指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『季節のない街』は横浜だった

2010年03月31日 | 演劇
横浜、野毛のにぎわい座で、「ネオ・野毛ローマンス」というイベントが行われた。
高橋長英はじめ、元横浜ボートシアターの野口英、志麻明子らが横浜ゆかりの小説の語りをやった。
私は、一人芝居とか語りとは、役者のエゴイズムで、見るものは解放されないので、好きではないが、これもそうだった。

だが、読まれた山本周五郎の『季節のない街』の町が、横浜市南区の中村町や八幡町だったことは初めて知った。
これを原作とした黒澤明の『どですかでん』が東京の埋立地で、『青べか物語』が浦安だったので、これも東京の下町だと思っていたが、横浜だったのだ。
そして、これは山本の『どん底』だと思った。
彼は、芝居、歌舞伎が大好きで、当時の市川染五郎・中村万之助兄弟がご贔屓だったそうだ。
この小説を聞くと、改めて人物が明確に芝居のように描かれていたことが分かった。

この野毛の町づくりイベントも、語りなどという中途半端なものではなく、きちんと芝居作りを目指すべきだと思った。
山本周五郎作品なら、いくらでも劇化できると思う。前進座の例もあったはずだ。

『罪』

2010年03月27日 | 演劇
川崎・新百合丘の川崎市アートセンターのある新百合丘の辺境まで行き、アル・カンパニー、蓬莱竜太作・演出、平田満、井上加奈子主演の『罪』を見たが、面白くもなんともないものだった。
こんなつまらない劇に出ざるを得ない平田満に大いに同情した。

話は、知的障害の息子を持つ家族の旅行中の一夜だが、どこにも工夫もひねりもなく、漫然と物語が進行する。
そして、一応福祉の現場の経験のある私から見ても、この知的障害者を持つ家族の姿は、違うと思う。
多くの障害児・者を持つ家庭では、母親が子供の介護に没入し、父親は見向きもされなくなり、その結果、夫婦は離婚の危機を迎えることさえある。
その意味では、なんとも底が浅く、リサーチも考察も少ない、薄い脚本なのだ。
この程度で、蓬莱は岸田戯曲賞を受賞しているのだから、同賞の権威など、もうどこにも存在しないのだろう。

先日の岡田利規の劇もひどかったが、この蓬莱竜太の劇も全く感心できない。
レベルとしては、大学の演劇サークルの自作戯曲劇であろう。
同じ新進劇作家・演出家では、新国立劇場で三島由紀夫の『綾の鼓』を演出した前田司郎は若いのには、意外に正統的でましなように思えるが、この連中はひどいようだ。

『かあちゃんしぐのいやだ』

2010年03月27日 | 映画
今回の新文芸座のにんじんくらぶ特集で、一番見たかったのが、この1961年の川津義郎監督作品。
福井県武生市に住む、有馬稲子一家の貧乏話。
夫の下元勉は、一応簿記を仕事にしているらしいが病弱で、二人の小学生の息子の一家は極貧のレベル。
水道はなく、手押し式ポンプの井戸、有馬は川で洗濯し、子どもはご飯に醤油を掛けて食べている。テレビはおろか、ラジオすらない。唯一の文明の利器時計も古くて止まっている。
ついに下元は、多分結核だろう、入院し一家は生活保護になる。
最後、下元は死ぬが、この極貧生活を書いた作文が全国コンクールで優勝し、その賞状、記念品を父の死の床に供える。賞状等を授与するのは、実際の北福井県知事の特別出演。その他、藤山寛美も、計算が下手で有馬に算盤を習いに来る大家で特別出演で、大いに笑った。
有馬稲子との3人家族になったが、彼らは健気に生きていく。

日本映画には、作文・綴り方映画のジャンルがある。
山本嘉次郎監督、高峰秀子主演の1938年の名作『綴方教室』以来、戦後も小学生の作文を基に水木洋子がシナリオを書いた成瀬巳喜男の1952年の『おかあさん』、やはり作文世界大会で優勝した作品を基にした、1958年の『つづり方兄妹』がある。
これは、関西のやはり貧困家庭を描くもので、二木てるみ、頭師孝雄と言う、東西の名子役対決の久松静児監督作品だった。
これや、今回の川津義郎作品あたりが、作文映画の終わりである。
日本の経済の高度成長、貧困の終了と共に終わったのである。

だが、現在もテレビでは頻繁に同工の番組が放映されている。
「元ヤンキー母親の大家族」と言った類の番組であり、そこでも大家族故の貧しさと健気さ、元気さが描かれる。
日本人は、よほど貧困話と健気さが好きなのだろう。

木村威夫美術の最高作品は

2010年03月26日 | 映画
映画美術の最高齢者、木村威夫さんが亡くなられた。90歳。
木村さんは、戦前に新劇の美術、伊藤喜朔に弟子入りした後、映画界に入る。1945年の大映作品『海を呼ぶ声』が始まりで、戦後作品には、豊田四郎の名作『雁』、『或る女』などがある。特に、大映のスタジオ3棟をつなげて作った無縁坂のセットの『雁』が凄い。

制作再開され移籍した日活では、多数の作品を残している。
一般的には鈴木清順監督の『東京流れ者』『刺青一代』『けんかえれじい』『花と怒涛』が有名だろう。
確かに、それらは素晴らしいが、私は蔵原惟善監督で、芦川いづみ、アイ・ジョージ、宍戸錠主演の『硝子のジョニー・野獣のように見えて』の、モノクロの画面の美術が大好きである。
言うまでもなく、アイ・ジョージのヒット曲を基にした作品で、少し知恵の足りない女・芦川の愛の遍歴物語である。
北海道の函館が頻繁に出てくるが、その情景が素晴らしい。
実際の風景をきちんと選んで撮影させるのも、美術監督の仕事である。
特に、函館の木造の競輪スタンドが実に美しい。
この映画は、黛敏郎の妻だった桂木洋子の最後の出演作品でもある。
桂木が亡くなったとき、朝日新聞は、無視して何も報じなかった。それは、「憎っくき右翼・黛の妻だったからか」と思ったが、彼女の経歴から見れば実に不当なことだった。
また、この『野獣のように見えて』は、芦川いづみの主演作としては、最高である。
是非、木村威夫追悼上映では、必ず上映して欲しいと思う。

杷瑠都はすごい

2010年03月24日 | 相撲
夕方、大相撲を見る。
杷瑠都と琴欧州戦は、どちらも贔屓なのだが、やはり勢いの差で、杷瑠都の勝ちになった。
巨漢、長身の琴欧州が、完璧にひきつけられたのだから、その底力は本当にすごい。
今日、白鳳戦だが、どうなるか。
今場所は、まだ白鳳の方が上手さで、勝つと思うが。
いずれ、杷瑠都に勝てるのは、白鳳のみとなるに違いない。
大関はもちろん、その内間違いなく横綱になるだろう。

『忘れじの人』に泣く

2010年03月22日 | 映画
池袋、新文芸座の「にんじんくらぶ特集」で、昭和30年宝塚映画、岸恵子主演の『忘れじの人』には、泣きました。

原作は、織田作之助の『船場の娘』で、大正から昭和初期、船場の旧家の娘岸恵子が、店の手代山内明と恋仲になるが、家の没落等で山内と別れ、成金十朱久雄の息子金子信夫の妻となる。
だが、岸は、本妻平井岐代子の子ではなく、愛人で芸者だった花井蘭子の娘と分かり、金子の家を追い出され、芸者になる。

そして、戦後、岸の娘の安西響子が、恋人小泉博との結婚を小泉の親に反対されるが、自分の悲劇を話し、安西と小泉の東京への駆け落ちを協力してあげる。
昭和30年代は、今上天皇の美智子妃殿下とのご婚姻に示されるように、日本中に「婚姻は両性の合意によってのみ行われるべき」との「結婚民主主義」が普及した時代である。

多分、この戦後の安西響子の部分は、織田の原作にはなかったものだと思う。
そして、一番感動したのは、実の母親で芸者の花井蘭子が、娘の岸恵子の踊りの発表会で三味線を密かに弾き、舞台の『娘道成寺』が終わったとき、楽屋で息を引き取り、岸と遇会して、親子の名乗りをして死んでしまうところだった。
全くの母物だが、さすがに涙が出た。
監督の杉江敏男は、戦前からヒチコックが好きという映画青年で、すべての画面をコンテ化して撮影する人で、大変テンポ良く出来ていた。
また、岸の周りを、父親の御影公、母平井、番頭見明凡太郎、実の母親花井蘭子、さらに浪花千栄子らのベテランを配すなど、キャステイングも上手い。

併映は、同年の松竹オールスター映画、野村芳太郎監督で、岸恵子、有馬稲子、佐田啓二主演の『太陽は日々新たなり』で、輸出用玩具の工場の笠智衆一家の娘岸恵子と佐田の恋、岸の別れた夫の大木実やその仲間の須賀不二男らの妨害、岸の妹の小山明子への工員田村高広の恋情、大木の姉淡島千景の弟への思いなど盛り沢山の内容。
やたらに筋の展開が早く、また劣化でフィルムが飛ぶので正確に話しが追えない。
一番おかしかったのは、岸恵子らの工場の元工員で、彼らを裏切り、大木らに騙されて模造品の玩具を作ってしまう名優日守新一で、始終泣いている。
その泣き方が完全に「歌っている」のである。まさに泣き節だった。
タイトルに、女優・影万里江の名があったが、どこにも発見できなかった。撮影したが、上映時間の関係で、カットしたのだろうか。
この時代日本映画は、2本立てで上映時間に制約があったため、シナリオ通りに撮影しても、最終段階でカットしてしてしまうことがあった。
先週、お会いした鎌倉アカデミアから東宝に行った加藤茂雄さんも、撮影されて「出てるから見に行ってよ、なんて友達に言っても、映画館で見ると出てなかった」といったことがよくあったそうだ。
影のもそうだったのだろうか。

タウン紙の力

2010年03月22日 | 横浜
20日に、ここでもお知らせした「栄にあった大学・鎌倉アカデミア」を開催したところ、40人近くの方がご参加いただき、大変盛況だった。

中には、鎌倉アカデミアを卒業され、東宝の俳優として多数の作品に出られた加藤茂雄さんがおられた。
加藤さんのお話では、1950、60年代頃、東宝の大部屋には150人くらいの役者がいたそうだ。その中で、今一番有名になったのは、児玉清である。
だが、1970年代初頭の東宝の制作部門の整理・縮小でクビになったそうだ。
加藤さんも東宝をやめた後は、フリーで増村保造監督作品の『大地の子守歌』、『曽根崎心中』等にも出たそうだ。

そして、終了後、アンケートを見て驚いたのは、「何でこの企画を知った」で、一番多かったのが、横浜の地元のフリー・ペーパーのタウン紙「『タウン・ニュース』で見た」との回答だった。
タウン・ニュースは、町田市と横浜市の各区毎に編集、配布されている。
そして、私も毎週家に入れられる南区版のタウン・ニュースを見ている。
現在、新聞の衰退が言われるが、このようにフリー・ペーパーのタウン紙が拡大しているのだろう。
時代の変化を知る一日だった。

『歌う狸御殿』

2010年03月20日 | 映画
戦後、大映で作られた「狸御殿シリーズ」は何本か見ているが、昭和17年に制作された一作目である。
主演は、高山広子と男装の宮城千賀子。
その他、『どうじやねぇ元気かね』の楠木繁夫、元あきれたボーイズの益田喜頓など。
物語は、明らかに『シンデレレラ』だが、筋に細かい工夫があり、感心する。
監督の木村恵吾は、画面を常に変化させていて、飽きさせない。
戦時下、この「愚劣な作品」は、大ヒットしたが、その意味は、この映画が持っている楽しさだろう。
主人公のシンデレラ・ストリーの夢は勿論、周りのレビュー・ダンサー達で醸し出す、楽しさである。多分、戦時下の苦しい生活の中で、それを一瞬忘れさせてくれるときを、提出できたのだろう。

「狸御殿シリーズ」の最後は、昭和40年の西郷輝彦と高田美和の『狸穴町0番地』だが、これを見た高校生のとき、高田美和の網タイツ姿には、興奮しましたね。

やはり海老様は、すごい

2010年03月17日 | テレビ
松本清張生誕100周年とのことで、日本テレビで『霧の旗』が放映された。
松竹での野村芳太郎監督、倍賞千恵子主演以来、山口百恵と三浦友和作品、あるいはテレビでも何度か作られている。話は言うまでもなく人権派の有名弁護士に冤罪の兄の弁護を断られた桐子の復讐劇である。この小説のアイディアは、フランス映画『裁きは終わりぬ』であることを清張自身が明らかにしているが、大変よく出来た話である。
歌舞伎の因果物といえなくもないが。

今度は、桐子は相武沙希、弁護師は市川海老蔵だった。
相武は、相変わらず台詞と声がひどいが、前から見れば随分良くなり、見苦しさはなくなった。
そして、特筆すべきは、市川海老蔵の芝居の上手さである。
一番の見せ場は、桐子に、自分の愛人・戸田菜穂の無実を証明するため、海老蔵が証拠のガス・ライターの提供を懇願するところである。海老蔵は雨中の公園で、泥水の中に額を突っ込んで桐子に懇願する。
この辺は、やはり演技を常に優れた型で表現している歌舞伎役者の凄さである。これは、多分、百恵・友和作品での三国連太郎以来のできだろう。

今回のラストは、海老蔵は、弁護士を辞めるが、桐子は証拠のガスライターを検察庁に送付し、真犯人は逮捕され、戸田菜穂は無罪となり、兄の冤罪も証明される。
この辺は、やはり時代の変化と言うべきか。
松本清張の原作、そして最初の倍賞・野村作品には、階級的復讐が色濃く出ていた。
貧困層の桐子は、富裕な堕落した階級の滝沢修・新珠三千代らを罰して当然という視点があった。
だが、社会的階級差が以前よりはるかに少なくなった今日、ラストをハッピー・エンド風にするのは、仕方ないのだろう。桐子と兄は、零細企業の経営者になっているのだから。
欠点を言えば、異常に音楽がうるさかったこと。
もう少し、音楽を切った方が良かったはずだ。
演出重光了彦

鳩山邦夫に黒子は似合わない

2010年03月16日 | 政治
鳩山邦夫氏が、自民党を離党し、会見で「政界再編の黒子、捨石になる」と言った。
坂本竜馬云々はともかく、黒子は邦夫君には、ふさわしくない。
彼は、「私の友人の友人がアルカイダ・・・」発言にあるように、なにをしても目立つ人で、むしろ、本来目立ちたがり屋である。
その彼が、黒子になって舞台に上がったとしても、役者より目だってしまい、芝居を壊してしまうに違いない。
人間には、やはりもって生まれた性質があり、与謝野薫氏が、捨石と言うなら分かるが、邦夫君が黒子、接着剤と言うのは変だ。

だが、与謝野氏にしても、邦夫君にしても、「自分は主役ではなく、裏方」と言って責任を取ろうとしないところが、今の自民党の問題の大きさを現している。
やはり、小沢一郎は凄いということか。

『栄にあった大学・鎌倉アカデミア』

2010年03月15日 | 横浜
栄区で、文化のボランティア活動をやっている方で、さかえdeつながるアート実行委員会があり、区内で秋に様々なイベントをやっている。
そこからお話があり、今週の土曜日3月20日に、戦後すぐに、栄にもあった鎌倉アカデミアについて、話すことになった。

鎌倉アカデミアは、昭和21年に鎌倉の有志によって鎌倉大学として設立され、光明寺を仮校舎とした。
その後、当時栄にあった海軍燃料廠跡地に移転し、昭和25年まで全盛期には、400人以上の生徒がいた。
ここからは、鈴木清順、山口瞳、いずみたく、前田武彦らが出た。
学長は、後に横浜市大の学長にもなり、国鉄の昭和38年11月の鶴見事故で亡くなられた二本の技術史の創始者で哲学者・三枝博音で、その他吉野秀雄、服部之総、林達夫、中村光夫、遠藤真吾、村山知義ら多彩な教授がいた。

この鎌倉アカデミアの軌跡をたどることで、戦後という時代と栄区の歴史の「古層」を掘りますので、お暇のある方は、是非来てください。

さかえdeつながるアート  アートスクール3
『栄にあった大学・鎌倉アカデミア』

3月20日(土)  午後2時~4時
栄区民文化センター「リリス」会議室 JR本郷台駅前 徒歩3分
講 師  指田 文夫
参加費  500円(お茶とお菓子付き)

当日は、海軍燃料廠と似た海軍工廠の映像が使用されている鈴木清順の『殺しの烙印』の一部の他、神奈川近代文学館作成の『吉野秀雄の生涯』を描いたビデオも特別上映します。

主 催  さかえdeつながるアート実行委員会  http;//www.sakae-art.jp
Eメール  info@saka-art.jp
電 話  080-4150-2700 

鯨調査員、横浜に出没中

2010年03月14日 | 横浜
先週、野毛で飲んでいた。
すると、若いサラリーマン2人組が入ってきた。
会話から想像すると、仕事は、福祉か介護関係らしかった。
そして、ビールを2本飲み、くじらのフライを注文し、食べ終わると、すぐに出て行った。

「初めての客だし、くじら料理の写真も携帯で撮っていた」そうだ。
野毛は、敗戦直後は「くじら横丁」もあり、数年前からくじら料理の復活、普及を進めている。
例のシー・シェパードの代表を逮捕したことで、彼らの支持者はくじら料理にも目を光らせ、実態を監視しようとしているのだろうか。
「相当に怪しいなあ」という結論になった。

私は、昔東京の北品川に住んでいたが、そこには江戸時代に作られた「鯨塚」があった。
つまり、江戸時代から、日本ではどこでも鯨を取り、食し、また丁重に弔っていたのだ。
こうした食文化を無視し、「鯨やイルカは可愛いい」からと、捕鯨に反対にするのは、私は鯨料理を特に好きではないが、本当に「文化破壊」である。
だが、これだけ犬や猫の愛護家が増えている今日、反捕鯨運動は日本でも増えていくに違いない。

核密約問題から分かる二つのこと

2010年03月13日 | 政治
今月、非核三原則をめぐる日本政府とアメリカとの「密約」の公開は、戦後史に残る大事件だが、そこから二つのことが分かると思う。
一つは、非核三原則等の日本の軍事政策に、昭和天皇の意思が強く反映していただろうということであり、もう一つは毎日新聞の凋落に見られるジャーナリズムのあり方である。

元参議院議員の平野貞夫が2004年に出した本に『昭和天皇の極秘指令』がある。あまり知られていない本だが、昭和天皇の本音が窺える大変興味深い本である。
昭和天皇のお好みは、一高、東大出の官僚で、前尾繁三郎、灘尾弘吉、福田赳夫らであり、田中角栄は好きではなかったようだ。それは、当然だろう旧帝国大学は、天皇の官吏を養成するために作られた大学で、そこの秀才を好んだのは当然である。
その前尾は、暗闇の牛と言われ、池田勇人から宏知会を引き継いだが、政治力のなさから大平との争いに負け、衆議院議長に祭挙げられてしまう。
その前尾の側近くにいたのが平野貞夫である。

そして、この昭和天皇の「極秘指令」とは、部分核停条約の早期批准だった。
天皇は、前尾に批准が遅れていた部分核停条約の批准を命令し、田中角栄首相のロッキード問題で揺れる国会で、条約を批准させる。
ここで窺えるのは、昭和天皇の非核政策への強い意思である。
歴代の自民党内閣は、1960年代以降は、核保有を目指して来たが、結局できなかった。
それは、日本人の核アレルギーの大きさもあるが、最終的には昭和天皇の意思だったと私は思う。

そして、沖縄密約のときの「西山太吉事件」とそれへの毎日新聞の対応は、現在の同紙の凋落につながっていると思う。
かつて、朝日、読売、毎日は、三大新聞と言われた。今日では、朝日、読売、日経だろうか。
西山事件で、毎日新聞が権力と戦うことが出来ず、政府の圧力と経済界の不買運動に結局屈したことが、読者の信頼を失い、今日の凋落になったのだと思う。

『ブンガワン・ソロ』

2010年03月13日 | 音楽
今朝の朝日新聞別版に、『ブンガワン・ソロ』が特集されている。
今日では、戦後松田トシが歌って大ヒットした、インドネシア民謡とされてきた同曲が、きちんと作者があったことは有名だろう。
言うまでもなく、作詞・作曲者とは、インドネシアのグサン・マルハトノさんであり、驚いたことに92歳でお元気なのだそうだ。

グサンさんが、1994年に2度目の来日をして、『インドネシア音楽祭』として、パシフィコ横浜で公演をしたときには、中村とうようさんの厳命で、会場手配等をお手伝いした。
記事にも出ていたが、1951年に新東宝、市川崑監督で映画にもなっていて、以前フィルム・センターで見たが、あまり記憶に残るような作品ではなかった。池部良や森繁久弥が出たもので、一種の珍品である。

だが、あの悠揚せまらざるメロディーは大変素晴らしい。
インドネシアは、東南アジアでは、最も様々な文化が融合した国である。
中世には、インドのヒンズー文化、イスラム教、近代になってからは、初めにポルトガル、そしてオランダと様々な異国、異教文化が入って来た。
日本も、ほんの少し占領・支配した時期があった。

最近、インドネシアのレコードを聞いていなかったので、この週末は久しぶりに、『ガプーラ』のミニマル・ミュージックのようなトリップ音楽を聴いてみることにする。

『むかしの歌』

2010年03月11日 | 映画
1939年の東宝京都作品、明治10年代の大阪船場、廻船問屋兵庫屋の娘花井蘭子の数奇な運命を描くもの。
以前から、見たいと思っていて、やっと見られて傑作だったので、大変幸福な気持ちになった。

花井は、同じ豪商和泉屋の息子藤尾順と許婚だが,関係はなかなか進まない。
そこに、車引きに身を売ろうとした山根寿子に遭遇する。
山根を花井は家に引き取り、その旨を山根の家に藤尾を報告に行かせる。
そこで、藤尾は、母親の伊藤智子の様子に不可解なものを感じ、「もしや・・・」と思い、花井を山根の長屋に連れて行き、伊藤と対面させると、伊藤にはただならない表情を表し、花井も伊藤が実は母親であることに気づく。
元々、花井の父の進藤英太郎は放蕩者で、花井は実の妻ではなく、愛人の伊藤智子に生ませた子だったのだ。

あまりのことに動揺する花井は、山根を藤尾のところに置かせる。
そして、西南戦争が起き、薩摩軍側に投資していた進藤は破産してしまう。
最後、花井は、藤尾と山根との将来を期待しつつ、自らは芸者として色町に出る。
花井は、明るい表情で人力車で置屋へと向かう。

とてもよく出来たシナリオで感心したが、それもそのはず、脚本は、『女の一生』の森本薫なのだ。
森本は、石田民三の映画では、この前作の『花ちりぬ』も書き、寺田屋騒動を全員女優で描くと言う秀作を作っているが、私は見ていない。
また、森本は、地元の劇団エラン・ビタール等を通じ映画界との交流があり、それが彼の名作で、映画監督一家を舞台にした戯曲『華々しき一族』を作り出したのだろう。
助監督は、市川崑。
実際に、大阪の船場でロケしたらしいが、船場はまさに水路に囲まれた船便の町だった。戦災と戦後の埋め立てで、何の情緒もない場所になってしまったが。

花井蘭子は、戦後の『細雪』での長女など大人しい役が多く、ただの美人女優と思っていたが、ここでは娘役をはつらつと演じていて、少々驚く。
許婚の藤尾順は、少しクセのある脇役の役者だったが、中原早苗の実父である。
神保町シアター