指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

今年の大つごもりは・・・

2023年12月31日 | その他

年賀状は、月、火、水で終わり、昨日はのんびりしたので、昨日は関内に手帳を買いに行った。

今日の午前中は、ネットは全部松本人志のことで、ずいぶんとユーチューブは、どこも回数が上がったと思うが、見た。

もともと、松本は嫌いで、愛嬌がないのに偉そうなのが嫌いだった。

昔、高岡市に行ったら、松本の兄のトークーライブの広告があり、1万円くらいだったので、びっくりしたことがあった。「有名だなあと思ったが、本人はともかく兄で1万円とは・・・」

昼は、『孤独のグルメ』を少し見た後、大晦日なので、歌舞伎の『直侍』を見る。

金玉火鉢の直侍だが、尾上菊五郎は太りすぎだと思う。

                  

その後は、『シベリア超特急・5』を見るが、義経の財宝はいくら何でも無理だが、なによりも誰も真剣に演じていないので、どうにもならない。

水野晴夫も可哀そうだなあと思った。

要は、落語の『寝床』なのだ。

 


『83年11月の美空ひばり公演』で

2023年12月30日 | 音楽

前の美空ひばり公演の写真に使ったのは、1983年11月の新宿コマ公演だった。

             

これは、1部はミュージカル『水仙の詩』で、樋口一葉の『たけくらべ』をもとにしたものだった。

だが、これは信如の橋爪淳とは、16歳で別れてしまうので、筋が続かない。

だから、『婦系図』のようになり、新内の師匠になるが、狒狒おやじに迫られたりするなど困った話で、これが沢島なの、と思ったものだ。

だが、二部の歌は素晴らしかったが、途中で若い女性が二人、客席に入って来た。

すると、一瞬ひばりさんは、むっとしたが、すぐにこう言った。

「ご苦労様、会社で働いているとすぐに帰れないのよね、お掃除とかいろいろあるし・・・」

このとき、私は「ひばりさんは、1950年代の新東宝映画のような世界に生きているんだんなあ」と思った。

この頃、すでに普通の職場では、若手女性社員が部屋の掃除をするなどはなく、下請けの中高年の方の労働になっていたのだから。

美空ひばりさんは、1980年代でも1950年代の社会と世界に生きていたのだと思ったものだ。


『大列車作戦』

2023年12月30日 | 映画

1964年のアメリカ、イタリア、フランス映画で、列車が主人公であり、ハラハラドキドキ映画である。

劇映画の最初が『大列車強盗』であるように、列車と映画は相性がよく、勝新の『兵隊やくざ』でも良く出てきた。

1945年春、ドイツのフランス占領下で、ドイツ軍は、押収したフランス絵画をドイツに輸送しようとする。それは、絵画を売却して戦費に充てようとするものだった。

            

そこで、輸送を阻止しようとするフランスのレジスタンス側とドイツ軍将校との戦いになるが、双方ともバート・ランカスターとポール・スコフィールドの米英の役者で、すべて英語である。

様々な抵抗やレジスタンスが行われるが、一番はドイツ国境を越えたとき、逆にフランス側に戻してしまうところである。

駅の表示を変えたりして、フランスに戻してしまう。

そして、ある町のホテルで泊まることになり、ここでジャンヌ・モローが出てくる。

その後も、あの手この手のやり取りがあり、最後は、もちろん、ランカスターがスコフィールドを銃殺して無事絵画は、ドイツには行かないで終わる。

原作は、非常に短いものだったようで、映画製作者があの手この手で、製作したものだと思うが、本当によくできていると思う。

音楽は、モーリス・ジャールで、フランス人。

 


『76 歌声はひばりと共に』

2023年12月28日 | 音楽

音楽については、私は大衆文化評論家として、三つの自慢がある。

一つは、1964年7月のマイルス・デイヴィスの初来日コンサートに行っていること。

二つ目は、パキスタンのカワーリーのグループのヌスラット・ファテ・アリ・ハーンのコンサートを3回とも見ていること。

そして、最後の一つは、美空ひばりの新宿コマ劇場公演を見ていることだ。

これは、かの佐藤利明さんも、実際には見たことがないそうで、大いに自慢したものだ。

さて、この公演は1976年6月で、歌手芝居の例で、1部は林与一との共演の『お島千太郎』で、二部のコンサートの録画で、東京12チャンネルが放送したものらしい。

実は、私は、この1年後の1977年7月の美空ひばり公演を見ていて、このときは『富士に立つ女』という、『河内山宗俊』と『富士に立つ影』を一緒にしたような話で、「これが沢忠なの」と思った。

だが、二部の歌は、本当にすごかった。

                  

実は、この1カ月前の6月には、渋谷公会堂で、シリアポールが女性歌手のゲストで出た、大滝詠一の『ファースト・ナイアガラ・ツアー』を見ていて、8月には、岡崎友紀主演の『魔女はロックがお好き』なんてのも日劇で見ていて、「岡崎は、スタイルもいいし、意外と歌も上手いなあ」と思ったものだ。

当時は、劇と言うかコンサート等も年間30本くらい見ていたのだ。

映画、劇・コンサート、劇の読書を「全部合わせて年間200本」を目標にしていたのだ。

若さと言うか、馬鹿さというしかない。


『コグマだろう 最後の講義・岩下志麻』

2023年12月28日 | 演劇

『最後の講義で岩下志麻』を見た。

後半の半分くらいで、「極妻」以後のことだったが、本当に役に入ることが説明されていた。

やはり、新劇に関係していた父親の岩下清氏の影響だろうか。

岩下氏は、戦前に築地小劇場の事務をやっていた方で、戦後は新劇の劇団で役者をやっていて、テレビでは丹波哲郎主演の『トップ屋』に出ていて、事務局長のような役で、岩下志麻が篠田昌浩と結婚した後は、篠田の会社表現社の代表を務めていた。

岩下志麻の聴講生の学生とのやりとりも非常に的確で、頭の良さがわかる。

たぶん、日本の女優で、頭の良さは、吉永小百合と双璧だろうと思う。

さて、座席は非常にきれいだったが、1階の廊下、上下の両側にある階段など、これは大隈講堂の地下にある小講堂だろうと思った。

              

われわれは、ここを「コグマ」と呼んでいて、夏の若手、1,2年生の試演会等に使っていて、私も2年の夏に、長谷川さんと言う2年生の方の初演出のチェーホフの1幕劇に、その他大勢で舞台を踏んだことがある。

もちろん、台詞もなしの、どうでも良い役だった。

ずいぶんときれいになったものだと思う。

 


山本由伸に期待する

2023年12月28日 | 野球

山本由伸が、ドジャースに入団したが、彼には大いに期待したい。

と言うのも、彼の投げ方は、日本の伝説の投手である沢村英治に似ているからだ。

                

近年、沢村の投球を8ミリフィルムで撮った方の映像がテレビで公開されたが、見ると山本由伸みたいな投げ方なのだ。

沢村と言うと、左足を高く上げた写真が有名だが、あれは撮影用のもので、実際の投球は、あまり足を上げずに、サッと投げるもので、それは山本によく似ているのだ。

それで、球が速かったので、沢村も、山本由伸もすごいのだ。

30年以上前のことだが、私の妻の父親は、「沢村を見たことがあるよ」と言っていた。

考えると、沢村は、川上哲治の少し上の選手だったので、当時の人なら、沢村を見た可能性があるのだ。

ただ、当時はテレビもラジオもなく、実際に現場の球場に行くしか見ることはできなかったので、東京近郊にいる人しか、沢村を見る機会はなかった。

「上井草球場などで見たよ・・・」と言っていた。

山本由伸の来年の活躍を大いに期待したい。


『濹東綺譚』

2023年12月27日 | 映画

永井荷風の名作だが、豊田四郎監督のものではなく、新藤兼人脚本・監督のもので、1992年、東宝60周年、近代映画協会40周年、日本ATG30周年記念で制作されたもの。

               

ただ、前半は永井荷風の『断腸亭日乗』の記述で、バスで玉ノ井に行って、お雪と会うところから、『濹東綺譚』になる。この辺は、豊田四郎監督作品とは異なっていて、私は豊田四郎が好きなのだが、正直に言って、この映画は、山本富士子と芥川比呂志で、きれいごとになっていて、全く感心できなかった。

対して、ここの津川雅彦の永井荷風は、大作家だが、別の見方で見ればただのスケベ親父であることをきちんと描いているのは良い。

スケベ心、性欲を肯定的に描くことは、1960年代のメジャー映画会社には無理だったわけで、その点は時代の進歩である。

荷風は、当初は銀座のカフェーの女と遊んでいたが、金目当ての女の宮崎美子に呆れて、バスの乗って玉ノ井に行き、最後は理想の女のお雪の墨田ゆきに会う。

そこは、非公然の売春街だが、警察とも通じていることなども描かれている。

お雪の店の女将は、乙羽信子で、その息子は、大学生だが、学徒動員で出征していき、すぐに死んでしまう。

その出征の前日、お雪は、息子に体を上げ、最後の悦楽とさせるのは、乙羽の願いでもあった。

荷風は、お雪を身請けする約束を一旦はするが、結局玉ノ井に来ない内に、1945年3月の東京大空襲になってしまう。

戦後、生き延びた乙羽と墨田ゆきは、また売春をしていて、ある日、墨田は、新聞で永井荷風が文化勲章を受章した記事を見つける。

だが、二人は、荷風を、エロ写真師だと思っている。

そして、1959年、荷風は、自宅で一人死ぬ。79歳で、胃潰瘍だった。

市川市の大黒屋で、かつ丼を食べる姿もある。

ただ、この津川が、戦後よぼよぼの荷風を演じているのはおかしいと思う。

永井荷風は、180センチ近い大男で、結構頑強だったのだ。


「ポピュラー文化(音楽)30年説」

2023年12月26日 | その他

音楽評論家中村とうようさんが言った言葉で、「ポピュラー音楽の寿命は30年だ」という説がある。

               

その通りで、世界のポピュラー音楽、文化は、大体30年くらいの間隔で、生まれ、頂点に達し、そして衰えていく。

それは、世界の大都市では、20世紀になるといろいろな人が集まりってきて、民族、文化、階層等の異なる者のよって新たな大衆文化が形成される。

ジャズ、タンゴ、シャンソン、ハワイアン、日本の1960年代の演歌もそうだった。

そして、それが流行し頂点に行き、最後は、階層、世代が変わって衰弱してゆく。

大衆文化である以上、時代、社会の変化で、それは変化しゆくものだと思うのだ。


首相官邸を初めて作った『皇帝のいない八月』

2023年12月25日 | 図書館

小林久三原作の映画『皇帝のいない八月』は、クーデターを計画した連中が、九州からノロノロと上京する間抜け映画だが、このとき初めて松竹大船では、内閣首相官邸のセットを作ったそうだ。

            

松竹は、基本的に庶民映画だったので、小津安二郎の鎌倉の屋敷や山田洋治の虎屋のセットの実績はあっても、首相官邸の実績はなく、仕方ないので現地に行って寸法を取り、図面を書いてセットを作ったとのことだ。

クーデターというものは、深夜等に起こしてサッとやるもので、政治的に無知な小林の原作では、九州から列車に乗ってノロノロと来るので成功するはずもなく、山本薩夫監督らは、最後を列車爆破にしてしまったそうだ。

松竹というのは、非常に面白い映画会社である。


『西住戦車長傳』

2023年12月23日 | 映画

数少ない松竹の戦争映画だが、上原謙、笠智衆、近衛敏明、佐分利信、そして唯一の女優桑野通子のオールスターで、ヒットしたようだ。

監督は吉村公三郎、脚本は野田高悟で、撮影は生方敏夫で、現地の長期ロケーションもし、記録フィルムも挿入され、ナレーションは竹脇昌作である。

中国上海での戦いから、南京に向かう日中戦争だが、これは中国国民党軍には、なんとドイツが付いていて戦争指導をしたのだ。

トーチカや塹壕戦などの日本が経験しなかった第一次大戦の戦術を中国国民党に教えたので、日本は非常に苦戦した。その苦戦が、年末の南京事件をよんだとも言われている。

            

戦車隊の長が上原謙で、彼の父親は軍人だったので、軍人姿が様になっているが、やさしく部下思いの長を演じている。

だが、日中戦争とはいえ、一方的に日本軍が、中国で戦闘を進めているのは、今日見ると大変な違和感がある。

1937年の盧溝橋事件のとき、日本軍が北京にいたのが、まず不思議で、なんと1900年の義和団事件の時の、8か国の出兵の「北京の55日」の後、日本以外の7か国は1901年に撤兵したが、日本は30年以上も、居留民保護の名目で駐屯していたのだ。排日、反日運動が起きたのも当然だろう。

この中国侵略を描く作品は、1940年の「キネマ旬報ベストテン」では2位なのだから驚いてしまう。

現在のロシアのウクライナ侵略や、イスラエルのガザ地区侵略と同じだと言えるだろう。

国立映画アーカイブ


霧プロと『迷走地図』

2023年12月23日 | 映画

霧プロとは、松本清張が、野村芳太郎らと作った製作プロダクションで、松竹と連携して映画やテレビドラマを製作した。もともとは、松本清張が自分の小説『黒地の絵』を映画化するために作った会社で、以下のとおりだった。

霧プロは、松本清張の小説『黒地の絵』を映画化することを目的に設立されたのだが、これが実に問題の小説だった。1950年7月に、朝鮮半島に送られる黒人兵が小倉市で反乱を起こした事件を基にしている。黒人兵に乱暴された女性が、朝鮮から送られてきた兵士の死体に、その本人を発見するという話である。松竹の監督のみならず、東宝の森谷司郎らも映画化を企画し、海外で撮影することなども考慮したが、結局できず、その間に野村芳太郎は、他の作品に行ってしまい、終には松本も1992年に倒れて7月に死んでしまう。私は、この話は映画化されなくて良かったと思っている。もし、米国で公開されたら、人種差別だと批難されたにちがいない。そもそも、黒人兵たちが、祇園太鼓の音に鼓舞され、本能を呼び覚まされて反乱を起こすと言う筋が、間違いの始まりなのだ。「小倉祇園太鼓」というのは、富島松五郎が「勇みコマ」などと言って勇壮に叩くものではなく、「カエル打ち」でずっと静かにやっていくものなのだ。あの映画『無法松の一生』の祇園太鼓は、岩下俊作の原作戯曲にもとずき、監督の稲垣浩が音楽担当と工夫して作ったものなのである。さらに、「アフリカの音楽イコール太鼓」という図式が、大間違いである。アフリカ内陸の小国のブルンディのドラムが有名で、日本にも何度も来ているが、ああいう勇壮なのは例外である。もちろん、アフリカ各地に太鼓はあるが、主に伝達用に使用されるもので、トーキングドラムのようにメッセージを伝えるもので、本能を呼び覚ますと言ったものではない。この辺のアフリカ音楽についての無知は、松本清張らの当時の日本人には仕方ない点もあるが、ひどいと言うしかない。

 

              

この1983年の映画も、まだ松竹と霧プロとの制作になっていて、まだ蜜月時代だったようだ。

公開時に見て、雑誌『ミュージック・マガジン』に批評を書いたが、実に面白いものになっている。

そっくりショー的な感じもあるが、中では田中角栄節で台詞を言う伊丹十三が一番笑わせる。

また、最後の方での、岩下志麻といしだあゆみの対決もさすがで、ここの演技はいしだの勝ちだろう。

この映画で一番驚いたのは、銀座のクラブのママの松坂慶子とレズビアン関係にある早乙女愛の巨乳で、こんな女になっていたのと思ったものだ。

大滝秀治、勝新太郎、津川雅彦、加藤武、朝丘雪路など、演技合戦で、非常に面白い。


『無頼漢』

2023年12月22日 | 映画

私は、試写会で映画を見たことがほとんどないが、その少ない作品の一つ。1970年、当時広告代理店にいた先輩の島村さんの招待券で、林さん、そして手島さんと4人で、東宝本社の試写室で見た。

その後、どこかの名画座の併映で見て、テレビでも1回見たが、今回見て、篠田の娯楽作としては、かなり上だと思った。

大島渚、吉田喜重らと松竹ヌーベルバーグと言われるが、篠田が最も娯楽映画的な資質があり、面白い映画を作っても上手い。

             

脚本が寺山修司で、歌舞伎の『天保六花撰』などの人物を取り出して映画化している。

撮影が岡崎宏三さんで、「錦絵をねらった」と言っているが、美術の戸田重昌と合って、感じはよく出ている。

丹波哲郎、岩下志麻、仲代達矢は、当時すでに大スターだったが、他は、新劇やアングラ劇の連中が多く、女中役で鈴木仁美君も出ているが、彼女は小山台高校演劇班で2年下にいたのだ。

蜷川幸雄、中村敦夫、渡辺文雄、米倉斉加年、山本圭、大地喜和子、芥川比呂志、小沢昭一などが出ていて、今見ると豪華だが、その後売れた連中が多いのは、篠田の眼力と政治力もすごい。

映画が終わって、エレベーターで篠田と一緒になったが、たぶんアメリカの代理店に対してだろうと思うが、「パナビジョンカメラ・イズ・グッド」と篠田は言っていた。

製作が一応にんじんクラブなので、製作担当は小笠原清さんになっていた。

この後、小笠原さんは、横浜港のPR映画の監督をされているのだが、今は小田原で、地元の文化・歴史の専門家として活躍されているようだ。


「汽車道の前名は・・・」

2023年12月22日 | 横浜

横浜の桜木町駅から、みなとみらい新港地区に行く道に、汽車道があるが、その前名は、ウィンナーだった。

言うまでもなく、ウィナーソーセージのようにつながっていたからだ。

そして、よく見ると、鉄路跡は、道路の真ん中ではなく、海側に寄った位置にあることがわかる。

             

これは、この鉄路から下に停泊している艀に「艀落とし」で、荷役をしていたからで、主に石炭等を荷役していたと記憶している。

だから雨に濡れないように、上には大きな木造の屋根がついていたのだ。

汽車道を作る時に、屋根は撤去してしまったが、あっても良かったと思うのは、私だけだろうか。

 


『トラ、トラ、トラ』

2023年12月21日 | 映画

1970年公開の日本版。このときの黒澤明については、1967年7月に見たことがある。

大学2年の夏、劇団の先輩島村さんの会社、東西通信社で映画広告のアルバイトをしていた。

日比谷にあった会社の昼休み、ツインタワービルに昼飯を食べに行くと、エレベーターから大きな男が出てきた。黒澤明で、サングラスで両脇にボディガードのように男を従えていた。

ちようど、この映画のシナリオを、菊島隆三、小国英雄らと作っているところで、自信満々に見えた。

だが、その年の12月24日、エルモ・ウィリアムズに黒澤明は、東映京都撮影所で首になってしまう。

そんなことは驚くことではなく、映画『風と共に去りぬ』など監督は3人も代わっているのだから。

             

さて、これは山本五十六の山村聰以下の日本海軍、千田是也の近衛文麿らの政府首脳、そしてハワイとワシントンのアメリカ側を交互に描いている。

この中で、影が薄いのが、ワシントンンの日本代表の野村・来栖大使で、島田正吾と十朱久雄で、タイピングをする奥村は久米明。久米は、東映京都で黒澤明の演出でもタイピングをしたそうだ。

この映画を見ると、なぜ真珠湾攻撃が成功したかがよく分かる。

それは、アメリカ側は、ほとんどの者が、「まさか日本がアメリカを攻撃してこないだろう」と思っていたからだ。

戦力、経済力など国力が隔絶の感がある日本が、攻めてこないと思い込んでいて、問題は欧州の戦争への参加の可否だったからだ。

当時、アメリカでは、欧州の戦争に参戦するか否かで大論争があり、50%以上が参戦反対で、「アメリカ・ファースト委員会」を作っていて、代表はスエーデン系のチャールズ・リンドバーグだった。

この「アメリカ・ファースト」を大統領選挙のスローガンにしたのが、ドナルド・トランプだったのだ。

さて、この日本への見方に反対していたのが、長く東京で米国大使をやっていたジョセフ・グルーだった。

「日米の国力の差の大きさゆえに、日本がアメリカに攻撃してこないと合理的に考えるだろうと思うのは、大間違いで日本には、非合理的思考がある」と彼はアメリカの政府首脳に助言していた。

一方、ワシントンの野村、来栖の日本大使館側も、まさか交渉が決裂するとは予測していなかったようで、緊張感が不足していたことが、問題の最後のメッセージの遅れになったのである。

1942年春、交換船で野村、来栖がもどってきたとき、その旨昭和天皇に報告したとのことだ。

さて、山村聰指揮の連合艦隊は、北太平洋を南下してハワイに無事接近し、航空機は、順次出撃してゆくが、淵田三津雄の田村高広と源田実の三橋達也が指揮する。

航空機の飛行シーンは、東宝の特撮の見せどころで、やはりよくできている。

そして、真珠湾上に来た時、淵田は打電させる「トラ、トラ、トラ、われ奇襲に成功セリ」と。

まさに奇襲は成功して、真珠湾の艦船、航空機、車両等が次々と攻撃で爆発されるてゆく。

この辺は、やりすぎと思えるほどだが、よくやると思う。

部下からの二次攻撃の進言に対し、「今までが幸運だったのだ」と東野英治郎の南雲艦隊長は、攻撃を中止させて帰港する。

ジェリー・ゴールドスミスの音楽が、日本側になると、途端に変な日本調になること以外は、よくできていると思えた。

 

 

 

 


『進軍』

2023年12月20日 | 映画

1930年、脚本野田高悟、監督牛原虚彦で、白黒のサイレント映画。

サイレントで、ピアノも活弁もないので、10分くらいすると当然にいびきが聞こえる。

            

私も、まん中辺で寝てしまった。

話は、田舎の貧乏人の息子で、飛行機好きの少年の鈴木伝明が、なんとか上京して飛行学校に入り、操縦士となって、田舎に戻る。

飛行機は、まだ複葉機で、ヒコーキ野郎の時代でのんびりしている。

村の者は、貧乏人からご令嬢の田中絹代に至るまでの大喜び。

そして、当然にも「宣戦」とタイトルされれて、鈴木を代表に徴兵されて前線に行く。

「あれ、1930年って戦争はあったっけ」 

満州事変も日中戦争、太平洋戦争は遥か彼方であり、これはなにを意味しているのか。

済南事件とか、山東出兵なのか。

後の、東宝の戦意高揚映画に比べ、これがどこか牧歌的なのは、東宝がやはり秘密スタジオの航空教育資料製作所で、真珠湾攻撃のマニュアル映画を陸海軍の委託で作っていたことの差異性だろうか。

なにしろ、大西滝次郎も来ていろいろと指導にしていたそうだから、東宝の秘密スタジオでは。

国立映画アーカイブ