記』

2022年04月10日 | 横浜

横浜都市発展記念館に行くのは、たぶん二度目で、今回は「激震、鉄道を襲う」展を見に行くためだ。

正直に言って、「ああ、大変だったろうなあ」と思えるしかない。

私たちは、その後の大震災を体験しているからだ。

 

                                                           

受付で、販売資料を見ていたら、この2015年の展示の資料があったので、買う。

これが、実に面白い。

日記そのものは、あまり載っていないが、この時計屋さんの下平博凞(しもだいらひろき)と言う人の軌跡が昭和そのものなのだ。

1930年1月、13歳の下平少年は、長野県伊那郡から磯子区西町の谷崎時計店(やざき)に来る。

伊那郡の村では、養蚕が盛んだったが、1929年の大恐慌で、アメリカ向けの生糸輸出が激減し、農家の子女は、都会に働きに出されたのだ。

ニュースフィルムだと少女が身売りする映像が出てくるが、少年も同様だったわけだ。

この時計店の主人も実は、伊那の出身で、店には伊那から来た少年も他にいたとのこと。

これは、生糸を介した伊那と横浜の関係があったのだと思われる。

住み込みの店員として、時計の修理のほか、お客だった関内の税関、県庁、民間企業等にも御用聞きに行かされる。自転車で行くために、自転車の練習もさせられたとのことだ。

そして、尋常小学校でも成績良好だった下平少年は、早稲田大学の通信教育を受けている。

当時、公教育が不備だった当時は、高等教育の講習録や通信教育が盛んだったのだ。

かの創価学会も、戦前はテスト屋や私塾のようなことをやっていた。だから、創価教育学会という名称だったのだ。

20歳になり、故郷に戻って徴兵検査を受けるが、第一乙だった。小柄だったからで、すぐには召集は受けない。

1935年には、横浜で復興博覧会が行なわれるなど、モダン都市横浜の賑わいがあり、下平青年もそれなりに享受したようだ。

だが、日中戦争となり、1939年4月に召集令状を受け、相模原の通信連隊に行くがなんと即日帰郷。

脚気だった。徳川時代と同様の「江戸わずらい」、ビタミンB1欠乏症で、谷崎時計店では、きちんと白米を食べさせていたのだろう。

一方、彼の故郷の伊那谷では、満州移民が行なわれていて、1945年10月に、父準太郎は、これに応じて一家をあげて満州に行く。もともと、小作人だったからだ。

彼らは、満州の東北部で、ハルピンからさらに先の太古洞というところに移民した。

因みに、下平博凞は、12人兄弟だった。昔、左幸子主演で『母ちゃんと11人の子供』という映画があったが、よくあったことなのだ。

横浜の空襲と戦後の敗戦。

1944年3月に、彼は召集を受けていて、中国に行っていて、1946年に日本に戻ってきて、再び谷崎時計店で働く。

そして、1948年、彼は自分の店を根岸の対岸の滝頭に開くことができ、3年後には見合い結婚し、3人の子を持つことになる。

1946年には、博凞は、父母と妹が帰郷の最中に病死したことを知る。栄養不足からくるものだった。

戦後の横浜では、米軍の進駐、根岸湾の埋立、根岸線磯子駅の開通などがあり、新幹線ができ、東京オリンピックも行なわれる。

次第に時計の修理の仕事は減るが、それでも店に出ていて、1994年動脈留破裂で、店の中で死ぬ。76歳だった。

長男の修嗣によれば、「父は酒もタバコも飲まず、賭け事も嫌いの石部金吉で、新聞を読むのが好きで、なんでも取っておく人だった」とのこと。

ここには、昭和の日本を作り支えた無名の人の記録がある。

よく、バスや地下鉄に乗っていると、かなり強い方言で会話している高齢者に会う。

『こういう人たちが横浜を作ってきたのだな」と思うことがあるが、これはまさにその例だろう。

きわめて優れた企画だったと思う。

 

 


市大病院は、山下埠頭に移転を

2022年04月09日 | 横浜

金沢の横浜市大病院の移転先として、根岸の住宅地区が検討されているとのことだ。

私は、これに反対であり、市大病院は、例のIRがなくなった山下埠頭に整備するのが良いと思う。

私の知る限り、根岸の住宅地区で、横浜市の土地はゼロのはずで、ここに市大病院を整備するには、多大な用地費が必要である。しかも、あの高台に病人を行かせるのは問題である。バスのほか、新交通システムでも作るのだろうかね。

                                                   

 

その点、山下埠頭は、以前に港湾局長に聞いたところでは、かなり土地を取得しているので、用地費はほとんどいらない。

海辺の病院というのは、あまりないが、今後の市民の健康促進としてはよいのではないかと思う。

そして、市立病院を核に、特養、介護施設、民間特養ホームなどを配置して、エリア全体を「健康の町」とすれば良いと思うのだ。

その外延の埠頭の岸壁には、ヨット、ボートなどの海洋性レジャー施設も整備しても良いと思う。

「海辺の健康の町」

こんなキャチフレーズで民間会社と一緒にやってはどうだろうかと思う。

 


200万円で売った土地を60億円で買い戻す

2022年04月08日 | 横浜

金沢の西武のゴルフ練習場と新杉田駅前の石川島建機の土地が売却されたというので横浜シーサイドラインで上から見てるみる。

どちらも完全な更地になっている。

 

                    

石川島の土地は、たぶん戦前に県が埋立てた土地だと思うが、金沢の福浦の土地は、元は横浜市が埋立権を持っていたが、戦後売却して、ある経緯があって埋立地のゴルフ練習場等になったものなのだ。

1950年代以降、新杉田の昔は西武のゴルフ練習場等があった場所は、実は横浜市が埋立権を持っていて、埋立工事をやっていたところだった。

ところが、当時は磯子も、本牧も埋立ててはできておらず、横浜港の波は激しくて、何度かの台風で護岸が壊されたので横浜市は、工事は止めて、その権利をある財団に売却したのだ。

その時の価格は、200万円だとのこと。

それは、横浜なんとか財団で、モーターボート場ほか、海上レジャー基地を整備すると言うもので、横浜国際劇場を建てた桑島のところだった。

だが、横浜国際劇場のほか、野毛の横浜迎賓館などを作って全盛だった桑島も、次第に不振となり、ついには倒産してしまい、すべてを西武に売ってしまった。

そして、西武は、新杉田駅前に、ゴルフ練習場、自動車教習所、さらに西武農園の店をやっていた。

そこに、1980年代に、高速道路と国道357号線が入ることになり、なぜかその買収業務を横浜市港湾局がすることになり、私が係長で担当し、約60億円で買った。

200万円で売ったものを60億円で買ったわけだ。

そして、その金で西武は、福浦にゴルフ練習場等を作ったわけだ。

パシフィコ横浜にいたとき、財政局の担当者だった岡本坦さんに聞いてみた。

すると、

「12月に出す職員のボーナスの金がなかったので、売ったんだよ」

1960年代の経済の高度成長が始まるまで、横浜市も大変だったんだなあと思ったものだ。

 

 


YCCとYYC

2022年04月08日 | 横浜

横浜には、二つのヨットのクラブがある。

YCCとYYCで、横浜クルージンブクラブと横浜ヨットクラブ(協会)である。

YCCは、新山下の貯木場の近くにあり、岡本造船所の隣で、サスペンスドラマの背景としてよく出てくる。

 

                                                                               

YYCは、磯子にあり、ここは明治時代に横浜に居留していた外国人によって作られたもので、これも元は新山下の貯木場の脇にあった。

その姿は、篠田正浩の映画『涙を、獅子の立髪に』に外人のヨットクラブとして出てくる。

当時は、まだ貯木場も使われていて、その水面に死体が浮いているシーンもある。

その周辺には、学連ヨットクラブという、首都圏の大学のヨットクラブの施設もあり、建築家の長谷川逸子先生も大学時代に通ったことがあると言っていた。

この学連クラブは、1964年のオリンピックのとき、江ノ島に移転した。

一方、YCCの前面の海域は、本牧ふ頭の埋立が進行していった。

そこで彼らは、自主的に新山下から磯子に移転した。

私が港湾局にいたのだから、1980年代だと思うが、背の高い男が、勢いよく港湾局長室に飛び込んで行った。

それは、ケン・田島こと漆原一郎氏で、当時YCCの代表だった。

要望は、新山下から磯子への移転に関して我々は、なにも金銭的補償を受けていないのだから、何かよこせというものだった。

これについては、港湾局も財政局も非常に困っていた。

YCCの陸上部分は、どこからか借りていたのだろうが、使用していた海上部分は、水域占用という許可だったからだ。

水域占用というのは、1年ごとの使用許可で、終了しても補償はないからだ。

どうにも補償する理由はなにのだが、そんなことは百も承知で出して来たのだと思う。

結果は、私の知る限り、横浜市が補償したことはないと思う。

 

 

 


入学式に見る3大学の違い

2022年04月08日 | 横浜

パシフィコ横浜にいるとき、市内の3大学が入学式をやったのを見たことがある。

 

                 

横浜国立大学、神奈川大学、そして関東学院大学。

ただ、見ただけなので、正しいかどうかはもちろん分らない。

一番派手というか、はなやかだったのは、関東学院で、女性が多いのもその理由だろうと思う。

逆に一番真面目そうと言うか、黒っぽかったのは、横浜国立大学で、神奈川大学はその中間という感じだった。

そして、見ていて、どの大学も地方からの学生が多いなあと思ったものだ。

あこがれの首都圏に来て、海の見える横浜の会場で入学式を迎えられるのは、きっとうれしいことだろうなと思ったものだ。

入学はゴールではなく、ただの始まりにすぎないのだけどね。


佐藤忠男さんからお聞きしたこと

2022年04月07日 | 映画

佐藤忠男さんとは、3年前の小津安二郎ネットワークでもお会いしたことがある。

その時、小津の『生まれてはみたけれど』の評価は、一般に高かったが、一人だけ評価しない人がいたと言っていた。

それは、双葉十三郎さんで、

                    

「サラリーマンの世界はあんなもんじゃないよ」と言っていたそうだ。

双葉さんは、サラリーマン生活を送ったこともあるからだろうと言っていた。

たしかに、あの『生まれてはみたけれど』のサラリーマンの卑屈さは、小津がいた松竹のことかもしれない。

松竹は、大谷と白井の同族会社で、ああいう卑屈なこともあったのかもしれないと思う。


『春の鐘』

2022年04月06日 | 映画

20代のとき、一番好きな監督だったのは、蔵原惟繕だった。『憎いアンちくしょう』『銀座の恋の物語』『何か面白いことないか』などで、凄いのはこれらが皆日活の通常の娯楽作として作られていたことだ。

彼の作品に疑問を持ったのは、1975年に三軒茶屋中央劇場で『雨のアムステルダム』を見たときで、これには本当にがっかりした。萩原健一が騒いでいるだけで、実につまらないと思ったものだ。

 

                                                               

1985年のこれも、それほどひどくはないが、売り物が古手川祐子の裸しかないのだから、大いに泣けてくる。

まあ、古手川や三田佳子、加賀まり子らをきれいに撮ろうとしていることは認められるが。

北大路欽也や三田佳子らの演技が非常におさえて淡々としているので、どこにも劇的な盛上がりがない。

あるのは、最後に三田が、北大路と古手川の隠れ家に乗り込んで来て、狂気的に北大路と自分を包丁で刺すところだけ。

着物と陶器類がすごいが、まさしくバブル時代と思える。藤田敏八が富豪、中尾彬がこれまた金持ちの医者として出てくるのも、実にバブル的。

日本映画専門チャンネル

 

 


ラジオ関東について

2022年04月06日 | その他

大学に入って驚いたことの一つに、みなラジオ関東を知らないことだった。

地方の人間はともかく、東京の人もよく知らないのだ。

ラジオ関東の送信所は、多摩川の川崎側の多摩川大橋の近くにあったので、東京でも南部の池上では強力な電波で入っていたのだ。

                                         

そこでは、『ポート・ジョッキー』などの番組があり、「港が見える云々」を言っていて、横浜の高台にあるように見せていたのだ。

だが、それは建前上のことで、実際はほとんど港区麻布台で制作されていた。

開局の際の競争で、神奈川県の放送局とのことで、河野一郎の力でできたので、横浜から放送しているとの建前が必要だったのだ。

だが、実際は麻布台で作られていたそうで、当時の放送作家には、向田邦子や五木寛之などもいたそうだ。

私の知合いの音楽評論家も、学生時代にラジオ関東でアルバイトをしていたそうだが、麻布台だったそうだ。

また、私は、1980年代に横浜市会の議長秘書となり、マスコミ挨拶の一環で野毛の本社に行った。

そこには、放置された古い放送機材があるだけで、いるのも高齢の留守番の夫婦だけだで、非常に驚いたものだ。

そこで、1990年代に中区長者町に本社を作ることになったが、これは横浜市の外郭から取得したものだが、これも問題ありだった。

理由は簡単で、ビルの大部分が他社が入っていて、自社ビルではなく、貸しビルになっていたからだ。

若竹さんは、細郷道一横浜も「困ったものだ」と言っていたとのことだ。

 


ラジオ関東の深夜放送

2022年04月05日 | その他

文化放送と同じように、ラジオ関東も深夜放送をやっていた。

 

                                     

12時からは、なんだっかは憶えていないが、12時半からはDJで、季節によって替る番組だった。

ここでは、中村とうようさんは、『ラテン・タイム』をやっていたので、私はずっと中村とうようさんは、ラテンの人だと思い込んでいた。

それは季節番組で、夏はハワインという具合だった。

そして、15分間のが終わると、チコ・ハミルトンの曲が流れ、

本多俊夫の『ミッド・ナイト・ジャズ』が始まるのだ。

1960年代当時、日本の都市ではモダンジャズが大流行で、石原慎太郎や大江健三郎はもとより、井上光晴、倉橋由美子らもジャズに興味を持っていたと言うのだから本当に笑える。

モダンジャズは、今や第二クラシックなのだそうだ。

 


ウィーンの日本料理店

2022年04月05日 | その他

もう30年以上前だが、ウィーンに行ったことがある。

1991年夏に横浜で行なわれた国連ピ-スメッセンジャー会議の参加を依頼するために、欧州の各都市を廻ったのだ。

ローマ、フィレンチェ、ウィーン、マドリッド、そしてリスボンである。

リスボンでは、三島由紀夫の弟の平岡大使にお会いした。

小柄で、当然だが三島によく似た方で、カンラカラカラと笑うところも同じだった。

と言って三島由紀夫に会ったことはないが。

そして、ウィーンで日本料理店があると言うので、行ってみた。

同行してくれたのは、当時横浜市のハンブルグ事務所にいた新井成一さんである。

その日本料理店だが、何を食べたか憶えていないが、そうまずくはなかった。

だが、日本の他、中華、そして韓国料理もメニューに載っているのだった。

まあ、そんなものだろう、欧州のアジアなど。

 

                                           

ウィーンではもう一つ、国立歌劇場でオペラを見た。

リヒアルト・シュトラウスの『サロメ』だったが、最後ヘロデの前で踊るときは、女性歌手はダンサーと入れ替わった。

太ったサロメではまずいとの事だったと思う。


『白井権八』

2022年04月04日 | 映画

昔、宝塚映画という会社があった。東宝系で、小津安二郎の『小早川家の秋』なども作ったが、これは五社協定外だったので、他社のスタッフ、キャストを使えたのだ。

もう一つ意味があり、東宝系で時代劇を公開することで、関西の時代劇スタッフを使って時代劇を作ることだった。

                                                                   

監督は、大映の安田公義で、この人は地味だが、稲垣浩の弟子で、抒情的な作風がよかった。

最初に驚いたのは、川崎の映画館に内藤洋子の映画を見に行ったときで、『殺人者』には非常に驚いたものだ。

ここでは、権八の中村扇雀は、因幡の藩の作事奉行・高田稔の息子で、河川改修で、悪家老杉山昌作九の農民弾圧に反対して、運河開削を主張する。扇雀の恋人は言うまでもなく扇千景先生である。

だが、藩主には通らず、農民の窮状との板挟みで、自害してしまう。

扇雀は、田畑の溜池化の工事に従事するが、その中で杉山が、母親の市川春代を陵辱したことから、杉山を殺して江戸に逃亡する。もともと、杉山は市川が好きだったが、高田に取られたことを恨んでの行為なのだ。

江戸に出てくると、絹問屋の娘中村玉緒と知り合い、さらに遊女の岡田茉莉子にも惚れられる。

杉山の弟の徳大寺伸が仇討ちの許可を得て追いかけて来て、扇雀は町方に捕まり、縛り首とされる。

その時、牢屋に友人の沖涼太郎が来て、杉山の悪事が暴かれ、捕まったことを言う。

扇雀は、慫慂として裸馬に乗って刑場に向かうが、その時江戸に来ていた扇千景は、その場で小柄で自害してしまう。

贔屓の安田にしては、いまいちだが、さすがに時代劇の定石はきちんと踏まえられている作品だった。

衛星劇場

 

 

 


三原の法則では

2022年04月01日 | 野球

巨人、西鉄、太洋、近鉄、ヤクルトで監督をし、西鉄と太洋で日本一になった人に三原脩がいる。

 

                    

彼によれば、ゲーム差を回復するには、それに10を掛けた試合数が必要だとのことだ。

つまり、1ゲーム差を追いつくには10ゲーム必要だとのことで、実際にそんなものである。

阪神が今日も負けて、広島とは6ゲーム差なので、これを回復するには60ゲーム必要となる。

そうなると、もう前半戦は無理となる。

矢野は、今年で監督を辞めると2月に言ったが、4月中には辞める可能性も出てきたようだ。