指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

性差医療について

2023年04月30日 | その他

昨日はさすがに少し疲れたので、すぐに寝る。

午後も、ぼんやりとビデオを見ていたら、人間の病気の性差の特番だった。

これは、20年前に脳梗塞で倒れた時、気づいたことだった。

男は左麻痺、女性は右麻痺なのだ。

もちろん、男で右麻痺、女で左麻痺はいるが、大体70から80%は、男は左、女は右マヒなのである。

それは、食事のとき、男女一緒の部屋で取ったので、すぐに分かったことなのだ。

さらに、不思議なのは、脳のくも膜下出血は、圧倒的に女性に多く、それも年齢には関係ないということだった。

女性で、20代くらいの患者の方がいて、車いすに赤ん坊の写真を付けているので、なぜかなと思っていた。

ある時、夫とみられる男性が見舞いに来たが、やはり非常に若い人だったのであり、くも膜下出血は、女性でも年齢に関係なく起きる病気なのだ。

また、男女のホルモンの作用に違いについても説明されたが、男性ホルモンは、体を強壮に、女性ホルモンは体の健康を保つように作用するのだとのこと。

それに倣えば、男は、思考や論理を司る左脳を守り、女性は、感性や感情を司る右脳をより重要なものとして、その反対側の脳を犠牲にするのではないかと私は思うのだ。

 

                   

なんども書いているが、その意味で、巨人の長嶋茂雄は、男性には珍しい右マヒだが、やはり感性的な方だろうと私は、彼を理解している。

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スーダンのミュージシャンも出た

2023年04月30日 | 音楽

内戦が報じられているスーダンだが、ウォーマッド横浜にスーダンのミュージシャンも出たことを思い出した。

ヌビア出身で、エジプトの奥地、スーダンともいえるあたりだろう。

1994年で、アリ・ハッサーン・クバーンで、苦虫を嚙み潰したようなお爺さんで、かなり渋い声だったが、迫力はあった。

                                         

苦い顔つきだったのは、胃の病気だったからだそうで、確か数年後の亡くなられたそうだ。

ご冥福をお祈りしたい。

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BMWのオートバイ

2023年04月29日 | その他

以前、パシフィコ横浜にいるとき、休日だったと思うが、何かの用で、横浜市役所前にあった会社に行くと、

某大企業から来ていたNさんが、さっそうと大型バイクを止めて降り立った。

「これはなんですか」と聞くと、

「BMWだよ」と言われる。

「BMWって、バイクも作っているのですか」

「もともとBMWは、4輪よりも、バイクの方が先なんだよ」

と言ってどこかにツーリングへと去って行かれたのだ。

 

                

やあ、カッコいいなあと思った。

 

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品川駅港南口

2023年04月29日 | 東京

昨日は、用があって品川駅の港南口に行ったが、大変な混雑だった。

ここは、昔は、本当になにもなく、東京都の食肉市場、東京新聞本社、そして本の少し、新宿西口のような飲食店街があるだけだった。

なにしろ、ここに出るには、長くて細い地下道があるだけで、ここの暗い地下道は、多くの映画で使用されたくらいだ。

                                           

そして、これを抜けて海岸に行くと東京水産大学がある、というだけの地域だった。

それが、今や高層ビル街になっていて、そんな昔など何も知らない若者が群れ集っていた。

おそらく、山手線の駅で、一番変化した駅の出入り口だと思う。

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「最高です!」しか知らないのかっ!

2023年04月28日 | 野球

プロ野球が好きだが、テレビで見ていて、インタビューに答えると、皆

「最高です!」としか言わない。

 

                                           

巨人の阿部が言ったのが最初だと思うが、他に言うことがないのか。

高校野球で、きちんと教育すべきと思うのは、私だけだろうか。

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横浜市議選挙でも、公明党議員が落ちたことがある

2023年04月27日 | 横浜

今日の新聞に、公明党の議員が、全国で12人も落ちたと出ていて、前代未聞だとある。

だが、私が記憶しているところでは、1974年の選挙の時に、旭区で山本議員が、2011年の時に、金沢区で木村議員が落選している。

たしかに、公明党は、票割ができる党で、私が今いる南区では、一時だが、公明党議員が2人いたことがある。

男性の3期目のE議員と1期のK議員で、次の時から定数が減となるので、K議員を下して、E議員だけにしたのだ。

この時、大久保英太郎議長は、Kさんを下した経緯を説明してくれた。

Kさんは、実は女性だったので、この人の方が優秀だったが、議員を辞めても主婦に戻ればよいので、このKさんを下してE議員を残したのだそうだ。

逆にすると、Eさんの生活の面倒を公明党が見なくてはいけないからだとのこと。

                

さて、二度の公明党議員が落選した件を説明しよう。

旭区の山本議員が落ちたときは、庶務課長は言っていた。

「あんな馬鹿は、落ちて当然だ」

確かにその通りで、精神が少々不安定で、やたらに怒る人だった。

傑作だったのは、議場の自己の議員の札を壊したことだった。

当時の議員の札は、非常に凝った構造になっていて、通常は机に収容されている。

だが、頭の部分を少し押すと、上がる構造になっていた。中に、錘があり、札と紐で繋がれていて、それで上下に動作するようになっていたのだ。

だが、この最初の押し方は、結構微妙で、やたらに強く押してはダメなのだ。

だが、この山本議員は、いつも強く押してだめにしていた。そのたびに、守衛さんが来て、机の下の板を外して直していたのだ。

少々精神が不安定な方で、落ちてしまったのだが、事務局職員からみれば、当然という感じだった。

一方、金沢区の木村議員は、温厚でまじめな方だったので、その落選には私も驚いた。

これは、今は立憲民主党の国会議員となっている篠原議員が出たための影響だった。

篠原氏は、この時は、みんなの党から出て、「みんなの党ブーム」で当選し、木村議員はその余波で落ちたのである。

固定票がすべてと言われる公明党だが、その実、結港は浮動票もあるということだろうと思う。

 

 

 

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ハリー・べラフォンテ死去、96歳

2023年04月26日 | 音楽
『バナバ・ボート』で有名な歌手のべラフォンテが亡くなったが、音楽評論家の中村とうようさんが、最初にレコードの解説を書いたのが、このべラフォンテのライブアルバムだったそうだ。
「神棚に上げておかなくてはいけないんだ」とも言っていた。
 
そして、彼が来日したとき、その司会をしたが、
彼は「公演の収益を、日本で民族音楽を研究している団体に寄付したい」というので、東洋音楽学会に行き、寄付した。
当時、東洋音楽学会の会長は、『茶っ切り節』の作詞者の町田嘉章さんで、昔からの民謡ではなくて、これは静岡電鉄のCMソングなのである。
                
町田さんは、全国各地を携帯録音機を担いで歩き、民謡を録音したのだそうだ。
携帯録音機とは、今の携帯電話機のように小さなものではなく、大変に大きなもので、肩から下げて担いで使ったものである。
写真のは、テープレコーダーではなく、SPレコードによる録音機だと思われる。
1960年代までは、すべてレコードによる携帯録音で、アフリカなどの録音も、全部これだったと思われ、実に大変なものだったのである。
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「1か月くらいかかった」そうだ 『日本の夜と霧』

2023年04月26日 | 映画

日曜日の劇研同窓会で、長谷部朝子さんに、大島渚の『日本の夜と霧』のことについてお話を聞く。

この時は、準備から撮影まで、約1か月くらい、大船に通ったとのこと。

そのことは、大島の本にも、「劇研の人から意見を聞いた」と書かれている。

                           

この大島らと劇研の間を結んだのは、横堀幸司さんで、彼はその後、松竹の助監督になられた。

彼は、大島ではなく「木下恵介、命」なのだが、渋谷実監督の助監督もやったそうだ。

いずれお話を聞きたいと思っている。

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神奈川新聞に掲載

2023年04月26日 | 横浜

今日の神奈川新聞に本とトークイベントのことが掲載される。

また、先日、朝日新聞に出た広告についても言われる。

「何百万もしたんでしょうね」

そんなものではないのだが、意外にも朝日新聞は、読者が多いのだなと思う。

いずれにしても、4月29日のパシフィコ横浜でのトークイベントには、多くの方にお見えいただきたい。

          

 

      

 

「残すのが役目」というのは、2011年に中村とうようさん、2014年に田村光男と、ウォーマッド横浜日本委員会顧問・中村と、製作会社・田村光男の二人が亡くなられていて、生きているのは私一人だからである。

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奈良岡朋子、死去

2023年04月24日 | 演劇

民藝の女優、奈良岡朋子追悼の特別号が来た。

別に大したことではなく、「民藝の仲間の会」に入っているからなのだ。

かって、日本の劇団で、一番の後援会を持っていたのは、俳優座だった。

ところが、市原悦子さんの夫の塩見哲の暴挙によって、それは俳優座制作センターにされてしまい、実質的に解消したようだ。

実にバカバカしいことだが、長年塩見哲に大きな芝居の演出をやらせなかった千田是也への「復讐」だったようだ。

だが、その千田の塩見への見方は正しかった。

千田の死後、塩見は、市原悦子の主演で、2004年に石川淳原作の『狂風記』を脚本・演出したが、世にもひどい、30年遅れのアングラ劇で、私も唖然としたものだ。

以後、市原悦子は、自分の音楽劇以外の演出を塩見にはさせなかったのは、彼女の愛情だろう。

実に賢明な判断だったと言えるだろう。

対して、民藝は、今も後援会があり、きちんと運営されている。

奈良岡の舞台作品は、110作品、回数は7088回だそうだ。

 

                                                     

さて、映画の出演は以下のとおりである。

  1. その他
    1. 1984.03.17 おしん  サンリオ映画  ... 語り
  2. 出演
    1. 1949.10.16 痴人の愛  大映東京  ... 娘初子
    2. 1950.04.09 人喰い熊  ラジオ映画
    3. 1953.04.21 混血児  蟻プロ
    4. 1955.02.12 ここに泉あり  中央映画  ... 看護婦
    5. 1955.08.31 こころ  日活  ... 女中・粂
    6. 1955.12.14 石合戦  劇団民芸=富士映画
    7. 1956.09.07 夜あけ朝あけ  民芸  ... 小学校の先生
    8. 1958.04.15 夜の鼓  現代ぷろ  ... 女中おりん
    9. 1959.04.08 俺は挑戦する  日活  ... 織井千恵子
    10. 1959.04.22 二連銃の鉄  日活  ... 京子
    11. 1959.05.31 俺は淋しいんだ  日活
    12. 1959.07.12 世界を賭ける恋  日活  ... 村岡さち子
    13. 1960.10.08 すべてが狂ってる  日活  ... 杉田昌代
    14. 1961.04.10 胸の中の火  日活
    15. 1961.05.08 青い芽の素顔  日活  ... 母しげ
    16. 1961.06.19 舞妓の上京  日活
    17. 1961.06.25 俺は死なないぜ  日活  ... 義母佳代
    18. 1962.03.18 抜き射ち風来坊  日活
    19. 1962.07.15 遙かなる国の歌  日活  ... 徳久夏江
    20. 1962.09.09 あすの花嫁  日活  ... 汐崎フヨ
    21. 1963.08.11 美しい暦  日活  ... 沢田民子(貞子の叔母)
    22. 1963.08.25 霧子のタンゴ  日活
    23. 1963.09.21 波浮の港  日活  ... キク(その妻)
    24. 1963.12.25 光る海  日活  ... 花田看護婦
    25. 1964.03.14 浅草の灯 踊子物語  日活  ... お竜
    26. 1964.03.25 花嫁は十五才  日活
    27. 1964.10.30 黒いダイスが俺を呼ぶ  日活  ... かね
    28. 1964.11.22 うず潮  日活  ... 林ミノ(フミ子の母 行商人)
    29. 1965.01.06 怪談  文芸プロ=にんじんくらぶ  ... 関内の妹鈴江
    30. 1965.05.15 証人の椅子  山本プロ
    31. 1965.10.30 父と娘の歌  日活  ... 母妙子
    32. 1966.02.02 こころの山脈  本宮方式映画製作の会=近代映画協会
    33. 1966.08.13 あなたの命  日活
    34. 1966.09.17 絶唱  日活  ... 小雪の母サト
    35. 1967.03.11 恋のハイウエイ  日活  ... 梶森子
    36. 1967.08.26 花と果実  日活
    37. 1968.01.03 花の恋人たち  日活  ... つね(操の母)
    38. 1969.06.28 博徒無情  日活
    39. 1969.07.12 前科 ドス嵐  日活
    40. 1969.11.22 朱鞘仁義 鉄火みだれ桜  日活  ... 松宮たね
    41. 1970.01.31 地の群れ  えるふプロ=ATG  ... 家弓光子
    42. 1970.10.31 どですかでん  東宝=四騎の会  ... お蝶
    43. 1971.02.26 甦える大地  石原プロ  ... 岩下佳子
    44. 1971.09.18 朝霧  日活
    45. 1972.08.12 海軍特別年少兵  東宝映画  ... 栗本昌子
    46. 1977.11.19 はなれ瞽女おりん  表現社  ... テルヨ
    47. 1978.07.22 ふりむけば愛  ホリ企画制作  ... 石黒松子
    48. 1980.09.20 父よ母よ!  松竹  ... 俊二の母
    49. 1981.08.08 連合艦隊  東宝映画  ... 本郷歌子(英一・真二の母)
    50. 1985.08.31 夜叉  東宝=グループ・エンカウンター  ... 塙松子
    51. 1987.02.21 螢川  キネマ東京=日映
    52. 1988.12.24 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日  松竹  ... 真知子の母
    53. 1990.11.03 流転の海  日本テレビ  ... 岩井暎
    54. 1991.03.16 天河伝説殺人事件  「天河殺人事件」製作委員会  ... 権藤綾
    55. 1991.09.14 戦争と青春  こぶしプロ=プロデュースセンタ...
    56. 1991.10.12 息子  松竹  ... 昭男の隣人
    57. 1997.09.06 釣りバカ日誌9  松竹
    58. 1998.08.08 釣りバカ日誌10  松竹
    59. 1999.06.05 鉄道員  「鉄道員」製作委員会  ... 加藤ムネ
    60. 2000.02.05 釣りバカ日誌イレブン  松竹
    61. 2001.05.27 ホタル  「ホタル」製作委員会  ... 山本冨子
    62. 2001.08.18 釣りバカ日誌12 史上最大の有給休暇  松竹  ... 鈴木久江
    63. 2002.08.10 釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪!  松竹  ... 鈴木久江
    64. 2003.09.20 釣りバカ日誌14 お遍路大パニック!  松竹  ... 鈴木久江
    65. 2004.01.10 半落ち  「半落ち」製作委員会  ... 高木ひさ江
    66. 2004.08.21 釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない!?  松竹  ... 鈴木久江

私が見た中では、徳島の「ラジオ商殺し」の冤罪事件の主人公を演じた『商人の椅子』が作品的にも良かったと思う。

ご冥福をお祈りする。

 

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「われわれは、自由舞台のような共産党劇団ではないのだ」

2023年04月24日 | 演劇

昨日の昼は、高田馬場に行き、「早大劇研同窓の集い」に出る。

23人で、なんと私が一番下で、最高学年の羽根井明夫さんは、昭和28年入学であり、その次が、元NHKアナウンサーで、副会長にもなられた永井多恵子さん。

彼女は、世田谷パブリックシアター館長も辞められて、国際演劇協会の日本代表をされているとのこと。

各自の話が披露されるが、「あの公演のとき、誰かがどうして、俺はこうした」と言った話が多く、そもそもその公演を見ていない我々には想像もしようがない。

日頃、懐旧談ができないのだろうなあ、皆さんにブログをすることをお勧めしたいと思った。

演目は、『蟹工船』『るつぼ』『秩父困民党』『風浪』などと、やや左翼的なものが多いので、

「やはり共産党的だったのですか?」とある方に聞くと、即座に

「自由舞台のような共産党劇団じゃないんだよ!」と断言された。

意外に思うかもしれないが、早稲田の学生劇団自由舞台は、完全に日本共産党の指導下にあり、内部には指導を担当する党員がいて、細胞もあったのだそうだ。

そうしたところに反発して、役者を演技だけにしようとしたのが、鈴木忠志と別役実だったのである。

こうした傾向は、他にもあり、唐十郎が「肉体の演劇」を言われるようになったのも、共産党的テーゼからの解放があったのである。

ちなみに、私がいた1960年代当時は、劇研、自由舞台、こだまの3つの劇団があったが、今も存在するのは、劇研の流れを継ぐ集団のようで、堺雅人君もそうだとのことだ。

                                   

                            

 

 

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村上の投球を見る

2023年04月23日 | 野球

昨日の午後は、中日・阪神で、阪神の村上投手の投球を見る。

驚くほど速い球ではないが、非常にコントロールがよく、変化球もよく決まっている。

やはり、投手はコントロールだと思った。

                                         

これで、連敗は2で止まる。

村上と才気の二人で、今年の阪神はなんとかなると思える。

いよいよ岡田の言う「あれ」になるだろう。

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小山台高校、永見先生

2023年04月22日 | その他

先日は、日本史の荒久保先生について書いたが、もう一人好きだったのが、物理の永見先生だった。

この方は、元は戦闘機に乗っていたという人で、片肺がなくて、いつも咳き込んでいたが、話は非常に面白かった。

得意の分野は、戦争の戦法で、アレキサンダー大王から、ナポレオン、さらにノモンハン戦と古代から近代に至る戦争のやり方の説明と批評なのだ。

一番は、日本軍とソ連軍のノモンハンでの空中戦のことで、戦闘機は回転半径小ささと速度で決まるのだそうで、上空でぐるぐると旋回していたら、半径が小さくて速度が速い方が、いつか必ず相手の後ろに入ってしまうもので、ソ連機は、日本軍の97式戦闘機の敵ではなかった。

そこで、ソ連は戦法を変え、97式とはあまり戦わず、なるべき上空で待機して、来たら戦うが、すぐに逃げるという「一撃離脱法」を編み出して、消耗を防いだとのことだ。

そして、日本の戦国時代等の戦争の無意味さを指摘しておられたのだ。

日本の戦国時代、関ヶ原の戦いも、戦争の始まる前の「外交交渉」で、戦力図が決まっていて、ほとんどまともな戦いになっていないのだと指摘されていた。

私が、戦争や右翼的思想に疑問を持つ切っ掛けを与えてくれた先生の一人である。

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遺書ではありません

2023年04月22日 | 音楽

私が出した「ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェスバル』を読んでくれたある人から、

「これは遺書なのではないか・・・」と感じたと言われた。

もちろん、まだ死ぬ気はないので、あれは遺書ではない。

まあ、若い人への「遺言」の意味は少々あったのではあったが。

日本の音楽業界への名刺代わりだと言えばよいだろうか。

そんなものである。

 

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一昨日の口論

2023年04月20日 | 映画

一昨日、国立映画アーカイブで『太陽の墓場』を見ているとき、前の席で口論が二回あった。

要は、見ながら眠っていて、いびきが煩いと若い男が、隣の年上の男に言っていて、言われた方も反論していた。

だが、私は、一番悪いのは、映画『太陽の墓場』だと思ったのだ。

                  

監督の大島渚は、あるBSの番組で、師匠の大庭秀雄監督の言に触れていた。

それは、大島の先輩助監督が、監督に昇進するときのことで、大島は「彼は良い監督になるでしょうかね」と聞いたのだ。

すると、大庭監督は、こう言った。

「そんなことはない。彼は、家に来ても、玄関先の挨拶すらできない男なんだから」

そして、大島は、映画作りも、玄関先の挨拶と同じで、まず全体を説明する、そして導入から展開へと導き、ドラマを盛り上げる。

こうしたことは、その人間の生き方と同じなのだとのこと。

その点では、この映画は、挨拶も展開も乱暴で、人物描写もいい加減で、佐藤慶などは悪徳医者らしいが、よくわからない。

客が寝るのも当然なのだ。

だが、大島によれば、これはかなり好評だったのだそうだ。

その理由は、筋は不明だが、音楽とカメラが抒情的で、その雰囲気は悪くなかったからだろうと思う。

だが、大島渚は、その裏に大きな意思を隠していたことは、次の『日本の夜と霧』で分かるのだった。

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