指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

3月は、31日では終わらないんです・・・

2024年03月10日 | 横浜

「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、

1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。

1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、

「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、

驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、

「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。

その度胸には、大変に驚いたものだ。

              

正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。

当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたのだ。

その後、すべてがPC化されたので、今はこんなことはできないのだろうが。

ともかく荒木田さんの度胸には驚いたものだ。

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40年前の「贅沢三昧」

2024年03月04日 | 横浜

東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。

懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。

         

それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。

パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。

そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。

店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。

私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。

この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。

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佐久間健治さん、死去

2024年02月16日 | 横浜

いろいろな方の訃報が伝えられるが、先日、佐久間健治さん死去の報が息子さんから葉書で来た。91歳。

              

佐久間健治さんは、日本のコンケンション事業の第一人者であり、パシフィコ横浜の営業部長として、また横浜コンベンションビューローの常務として、私が長年にわたりお世話になった方だった。

佐久間健治さんは、高校までは山形県で、上京して早稲田大学文学部に入ると共に、東京税関に勤務された。

税関では、当時の日本の国際空港である羽田空港に勤務したほか、芝浦にあった輸入映画の保税倉庫に勤務したこともあったそうだ。

羽田空港では、「滑走路で相撲を取ったりして遊んだものだ」と言っておられたが、まだのんびりした時代だったわけだ。

だが、もともと海外で仕事をしたいという意欲があったので、1964年の東京オリンピックを契機に(特)国際観光振興会が設立されると応募して合格し、アメリカに赴任された。

アメリカでは、日本紹介の16ミリフィルムと映写機を積んで全米を飛びまわったそうだ。

そして、日本に戻られると、コンベンション事業の日本の第一人者として、日本での振興にまい進され、当時、パシフィコ横浜を拠点として横浜でコンベンション事業の展開を企画されていた、横浜市都市計画局担当部長の岡本坦氏と会い、横浜に迎えられた。

佐久間さんで、偉いと思うのは、自身が日本の第一人であるのに、

「日本にコンベンションの専門家なんていません。だから何をやってもいいのです」

とわれわれをいつも励ましてくれたことだ。

ウォーマッド横浜ができたのも、この佐久間さんと、同時に岡本坦さんの度量の大きさ、なんでも許してくれる器量だったと思う。

また、パシフィコ横浜でも、コンベンションビューローでも、私は佐久間さんの下でなんども新入職員の採用試験をやったが、女性に対して聞くことはいつも同じだった。

「あなたは、結婚して子供ができても、この仕事を続けますか」だった。

実に、女性に対しても公平なフェミニストだったと思う。

多くのことを教えられた先輩のご冥福を心からお祈りする。

 

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市大病院は、やはり山下ふ頭に整備を

2024年02月12日 | 横浜

先週、用があって南区浦舟町の横浜市大センター病院に行った。

15年ぶりくらいだったが、その混雑に驚く。

横浜の市大病院と医学部は、もともとこの地にあったのだが、拡幅するために金沢の埋め立て地の福浦に移転させた。

だが、やはり金沢区では不便で、シーサイドラインを使かわないといけないので、次第に浦舟のセンター病院に戻って来ているようで、大混雑になっているのだ。

先日、発表された市大病院と医学部の移転整備計画では、さすがに医学部は、根岸の旧米軍住宅地区に整備するが、病院は、浦舟のセンター病院に作るのだそうだ。

センター病院の西側に緑地と駐車場用地があるので、そこに作るのだろうか。

            

それはいいとしても、やはり根本的には、山下ふ頭地区に、市大病院と医学部を整備するのが最上の作ではないかと思った。

そして、医学等の研究施設、先端技術企業等も誘致すれば良いのではないかと思うのだ。

もともと、市大病院を金沢区福浦に移転させたのは、シーサイドラインの乗降増加のためで、これは神戸のニュートラムも、最大の利用者は、神戸の市民病院の利用者であることにならった策だったので、市大病院は、どこでも良かったのであるのだから。

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これが東京の味だろう

2024年01月31日 | 横浜

用があって南区の横浜橋に行ったので、江戸藤に入る。

       

かなり有名な蕎麦屋である。

鴨せいろを食べるが、汁がかなり濃い。

だが、これが、東京や横浜の昔の蕎麦屋の味だと思った。

今は、すべて薄味になっているが、これがもともとの味だと思った。

       

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山下ふ頭には、中劇場と野外音楽堂を

2024年01月26日 | 横浜

横浜の山下ふ頭の再開発が話題となっているが、私はここに「中劇場」と「野外音楽堂」を作るべきと考えている。

               

実は、その運営にいろいろと意見はあるだろうが、現在、横浜市ではかなり文化施設は整備されてきている。

中で、完全にないのが野外音楽堂であり、実はこれは、日比谷野音のように、横浜公園に昭和初期から1990年代まであったのだ。

そこでは、外国のミュージシャンの公演も行われており、サルサのファニア・オールスターズのライブも行われたそうだ。

だが、公園内の平和球場を改築して横浜スタジアムを作る時に、建蔽率が足りないとのことで、有無を言わさずに壊されてしまったのだ。

そこで、再開発が計画されている山下ふ頭の基部に整備するのが良いと私は思う。

また、基部の反対側の山下公園側には、横浜ボートシアターが接岸しているが、私はこれを包み込む中劇場を整備するのが良いと思う。

横浜ボートシアターでは、せいぜい客席は100人なので、経営的に成立しない。

そこで、ここの甲板を劇場のステージにして、それを包含する600人くらいの中劇場を作って一体的に運営するのが良いと思うのだ。

600人と言うのは、先例があり、宝塚には大劇場の他に、座席600人のバウホールというのが付設されていて、二番手スター等の若手公演に使用されている。

そして、中劇場で芝居をする時には、主人公らの内面の独白のシーンだけは、下のボートシアターで演じさせて、それを映像で中劇場でも見る、と言った演出も可能だと思うのだ。

東京にも、大・中・小の劇場が混合した劇場があるが、個々別々に運営されており、一体的に運営されるのを見たことがない。

また、中劇場のホリゾントは、上下できるようにしておき、ラストシーンでは、かつての唐十郎の状況劇場のように、幕を上げて、海辺に去っていくヒロインらを見おくる、と言った具合にすればよいと思う。

あるいは、夏の花火大会とときは、席を有料で販売して鑑賞すると言ったことも可能だと思うのです。

いかがでしょうか。

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東神奈川時代の市庁舎

2024年01月20日 | 横浜

1972年に、横浜市役所に私が入ったとき、まだ東神奈川の庁舎にいたという人が多くいた。

「夏になると暑いので、守屋のおっさんが市場から氷を買ってきて、議場に立てたんだよ」

と次長の有坂さんが言っていた。

守屋のおっさんとは、守衛さんの親分で、この守衛さんにはいろいろな人がいた。

あるとき、私が市会事務局の旅行会の幹事になり、どこかに行った。

すると、守衛さんの一人が喧嘩を始めて、倒れて額から血を流しているのだ。

幹事長の課長に報告して聞くと、「酔ってけんかしたのだから、醒めれば治る」とのことで、その通りだった。

おそらくは、運転手の誰かと喧嘩したのだと思うが、この運転手と守衛は非常に仲が悪かったのである。

どちらも、事務職と違い、さまざまな経緯で市会に入った人たちだったので、いろいろな思いがあったのだと思う。

この喧嘩をしたおじさんは、元は大工とのことで、器用にいろんなところを修理していた。

           

東神奈川から関内に横浜市役所は、1958年に移転し、今は桜木町駅前に移転している。

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斎藤龍助役

2024年01月10日 | 横浜

元高秀秀信市長時代に、助役となった方に、女性の音楽学者の斎藤龍さんがいた。

この人には、著書として『横浜・大正・洋楽ロマン』があり、読むと仰天したことがある。

当時は、私も市職員だったので、自重してなにも書かなかったが、どんでもない間違いがあるのだ。

それは、幕末のアメリカのペリーが横浜等に来航したとき、その楽団の楽器にギターがあったと書いてあることだった。同書11ページにこう書かれている。

「ミンストレル・ショウは・・・タンバリン、バンジョー、バイオリン、ギター、フルート、ボーンズ(打楽器)と言った楽器で演奏しながら・・・」

だが、「幕末のアメリカにギターがあったはずはない」のだ。

ギターは、アラブのリュートが起源で、それが中世にスペインに渡り、ギターになったのだ。

だから、アメリカ大陸には、カリブ海地方から入ったので、アメリカの民衆音楽の楽器になったのは、19世紀末になってからなので、日本の幕末に来たペリー楽団にあったはずはないのだ。

それは、日本側の記録では「黒奴踊り」とされていて、今日的に言えば、ミンストレル・ショーである。

           

では、なぜ斎藤さんの間違えるような楽器があったのだろうか。

それは、バイオリンである。カントリーなどに知識のある方なら分かるだろうが、バイオリン、実はフィドルである。

バイオリンはクラシックでは、まずは肩と顎に挟んで演奏される。

だが、ポピュラー音楽では、横にして膝にのせリズム楽器として弾くこともあるのだ。

この程度のことも知らないで、「音楽学者」とは非常に驚いたものだ。

今は、斎藤龍さんも、私も普通の市民なので、ここに書く次第である。

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有山睦夫先生は

2024年01月09日 | 横浜

高秀秀信市長など、有名な方以外でも、記憶に残る人はいる。

その一人が、34代目の横浜市会副議長の有山睦夫さんである。

社会党で、戸塚区から出ていて、元は重電機メーカーの東洋電機だった。

            

この人は、短足胴長、禿げ親父で、中年太りの典型だったが、女性にはもてて、私は聞いたことはないが、「千人斬り」を自称していたそうだ。

ただ、井上市会事務局長は、「全部玄人、金だろう」と軽蔑していたが。

ともかく酒が好きで、そして宴会で歌を歌うことがもっと好きだった。

なにしろ、喉が閉まるからというので、午後はほとんど水分を取らないのだからすごい。

唄う歌は、八代亜紀のものが多かったと思う。

当時のことで、8トラックカラオケだったので、いつも頭出しに苦労させられたものだ。

8トラックカラオケなど、もう憶えている人も少ないだろうが、カーステレオの8トラックテープを改良したもので、これで30曲くらいが入るようになっていた。

ただ、各曲の頭出しが難しくて、きちんとその曲に当らないことが多かった。

すぐにLPレコードからレーザーディスクカラオケになり、映像も付くので、この時代は長かったようだ。

だが、レーザーデイスクカラオケは、機材も盤も高かったので、次第に配信カラオケに代わった。

その頃だったと思うが、有山先生に連れられて、福富町のクラブに行ったことがある。

そこは、外人女性がいる、そうした店だった。

もちろん、私は払っていず、たぶん有山先生も払っていないと思われ、料金を払ったのは、同行したどこかの局の部長だと思う。

おそらくは、その局に重要な議案があり、それを議会で通すための対応だったと思うのだ。

「社会党が、こんなことで良いのか」と思ったものだが、当時の横浜の日本社会党の議員や幹部には、そうした人もいたのである。

さて、有山先生の「悪口」を書いたが、良いことも書いておく。

それは、横浜市とルーマニアの港湾都市のコンスタンツア市とは姉妹都市だったが、その友好委員会の委員長だったことである。

どのような経緯で委員長になったかは知らないが、誰か地元の人との関係ではないかと思っている。

もう一つ、傑作だったのは、副議長車を、日産からとトヨタ車に代えてしまったことだ。

「日産、イコール民社党だから・・・」と言うのが理由だったが、財政局は総務部長が来て、懇願したが、結局トヨタにしてしまった。

私は、日産車は車高が高く、短足の先生は嫌いだったのではないかと思うのだ。

有山先生も、もう亡くなられている。

 

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高秀元市長の奥さんは

2024年01月08日 | 横浜

私は、高秀秀信元横浜市長とは、ほとんんど関係がなかった。

あったのは、二つだけで、

「横浜市で、サミットをやりたいと、渡辺美智雄外務大臣に言われたので、パシフィコ横浜で可能か、調べてくれ」と言われた時だった。これは、若竹馨さん、長田徹也さんの3人で、直前に行われたカナダのトロントサミットを調査に行くことになった。

              

もう一つも、国際室にいたときで、韓国総領事に招待されて、臨時領事館に、高秀市長夫妻に国際室長に隋行こうして行った時だった。

そこで、いただいた韓国料理は非常に美味しかったが、一番憶えているのは、

高秀市長が「家では、おしんこを作ってくれないので、食べらいんだよ」と言ったことだった。

奥さんは、かつて「頭が真っ白になった・・・」発言で有名になった大阪の某料亭の方の妹さんなのだ。

高秀さんが、大阪府の副知事をやっているときに、結婚されたようだ。

まるで人身御供みたいなことが、当時日本の地方では行われていたのだなあと思ったものだ。

そのように、高秀さんは、小津安二郎的に言えば、

「昼間しかって、夜拝み」の逆のごとき、奥さんに頭の上がらない小心な人だったと私は思う。

それが、バブル時代に過大な投資をしなかった彼の良さでもあったと思うのですが。

 

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「汽車道の前名は・・・」

2023年12月22日 | 横浜

横浜の桜木町駅から、みなとみらい新港地区に行く道に、汽車道があるが、その前名は、ウィンナーだった。

言うまでもなく、ウィナーソーセージのようにつながっていたからだ。

そして、よく見ると、鉄路跡は、道路の真ん中ではなく、海側に寄った位置にあることがわかる。

             

これは、この鉄路から下に停泊している艀に「艀落とし」で、荷役をしていたからで、主に石炭等を荷役していたと記憶している。

だから雨に濡れないように、上には大きな木造の屋根がついていたのだ。

汽車道を作る時に、屋根は撤去してしまったが、あっても良かったと思うのは、私だけだろうか。

 

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旧根岸競馬場について

2023年12月02日 | 横浜

朝日の夕刊に、旧根岸競馬場の馬見所等について特集されていた。

それは、それで良いが、この辺に「横浜市大病院が整備される計画もある」と書かれていた。

実に、余計なことである。

             

私の知る限り、このエリアに横浜市の所有地は、まつたくないはずであり、いったいどうやってそこに病院を建てるのだろうか。

このエリアは、ほとんどが国有地であり、それを取得するのは大変な作業と費用がいる。

また、あの高台に、患者と家族、医療従事者が、日々どうやって登るのだろうか。

今は、103系統というバスが、つづら折りの坂を上下する状況である。

新交通も無理なので、できるとすればケーブルカーくらいだ。

病院行きのケーブルカーというのは、私は聞いたことがない。

まことに非常識な考えであり、新聞記事だと思う。

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「俺は、戦後ずっとこれをやっているんだ!」

2023年12月02日 | 横浜

前に書いた国有転貸については、少しだけ苦い思い出がある。

それは、港営課に来て1年後の春、課長に言われて、新興ふ頭等の家賃、つまり転貸料を値上げしようと各社に通告した。

金額は大したものではなかったはずだが、すぐに某倉庫会社の社長に呼び出された。

行くと非常に怒っていて、「こんなのひどい、いきなり言ってくるなんてなんて奴だ」

それで、「お前は、いつ港営課に来たんだ」と聞くので、

「去年です」というと、

「俺は、戦後ずっとこれをやっているんだ!」とのお答えで驚いた。

私は、戦後の1948年の生まれなんだから。

              

結局、戻って課長に報告して了解を取り、値上げ料を少し低くして、なんとか了解してもらった。

この間、彼ら新興ふ頭の倉庫会社の社長の間を行き来して思ったのは、

「この人たちは、元は戦前の国営の倉庫の関係者で、戦後国営ではなくなったので、自分たちで会社を作って払い下げを受け、以後管理運営しているのではないかとのことだった。

詳しいことは知らないが、たぶんそうだろうと今も思っているのである。

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瑞穂ふ頭、ノースドックをどうするか

2023年12月01日 | 横浜

瑞穂ふ頭、ノースドックの米軍施設の機能が恒久化しているのが問題との議論がある。

私は、これに組みしない。

ここはほとんどが国有地であり、もともと国の埋立事業だったので、日本国がどう使うかは、国の意思だ。

だから、これを「横浜市に返還せよ」と言っても無理だろう。

しかも、コンテナ化が進んだ今日、ここの港湾としての使用は価値がないと思う。

だから、むしろ逆転の発想で、「ここは諦めますから、他の国有地を下さい」と交渉するのも手だと思う。

第一の例は、旧横浜市役所の前の、横浜公園である。

「あれが」と思われるだろうが、ハマスタのあそこは、全部国有地なのだ。

だから、ここを瑞穂ふ頭の代わりとして、横浜市の土地にしてください、ということは有効だと思う。

そうすれば、横浜公園全体をボールパークとすることもできると思うのだ。

やることはいろいろあるはずだ。

今の山中市長に、そうした発想はあるのでしょうかね。

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国有転貸と日本大通り、そして関内、関外地区

2023年12月01日 | 横浜

山下ふ頭再開発を考えるにあたり、重要なことは、過去の横浜の近代で行われたことを検証することだと思う。

まず、幕末の開港のとき、攘夷派等の排外主義者から、外国人を守るために、吉田橋に関を設け、海側を関内地区とし、「関内、関外地区」を区分して、無事に開港を進めた。

そして、次第に日本全体が、排外主義から逃れて、明治の文明開化になり、横浜市と港は大発展した。

だが、1923年9月に起きた関東大震災は、横浜と港を壊滅させた。

このとき、横浜市というか、主に経済界だと思うが、その対応は優れたもので、大桟橋、新興ふ頭等の、国が行った復興事業に、25%も、横浜市として負担をしたのだ。

だから、国も、これをきちんと認めていて、今でも大さん橋、新興地区は、「国有転貸」という特別な制度で管理されている。

                  

これは、同地区全部を、運輸省からいったん横浜市に貸し、その後に各民間企業に貸すという転貸制度なのだ。

これで、実は横浜市は、私が担当していたときでも、年間5000万円くらいの差益を上げていて、これは国も公認のことだった。

今後、山下ふ頭再開発についても、先人たちがやったことを参考にすればよいのではというのが、私の考えであるが、皆さんのご意見をいただきたい。

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