指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

敗戦野手・北條は、早く二軍に・・・

2020年07月31日 | 野球
昨日のヤクルト・阪神戦は、意外にも藤浪が好投だったが、ヤクルトの高橋奎二はさらに良くてまったく打てない。
2回にヤクルトが連打で1点を入れただけで、藤浪は村上からも三振を取るなど、非常に良かった。

            

ところが、7回にショートの北條が、3回もエラーする。
そのエラーは、到底プロ野球のレベルではなかった。
左投手だからと言って、木浪を外して北條にする意味はどこにもない。
どうせ大して打てないのだから。
本当に鳥谷を解雇したツケが来ているのだと思う。
鳥谷の打撃が落ちているからと言って北條のようなひどい野手に比べれば、はるかにましだった。
誰か解説者が言っていたが、今故障中のマルテが戻ってきたら、大山をショーㇳにする方法もあると思う。
大山は、結構器用な野手なのでできるのではないかと思う。

『巨大なる戦場』

2020年07月30日 | 映画
                  


1947年12月、ニューヨークでクリスマスプレゼントを買っている、元米軍将校カーク・ダグラスに、ユダヤ人の若者が来て、
「われわれは、パレスチナでアラブ側と戦うが、素人なので教えてくれ」と頼まれる。
欧州ではノルマンディー上陸作戦等で武功をあげたが、もう妻アンジー・ディツキンソンと平安に暮らしたいと思っているが、強い要望で、パレスチナの海岸に行く。
そこでは、欧州の収容所、さらにキプロスから来た老若男女が海岸に上陸しているところ。
イギリスはもとより、アメリカも、ユダヤ人が勝つわけはないと思い込み、アラブとの面倒な紛争を起こすのは嫌っている。
この辺の状況は、今と大きく違っていて面白い。
カークは、弱いものの味方的感情で、ユダヤの若者を指導することになるが、様々な組織があり、バラバラで、武器はおろか、軍服も階級もない烏合の衆である。
エジプト軍のタンクに対抗するのは、ジープに積んだ機関銃というのだからすごい。
だが、そこに空からセスナ機で、パイロットのフランク・シナトラが加勢に来たりする調子の良さ。

1948年5月、イスラエルの建国が宣言されるとエジプト、シリア軍が攻めてくる。
カークは、国防相と協議しつつ、若者を鍛え、指揮し、アラブ軍に包囲されて餓死寸前のエルサレムへの道を開く。
ここが小山のような岩石を大衆動員して壊して、トラックの道路を作ってしまう。
その間にも戦闘は絶えずあるが、少しづつ勝利を得る。
この道路作りは、一昔前の中国の「人海戦術」のように見える。もともと、イスラエルには、労働シオニズムという、やや社会主義的な思想があるので、そこはよくわかる。
見事に道路ができて、宿舎に戻って来た時、彼を知らない兵士に銃撃されて死んでしまう。
これは、第一次中東戦争の時の実話だそうだ。
カーク・ダグラスも、ベラルーシ生まれのユダヤ人だそうで、監督、音楽もみなそうで、ハリウッドのユダヤ系人脈の厚さがよくわかる作品である。
1966年、ミリッシュ・コーポレーション作品だったので、ユナイト映画だったが、今はMGM映画になっている。

横浜の二つの開発

2020年07月30日 | 横浜
横浜では、今、二つの開発が話題となっている。
一つは、言うまでもなく山下ふ頭の「IR・カジノ」で、もう一つは、瀬谷区の元上瀬谷通信基地跡地である。
山下のカジノは、港運協会の前会長の藤木幸夫氏の反対で有名になっているが、もともと受託業者と目されていたラスベガス・サンズが日本撤退を発表したので、かなり後退したように見える。
このサンズの撤退は、現在の「コロナウイルス」により、大きな収益が臨めないからだろうが、もう一つ山下再開発には問題がある。
それは、山下地区は、基盤整備を含めて事業者が再開発することで、この条件が負担として大きかったのではというのが、私の考えである。
これは、以前みなとみらい関係者から聞いたことで、彼は「基盤整備をせずは、横浜市の責任放棄で、こんなことはなかった」と怒っていた。
そのとおりで、みなとみらいも港北ニュータウンも、基盤整備はすべて横浜市がやった上で、事業者の誘致をしてきたが、山下ではないのだそうだ。

                   

さて、もう一つは、瀬谷区の元上瀬谷通信基地跡だが、テーマパークを考えているとの報道で、相模鉄道が想定されているとも報道されていた。
瀬谷駅につながるのは、相鉄なので当然だが、相鉄にテーマパークを作る意欲や能力はあるのだろうか。
今の首脳は知らないが、昔の社長の対馬好二郎氏は、エンターテインメントがお好きで、一時は横浜駅西口の自社の所有地(現駐車場)に劇場を作ることを構想していた。その話をすると、元横浜市幹部のW氏は「無理だね・・・」と嘲笑していたが、対馬さんなら、瀬谷のテーマパークをやろうとしたと思う。

だが、これは瀬谷の問題だけではないが、現在のコロナに象徴されるのは、一つの場に大衆を集めて金を儲けるという仕組みは、今後は無理なのだと思うのだ。
その意味では、時代は大きく変わるだろう。
今後は、集中的社会から分散的社会に変わるのだと、経済も社会も、そうだと思う。
だから、瀬谷地区については、すでに決まっている「花の博覧会」は、やっても良いが、その後は何もせず、緑地にしておき、最終的な使用法はゆっくりと考えればよいと思う。
その間は、大規模ドッグランや野外音楽堂などにしておき、夏は「フジロック・フステイバル」でも誘致してやらせばよいと思う。
いずれにしても、急ぐことはないと思うのだ。



『映画監督・小林正樹』

2020年07月29日 | 
以前、読んだが、図書館で借りて読んだので、じっくりと読めず、今回買ってゆっくりと読む。
小林は、私にとっては新藤兼人と並び非常に苦手で、そのまじめすぎるところが、見ていて辛いのだ。
ただ、今回じっくりと読んで再認識したのは、小林は戦争にずっとこだわってきたなということだ。
小林と言えば、『人間の条件・三部作』だが、その他にも劇映画として、広田弘毅首相を主人公に『東京裁判』を作る企画があり、八住利雄の脚本も作られていたのだそうだ。これは、予算面で駄目になるが、後にこれは記録映画『東京裁判』になる。
また、日活が山本薩夫監督で作った、五味川順平の『戦争と人間』も、テレビで作る企画もあったとのことだ。
それほどまでに小林が、太平洋戦争にこだわったのは、自分の体験から来ているのは、間違いない。
彼は、実際に大きな戦闘にには遭遇しなかったが、徴兵されて最初は満州のソ連との国境地帯、さらに末期は宮古島という戦場にいて戦争と軍隊を体験している。
その意味では、作家の大岡昇平とよく似ていると思う。大岡は、戦争末期に徴兵され、フィリピンに送られ悲惨な戦争を体験し、それを『俘虜記』と『野火』という名作を書いている。
彼は、そのことについて、無謀な戦争に追い込んだ軍部と政治家を呪ったが、それに対してなにもしなかった自分を自覚したと書いていたはずだ。
小林も、小樽の比較的裕福な家で育って、早稲田で東洋美術を学ぶというインテリ世界にいて、戦争に向かう日本社会に何かをすることはなかった。
彼がいた松竹は、不思議な映画会社で、戦争に積極的でなかったため、小津安二郎、木下恵介、佐野周二、小林正樹など、軒並み徴兵されている。
対して東宝の黒澤明は、一切徴兵されていないのは、東宝が一種の「軍需企業」だったからだ。

また、この本で初めて知ったが、映画『人間の条件』の最後は、松山善三が書いた初校は、現在のものとは大きく異なったいたとのこと。
そこでは、最初に出てきた朝鮮人の娼婦有馬稲子が現れて、仲代達矢をはじめ日本人を強く糾弾するものだったそうだ。

                    

現在の、ヘイト状況から見れば信じがたいが、松山善三のような穏健なヒューマニストでも、戦前、戦中の日本のアジアへの罪を感じていたことである。
映画『東京裁判』が公開された時、小林は、戦時中は軍の将校だった人たちから、「こういう経過で戦争に従事したとは初めて知りました」との感想をもらったそうだ。
あの作品は、それだけでも意味があったというべきだろう。






『ヨーム・キプール 勝者なき戦場』

2020年07月28日 | 映画
1973年10月6日、エジプトとシリア軍がイスラエルに攻め込む。
この日は、ユダヤ教の「ヨーム・キプール 贖罪の日」で、一日何もしない日だったので、シナイ半島、ゴラン高原の双方でイスラエル軍は敗退する。これは、戦後の中東戦争で初めてのイスラエルのアラブ側への敗北で、イスラエルの不敗神話が壊れた時だった。
イスラエル軍が敗北したのは、もちろん「ヨーム・キプール」だったためだが、さらにイスラエルは大きな常備軍を持たず、戦争になると予備役を招集して増強させる体制でもあったためだ。これは、民主主義国では、予算の問題があり、議会は絶えず軍事費の削減を求めるからで、日本に真珠湾攻撃されたアメリカもそうで、直ちに臨時招集を掛けて陸海軍を増強したのだ。
この映画の始まりは、招集を受けた二人の若者が任地に車で行くところで、途中で将校を載せていく。

                   

このヨーム・キプール戦争(イスラエル側の言い方で、アラブから見れば「10月戦争」)は、イスラエルからアメリカへの武器貸与要請によって増強されたイスラエル軍の反抗になり、一時は核兵器の使用も示唆されたことにより、ソ連の和平への強い働きかけによって、イスラエル・エジプトの和平になる。後には、平和条約締結とシナイ半島返還になる。
また、これのアラブ側の「反抗」として、西側諸国への石油輸出制裁になり、日本ではトイレットペーパー騒動の「オイルショッック」に至る。

監督のアモス・ギタイは、この戦争を実際に体験し、1994年にドキュメンタリー『戦争の記憶』を作っていて、それを発展させたものだそうだ。
一部は、昔テレビで見たように思うが、よく憶えていない。



『流転』

2020年07月25日 | 映画
               


1956年の松竹京都の時代劇で、主演はエースの高田浩吉。
彼は、歌舞伎の三味線方で、杵屋の高弟で非常に上手く、団十郎(市川段四郎)が自分が踊りやすいように手を増やしたのに憤激して、団十郎と対立してしまう。
彼は、浅草の掛け小屋で踊っている香川京子を見て、素質を見抜き、彼女に踊りと自分の三味で、団十郎を見返してやろうと決意する。
だが、香川の父親で、彼女にたかっている父親(山路義人、この悪役は非常によく、私は好きだ)が小屋に火を付けて混乱した時に、山路を刺してしまい、お尋ね者になり、地方に逃亡する。
博多で、銭に窮した高田が、自分の三味を質に入れるが、取り戻そうとすると、高田を追ってきた香川京子が受けだしていたことを知り、香川を追って江戸に行く。
この辺のサスペンスは面白く、さすがに井手雅人の脚本である。
最後、江戸にもどり、高田と段四郎は和解し、彼の三味で、『勧進帳』を踊るが、高田は、その最中に死んでしまう。
高田の師匠の杵屋が、市川小太夫で、さすがに上手い。
私は、昔から高田浩吉が好きだが、ここでも良さに感心した。
松竹時代劇の拡張の高さが最大の良さであることを認識した。

コロナ以後で、初めて行ったが、国立映画アーカイブは、少し様子が変わっていた。
入口の大きなカウンターがなくなり、全部で椅子が減らされていた。


「週刊現代7月25日号」の「坂本九と吉永小百合がいた時代」でコメントしました

2020年07月24日 | 映画
週刊現代の7月25日号の特集記事「坂本九と吉永小百合がいた時代」で、二人と時代についてコメントしました。
二人が共演した秀作に『上を向いて歩こう』があり、国立競技場を坂本、吉永、さらに浜田光夫や高橋英樹らが歌いながら行進してくるシーンは良い。
さらに、そこに日本中の老若男女の姿が挿入されるが、これは助監督たちが撮ってきたもので、そこも非常に優れている。
これは、1964年の東京五輪に向けて社会のすべてが上昇していく日本を象徴しているといえる。
もう一つ、重要なことは、この坂本、吉永、浜田光夫の共演作は『一人ぼっちの二人だが』になる。
ここでは、浅草の半玉の吉永が、坂本と浜田の力で救われ、それをヤクザの小池朝雄が許してハッピーエンドになる。

                   

この吉永、浜田、小池の関係は、次の『泥だらけの純情』で見事に結実し、吉永と浜田の心中になる。
このように、名作が生まれるには、その前段の作品の積み重ねがあり、そうした準備の上で、名作は生まれるのだと思う。

高橋英樹時代劇の二つの違い

2020年07月22日 | 映画
高橋英樹時代劇と言えば、『男の紋章』であり、これは主に松尾昭典が監督していた。
高橋の時代劇には、鈴木清順監督の『刺青一代』もあり、これはヤクザの幹部を殺した英樹が、その組からまた狙われて、返り討ちにするが、弟で絵画生の花ノ本寿が、間違って子分を銃殺してしまう。
「満州に行こう」とのことで、日本海側の港に来るが、船があり、小さな電車があるので、撮影は銚子のようだ。

そこで山内明の山下組の飯場で二人は働くが、高橋英樹は、山内の妹の和泉雅子に惚れられ、花ノ本寿は、山内の妻の伊藤弘子を好きになり、木彫に彫る。
最後、英樹が殺した神戸組の連中が追いかけてきて、大出入りになり、清純の美学を見せる。
小林旭の『関東無宿』のように、横移動から、座敷の唐紙を次々と開けると、色が変わる。
そして、花ノ本寿は、殺され、高橋秀樹は、警察に引かれているところで終わり。

                

これを見ると、同じ日活の高橋英樹主演の時代劇でありながら、『男の紋章』と違うことがよくわかる。
それは、『男の紋章』を多く監督した松尾昭典は、松竹京都であり、この『刺青一代』の鈴木清順は松竹大船であることだ。
『男の紋章』は、比較的普通の時代劇だが、『刺青一代』は、ラストの出入りなど、非常に変わった「アッと」言わせる、知的な時代劇で、こうしたぺダンチズムは大船撮影所の持味なのである。


『黒澤明から聞いたこと』 川村蘭太 新潮新書

2020年07月21日 | 映画
黒澤明と知合いだったことを自慢しているだけの本という批評もあるが、これを読むと、晩年の黒澤明と家族の様子はよくわかる。
要は、黒澤の周りには、久雄と和子の子供、さらにその友人などしかいない風景である。
川村は、映画好きの父親に連れられて子供時代から映画を見ていて好きになるが、大学時代には映画会社は新卒の定期採用はなく、CM会社に入る。
だが、両親の近くのアパートに住んだことから、加藤晴之・和子夫妻と知合い懇意になる。
当時は、加東大介の息子、黒澤明の娘夫妻だった。
『暴走機関車』、『トラ、トラ、トラ』以後、周囲に誰も映画人がいなくなった黒澤プロダクションにとって、映画製作以上に収益事業と目されたのが、CM製作で、川村は、黒澤久雄の会社に入る。
久雄の会社は、黒澤エンタープライゼズで、一応別会社であるが、彼と妹の和子、さらに夫人の喜代が黒澤明にとって最高で最大のスタッフだった。
まるで、中小零細企業であるが、それは黒澤明自身が招いた結果だった。
1950年代まで、日本の映画会社では、監督、脚本、さらに各部門のチーフ、あるいはスタークラスの俳優以外は、皆社員で組合員だった。
だから、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』などの撮影期間が延びても、スタッフ、キャストの大部分は毎月給与が出るので、黒澤の「我儘」に皆付き合えたのだ。
だが、1960年代になると、東宝も合理化を進め、スタッフ。キャストはその場、その作品の雇用になった。
こうした中で、1965年に大作『赤ひげ』が作られた。大変に立派な作品だが、製作に1年もかかったのは、異常である。
主人公の三船敏郎は、これのために1年間、自分のプロダクションのテレビ映画にも出られなくなった。こんな状況で、黒澤に付き合う映画人がいるだろうか。
私は、黒澤明のピークは『天国と地獄』で、『赤ひげ』では、もう異常だったと思う。

                        

監督としては、最高でも、経営者としては失格であるというしかない。

この本で出てくるのは、1983年に記録映画『能』を作ろうとした件である。
『影武者』の後、フランスの映画会社等の出資で『乱』の製作が始まる。同時に、横浜の緑区に黒澤スタジオの建設も始まっていた。
ところが、フランス政府の外国への投資の一時的停止政策で、『乱』の製作が止まる。
そこで、集めたスタッフに仕事をしてもらうために、記録映画『能』が企画される。
脚本、監督は元東映の佐伯清で、黒澤は総監修になった。
伊丹万作の唯一の弟子である佐伯は、戦前、戦中はPCLにいたこともあり、「佐伯のあんちゃん」として非常に面倒見のよい人で、黒澤とも親交があったので、選ばれたのだろう。
佐伯は、すぐに脚本を書いてきたが、黒澤はそれを完全に書き直してしまう。
そして、中尊寺でのロケにも黒澤は来て、現場を指揮する。
最後、出資企業へのラッシュ試写の時、黒澤は大声で、撮影の中井朝一を怒鳴ったというのだ。
自分の言ったとおりに撮っていないとのことで。
だが、佐伯も中井も、特に反応を見せなかったとのことだ。
こうして黒澤の周りから映画人はいなくなり、家族だけになったのである。
そうした状況がよくわかる貴重な本であると私は思う。





『パブリック・図書館の奇跡』

2020年07月21日 | 映画
こういうのを見ると、アメリカの福祉政策のひどさがよくわかる。
オハイオ州のシンシナティ中央図書館の周囲で、冬、凍死者が出る。
シンシナティは結構寒いのか、ここはシカゴにも近く、シカゴは、非常に寒いので有名だが。
職員のグッドソンは、実際に利用者と接触する部署で、なかには彼の対応に苦情をいうものもいて、訴訟にもなっていて、地方検事からは注意を与えられている。
館内には、ホームレスの高齢者の利用が多く、特に黒人の利用者が多い。
オハイオ州は、黒人の人口はそうは多くないようだが、大都市は多いのだろうか。
私が横浜市中央図書館にいたとき、夏季にビデオ等の視聴コーナーで、ホームレスの体臭がひどいと言った苦情があったが、大きなトラブルにはならなかった。

                  

寒波が襲来したとき、利用者が6時の閉館を過ぎても館外に出ず、50人くらいが立てこもってしまう。
彼らの言い分では、ホームレス用のシェルターも一杯で、行くことができないので、ここにいるというのだ。
すぐに刑事と地方検事が来て、対策を協議し、地元テレビ局も中継車を持ってきてレポーターが緊急ニュースを報告する。
地方検事は、大阪の吉村知事や東京の小池知事のような強硬派で、「すぐに機動隊を入れ、催涙弾で排除しろ」と刑事に命令する。
彼は、市長選挙に出る気で、その実績にしたいのだ。
一方、テレビを見て、現市長とボランティアグループが、食事や水を持ってくる。
そして、最後は・・・これは私も予測できなかったが、無事解決する。

生活保護はおろか健康保険もないのがアメリカで、クリントン、オバマ大統領も手をつけたが、まだできていない。
共和党支持者によれば、共産主義なのだそうだ。
だが、東大総長だった大河内一男によれば、「福祉は慈善ではなく、資本主義を支える制度である」のだ。
第一、世界の福祉施策の初めは、ドイツの宰相ビスマルクだったことなど、トランプが知るはずもないだろう。

横浜T・ジョイ


森田必勝らは・・・

2020年07月20日 | 政治
日学同の赤ら顔の森田必勝の姿は、早稲田大学の構内でよく見た。
また、元一水会の鈴木邦男氏も、早稲田大学にいたようだ。
この森田や鈴木は、右派の学生運動で活躍していた。
だが、彼らは次第に、生長の家系の「生学連」に負けたとのこと。

              

そこから、森田は、三島由紀夫の盾の会に行ったようだ。
この生学連系の連中は、現在の日本会議の事務局的メンバーになっているらしい。
右派の運動もいろいろあるものだと思う。

銅像にペンキを塗った連中

2020年07月19日 | 政治
アメリカで、かつて英雄とされてきた銅像の主が、実は人種差別者だったとのことで、銅像を引き倒す運動が起きている。
1960年代の日本の早稲田大学構内で、大隈重信の銅像が白ペンキで塗られるという事件があった。

                       

1967年のある日、構内に行くと銅像の前で学生が騒いでいて、見に行くと大隈公の顔が白く塗られている。
日学同(日本学生同盟)の森田必勝がいきり立っていて、「誰がやったンだ!」と叫んでいた。
「知ってるよ」というと言えという。
もちろん、言わなかったが、やったのは私もいた劇団の周辺にいた連中だった。
彼らは、早稲田でいろんなことをやって喜んでいる学生だった。
そして、彼らも含め劇団の連中は、ある館を占拠し、稽古場を作り、芝居をやっていた。
そこに慶応から来ていたのが、つかこうへいである。
その後、群像新人賞で村上春樹の『風の歌を聴け』を読んで大変に驚いた。
そこには、その変な連中のことが虚実まぜて記述されていたからである。
早稲田の本の一時期にいた連中のことなど、関係していた者でないと知らないはずだからだ。
後で、聞くと村上は、その館を占拠していた集団にいたことがあるのだそうで、なるほどと思った。
と同時に、あそこに村上春樹のような優秀な人間がいたとは、これは本当に驚きだった。

『親バカ子バカ』

2020年07月19日 | 映画
藤山寛美と渋谷天外の松竹新喜劇作品の映画化で、寛美の当たり役の「あほう」役である。
ただ、これは今では作れない喜劇だなと思う。

                  

寛美は、医療機器メーカー社長の天外の息子だが、あほうで、今日の言葉で言えば中程度の知的障害者である。
読売テレビで大ヒットし、ひところ声帯模写でも、寛美のあほうぶりを真似する人がいたが、今はいない。
これが、知的障碍者への差別につながるからだろう。
もちろん、寛美には芸があるので、それ自体が批評性を持っているが、それを抜いてやられると、ただの差別になってしまうのだ。

冒頭に天外の邸宅が出てくるが、その地下で寛美はロケットを研究していて、発射したロケットが1階の床を破って出てくる。
ここにも、スプートニクショックの影響があったのかと思う。
ソ連の人工衛星打ち上げ成功の「スプートニクショック」の影響は大変なもので、都立日比谷高校の生徒でもみな東大の理工学部を目指したそうだ。新東宝の喜劇『私は嘘を申しません』でも、主役がロケットを研究していたほどだ。
要は、寛美は玩具にしか興味がなく、九条映子らの女性と海に行くが、逆に女性恐怖症になってしまう。
そこで、天外は、自分の秘書の環三千世に寛美を誘惑させると、本当に環を好きになり、本当は環は、同じ秘書の北上弥太郎と恋仲だったという挿話がある。ここで、環は宝塚映画になっていた。彼女は、小津の遺作『秋刀魚の味』で、北竜二の若い後妻として出てきて、日本映画史に名を残している女優である。

寛美は、天外の代理で、医者の伴淳三郎の病院の披露宴に行き、つい伴淳を「手遅れの」といつも天外が言っている台詞を言ったことから、天外が、先代社長が急死したとき、未亡人から会社を乗っ取った「悪人」だと言われる。
そうした悪業のために、寛美の頭もおかしくなったとまで言われる。
これはひどい表現で、現在では放送禁止である。
昔、寛美の松竹新喜劇が毎年夏に新橋演舞場に来ることがあり、よく見に行ったが、こうした古さに参ったものだ。

寛美を結婚させるため、見合が行われ、その相手の母親から、問題の未亡人が健在で、東京にいるが、今日は白馬に登山していることがわかる。
寛美はすぐに白馬に行き、北上も後を追う。
だが、白馬を豪雨が襲い、寛美は山小屋に逃げ込むが、そこには母と娘もひげ込んで来ると、それは豪雨で崩れて崖下に落ちてしまう。
ここは、城戸四郎の好きなチャップリンの『黄金狂時代』みたいだが。

北上が、寛美のいた山小屋が崩壊したことから、寛美は死んだことになり、葬式が行われている。
伴淳が弔辞を読んでいると、寛美が姿を現す。
そして、未亡人三宅邦子と娘の北条きく子も出てくる。
天外は、三宅らに謝罪し、会社に迎えることを約してエンドマーク。北条きく子は、一時期霊感女優として有名になった方である。

衛星劇場





森崎東、死去

2020年07月18日 | 映画
映画監督の森崎東が亡くなられた、92歳。
多くの訃報に出ていないことを書く。
彼は、松竹の監督だったが、大船ではなく、京都撮影所の助監督だった。
松竹は、元は言うまでもなく歌舞伎で、古臭いところもあったが、意外にも非常に新しいところもあり、日本の映画で女優を使ったのは、松竹蒲田が最初なのだ。
日活には、女形がいたのだから信じがたいことだろうが、本当である。
1922年に松竹が映画製作を始めた時、画期的なことの一つが、女優の採用と現代劇を作ることだった。
小津安次郎や五所平之助の諸作も、その上にあった。
だが、これはあまりヒットしなかったようだ。
そこで、主に京都で作られたのが時代劇で、林長二郎(長谷川一夫)の作品が大ヒットし、松竹のドル箱になる。

その後、蒲田撮影所から大船になり、城戸四郎の指導の下に、松竹大船映画は、戦だが前の『愛染かつら』、戦後の『君の名は』など、大ヒットを作る。
もう一つ、重要なことは大船は、メロドラマを作っていたが、監督等は大変に知的だったことで、原研吉という大した作品を監督していない人は、実はフランス詩の大家だったそうだ。かなりに知的に嫌味な撮影所だったと言える。
対して、京都撮影所は、泥臭くて大したことのない作品が多かった。
なにしろスターは、高田浩吉と伴淳三郎だけだったのだから、仕方ないのだが。
新スターとして森美樹というのがいたが、すぐに死んでしまった。
松竹では、打開策として、木下恵介や大庭秀雄などを入れたこともあったが、根本的には刷新できず。
1965年に閉鎖となり、助監督は大船に移籍となり、その一人が森崎だった。貞永方久もそうである。
この移籍組で、一番活躍されたのは酒井欣也で、彼は大女優酒井米子の実子であったことも大きかったが、関西的な泥臭い喜劇が意外にも城戸四郎の好みにあったためだろうか。
森崎は、そうした京都からの移籍組で、大船撮影所では「外様」だったはずで、その中で山田洋次の作品に協力しつつ、頭角を現してきたのは、やはり才能というべきだろう。
彼の中には、今は日本映画大学となった、横浜映画放送学院の連中を使った『黒木太郎の愛と冒険』や『生きているうちが花なのよ、死んだらそれまでよ党宣言』などの異色作もある。



私は、彼の中では『ニワトリはハダシダ』が好きである。
これは、「人間は裸だ」という意味だと思っている。
日本映画界で、異色の歩みをつづられた監督のご冥福をお祈りする。




今年のダンスは・・・

2020年07月17日 | 音楽
録画しておいた『アッちゃんの ベビーギャング』を見る。
中村勘九郎が、当時いたずらっ子で有名だったことから作られた喜劇である。

                 

勘九郎の父の小林桂樹は、妻の淡路恵子と共に、会社の専務有島一郎の邸宅の向いの家に引っ越してくる。
成城らしいが、まだ道路は舗装されていない。東京でも1961年は、そんな状態だった。
有島の妻は久慈あさみ、妹は浜美枝で、彼女も有島の会社で働いている。コネ入社だろうが、当時はそれは普通だった。
平社員の小林が近所に来たとのことで、彼は有島の碁の相手から、銀座のバーのマダム・坪内三詠子との浮気の誤魔化しまで付き合わされる。
もちろん、有島の浮気はばれて、久慈に激怒されるが、「これは森繁久彌との『社長シリーズ』と同じだな」と思う。
と同時に、このサラリーマンが、上司の相手をさせられるというのは、松竹の戦前の「小市民もの」だなとも思う。
この映画の製作の藤本真澄は、元は松竹にいたので、小津安二郎や島津保次郎の、この手の作品をよく知っていたのだ。
因みに、加山雄三の「若大将シリーズ」も、松竹の若者映画が基である。

この映画は、主人公は勘九郎だが、当時はまだ6歳なので、ドラマの主役にはなっていない。
ただ、久慈あさみらが行く、「慈善パーティ」(会場は当然にも東京会館)でのアトラクションで、『桃太郎』の桃太郎を演じてみせるのが唯一の見せ場で、これは貴重な映像だろう。

最後、夏に海に行きたいと言っていた勘九郎だが、大磯ロングビーチに家族で行った有島一郎一家に比べ、海に行けず、自宅の庭で小林と淡路は水着になり、水道の水を掛け合って水遊びする。
それで、ドドンパで踊るのである。
「1961年は、ドドンパの年だったなあ」と思う。

1950年代のマンボ、チャチャチャの流行から、当時日本では「今年のダンス、リズム・・・」とのことで、流行のダンスが大変に宣伝された。
中川三郎やスマイリー小原などが、テレビの音楽番組で宣伝したものである。
これも、スクスク、サーフィンなどと続き、たぶんランバダあたりで終焉したと思う。