指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

「ナトコ映画」

2021年04月30日 | 映画
放送大学の特別講演で、「ナトコ映画」についての紹介があった。
ナトコ映画とは、戦後に米占領軍が、社会教育用に、全国に配布した16ミリの映写機とフィルムのことである。元は、米軍の兵士教育のためだったので、頑丈な映写機だった。

中では、二本の映画が紹介された。一本は、学校を生徒、住民と一緒に作り替える話しで、アメリカのもの。もう一本は、「公民館」の紹介で、下元勉が全国の公民館を紹介するもの。日本映画社の作品で、同社は、元は社団法人だったが、戦後に株式会社に改組された最後の方だろう。このすぐ後に、さらに改組があり、日本映画新社になる。公民館というのは、世界では日本で初めて作られたものだそうで、交番と同様に世界に冠たるものか。横浜市には公民館はなく、地区センターである。

終了後、参加者から「実際は、日本の映画も上映されたよ」との話があった。
ただ、これはナトコかもしれないが、むしろ「公共上映」ではないかと思う。
「公共上映」とは、私が作った言葉で、1950年代、日本の各地では、映画館での5社映画の公開、上映の他に、社会教育団体による5社映画の上映が頻繁に行われていた。実際に、東映などは各地に巡回上映班を持っていて、自社映画の上映を行っていた。

私が、東京大田区池上で体験したのでは、池上小学校での、五所平之助監督、岸惠子、美空ひばりの『たけくらべ』の夜間映画会があった。
また、すぐ近くの大田区民会館でも、定期的に映画会があり、ここでは溝口健二監督の『近松物語』や五所平之助監督の『黄色いカラス』を見た。
この『近松物語』は、実はなんという映画かはずっと分らず、30代になり、銀座の並木座で見ていて、最後の長谷川一夫と香川京子が裸馬に乗せられているシーンに来て、
           
「あのとき、区民会館で見たのは、これだったのだ!」と思ったのだ。
とても暗くてつまらない映画だったとの記憶しかなかったのだが。

『狼をさがして』

2021年04月28日 | 映画
これについては、書くのをためらわせるものがあるが、横浜シネマリンに意外にも多くの人が入っていたように興味のある人が多いらしいので、書く。
狼と言って、すぐに分るのは、70代以上の人だろう。
1970年代初頭、三菱重工ビル爆破事件などの爆弾テロ事件を起こした、東アジア反日武装戦線のことである。
この事件が起き、詳細が報じられた時、私は、次の三つで違和を持った。

1 権力だけではなく、一般市民も巻き込んだテロ事件だったこと。
2 書物によるもの以外、自分たちの上の世代の影響や指導をほとんど受け 
 ず、自分たちだけで行為を決めていたこと。
3 多くの人を得ての、運動としての政治活動ではなく、個人の行為のテロを 
 選択していたこと。

日本の政治活動では、左右を問わず集団主義というか、大衆運動を目指すもので、こうしたアナーキスト的な個人活動はほとんどない。右翼でも、朝日新聞社尼崎支局襲撃の赤報隊のような個人的と考える活動は珍しい。こうした集団主義は、やはり日本人の農耕民族としての集団主義から来ているのだろうか。
狼は、実際に行われた事件の他、昭和天皇の列車爆破事件も計画していたようだが、ここでは描かれない。
主になるのは、刑期を満了して出てきた、荒井まり子と支持者たちのことである。

           
そこにあるのは、「いずこも同じ高齢者の群れ」と言うほかない。
この間の40年間はどうだったのか、というしかない。
横浜シネマリン


「五輪の意味はあるのか」

2021年04月27日 | その他
私は、もともと東京五輪開催に反対だが、ここに来て、本当にしない方が良いと思う。
現在のコロナ禍で、五輪開催など本当に、頭がおかしいとしか思えない。
2020年の東京五輪の開催に反対なのは、石原慎太郎の自分勝手以外の意味のない招致だったからだが、現在の日本、東京に世界に対して出すメッセージがないからだ。

          
と同時に、20世紀の末から、スポーツビジネスが盛んになり、今ではワールドカップ、世界大会のない競技など、ほとんどないようになっている。
そこで、わざわざ公的な金を掛けて大きな大会をする必要があるのだろうかと思う。
ワールドカップ、世界大会が商業的に成り立っているのに、公的な資金を使って競技会をする必要はないと思うのだ。

『悪徳』

2021年04月26日 | 映画
1957年に「日映騒動」というのがあった。これは、大映の専務だった曽我正史が、大映に反旗を翻し、京王電鉄等の出資で、映画製作会社を作ろうとしたもの。「第七系統ができる」とのことで大騒ぎになり、野坂昭如も入社が決まっていたそうだ。だが、当然にも永田雅一の「政治力」で、ご破算になり、2本の作品を残して日映という製作プロダクションで終わる。
ただ、この2作目では、配給は大映になっているので、永田とは妥協が成立していたのだと思う。1作目の『怒りの孤島』は、松竹の配給である。
後に、曽我は、洋画配給の大映第一フィルムの社長になる。永田と、その周囲の者との愛憎劇は、非常に不思議である。

             
話は、銀座の金融界に、若手として参入しようとする木村功の行動を描くもので、彼は、佐分利信社長の下で、銀座のバーをマダムの福田妙子から詐取して、佐分利に認められる。福田は、福田恆存の妹のはずで、よく似ている。
次に、恋人のバスの車掌水谷良重に頼まれて、彼女の父親でミシン会社の経理課長織田政雄の手形割引を手伝うが、佐分利の子分の悪役の清水一郎、ボクシングジムのボス嵯峨善兵衛らによってパクられてしまう。
清水は、松竹のサイレント時代からのスターで、小津安二郎の『晩春』では、原節子が笠智衆と一緒に行く銀座の寿司屋の板前役をやっている。
今度は、手形のサルベージを頼まれるが、上手く行かず、水谷の金もすべて取られてしまう。
佐分利の妻は、大塚道子で、元華族・三橋公の娘である。三橋は、斜陽族で、新規事業で失敗ばかりしているが、それを補填するのは、佐分利の役目。
おっかないおばさん役が多い大塚道子だが、本当は美人で、ここでは元華族のお姫様を上手く演じているのは、さすが。
手形を詐取された織田は、自殺に見せかけて殺されてしまう。
水谷良重は、復讐に、木村が大塚を誘惑してできていると佐分利に言い、木村のアパートの部屋に大塚が来たところを見せて、驚愕させる。
木村は、金に詰まって、大塚に頼むと彼女は、実家から持って来た指輪を木村にあげ、木村はそれを佐分利に、自分の失敗のかたに渡す。
すると、佐分利は、そうした事情を知らずに、家に戻ってきて、大塚に上げるという皮肉は面白かった。
また、手形を詐取したミシン会社の組合を暴力団を使って暴行するシーンも迫力あり、それを木村は、大塚を車に乗せて見るようにする。

木村は、佐分利の子分の垂水五郎ら暴力団員からも逃げて、山奥の小屋に潜むが、なぜか佐分利が来て、格闘になり、外の湖に木村は逃げる。
佐分利は、持っていた拳銃で木村を殺し、自分も自殺する。
戦後の混乱の中で、金のために悪辣な行為をする人間を描いていて、非常に面白かった。
脚本は、猪俣勝人で、渋谷実監督の『現代人』と同様、戦後の人間の混乱、退廃を描くものとしては、結構成功していると思えた。
日本映画専門チャンネル

昔の女性は正座しなかった 『女と刀』

2021年04月26日 | テレビ
『女と刀』を見ていたら、主人公中原ひとみの母親の馬渕晴子が座敷に座っている場面があった。

              
すると、両足は、お尻の下ではなく、両側に出しているのがはっきりと見えた。
要は、正座ではないのだが、これは小津安二郎の『東京物語』で、母親の東山千栄子の座り方も、そうだったのだ。
正座が男女とも正しい座り方など、まったくの嘘なのである。

田中、100勝

2021年04月26日 | 野球
先週、楽天の田中将大投手が、100勝を上げたが、これはすごいことだ。
歴代の試合数が出ていたが、1位はスタルヒンで165試合、田中は2位の177試合である。3位は、藤本秀雄の177で、次は杉浦忠の188試合で、勝率は0.78とのことでこれも非常にすごい。なにしろ、杉浦は、1959年には38勝4敗という記録を残しているのだ。

                      
だが、あまりの酷使で腕が痛み、血行障害というのだから、信じがたい症状だ。
その結果、彼は189勝しかできなかったのだ。名球会の200勝以上って意味があるのかと思う。



岡田剛一さんの名があった 『女と刀』

2021年04月25日 | 演劇
千葉テレビの再放送の『女と刀』は、なかなか面白いが、先日はタイトルに岡田剛一さんの名があった。

         
大学1年のとき、学研の中学生雑誌でアルバイトをしていて、主に原稿取りで、東京のいろんな場所に行った。
中で、レイアウトの原稿かなにかを中野あたりの喫茶店で受け取った。その相手が岡田剛一さんだった。
そのとき、私が大学で演劇をやっていると言うと、
「私も青俳にいたんだよ」と言った。
そして、まだ東宝で演出家として活躍する前だが、
「蜷川は偉くなったな・・・」とも言っていた。

この1966年頃は、劇団青俳は分裂し、蜷川幸雄、岡田英次らは現代人劇場をやっていた時で、その中で岡田さんらは、芝居をやめたのだろうと思う。
同時期に、劇団の友人の星野も、同様にアルバイトで岡田さんに会ったことがあり、
「芝居をやっていると、こんなにひどい暮らしになるのか」と感じて、芝居をやめ、製薬会社のプロパーになった。プロパーというのは、固有のと言う意味ではなく、プロパガンダ、宣伝の意味だそうだ。

さて、『女と刀』での岡田剛一さんだが、中原ひとみの子供(大きくなってからは池田秀一君)が、学校で山の子供たちを差別をする芦屋小雁の先生に対してストライキを首謀し、それに文句を言いに来る村人役だった。
いずれにせよ、岡田さんはその後、なにをなされていたのだろうか、少々気になった。


交通事業100周年

2021年04月24日 | 横浜
横浜市の交通事業が100年を迎えたそうだ。
1921年4月に始まったので、ちょうど100年というわけだ。
民間の私鉄として始まったものを市が吸収したのは、東京などと同じである。
当初は、横浜市電気局として開始され、後に交通局になったのは、電気事業が総動員法で、5大電力会社に統合されたからだ。
戦時中も、工場への労働者の移送で大繁盛で、それは戦後も続いた。戦時中の人員輸送の繁盛は、そのため川崎市でも臨港地区の工場へ多数の労働者を運ぶために、路面電車を事業を始めたことでも明らかだろう。
横浜の市電とバス事業の最盛期は、1950年代で、今から考えれば信じがたいが、黒字を一般会計に入れていた他、自社ビルも持ち大変に裕福だったようだ。
横浜市交通局の給与が良いことは、戦前から有名で、私が議長秘書として2年間仕えた西区の鈴木喜一先生も、家が貧しかったために、市電の運転手になり、貯金をして親に家を買ってやり、自分はミシン会社の代理店の権利を買って事業を始めたくらいだ。
この路面電車が赤字になったのは、1960年代の経済成長により、人々が車持ち始めたからである。おおむね、人口が100万人を越えると、路面電車は成立しないと言われている。人の移動が、市街地だけではなく、郊外にまで広がると、路面電車では無理で、鉄道になってしまう。

         

さて、100年の歴史のある横浜市の交通事業だが、映画に残っているのは意外に少ない。
篠田正浩監督の映画『わが恋の旅路』くらいなものだと思う。
これは、原作がなんと曽野綾子で、脚本は寺山修司であるが、ラストは原作とは異なり、ハッピーエンドになっている。そこには、南区の捺染工場、花月園競輪、そして市電が映っている貴重な作品である。





最後の真壁の水田はやらなかった

2021年04月23日 | 演劇
昨日は、時間があったので、1962年の早稲田大学劇団演劇研究会の『斬られの仙太』で衣装をやられた林さんの電話して、話しを聞く。
いろいろとあったが、驚いたのは、最後の真壁の水田の場面はやらなかったことだ。
その前は、全部きちんとやり、非常に長かったようだ。
そこで、「最後の場面をやらないと意味ないではないか」と聞くと、
「今から見れば、そうだが、当時はやはり反体制運動の裏側を描くのは問題との意見が強くて、カットしたのだ」とのこと。
当時、劇研のリーダーの一人だった大谷静男さんも、カットを強く主張したとのこと。
「へえ・・・」と思うが、時代が違うのだね。

          

当時、劇研の隣には劇団自由舞台があり、今や岩波文化人の鈴木忠志先生も、当時は普通の新劇をやっていた。だが、60年安保の後で、それまでの日本の新劇が「社会主義リアリズム」で進歩的テーマを主題としていた。だが、林さんによれば、「安保の後で、社会主義の意義にも皆疑問を持ちだし、主題を喪失したことが、演技の表現の方に行ったのだろう」とのことだった。
要は、「鈴木メソッドの鈴木忠志理論」も後付けだったわけだ。

この前後に、劇研からは、草間暉雄、津野海太郎らが、1961年に独立劇場を作り、鈴木らは劇団自由舞台を作り、さらに早稲田小劇場を作る。(草間は、民芸の女優だった草間靖子の兄で、結構良い二枚目だったらしい)
いろいろと動いていた時期で、1962年の春の『斬られの仙太』の後は、きちんとした公演ができず、秋は試演会にしたとのこと。このときの演出は、後に劇団四季、さらに新国立劇場に行かれた須田武男さんだったが、大分前に亡くなられたとのことだ。




「渋谷のアップリンクが閉鎖される」

2021年04月23日 | 映画
渋谷のアップリンクが閉鎖されるとのこと。
ここは、最初は神南のパルコの近くにあり、渋い映画をやっていた。
いつの間にか、現在の東急の奥に移転し、ドキュメンタリーやイベントをやっていた。
イベントでは、亀井文夫作品のイベントなど、良いものがあった。
この間のコロナが最大の原因だとは思うが、やはり駅から遠かったことが大きなネックだと思う。





NEWS.YAHOO.CO.JP『アップリンク渋谷』5・20で閉館 浅井隆氏、これまでの支えに感謝(オリコン) - Yahoo!ニュースミニシアター『アップリンク渋谷』(東京・渋谷)が、5月2




『斬られの仙太』

2021年04月22日 | 演劇
新国立劇場は、1934年に書かれた三好十郎の『斬られの仙太』
その後、1968年に民芸で、1988年に文化座で上演されているが、戦後最初に上演したのは、早稲田大学劇団演劇研究会で、実はこのときは、
「こんな反動的な作品を上演するのは怪しからん」との声があったとは、先日紹介した林さんの話。
これをやったのは、当時は非常に珍しかったのだが、大谷静男さんという大学生の作・演出で創作劇を二本やった後で、自分たちの気持ちに合う劇としては、三好十郎しかなかったからだそうだ。

       

話しは、幕末の常陸真壁の百姓の仙太郎が、偶然に水戸藩の尊皇攘夷運動に巻き込まれ、最後は天狗党に参加することになる。
各地を転戦し、最後は越前の山中で仲間割れで、同士討ちになり、崖から落ちる重傷を負う。
20年後、真壁の村にも、自由民権運動の連中が来て、運動への参加を呼びかけ、「この辺に仙太郎という人はいないか」と聞く。
だが、誰も答えず、黙々と村人は田んぼで草取りを続ける。
そして、連中が逃げるときに田んぼをずかずかと入ったとき、
「田んぼに入るのは許せない」と言う、仙太郎だった。
彼は言う、「維新で偉くなった連中は元は軽輩だった。それに乗れなかった連中が騒いでいるのが自由民権運動で、俺たちには関係ない」と。

今回でも4時間を越えているが、半分は切っているので、二幕目までは盛り上げりに欠けた。
しかし、崖から仙太郎が転落し、舞台が転換して田んぼが現れるところは、さすがに感動した。ただ、黄金色の稲穂は違うと思う。草取りをするのだがら、まだ穂が出たくらいの青々としたときである。演出は上村聡史。
このラストシーンで思ったのは、黒澤明の『七人の侍』のラストの田植えのシーンは、ここからヒントを得たものだろうとのことだ。
黒澤は、三好十郎が脚本を書いたPCL映画の『戦国群盗伝』のセカンド助監督で、この時、御殿場で見た馬の姿に感動したと書いている。また、この監督の滝澤英輔は、戦後1949年に映画『斬られの仙太』を作っているのだから。
この製作は、『ゴジラ』の田中友幸だった。

新国立劇場





『夕陽のギャングたち』

2021年04月21日 | 映画
イタリア・スペイン・アメリカの映画、監督はセルジオ・レオーネである。
「ああ、この映画なのか」と思った。
これのLPは、何百回も聴いているからだ。エンリコ・モリオーネのLPで、以前は横浜駅西口の岡田屋の上にあったスミヤで買ったと思う。
スミヤは、元は静岡のレコード屋だったらしいが、横浜駅西口や渋谷の東邦生命ビルに店があり、映画音楽やドキュメンタリーのLPを沢山そろえていた。

         
話はメキシコで、駅馬車を襲った山賊のロッド・スタイガー一家のところに、バイクに乗ったジェームス・コバーンがダイナマイトの爆風の中から現れる。
丁度、メキシコ革命の時期で、政府軍とパンチョ・ビラ等の反乱軍が戦っている。
コバーンは、元はアイルランド革命軍の人間で、爆弾の専門家。アイルランドは、20世紀の二つの世界戦争の時、どちらかと言えば、ドイツ側にいた。その理由は、反イギリスである。また、アメリカの音楽、演劇、映画等においてアイルランドは、大変に貢献している。
私の卒論は、劇作家ユージン・オニールだが、彼もアイルランド系である。
このオニール、あるいはマックのように、、が入ったり、小文字のMが入るのはアイルランド系で、オコンネル、マック、マクドナルド、マッカーサー等もアイルランド系である。

コバーンは、スタイガーにある町の銀行を襲わせるが、そこには金はなく、多数の政治犯が収容されていて、彼らが解放される。
その後も、二人は、連合して政府軍の装甲列車を襲うなどの戦闘を繰り返す。
中でも、政府軍が列をなしてきた橋を爆破するところはすごいが、模型による特撮だろうか。
最後は、機関車の戦闘にダイナマイトを載せて、政府軍の装甲列車に衝突させて大戦闘になり、スタイガーも射殺される。
その時、コバーンは思い出す、故郷で男2人・女1人の美しい青春の姿。
これは、フランソワ・トリフォーの『突然、炎のごとく』を思い出させた。
ザ・シネマ




大学の意味は・・・

2021年04月20日 | その他
コロナの4波目が来たようで、大学でも対面授業はやめて、オンラインにすることが増えているようだ。
確かに、単に勉強をするだけなら、オンラインでも可能だろう。
だが、大学の意味は、勉強や学習だけではないと思う。
いろんな連中と会い、交流することが大学の意味だと思う。
「世の中には、こんなすごい人間もいるのか」、「この程度の男で受かったの」など、様々な連中と出会うことが最大の意味だと思う。

        

私の場合は、1年の秋に、学生劇団の早稲田大学演劇研究会に入った。
すると、そこには2浪して、8年生の林さんという人がいた。当時、すでに28歳だった。栃木の大田原の林さんは、家の事情で東大を受験していたが受からず2浪になり、仕方なく早稲田に来た。
大学入学は1958年で、当時はまだ新宿には赤線があり、劇団の先輩に連れて行かれたそうだ。
そして、1960年6月15日には、国会に突入した全学連学生の一人だったというのだ。
と言って、特定の党派に属していたわけではなく、早稲田の政経学部の学生の一人としてデモに行き、そのまま国会に入ってしまったのだそうだ。
そんな人が、その劇団にいたとは、本当に驚きましたね。
この人からは、いろんなことを教えてもらった。
モダン・ジャズのこと、吉本隆明のこと、演劇のこと、当時早稲田小劇場を作る早稲田の隣の劇団自由舞台の鈴木忠志らのことなど。
役者としては下手だった鈴木忠志を見た人など、そうざらにはいないに違いない。また、公演の赤字の補填ためにアルバイトで行った東京映画スタジオでの、豊田四郎監督の『甘い汗』での、主演の京マチ子のスタイルが異常に良かったことなど。

教わったことは非常に多いが、私の場合は相当に普通ではないと思うが、大学で意味があるのは、こうした少々普通ではない人と出会うことだと私は思うのだ。


『海のGメン 太平洋の用心棒』

2021年04月19日 | 映画
1967年の大映作品、監督は田中重雄、脚本は長谷川公之。用心棒とは大げさで、要は大蔵省税関職員の話。
外国から、金を密輸する連中を摘発する税関職員の活躍を描くもので、班長は宇津井健、下の職員は、成田三樹夫、藤巻潤、本郷好次郎など。宇津井は、新東宝から来た俳優だが、元から大映の俳優の上にいるのは、さすが。
貨物船の船員に化けて日本に持ってくるので、舞台は横浜港。大映で横浜港が出てくるのは、珍しい。
持ってくる方法の一つに体内に入れるのがあり、なんと肛門から入れてしまったのが最後に出てくる。大映らしい、ダサいというか、臭い方法で笑った。

           
密輸グループの日本人に江波杏子がいて、アジア地域のボスが、ハロルド・コンウェーだった。石原裕次郎のデビュー作『狂った果実』で、北原三枝の外国人の夫となっている人だが、本職はどういう方なのだろうか。
この時期は、外国人俳優は少なく、東京裁判の弁護士だったジョージ・ファーネスも、映画が好きでよく出ていたものだが。

『どん底・1947年東京』

2021年04月17日 | 演劇
私は、劇の古典は、その通りやった方が良いと思っている。
シェークスピアなども、いろいろと趣向を変えてすることがあるが、一度も良いものを見たことがない。
これも、ややそれに近いできと言うべきだろう。

            
しかし、なにせ原作は1910年の帝政ロシアなのだから、変えてみたいと思うのも無理はない。1985年に新劇団協議会が佐藤信の作・演出でやったときは、昭和10年の新宿のトンネル長屋に設定されていた。

この吉永仁郎作、丹野郁弓演出では、1947年末の新橋の焼跡のビルの地下が宿になっていた。もっとも、この『どん底』は、いろんな劇に影響を与えている。菊田一夫の『放浪記』の渋谷の木賃宿、森光子のでんぐり返しで有名なシーンは、明らかにこの『どん底』である。 

そこには、靴屋、仕立屋、元華族の男、担ぎ屋、売春婦などが住んでいる。
いろいろと趣向はあるが、ドラマらしい起伏はないので、1幕は何度か寝てしまった。私の前にいた女性は、休憩で帰ってしまい、二幕目は来なかった。
二幕目は、女性の姉妹をめぐるさや当てがあり、格闘の末に人殺しがあるが、それほど大きなドラマではない。
もともと、ゴーリキーのドラマが、チェーホフ的で日常的な作りだからなのだ。
要は、筋というよりは、役者で見せる劇なので、ここには有名俳優が、日色ともえくらいしかいないので、見るのは辛いのだ。
そして、1947年東京とわざわざ冠しているのに、時代の描写が欠けていると思う。この頃、最大の問題は、「東京裁判」であるはずで、まったく一言も触れないのはどうしたわけなのだろうか。唯一、時代的な話題としては、「宝くじが100万円になった」だけとはどうしたことだろうか。
紀伊國屋サザンシアター