指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

感動をありがたがるバカものたち

2010年06月30日 | その他
ワールドカップも、日本が破れ、テレビ、新聞も少しは静かになるだろう。
だが、近年、一番気になるのは、観客が何かと言うと、感想を求められて
「感動を有難う!」とよく言うことだ。
「バカじゃなかろか」と思ってしまう。

なぜなら、スポーツ、映画、演劇、音楽、文学等のエンターテイメントは、本来他人をエンターテイン、もてなしし感動させるためにやるものである。
だから、それに対してエンターテイナーは、ときとして多額の報酬を得ることができる。
感動したとしても、それに相応しい報酬をもらっているのだから、お礼を言う必要はない。

それを殊更「感動をありがとう」と言うのは、普通のドラマやスポーツには感動がない、と言うことなのだろうか。
多分、そうだろう。

たまに野球場にプロ野球を見に行くと、選手、特にベテラン選手が、時として適当にやっている場面にぶつかることがある。
一年中試合をやっている選手にとって、毎日全力で戦うことは、モチベーションの保持から言っても難しいに違いない。
だが、私はそういう選手を見ると、むしろ人間的で面白いと思ってしまう。
彼らにも生活があり、試合に全力を挙げているばかりではいられないからだ。

よく言われることに、「試合の形勢、勝ち負けが見えてきたらベテラン選手ではなく、若手を使え」と言うのがある。
ベテランは、「今日はもうだめだから早く終わって飲みに行こう」と考えるが、若手はそんな暇はないので、がんばるからである。

観客が「感動をありがとう」などという程度の低い台詞を言って選手を甘やかしているようでは、日本選手は世界で活躍できない。

『悪人』から琴光喜まで

2010年06月28日 | その他
吉田修一の『悪人』はすごい小説である。
近年、小説を読む習慣をなくしているが、この小説は気になっていたが、読む機会がなかった。ところが、先日たまたま図書館の本棚に戻っていたので読む。
傑作である。
ここには、小泉構造改革以後、進行し完全に固定化しつつある階級格差、下層社会の拡大の中で、目標を喪失している若者たちが描かれている。
主人公、長崎の土木作業員・祐一は、知り合っていた保険会社のOL佳乃をたまたま殺害してしまう。彼らは、携帯の出会い系サイトで知り合った。
彼らには、セックスとギャンブルとささやかなグルメ、ショッピングしかない。
生きる目的、目標を喪失した者は、飲む、打つ、買う、しかなくなるのだ。

だが、こうした無目標状況は、決して今始まったことではない。
現在よりももっと完璧に階級が固定化されていた江戸時代末期の日本がまさにそうだった。
特に、西日本がそうで、民俗学者宮本常一によれば、戦後すぐくらいまで、西日本の社会では、女性の処女性に価値は認められておらず、結婚前に性交渉を経験している女性の方が珍重されたというのである。
そこで、こうした庶民の性的アナーキズムに困惑したのが、伊藤博文らの維新の元勲だった。彼らは、下層の武士だったので、庶民の実態をよく知っていた。
彼らは、庶民の非道徳性に対し、西欧にはキリスト教があるが、日本にはそうした道徳がない。そこで持ち出したのが、天皇制であったというわけである。一夫一婦制の家族制度は、こうして天皇家を日本の理想として明治以降に成立した。
また、こうした家族制は、下層武士だった伊藤らの、上層階級への憧れから来たという説もある。

今や、天皇制など若者には全く無縁で、右翼から「立ち上がれ日本」までが言う、「戦後民主主義が日本人の道徳を失わせた」というのは、ある意味正しいのである。
それは、アメリカ占領軍や吉田茂らが天皇を一個の人間として生かす代わりに、天皇制を捨てさせたのだから、日本から道徳性の根幹がなくなったのである。

今日の格差社会の中で、若者は階級上昇の夢もなく、セックスとギャンブルとショッピングに行きつくのは、当然の帰結なのだ。

さて、バカ大関琴光喜である。
以前から、こいつは大嫌いだった。
技がせこく、朝青龍には絶対に勝てないくせに、栃東や白鵬には勝ち、朝青龍の優勝を助けていた。
立会いは汚いし、土俵際でのうっちゃりなど、大関のするべきではない技ばかり出してくる。
やくざに賭博の勝金を取り立てに行って脅かされるなんて、まったくのバカ。
世の中、そんなに甘いもんじゃないよ。
やくざ相手にそんなことをするには相当の覚悟がいるというものである。
そして、ここにも見られるのは、横綱昇進という目標を失った大関の醜態である。
その意味では、琴光喜も、『悪人』に出てくる若者たちと同じ仲間なのだ。
今回の、野球賭博騒動では、モンゴルをはじめ外国人力士が出てこない。
彼らは、野球に興味がないからで、野球賭博汚染をなくすには、さらに外人化を促進させれば良いということになるのだろうか。
日本人で相撲界に入る者は、小さいときは野球をやっていることが多く、野球に興味を持つのは当然だからである。

『悪人』は、妻夫木聡、深津絵里主演の映画が公開されるそうだ。大いに期待したい。

『峰の雪』

2010年06月27日 | 演劇
三好十郎作、児玉庸策演出の民芸公演で、役者もよく、まじめにきちんとやっているが、まったく面白くなかった。
戦争中に書かれた作品で、時は昭和16年秋、太平洋戦争直前に設定されている。
ただ、この劇は戦時中に書かれたものの三好十郎の生前には、発表されなかった。

九州佐賀の陶工名人・治平(内藤安彦)は、時代の要請で茶器等は作れず、碍子の注文ばかりで、作陶はやめ農作業をしている。
そこに出奔していた次女(新沢泉)が戻ってくる。
大陸で何をやっていたか不明で、悪い噂も広まっている。
だが、最後に実は軍関係の重要な業務についていたことが分かり、また治平に軍の機密部品の仕事が来て、再び作陶に戻ると言うもの。

全体にやや散漫な構成で、三好十郎得有の熱い、取り付かれたような情熱的な人物がいない。
戦時中の作品なので、戦争協力はあり、そのために戦後に三好が発表しなかったこともあるだろうが、本来は戯曲のできが悪かったから発表しなかったのではないか。
三好十郎の良さと問題点を再確認した芝居だった。
紀伊国屋サザン・シアター

『カラコルム』

2010年06月26日 | 映画
昭和31年に公開され、キネマ旬報ベストテン3位に入った長編記録映画。
この京都大学学術探検隊の隊長が木原均博士だとは知らなかったが、映画の前半、アフガニスタンのヒンズクシー地方で、小麦の原種を調査するのが木原博士。
横浜市大の木原研究所の創立者である。

題名のカラコルム地方を探検したのは、人類学班の梅棹忠夫で、これは岩波新書の『モゴール族探検記』という、これも面白い本になっている。
映画は、日映新社の製作で、カメラが重鎮林田重男、イーストマンカラー、当時の言葉で言えば総天然色。
音楽は団伊玖麿との連名になっているが、曲調から判断してほとんどは黛敏郎のものだろう。

映画的には、アフガニスタンのヒンズクシー地方で小麦原種を調査する木原班は地味で、カラコルムでモゴール族を調べるカラコルム班の方が映像的に面白い。
最後の氷河地帯の幻想的な映像などは、スチール写真にもなっていて、素晴らしい。
問題はナレーションで、NHKの今福アナウンサーだが、カラコルムをカラコラム、カブールをカーブルと言っているのは、どうしたことだろうか。当時は、誰もろくに知らなかったと言うことだろうか。
イスラム教徒と寺院を回教徒、回教寺院と言うのは、当時の言い方で仕方ないが。
昭和31年は、テレビも始まっていたが、問題ではなく、日映等が作るニュース映画が全盛だった時代で、この長編ドキュメンタリーもできたのだろう。
今回は、特別に再生したとのことで、DVDのきれいなオリジナルの映像だった。
横浜私立大学舞岡キャンパス

つげ義春・藤原マキ夫妻

2010年06月25日 | その他
BSで竹中直人監督の『無能の人』を見て、藤原マキの絵日記文芸春秋のビジュアル文庫本『幸せって何?』を思い出して、読む。
ちょうどつげの『無能の人』や『ゲンセンカン主人』が出た頃だった。
藤原マキは、状況劇場の女優で、『由井小雪』で見たことがある。状況には唯一の普通の女優だった。


この文庫本を読んで、その貧乏暮らしとつげの不安神経症には驚いたが、全体にほのぼのとした生活にはうらやましくさえ思ったものだ。下の娘が、その絵が好きで、よく二人で読んだもので、時には台詞を言い合って演じたものだ。
だが、あたらに学研から出た「増補文庫版」でのつげ義春の談話を見ると、実際はまったく違うものだったらしい。
マキは、実は芸術家志向の大変強い人で、絵本がかなり売れてきても実は少しもうれしくなく、「大人相手の絵を描いて、庶民の意識を変革してやろう」と思っていたと言うのだ。
この辺は、彼女は大阪生まれで、関西芸術座を経て、ぶどうの会、変身などのいたので、当時の新劇の左翼性の影響を強く受けていたのだろう。ほのぼのとした日常などより、ドラマチックくな生活を望んでいたと言うが、これは状況劇場の影響に違いない。

そして、日常生活は、不摂生の極みで、1日にタバコは50本、コーヒー7,8杯、さらに過激な運動による睡眠不足で、胃がんで1991年に死んでしまう。まさに生活習慣病そのものだった。
「太く短く」がモットーだったそうで、その意味では彼女の本望を全うした人生だったようだ。
あらためてご冥福をお祈りする。

『スイング・ジャーナル』休刊

2010年06月21日 | 音楽
ジャズの専門誌『スイング・ジャーナル』が7月号で休刊する、ということは、廃刊である。
ここには大変お世話になった。日本のジャズ評論家など、信じてはいけないと教えてくれたのは、同誌だった。

前にも書いたが、1964年、東京で「世界ジャズ・フェスティバル」が開かれた。
このとき、同誌は大々的キャンペーンを張り、当時高校2年生の私も、見に行った。
マイルスのほか、J・J・ジョンソン・オールスターズ、カーメン・マクレー・トリオ、日本から松本英彦など。

マイルスは、あまりよくわからなかったが、感激して終わった。
そして、夏休みが終わった。
ところが、9月号が出ると、その座談会でみなが否定していた。
さすがにマイルスに文句は付けていなかったが、「J・J・ジョンソンは古いとか、1950年代のジャズだとか何とか」
「えー、あの大宣伝はなんだったの!」

そのとき、気づいたのだ、「日本のジャズ評論家など、ただの業界の太鼓持ち」だと。
大いに感謝しなくてはいけないわけだ。
ジャズ評論家の言動にはくれぐれもお気をつけを。

『倖せは俺らの願い』

2010年06月21日 | 映画
1957年、日活作品、監督宇野重吉、主演はフランキー堺と左幸子、民芸映画社なので、滝沢修、清水将夫、波多野憲など民芸の役者が出ている。
話は、製鉄所のフランキー堺と食品会社の左幸子が、4年間貯金して家を建てる。
そこに左の遠い親類の子供4人が、「父親が死んで身寄りがなくなった」と頼って来る。
「4年間待ったのに冗談じゃない」と予定通り家で式をあげる。
そこでうたわれるのが、「倖せはおいらの願い」である。
労働歌が、ヒットした時代で、他にも「原爆許すまじ」など。
もう1曲、「お婿さんは、何とか、お嫁さんは何とか」と言う曲も歌われるが、これは知らなかった。

ここでもフランキー堺と左幸子は、結婚まで純潔を守っている。
右も左も性的道徳は保守的だったのである。
これが破壊されるのは、前年にデビューした石原裕次郎による「風俗革命」からになる。
作品としては、この2曲の恥ずかしさを除けばきわめてよくできた人情話である。
さすが宇野重吉。
最後、一度は捨てた子供たちを二人が捜し、再会するところは涙が出た。
鶴見、川崎の埋立地でロケしているが、周囲は空き地ばかり。
神保町シアター

『麦の穂の揺れる穂先に』

2010年06月20日 | 演劇
鎌倉芸術館で、平田オリザ作、戌井一郎演出の『麦の穂の揺れる穂先に』を見る。
自慢ではないが、鎌倉とシャンソンが嫌いだ。
どちらも偉そうな顔をして、不当に過大評価されているからだ。
見た感想は、できは悪くないが、見た人すべてに吉田修一の傑作『悪人』を読ませたいと言うものだ。

言うまでもなく、この劇は、小津安二郎の『晩春』『麦秋』をもとにしている。
このような戦後の小津作品は、簡単に言えば父親の笠智衆が、娘の原節子を嫁にやる話である。
そこでは、性的道徳は、きわめて保守的に踏まえられている。
戦後社会の混乱から太陽族に至る性的革命はまったく反映されていない。
そして、結婚に至る過程は、きわめて巧みに構成されている。
『晩春』では、息子二本柳寛が、秋田に赴任することが決まり、その報告に来た杉村春子は、その帰り、「もしもよ、紀子さんが一緒の行ってくれたらな」
と言うと、原節子は「私のようなおばあちゃんでいい?」と聞き承諾する。
そして、杉村は、その日財布を拾ったことを思い出し「やっぱりいいことがあったわ」と喜ぶ。

ここは、数多い杉村の演技でも、映画史に残る上手さであろう。
しかも、これは実に巧みに男からの求婚を回避した方法である。昔から、日本では男は容易には、女性に求婚などしないものだったからである。
その証拠に、その夜家に帰った二本柳に、杉村が原節子の承諾のことを告げるが、彼は大してうれしそうな顔をしないのだ。

このシークエンスは、平田の劇でも使用されている。
そして、最後は江守が、親類の独身女性との再婚を匂わしていたのは、娘が結婚を踏み切るための策略だったことが明かされる。

ともかく、この劇を見て感動している人たちにとっては、多分性的道徳は、昭和20年代の小津安二郎映画と同じなのだろう。
だが、今の現状はどうか。
バブル崩壊以後の格差社会の中で、下流社会層では、吉田修一の『悪人』に見られるように、若者にはセックスとギャンブルしか生きる目的はなくなっている。
内閣参与でもある平田先生は、どのように考えるのでしょうか。

江守は、笠智衆に比しいくら何でも太りすぎ、栗田桃子を原節子に比べるのは可愛そうと言うものだろう。
倉野章子のしぐさは、杉村春子そっくりだったが、わざとまねしているのか。

金語楼映画を見る

2010年06月18日 | 映画
神保町シアターで、柳家金語楼の『三等兵』を見る。
くだらないの一言だが、18番の兵隊もので、金語楼の芸はさすがに笑える。
1959年の新東宝で、このときはすでに58歳なのだから、20歳の新兵を演じるのは、あんまりである。
相手役は、芸者の池内淳子で実に美しい。
丹波哲郎も出ていて、これは笑える。
監督は、斉藤寅二郎の弟子だった曲谷守平で、ほとんどの場面を正面から据えっ放しで撮っている。
喜劇の撮り方は、これが正しいのだ。
戦地に行き、中国人役で川田孝子が出る。
彼女はこの頃、金語楼劇団にいたいたはずだ。金語楼劇団には、和泉雅子もいた。

金語楼は、戦前から昭和30年代まで大人気者だったが、今は評価がきわめて低いと思う。
映画も多数あるが、あまりビデオ化されていない。
この人は、とても上手い人だったが、本質的に完全な一人芸で、他の役者との共演が良くなく、名作がない性だろうか。
あえて言えば、堀川弘通監督の『裸の大将』での小林圭樹との共演くらいか。

映画『カラコルム』上映

2010年06月16日 | 横浜
6月25日(金)午後7時から戸塚区舞岡の横浜市大木原生研で、このページでも話題となった映画『カラコルム』が上映される。
この探検隊に木原生研の創始者木原先生が参加されていたことを記念し、、舞岡キャンパスをPRする目的のようだ。
横浜市営地下鉄舞岡駅から徒歩10分。

詳細は、横浜市大のHP等で。
私は、地下鉄に貼られていたポスターで知った。

ヴィクター・デメ

2010年06月14日 | 音楽
土曜日は、川崎市民ミュージアムで『マナスルに立つ』を見た後、みなとみらいに行き、アフリカン・フェスタ2010を見に行く。
ブルキナ・ファソのヴィクター・デメのコンサート。
北中正和さんに、お会いしたので聞くと、デメは48歳だが、昨年デビューしたばかりで安いので、招聘したのでは、国士舘大の鈴木先生が中心とのこと。

コラ、ギター、バラフォンのポリリズムは、快い。
中で、「メリー・ジェーン」や、はつぴい・えんどのような曲がある。
やはり、彼とブルキナ・ファソに、そういう時代があったのではないか、と言う話になる。
やはり、モリ・カンテのようなマンデ系の音楽である。
大満足で帰る。
10月には日比谷野音でコンサートも開かれるとのこと。

『マナスルに立つ』

2010年06月13日 | 映画
日本山岳会の登山隊が1956年5月、ヒマラヤのマナスル登山に成功する。
その記録映画、監督は山本嘉次郎で、洋画系で公開されたようだ。
私は、小学校の授業として、映画館に連れて行かれて見た記憶がある。
今回、見直して憶えていたのは、第三次キャンプを設営するとき、隊員たちがスクラムを組んで雪の上を踏み固めるシーンと、最後今西という隊員が登頂に成功し頂上で手を上げているシーンのみ。
それしか記憶にないと言うことは、登山等にもともと興味がないと言うことだろうか。
音楽は、渡辺浩子、渡辺岳夫兄妹の父親で、『赤胴鈴之助』の作曲者でもある、作曲家の渡辺浦人で、荘重な響きを奏でる。
この登山では、一次から六次までキャンプを作り、少しづつ荷物を上げて登山する。
ナレーションの森繁久弥は言う。
「登山は、人の肩の上に人が乗り、またその上に人を乗せるようなもので、個人ではなく、すべての人間で登るものなのだ」と。
なかなか上手い説明である。
川崎市民ミュージアム。

『たそがれの東京タワー』

2010年06月12日 | 映画
日本映画専門チャンネルの東京特集、1959年、大映で作られた1時間少しの添え物作品。
主演は仁木多鶴子、この人若尾文子に似た憂い顔だが、大スターにはなれなかった。

話は、銀座のお針子で、実は孤児院出身の仁木が、客のドレスを着て身分を隠し東京タワーで、男と出会って恋に落ちると言うもの。
常套的筋書きでは、相手の男も身分を偽っていて、互いに真実を告白したとき、ハッピー・エンドとなる。
だが、男は身分を「今は職工だね」と名乗っているが、本当は自動車会社の御曹司。
つまり、シンデレラなのだ。
職工と言うのも、今は差別用語だが、私の母親はよく言っていて、
「そんなに勉強が嫌いなら、職工にでもなれ!」と怒られた。
今日では、大卒でも現場労働者を志願する者もいる時代である。
さて、映画は勿論、二人は東京タワーで再会し、結ばれる。
東京タワーが幸福のシンボルだった時代である。

仁木多鶴子は、大毎オリオンズの投手だった小野正一と結婚した。
小野は、左の長身投手で、球も速く1960年には33勝を上げ、オリオンズ優勝に貢献したが、その後はあまりたいした成績ではなかったが、184勝と日本プロ野球史上に残る大投手だった。
その小野も、仁木もすでになくなられていると言う。
相手役の男は誰かと思い、タイトルを見直すと、小林勝彦だった。
ここでは、日活の川地民夫みたいな優さ男で、後年のいかつい悪役の小林からは想像できない顔だった。
この変貌は、平泉征なども同じである。

飛鳥田一雄氏について

2010年06月10日 | 横浜
洞沢さんのリクエストにお応えして、飛鳥田一雄元横浜市長について私見を書く。
1970年代、飛鳥田一雄横浜市長の人気は絶大だった。
その名声に引かれて、全国から有能な人材が集まったことだけでも、その功績は大だったと言えるだろう。
私の場合は、当時大田区に住んでいたので、どこでも良かったのだが、東京、横浜、川崎とを受けて、合格した横浜、川崎の中から給与の高い横浜市に入った。
東京都は一般職では補欠の上位だったが。

市長時代の飛鳥田氏の功績は大なるものがある。
みなとみらい21事業をはじめ、港北ニュータウン、高速道路と地下鉄、金沢埋立て、横浜ベイブリッジ等は、すべて飛鳥田時代の計画「6大事業」である。そこに田村明、鳴海正泰氏らブレーンの力があったことも事実である。
だが、多くの事業は飛鳥田時代には実現できなかった。金も力もなかったからだ。
それは、飛鳥田氏の後の細郷道一市長の手に委ねられた。
細郷氏は、自治省事務次官で、退官後の職としては、当時はやや「役不足」と見られたが、横浜市長に喜んでなり、飛鳥田時代の計画の実施に当たった。その意味では、大変公平で無私な高潔な人だったと思う。
みなとみらい21の区画整理事業の住都公団(現UR)による施工、みなとみらい会社社長への高木文雄氏の就任など、中央の金と人脈を導入することに大きな功績があった。
次の高秀秀信氏は、道路整備にはご功績があったと言うべきだろう。
また、現日産スタジアムの横浜国際競技場建設は彼の力だと言ってよい。国費、公園建設の補助金を獲得して来て、スタジアムを作った。

総じて、飛鳥田氏は、市長時代は歴史残る功績を挙げたと言える。
だが、請われて日本社会党委員長になってからは惨めだった。
それは、市長、知事という大統領と国会議員との差である。
市長にいかに大きな権力があるかは、今の阿久根市長の「悪行」でもよく理解できるだろう。
市長はやろうと思えば何でもできるのである。それを阻止するのは、最後は司法しかない。

皮肉なことに、市長に絶大な力があることを再認識させられたのは、飛鳥田氏の議員転進だったと言うわけである。

さて、中田宏前市長には、どんなご功績があっただろうか。
私は、ゴミの減量化とクール・ビズ、ノーネクタイ運動だけは、彼の功績だと思っている。
参議院の通常選挙では、どんな評価が出るだろうか。多分、厳しいと思うが。

榛谷泰明について

2010年06月09日 | その他
榛谷泰明(はんがい やすあき)氏の名を知っていたら、あなたは相当な日活マニアである。
彼は、鈴木清順の脚本家集団・具流八郎の一員だった。
彼の著作を知ったのは、偶然だった。
図書館では、毎週多数の新刊を入れるため、多数の本、雑誌を廃棄している。
主に読まれない本や、その分野に新刊が出て、情報等が古くなったもの、あるいは児童書で壊れてしまったものなど、等である。

あるとき、『比喩表現事典』と言う本が廻って来た。
著者が榛谷だった。
「あれ、こいつは、清順グループではないか」
それは、様々な比喩を集めたもので、労作としか言いようのないものだった。
彼は、同様の本を何冊か出している。
ご苦労様と言うしかない。

さて、昨日の神代監督の愚作『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』で、百科事典を編纂する男・原田芳雄が出てくる。
そして、思ったのだ、この一日部屋に篭って辞書を編纂している男とは、榛谷泰明のことがヒントになっているのではないか、と。
そう考えると、あの愚作の奇妙な連中も、実在の人間をモデルにしているのかもしれないのである。
本当だろうか。

榛谷氏は、現在は主に北海道で民話の収集、講演をやっているようだ。興味のある方は、彼のHPで。