指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『春の鐘』

2022年04月06日 | 映画

20代のとき、一番好きな監督だったのは、蔵原惟繕だった。『憎いアンちくしょう』『銀座の恋の物語』『何か面白いことないか』などで、凄いのはこれらが皆日活の通常の娯楽作として作られていたことだ。

彼の作品に疑問を持ったのは、1975年に三軒茶屋中央劇場で『雨のアムステルダム』を見たときで、これには本当にがっかりした。萩原健一が騒いでいるだけで、実につまらないと思ったものだ。

 

                                                               

1985年のこれも、それほどひどくはないが、売り物が古手川祐子の裸しかないのだから、大いに泣けてくる。

まあ、古手川や三田佳子、加賀まり子らをきれいに撮ろうとしていることは認められるが。

北大路欽也や三田佳子らの演技が非常におさえて淡々としているので、どこにも劇的な盛上がりがない。

あるのは、最後に三田が、北大路と古手川の隠れ家に乗り込んで来て、狂気的に北大路と自分を包丁で刺すところだけ。

着物と陶器類がすごいが、まさしくバブル時代と思える。藤田敏八が富豪、中尾彬がこれまた金持ちの医者として出てくるのも、実にバブル的。

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ラジオ関東について

2022年04月06日 | その他

大学に入って驚いたことの一つに、みなラジオ関東を知らないことだった。

地方の人間はともかく、東京の人もよく知らないのだ。

ラジオ関東の送信所は、多摩川の川崎側の多摩川大橋の近くにあったので、東京でも南部の池上では強力な電波で入っていたのだ。

                                         

そこでは、『ポート・ジョッキー』などの番組があり、「港が見える云々」を言っていて、横浜の高台にあるように見せていたのだ。

だが、それは建前上のことで、実際はほとんど港区麻布台で制作されていた。

開局の際の競争で、神奈川県の放送局とのことで、河野一郎の力でできたので、横浜から放送しているとの建前が必要だったのだ。

だが、実際は麻布台で作られていたそうで、当時の放送作家には、向田邦子や五木寛之などもいたそうだ。

私の知合いの音楽評論家も、学生時代にラジオ関東でアルバイトをしていたそうだが、麻布台だったそうだ。

また、私は、1980年代に横浜市会の議長秘書となり、マスコミ挨拶の一環で野毛の本社に行った。

そこには、放置された古い放送機材があるだけで、いるのも高齢の留守番の夫婦だけだで、非常に驚いたものだ。

そこで、1990年代に中区長者町に本社を作ることになったが、これは横浜市の外郭から取得したものだが、これも問題ありだった。

理由は簡単で、ビルの大部分が他社が入っていて、自社ビルではなく、貸しビルになっていたからだ。

若竹さんは、細郷道一横浜も「困ったものだ」と言っていたとのことだ。