1970年公開の日本版。このときの黒澤明については、1967年7月に見たことがある。
大学2年の夏、劇団の先輩島村さんの会社、東西通信社で映画広告のアルバイトをしていた。
日比谷にあった会社の昼休み、ツインタワービルに昼飯を食べに行くと、エレベーターから大きな男が出てきた。黒澤明で、サングラスで両脇にボディガードのように男を従えていた。
ちようど、この映画のシナリオを、菊島隆三、小国英雄らと作っているところで、自信満々に見えた。
だが、その年の12月24日、エルモ・ウィリアムズに黒澤明は、東映京都撮影所で首になってしまう。
そんなことは驚くことではなく、映画『風と共に去りぬ』など監督は3人も代わっているのだから。
さて、これは山本五十六の山村聰以下の日本海軍、千田是也の近衛文麿らの政府首脳、そしてハワイとワシントンのアメリカ側を交互に描いている。
この中で、影が薄いのが、ワシントンンの日本代表の野村・来栖大使で、島田正吾と十朱久雄で、タイピングをする奥村は久米明。久米は、東映京都で黒澤明の演出でもタイピングをしたそうだ。
この映画を見ると、なぜ真珠湾攻撃が成功したかがよく分かる。
それは、アメリカ側は、ほとんどの者が、「まさか日本がアメリカを攻撃してこないだろう」と思っていたからだ。
戦力、経済力など国力が隔絶の感がある日本が、攻めてこないと思い込んでいて、問題は欧州の戦争への参加の可否だったからだ。
当時、アメリカでは、欧州の戦争に参戦するか否かで大論争があり、50%以上が参戦反対で、「アメリカ・ファースト委員会」を作っていて、代表はスエーデン系のチャールズ・リンドバーグだった。
この「アメリカ・ファースト」を大統領選挙のスローガンにしたのが、ドナルド・トランプだったのだ。
さて、この日本への見方に反対していたのが、長く東京で米国大使をやっていたジョセフ・グルーだった。
「日米の国力の差の大きさゆえに、日本がアメリカに攻撃してこないと合理的に考えるだろうと思うのは、大間違いで日本には、非合理的思考がある」と彼はアメリカの政府首脳に助言していた。
一方、ワシントンの野村、来栖の日本大使館側も、まさか交渉が決裂するとは予測していなかったようで、緊張感が不足していたことが、問題の最後のメッセージの遅れになったのである。
1942年春、交換船で野村、来栖がもどってきたとき、その旨昭和天皇に報告したとのことだ。
さて、山村聰指揮の連合艦隊は、北太平洋を南下してハワイに無事接近し、航空機は、順次出撃してゆくが、淵田三津雄の田村高広と源田実の三橋達也が指揮する。
航空機の飛行シーンは、東宝の特撮の見せどころで、やはりよくできている。
そして、真珠湾上に来た時、淵田は打電させる「トラ、トラ、トラ、われ奇襲に成功セリ」と。
まさに奇襲は成功して、真珠湾の艦船、航空機、車両等が次々と攻撃で爆発されるてゆく。
この辺は、やりすぎと思えるほどだが、よくやると思う。
部下からの二次攻撃の進言に対し、「今までが幸運だったのだ」と東野英治郎の南雲艦隊長は、攻撃を中止させて帰港する。
ジェリー・ゴールドスミスの音楽が、日本側になると、途端に変な日本調になること以外は、よくできていると思えた。