指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

恵方参りの方が、初詣よりも歴史がある

2018年01月30日 | その他

寒い寒いと言っているが、今週末は節分で、節分と言えば、今や日本全国恵方巻らしい。

「恵方巻など昔からはない、コンビニの陰謀だ」とも言われている。

確かに節分に恵方巻を食べるのは、東日本ではなかった習慣だったと思う。代わりにあったのは、ちらし寿司を食べる習慣だったと記憶する。

ただ、恵方という考え方は江戸時代からあり、正月には近所の恵方の神社仏閣にお参りをするというのが、江戸庶民の正月の習慣だった。

嘘だと思うなら、永井荷風の小説『踊子』を読めばよい。

そこでは浅草のバンドマン(楽隊屋とでも言うべきだが)と踊子(ダンサー)の夫妻が、今年の恵方にお参りをするという場面が出てくる。

これは大映で映画化されていて、恵方参りの場面は出てこないが、清水宏監督、京マチ子、淡島千景、船越英二らの共演でなかなか面白い映画である。

                       

初詣で、神社仏閣に行くことが広まったのは、昭和になってからの電鉄会社の広告宣伝事業の成果で、中でも京王電鉄が始めたという説があるが、多分本当だろうと思う。

都市の近郊鉄道が発達するまで、車もない時代、普通の庶民が遠くの神社仏閣に行くことはできなかったからである。

お金持ちは、人力車で遠くの神社等のお参りに行くことはできただろうが。

恵方巻を非難する方は、初詣も非難すべきということになるわけだ。

 


沢島忠、死去

2018年01月29日 | 映画

沢島忠、死去、92歳。

東映の全盛時代、京都で数多くの時代劇映画を作った沢島忠監督が亡くなられた。

ともかくどれもが面白い作品で、キネマ旬報ベストテンに入るような作品は1本もないが、沢島忠を日本映画史に残る名監督と言って間違いないだろと思う。

時代劇ミュージカルなどという信じがたい作品を易々と作ってしまった才人である。

中で、私が好きなのは、美空ひばりと江利チエミの共演のミュージカル『ひばり・チエミの弥次喜多道中記』である。

そしてこの人の功績としては、1963年に鶴田浩二主演で『人生劇場 飛車角』を作ったことで、これが日本映画史のやくざ映画の始まりを作ったのである。

       

だが、一般に言われているのは、鶴田浩二と俊藤浩司によって東映から沢島はたたき出されたとされている。

どういう経緯があったのかは、分からないが、沢島らがやってきた時代劇は、ある意味で絵空事の劇で、その後のやくざ映画の現実的な世界とは違うといえるだろう。

東映を出たのちは、主に美空ひばりの舞台の作・演出をやっていて、私もコマ劇場で何本か見たことがあるが、そう優れたものではなかったのは、東映時代のような優秀なスタッフに恵まれなかったからだろうか。 

日本映画界に偉大な足跡を残された名監督のご冥福をお祈りしたい。

  1. 1957.04.02 鳳城の花嫁  東映京都  ... 助監督
  2. 1957.12.15 忍術御前試合  東映京都
  3. 1958.02.05 江戸の名物男 一心太助  東映京都
  4. 1958.04.01 ひばり捕物帖 かんざし小判  東映京都
  5. 1958.07.13 殿さま弥次喜多 怪談道中  東映京都
  6. 1958.07.30 若君千両傘  東映京都
  7. 1958.10.22 一心太助 天下の一大事  東映京都
  8. 1958.12.15 若さま侍捕物帖 紅鶴屋敷  東映京都
  9. 1959.01.03 殿さま弥次喜多 捕物道中  東映京都
  10. 1959.03.03 右門捕物帖 片目の狼  東映京都
  11. 1959.04.01 お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷  東映京都
  12. 1959.07.07 お染久松 そよ風日傘  東映京都
  13. 1959.07.26 江戸っ子判官とふり袖小僧  東映京都
  14. 1959.11.29 一心太助 男の中の男一匹  東映京都
  15. 1960.01.15 殿さま弥次喜多  東映京都
  16. 1960.03.01 右門捕物帖 地獄の風車  東映京都
  17. 1960.03.29 ひばりの森の石松  東映京都
  18. 1960.06.05 暴れん坊兄弟  東映京都
  19. 1960.09.18 海賊八幡船  東映京都
  20. 1960.11.22 森の石松鬼より怖い  東映京都
  21. 1961.01.03 家光と彦左と一心太助  東映京都
  22. 1961.04.09 富士に立つ若武者  東映京都
  23. 1961.05.17 白馬城の花嫁  東映京都
  24. 1961.07.19 水戸黄門 助さん格さん大暴れ  東映京都
  25. 1961.09.23 若さま侍捕物帳 黒い椿  東映京都
  26. 1962.01.03 ひばり・チエミの弥次喜多道中記  東映京都
  27. 1962.01.14 大江戸評判記 美男の顔役  東映京都
  28. 1962.06.03 サラリーマン一心太助  東映東京
  29. 1962.09.01 酔いどれ無双剣  東映京都
  30. 1963.01.09 ひばり・チエミのおしどり千両傘  東映京都
  31. 1963.01.15 一心太助 男一匹道中記  東映京都
  32. 1963.03.16 人生劇場 飛車角  東映東京
  33. 1963.05.25 人生劇場 続飛車角  東映東京
  34. 1963.09.14 おれは侍だ! 命を賭ける三人  東映京都
  35. 1963.11.01 おかしな奴  東映東京
  36. 1964.03.01 人生劇場 新・飛車角  東映東京
  37. 1964.09.16 間諜  東映京都
  38. 1965.02.25 いれずみ判官  東映京都
  39. 1965.05.22 股旅三人やくざ  東映京都
  40. 1965.09.18 新蛇姫様 お島千太郎  東映京都
  41. 1966.01.26 小判鮫 お役者仁義  東映京都
  42. 1966.04.13 のれん一代 女侠  東映京都
  43. 1966.12.13 冒険大活劇 黄金の盗賊  東映京都
  44. 1968.09.07 北穂高絶唱  東京映画
  45. 1969.06.28 ボルネオ大将 赤道に賭ける  東京映画
  46. 1969.12.05 新選組  三船プロ
  47. 1971.04.15 幻の殺意  コマ・プロ
  48. 1971.11.20 女の花道  東京映画=日本コロンビア
  49. 1977.03.19 巨人軍物語進め!!栄光へ  日本映画新社

 


西部邁、死去

2018年01月28日 | 政治

西部邁氏が、死去された。

       

勿論、政治思想的には同意できないが、私は異端の孤立している人が好きなので、結構好意的に見ていて、MXテレビの『西部ゼミナール』は毎週見ていた。

自殺とは驚いたが、やはり中村とうようさんのように純粋な人だったのだろうか。

ご冥福をお祈りしたい。


『八甲田山』

2018年01月27日 | 映画

ドキュメンタリーの『八甲田山』を見たので、森谷司郎監督のも港南中央のTSUTAYAにあったので、見てみた。

1977年頃に見ているはずだが、ノートにはないので、いつかは分からない。

ただ、見ていたのは間違いなく、市会事務局の先輩の方とこの映画について話したことがあるからだ。

それは、Sさんという、多分40歳くらいの独身の方で、常任委員会の担当書記で、彼に連れられて委員会の視察に行った時のことだ。

大阪だったと思うが、昼間の視察、さらに食事が終わって寝る前にホテルで休んでいるとき、この映画の話になった。

どういう経緯かは今は憶えていないが、作品中の秋吉久美子のことになり、彼は言った。

     

「すごい可愛い子だったね」 独身だったので、随分と純粋な人だったと思う。

今、見返してみると、雪の中の行軍だけが延々と続く映画で、見ること自体が苦闘のような作品であるが、どうしてこんな映画が大ヒットしたのか不思議に思える。やはり、創価学会のお力だったのだろうか。

そう考えると、Sさんは、麻雀や競馬などの賭け事が大好きな方で、普通は映画を見る方ではなかったので、この方も信者だったのだろうか。今、生きておられれば80歳は越えていると思うが。

この映画で、余計な行為をして全滅を招いてしまう師団本部の少佐・三国連太郎は、最後に責任を取って拳銃で自殺するが、本当は凍傷だったので、指で引き金が引けるはずはなかったそうだ。


「相撲は演劇である」 『ミュージック・マガジン・2月号』に書きました

2018年01月26日 | 相撲

昨年の新国立劇場の「日本の演劇の力」シリーズについて以来、久しぶりに雑誌『ミュージック・マガジン2月号』の「ポイント・

オブ・ビュー」(183頁)に、今話題の大相撲について、書きました。

その趣旨は、相撲は神事でもスポーツでもなく、演劇だというものです。

これは、かの折口信夫先生の言葉で、相撲の根底は、「神と精霊との戦い」があり、農作を予祝する行事であるとしている。

もちろん、江戸時代以後の相撲の変遷と発展もあるが、今でも相撲には、原初の演劇の要素を色濃く残している。

力士の丁髷、花道、仕切り、また土俵の上を巻く幕は、歌舞伎の劇場にある「一文字幕」と同じ趣旨であり、聖域と俗世間を区切る境なのである。また、千秋楽、中入り、打ち止め等も、相撲と寄席にのみ残る仕来りである。

だから、相撲の決り手は、土俵の土という汚れにまみれたり、聖域の外に出て普通の人間になれば負けというルールは、未だに神と精霊との闘いという相撲の本質を持っているのである。

 

              

さて、大相撲春場所は、今日(1月26日 金曜日)の時点で、ついに横綱の鶴竜が2敗となり、前頭3枚目の栃ノ心が1敗で、逆転になった。

ジョージア出身の栃ノ心は、怪力で一時は関脇にまで昇ったが、膝の怪我で幕下までに落ちたが回復してきた。

栃ノ心、さらにブラジル出身の前頭8枚目魁聖の活躍も面白い。

週末の結果が期待されるところである。


1902年1月には 『ドキュメンタリー八甲田山』

2018年01月25日 | 映画

今週の月曜は横浜でも大雪だったが、1902年1月、明治35年には、八甲田山雪中行軍遭難事件が起きている。

新田次郎の小説を基に、森谷司郎が『八甲田山』として映画化し、大ヒットして有名になった。

これは、その事件を記録映画的に作ったもので、日本とイタリアの合作だった。

           

これが優れているのは、線画で行軍の軌跡を描いていることである。これを見て、「ああそうなのか」と初めて分かった。

八甲田は、標高700メートルのなだらかな山で、今では自転車でも行けるような山なのだそうだ。だが、冬は、日本海等からの強風と豪雪で、到底踏破できるものではなく、また現在は植林によって多くの森林があるが、当時はなく目標物も少なくて、この事件の前にも何度か冬季の遭難事件があったのだそうだ。

森谷作品では、一体北大路欣也の青森の5連隊、高倉健の弘前31連隊がどこをどう歩き、北大路の5連隊が遭難し、また高倉の隊が遭難せずに帰還したかが全く分からなかったことである。

まさにその意味では、「死の彷徨」で、見ていて非常にイライラさせられたものだ。

また、新田次郎の小説や映画では、5連隊と31連隊とが行軍競争したことになっているが、それは事実ではなく、偶然行われたことなのだそうだ。

しかし、この青森5連隊の遭難事件は、帝国陸軍の問題点が、典型的に現れていると思う。

それは、まず装備の貧弱さであり、現地の状況を無視した行軍である。

そして最後は、「為せば成る」の精神主義で、できなければ、そこで死を選ぶという、英雄主義であり、武士道への誤解である。

映画でも有名になった「天は我を見捨てたり!」には、一般隊員は士気喪失して倒れて死んだ者も多かったそうだ。

誠にひどい話である。

日本映画専門チャンネル


『蛇娘と白髪魔』

2018年01月23日 | 映画

港南中央のTSUTAYAに行くと、あった。題名からみて、新東宝だと思うと大映だった。

監督はもちろん湯浅憲明で、脚本は長谷川公之、なぜこんな古臭い映画が作られたかといえば、原作が楳図かずおで、人気だったからだろう。

                            

児童養護施設、昔の言葉で言えば孤児院から、小百合・松井八知栄が父親の北原義郎に豪邸に連れて来られる。孤児院から自分の家に連れて来られるとは事情があるなと思う。生まれたときに、産院で取り違えられたことがあったことが後に分かるが、当時は病院での赤ん坊の取り違え事件がよくあって大騒ぎになっていた。

北原は、動物学者らしく、地下室には多量の蛇が飼育されていて、母親は浜田ゆう子で、姉の高橋まゆみがいて、これが蛇娘である。

北原が研究のために外国に行ってしまい、一人残された松井に次から次へと恐怖の体験が襲う。

高橋は、松井の美貌を恨んで様々ないじめをし、浜田もどこか松井に冷たいが、どこまでも明るく可憐な松井は、すべてを受け入れて生きる。

だが、最後に女中の目黒幸子が白髪魔の実態を現し、松井を襲おうとし、彼女は孤児院の青年の平泉征の協力で、目黒や高橋を退治して無事助かる。

目黒のような女優が、女中と小さな役なので、きっと何かあるとその通りだった。

大映末期の狂い咲きのような珍作だった。

松井はテレビの人気子役だったそうで、芝居は非常に上手いが、役者はやめてプロボーラーになったとのこと。大映のその後を考えれば、賢明な選択だったと思う。

 

 

 


川崎の映画

2018年01月20日 | 映画

全国の都市で一番映画の舞台になっているのは東京で、横浜も多いが、川崎も結構ある。

                 

戦前の名作木村荘十二監督の1936年の『兄いもうと』は、川崎の多摩川河原の登戸あたりで、戦後の成瀬巳喜男、今井正のリメイクももちろん、登戸付近である。戦前の木村作品が戦後の2作品と大きく異なる点は、土木作業員、川人足たちが、みな裸で褌姿であることで、これはプロキノのメンバーだった木村たちの肉体労働者の表現の象徴なのだと思う。戦前のプロレタリア小説の労働者は、旋盤工だったそうだが、土木作業員は、褌なのだと思われ、親分の小杉義男だけはパッチで尻が裸ではない。

戦時中だが、千葉泰樹監督の1940年の『煉瓦女工』の主な舞台は、横浜の生麦だが、一部川崎も入っていると思われる。この映画の主人公は矢口陽子で、後に黒澤明と結婚する女優である。

戦後の作品では、はっきりとはわからないが、小林正樹の1954年の『この広い空のどこかに』の乾物屋が川崎のように見える。

はっきりと川崎が舞台とわかるのは、大島渚の監督デビュー作の1959年の『愛と希望の街』で、主人公の少年は、金持ちの女子高生の富永ユキに、川崎駅前で鳩を売る。まだ、京浜急行は高架になっておらず、長い踏切が見え、また川崎市電が止まっているのも遠くに見える。

1968年の日活の樋口弘美監督の『娘の季節』は、川崎の臨港バスの運転手杉良太郎と車掌松原智恵子の話で、ここには川崎の向ヶ丘遊園地での組合主催のハイキングという、なんとも民青的なイベントも出てくる。

深作欣二の「与太者シリーズ」や、日活の「関東シリーズ」にも川崎を舞台にした作品があったはずだ。

川崎と言えば、やはり労働者の町で、恩地日出夫監督の1968年『めぐりあい』では、黒沢年男と酒井和歌子が共に川崎の会社で働いていたはずだ。また、森谷司郎監督の1968年の『兄貴の恋人』でも、酒井和歌子の家は川崎の工場地帯のスナックだったと思う。

また、超有名な映画、黒澤明の『生きる』の志村喬が市民課長をしているのは川崎市で、あそこに出てくる市役所は、当時の川崎市役所の内部をスケッチしてセットにしたものである。


「映画監督・小林正樹」 小笠原清・梶山弘子 岩波書店

2018年01月19日 | 映画

小林正樹は、新藤兼人と並んで、私は苦手な監督である。理由は簡単で、すごいとは思うが、まじめすぎて息をつくところがなく疲れてしまうからだ。

この大著は、小林自身の自作解説もあり、非常に面白い。『人間の条件』の主役は、にんじん側は、南原宏冶と有馬稲子だったが、小林監督の意思で、仲代達矢と新珠三千代になったという。原作の五味川純平も有馬稲子が理想だったようだが、それでは仲代の意味は半減したと思う。当時、仲代は新人の無名の俳優だったのだから。小林は、後の『日本の青春』でも新珠を起用しているので、新珠のような清潔な女優が好みだったのだろう。

中では、にんじんくらぶにいて、映画『怪談』の時に助監督を務めた小笠原氏の話が非常に興味深い。

なぜ、『怪談』が大赤字になり、ついにはくらぶの倒産にまで行ったのかと言えば、この時の製作の内山義重と高島道吉の非力さにあったとしている。彼らは、五所兵之助や新藤兼人の貧乏プロで製作してきた方で、大作の経験はなかったのだ。

製作条件で言えば、『人間の条件』の方が、ロケやエキストラの動員などは大変だったが、そこでは松竹の助監督たちが現場にいたので、小林正樹や撮影の宮島義勇らのわが儘に静止を掛けることができたのだ。

また、『怪談』は、当初東宝の藤本真澄からは、宝塚映画撮影所を提供するからという話が途中で消えたのは、藤本の若槻繁への嫉妬からだとしているのは頷ける見方である。一俳優プロダクションにすぎないにんじんくらぶが、大作の『怪談』を作るのは不遜だという見方があったのも、当時後退期にあった日本映画界から見れば、当然のことのように思える。

ただ、私は所詮は化物映画の『怪談』を宮島義勇のリアリズムで撮ろうとしたことが最大の間違いだったと思うのだ。世界怪奇映画史上でも不朽の名作である、中川信夫監督の『東海道四谷怪談』は、弱小スタジオの新東宝だったので、全篇が黒澤治安の美術、西本正の撮影で幻想的に作られていて、新東宝の予算不足を見せていないのであるのだから。

私は、遺作の『食卓のない家』以外、小林の映画を見ているが、中では『からみあい』と晩年の『化石』が好きである。

どちらもそうは力まずに軽く撮っているからである。

いつかは、私たちは『食卓のない家』を見ることができるのだろうか。

 


砂川捨丸が抜けていた 『昭和芸人七人の最期』

2018年01月15日 | 大衆芸能

笹山敬輔の『昭和芸人七人の最期』は、よく調べてある非常に良い本だが、一つだけ気になるところがあった。

それは、エンタツ・アチャコに触れて、漫才の歴史について記述しているとことである。

近代の漫才の初めを玉子屋円辰にしているのは良いが、砂川捨丸について一切触れていないのは、どうかなと思った。

捨丸は、江州音頭の音頭取りでもあり、鼓を持つという古式の形態でありながら、近代漫才のしゃべくり漫才もやった人で、大変に人気のある漫才で、中村春代などのコンビでラジオ、テレビにもよく出ていた。

この人で有名なのは、『串本節』で、「ここは串本、向いは大島・・・」は、大変有名な歌で、全国に和歌山の串本を知らせることになった。

笹山氏は、富山の生まれだそうで、富山は関西文化圏なので、砂川捨丸も聞いていると思っていたが、捨丸は1971年に死んでいるので、1979年生まれの笹山氏は聞いておられないのも仕方ないのだが。

 


帯状疱疹になって

2018年01月14日 | その他

左足の付け根に発疹が出て、腰や筋肉に張りも出てきたのは、6日頃だった。これは、1月1日にバス旅行に行き、一日座席に押し付けられていて、さらに少し歩いたことの性だと思っていた。

でも、少し長引くので、近所の医者に行く。初めてだったが、なんと受付に3月30日で閉院すると書いてある。

「こりゃだめだ」と思い、中も相当に汚れていてお世辞にも綺麗とは言えない室内だった。

だが、先生は「こりゃ帯状疱疹だな、いろいろな出方があるので、典型的ではないが帯状疱疹なので、薬を飲んでくれ」と言われ、すぐ近くの薬局で処方薬を貰うが、1週間分で6500円と相当に高い。

まあ、仕方のないことだと思い、寝るときには腰が痛いので、ロキソニンで痛みを抑えて過ごしている。

遠くに行くのは嫌なので、黄金町のシネマ・ジャックで『永遠のジャンゴ』を見る。

              

入口には、梶原俊幸君もいたので、「今年もよろしく」と新年の挨拶を交わす。

ジャンゴ・ラインハルトは、1960年代からチャーリー・クリスチャンと並び、伝説のジャズ・ギタリストだった。

言うまでもなく、ギターは、イギリスやアイルランドの楽器ではなく、アラブ、スペイン系の楽器である。

だから、カントリーやフォークでは、当初はギターはなく、フィドル、つまりバイオリンがギターの代わりをしていた。

幕末にペリーが来航し、その時彼らは、黒奴踊り、ミンストレル・ショーを日本人に横浜で見せた。

その時の浮世絵について、音楽学者で横浜市の助役も務めた方が、その楽器編成について、

「ギター、バンジョー・・・」と本で書いていたのには驚いた。それはギターではなく、バイオリンを横にしてリズム楽器として使用していたのである。

クラシックの学者は、ギターの由来も知らないのかと驚愕したものだ。

そのようにギターは、スペイン系の楽器で、アメリカのポリュラー音楽に取り入れられたのは、非常に遅くルイジアナなどのスペイン、フランス地域から北上した。

そして、東部のアパラチア山脈の石炭の鉱山地帯で下層の白人や黒人たちと交流し、カントリーやブルースになったのである。

だから、アメリカではギター音楽の発展は遅れていたので、ジプシー音楽だったジャンゴなどからも多大な影響をジャズは受けたのである。

ナチス政権下のパリでのジャンゴから始まり、国境越え等が描かれるが、「音楽家と弾圧政権」という図式で、やや退屈で寝てしまった。

最後、解放後のパリで、ジャンゴは虐殺されたジプシーらを追悼して「レクイエム」を指揮する。

 


『戦場にかける橋』

2018年01月09日 | 映画

フィルムセンターの新年は、ソニーピクチャーズ特集で、『戦場にかける橋』を見る。

これを見るのは3度目で、最初は、私の一番上の姉が1958年に結婚し、その新居に私の兄などと遊びに行ったとき、白楽の映画館に連れて行ってくれた。

超満員で私はどうにか椅子に座って見たが、最期に機関車が爆破された橋から落下すること以外何も憶えていない。

二度目は、数年前にテレビで、見たがあまり強い記憶にない。

今回見て、これはすごい台詞劇で、明らかに反戦映画であると思った。

ビルマの山中の収容所にイギリス人捕虜が連れられて来て、クワイ川の架橋作業に従事させられる。このコーラスは『クワイ川マーチ』として日本でも大ヒット曲だった。

収容所長は早川雪州で、典型的な日本軍人を演じるが、描き方はそうひどくない。日本、イギリスへの描写は結構公平である。

                                     

それは、脚本のカール・フォアマンが、赤狩りに掛り、ハリウッドからイギリスに移った者だからだろう。

最初、イギリス人捕虜で、将校を労役に従事させるか否かで、早川との対立がある。ジュネーブ条約では、負傷者と将校は労役除外なのだ。

当初、イギリス人捕虜らは、このバンコクとラングーンを結ぶ鉄道の完成は日本軍を助けるものなのでサボタージュする意識もあった。

だが、捕虜代表のアレック・ギネスは、自分たちの手で橋を完成することが、自分たちの意欲向上にも繋がるとして、橋の設置場所の変更や設計変更をして建設作業に邁進させる。

映画の前半は、この収容所でのドラマが中心に進む。このくだりはすごい台詞劇であることに感心した。

後半は、戦場から脱出してイギリス軍に助けられたアメリカ人ウイリアム・ホールデンらによる橋の爆破計画になる。

現地の人間の協力を得て現場に行く細かい経緯があるが、最初の列車が通過する時、彼らが仕掛けた爆弾が破裂して橋は崩れ、蒸気機関車も川に落下する。

この爆破の経緯も細かく、一度は爆弾が見つかり、日本側にいるイギリス人が爆弾を除去しようとし、格闘になり、爆破側は殺されるが、除去側のイギリス人が死ぬとき倒れてダイナマイトに電気を点火するテコの上に乗って押してしまい爆破になるという皮肉。

                              

つまり、戦争には勝者も敗者もないという意味である。

最初と最後は空を飛ぶ鳥の姿であり、人間の行為の虚しさを表現しているのだと思う。

撮影は、セイロン、今のスリランカで行われたそうだ。

監督のデビット・リーンは、非常に興味深い人で、このビルマの他、『アラビアのローレンス』ではアラブを、『ドクトル・ジバコ』ではロシアを、『ライアンの娘』ではアイルランドと、西欧以外を題材としている。

イギリスには、こうした人間がいるもので、日本に来て『怪談』などを書いたラフカディオ・ハーンもそうで、彼は来日の前に、ギリシャやカリブ海に行っていて、その非西欧的な文化を称賛している。その延長線上に日本文化への共感があったのだと思う。

デビット・リーンは、1950年代に日本の女優岸恵子にご執心だったそうで、それは上手くいかず、岸は結局フランス人のイブ・シャンピと結婚してしまう。

一方、デビット・リーンはインド人女性と結婚したそうで、彼のオリエンタル趣味は一貫していることになる。

 

 


やはり、間違っているのではないか 安部晋三年頭記者会見

2018年01月06日 | 政治

一昨日の午後、NHKを見ていたら急に安倍首相の記者会見になった。

例によって大げさな表現で無内容な台詞の羅列だったが、憲法改正については根本的に間違っているように感じた。

彼は、憲法を「国のあるべき姿、理想の姿・・・」の定めと言っていたが間違いである。

憲法は、もともとは国民が権力(国家)の力を抑制するための最低限の事柄を決めたもので、国の理想像ではない。

ともかく、彼は「上から目線」で、国民に命令することが政治だと思っているようだが、これも完全な間違いである。

その意味では、安部晋三様は、北の国の首領様と大して変わりないことになる。

 


『昭和芸人七人の最期』 笹山敬輔(文春文庫)

2018年01月05日 | 大衆芸能

七人の芸人とは、榎本健一、古川ロッパ、横山エンタツ、石田一松、清水金一、柳家金語楼、トニー・谷である。

エノケン、ロッパ、エンタツらについては、ほとんど知っていたことばかりだが、石田一松、清水金一、柳家金語楼、トニー・谷については初めて知ったことも多くあった。

そして、みな早世しているのだが、ロッパの57歳、石田一松の53、シミキン54歳は異常としても、エノケン65歳、エンタツ74歳、トニー・谷の69歳は、そう早かったわけではない。

当時の平均年齢から見れば、少し早いなという程度である。私の父は、1901年生11月まれで、1960年3月に死んだので58歳だった。脳梗塞で一度倒れたのに、ほとんど養生をせず、降圧剤も飲んでいなかったのだから再発したのも仕方なかったのだろう。要は、自分の体に自信があり、年をとったらそれなりの対応しないといけないという今の「健康思想」はなかったからである。

芸能人ではそれ以上で、体が悪いと知られると仕事が減るとして隠して活動し続け、病気が見つかった時は手遅れというのが普通だった。

この芸人に共通する要素として、今のテレビ芸人とはまったく違い、芸があることだが、音楽、特にアメリカのポピュラー音楽とダンスの素養があったことである。

柳家金語楼はどうかと思われるかもしないが、彼もジャズが好きで、金語楼バンドを持って実演したこともあるのだ。

まあ、芸人とは歌が上手いことが最低の条件で、それはタモリや渥美清、森繁久弥を見てもそうだろう。

作者は、アクションで人気者になった芸人が、泣かせる芝居になることを「堕落」のように見なしているが、それは体技が肉体に依拠している以上無理なことだろう。

それはチャップリンやキートンも同じで、チャップリンはドタバタ役者を辞めシリアス役者になって成功した。キートンはそれを拒否したので晩年は苦労しようだ。

               

「のんき節」の、タレント議員第一号の石田一松で、彼は1946年の戦後最初の衆議院選挙に出て当選し、以後国民民主党議員として活動した。三木武夫についていて、天皇の下で「民主と愛国」を実現させるものだったようだ。

読んで一番驚いたのが、「1951年の日米安保条約締結になる「講和条約締結」に際し、アメリカとの「単独講和」に反対していることだ。この時、中曾根康弘も投票を欠席したそうだ。中曾根の行動には、彼の日本自立論があったのだろうが。

さらに、驚くのは、石田は、1955年の砂川基地反対闘争の時、現場に来て「のんき節」で反対運動を激励したとのこと。

沖縄問題を何も知らないで平気な今井絵里子とはレベルが違うね。

さて、この七人の芸人たちが今のテレビ芸人たちと、まったく異なる体験をしているのは、言うまでもなく戦争である。

大岡昇平は『武蔵野』で「戦争を知らない人間は半人前である・・・」と書いたが、とすれば今のテレビ芸人は永久に半人前だろう。

 

 


正月番組は大嫌いで、だからなるべく家にいないようにしています

2018年01月04日 | テレビ

正月番組は大嫌いで、なるべく見ないため家にいないようにしています。

二流芸人の、つまらないお遊びを見せられるのが嫌なのです。

正月は、前年の番組で評価の良かったものを再放送すれば良いと思う。

何も特別番組を作る必要はないと思うのです。